●懐かしき風景●  
 

1.プロローグ 〜亜美〜


『大好き、だからね』
目を閉じると脳裏に浮かぶのは、あの、優しい微笑みと、何よりも自分を楽にしてくれた、高すぎも低すぎもしない穏やかな声。
温かな腕に抱き締められて、繰り返し繰り返し告げられた言葉は、永の年月にも色褪せる事なく、はっきりと耳に残っていて。
そして、その熱い視線を、何時でも向けてくれていたあの人は、生まれ変わった今もまた、昔の様に、自分の傍らに存在してくれている。
――――まこちゃん…
涙の跡が頬にうっすらと残る、まことの横顔に向かって、胸の中でそっと囁き掛ける。
『転生なんて、関係ない。あたしが好きなのは、今の貴女、なんだから』
最も、転成したらしたで、また、そう言って、貴女を好きになる様な気がするけど。
これだけは大切な事だから、と、真剣な眼差しで、自分の眼を真っ直に見つめて。
最後の方は、ほんの少し笑って、けれど、肩に置いた両手には、一層の力が込められていた。
そして、その言葉通り、転生した今世、木野まこととして、嘗てのジュピターとは、全く別の人生を歩んで来た彼女は、それでも、セーラー戦士として覚醒するよりも早く、一緒に生きたいと言ってくれたのだ。
それは即ち、木野まこととして、水野亜美に。
勿論それは、亜美にとっては、言い表せない程、嬉しい事で。
セーラー戦士として、彼女よりも早くに目醒めてしまった自分が、決して、前世の記憶無しに、まことを見る事が出来ないのは、酷く哀しい事、だったけれど。
――――御免ね…
前世の彼女と、今、目の前に存在している人が重なり、これから、自分が行おうとしている行為を思って、自然、亜美の唇から、謝罪の言葉が落ちる。
からからに乾いた喉が酷く熱くて、出て来た声は、殆ど、空気の漏れる音だった。
けれど、この言葉は、悔吝の意味を含んでいる訳ではなかった。
これ迄も、これからも、この決断の事で後悔する気は、全く無い。
もう一度、同じ選択を迫られても、きっと同じ道を採るだろう。
参謀として、自分には、闘いを勝利に導く義務がある。
あれ、と、まともに闘うには、どう考えても今の自分達では、明らかに力不足、経験不足、なのだ。
それを補うのに、最も有効にして、唯一のこの方法。
軍師であるマーキュリーに、判断と実行の全てを託されたそれは、けれど、行う者、行われる者両方の、心の痛みを引き替えにしたもので。
――――それでも
私は、やらなければ、ならない。
きしきしと、痛みを訴える身体を叱咤して、寝台の上に上体を起こす。
熱で意識が朦朧としている所為か、くらり、と視界が歪むのを必死に堪えながら、左手をシーツの上について、その身を支えると、亜美は、ケットの上にぽん、と投げ出されている、まことの左手に、そっと右手を伸ばしていた。
自分のものよりも幾分大きくて、堅い、確りとした造りの手。
昔と何一つ変わらぬ温かさを保ったそれに、亜美は、嘗てのジュピターを思い出さずにはいられなかった。
――――ジュピター…
どんな時でも、気が付くと、自分の後ろに立っていてくれた人。
いけない、と自分に言い聞かせていた筈なのに、その余りの然り気なさに、いつの間にか、そこにいる事が自然になってしまっていて。
――――でも
あの人と、今のこの人は、関係ない。
関係があってはならないのだ、本当は。
自分で自分の感情が掴めなくなりながら、それでも、確認するかの様に、心の中で小さく呟く。
ぎゅ、と両の瞼を閉じて、暫しの間俯いていた亜美は、次の瞬間、全てを振り切るかの様に、す、と顔を上げると、何も無い筈の宙を、きっ、と真っ直に見据えていた。
亜美自身のそれでは無く、マーキュリーとしての、厳しい眼差し。
ほう、と息を一つつき、ともすれば、不規則になりがちの呼吸を、整える。
右手で握っていたまことの手を、そのまま軽く掬い上げ、大きく指を広げた左の掌を、すっ、とその額の側迄近付けて。
再度、息を吸い込み、「気」を左手に集中させると、亜美は、無意識の内に次々と頭に浮かび来る「呪」を、静かな、そして、澱みの無い口調で唱えていた。
「『宇宙を統べる、銀の光よ。我、此処に願わん。輪廻に与する清浄なる魂の、眞實の姿を映し、封じたる全てを、月の下へと照らし出し給へ』…」
嘗て、月の世界で使われていた言語による、けれど、特定の人間以外、知らされる事の無かった、解封の呪文。
張り付く様な、引き攣る様な感覚を喉に覚えながら、掠れ切った声で、それでも一度も途切らせる事なく、最後まで唱え切る。
そして、呪を唱えている間に、少しずつ熱を持ち始めていた、亜美の左の掌に、ぽう、と小さな水色の光が灯されて。
一拍の間を空けた後、突如として、それは、直視する事が出来ない程の、眩い閃光へと変化する。
そして、その一瞬後、眠っているまことの額には、ジュピターの紋章がはっきりと浮かび上がっていた。
それは、何時もの見慣れた若草色ではなく、たった今灯さていた光の色の。
「マーキュリー……」
意識の無い人の、漏らされた呟きが、鋭く亜美の胸に刺さる。
握っていた左手を、その侭そっとケットの上に下ろし、空いた手で、ぎゅ、とシーツを掴んで。
――――…御免ね、まこちゃん
許してなんて言わない。
でも、こうしなければきっと…。
決して口には出されぬ呟きと共に、透明なものがひとつ、はた、とシーツの上に零れ落ちていた。

2.現世 〜まこと〜

 『え?欠席?』
一時限目と二時限目の間の短い休み時間、前日借りたノートを返す為に、隣のクラスを訪れたまことは、意外な返答に戸惑って、思わず、相手の言った言葉を、もう一度繰り返してしまっていた。
よくよく尋ねてみれば、連絡さえもないらしい、という、余りにも、らしくなさすぎる状況に、嫌な予感を感じ、そのまま電話に直行したものの、コールに応える者はなくて。
あれこれ悩んだ末に、緊急事態にのみ使われる、全員がどんな時でも携帯している筈の、通信機のスイッチを入れる。
何時もなら、即座にある筈の応答が返って来たのは、けれど、暫しの沈黙の後、だった。
『は…い………こちら、亜美…』
先ず、耳に飛び込んで来たのは、酷く掠れた、消え入りそうな声。
画面に映っている亜美は、そのスクリーンの大きさから、細かい様子迄は解らないまでも、酷く具合が悪そうで。
『ちょっ…亜美ちゃん、大丈夫かい?』
思わず、大きな声を出してしまってから、はっと気がついて口を噤む。
人数の多い学校の事、気を付けてはいても、何処で誰が聞いているか、解らないものなので。
『うん…気に、しないで。単なる風邪、だから……それで…』
『ああ、別に事件って訳じゃないんだ』
さっきから、電話しても出なかったから、もしかしたら、何かあったのかと思って。
『御免なさい……鳴ってるの、は、聞こえてたんだけど…』
という事は、自宅にいる、という事か。
この様子じゃ、誰かが付いてる訳でもなさそうだし。
素早く状況を見てとると、今後の行動をその場で決定する。
『解った。じゃあ、これから、亜美ちゃんの家に行くからね』
兎に角、無理だけはしちゃ駄目だよ。
言いたい事だけを言って、ぷつりと通話を切る。
真面目な彼女の事、まことが学校を抜け出す事について、体調の良くない此の状態においても、当然、反対するだろうという事は解り切っていたので。
そして、それから然程経たないうちに、まことは、亜美のマンションへと、到着していたのだけれど。
返事が無いのを承知で、こんこん、と軽くドアをノックする。
眠ってでもいるのだろう。
予想通り、しん、とした侭の室内へ、音を立てない様に細心の注意を払いながら、扉を押し開けると、まことはするりと身を滑らせていた。
――――え?
瞬間、亜美の部屋と、何処か別の室が二重に重なって見えて、足が止まる。
シンプルな机に大きな本棚、隅に寄せられたセミダブルのベッド。
置いてあるものは同じでも、デザインや配置が大幅に違う。
けれど、それは、何処か懐かしい気がする場所で…。
この部屋に入る度に捕まるそのビジョンが、何を暗示しているのかは、まことには理解らなかったが、それは酷く大切な事のように思われた。
――――いや、今はそんな事、考えてる場合じゃ無い
ぶん、と頭を一つ振り、纏わり付くそんな思いを振り払って、冷たい空気が室内に流れ込んでいる事にふと、気が付く。
慌てて扉を閉じ、そっと寝台まで近づくと、その上に横たわっている人の様子を伺った。
「亜美…ちゃん?」
右肩を下にして身体ごと横にし、大きな枕に半ば顔を埋める様にしながら、眉を顰めて眠るその表情は、酷く苦しげで。
呼吸の度に、ひゅうひゅうと、聞いている者の方が息苦しくなる様な音を、肺が鳴らし続けている。
――――これは、喘息も起こしてるな
額からずり落ちたらしい、濡れタオルを手に取りながら、顔をしかめる。
午前中、顔を会わせた時、『大丈夫、単なる風邪だから』と強がって見せてはいたが。
この様子では、今日は出来るだけ側にいた方が良さそうだ、とまことは判断を下していた。
机上に置かれた器に張った、氷水の中に、熱で温かくなり掛けているハンドタオルを浸す。
暫しの間水中に泳がせ、やがて、痺れる様な冷たさを皮膚に感じながら、ぎゅ、と固く絞り上げて。
冷えたそれを、もう一度、今度は滑り落ちないよう苦労をしながら、額の上に乗せてやると、その冷たさに反応してか、一瞬、びく、と身体を震わせた。
――――…起こしちゃっ…た?
身体を硬直させ、息を詰めて様子を伺う。
けれど、亜美は、少しばかり身動いだだけで、再び、寝息を立て始めた。
決して、安らかなものとは言い難かったけれど。
――――大丈夫…みたい、だね
ほう、と息を一つつき、枕元に引き寄せた椅子に、腰を下ろす。
改めて、ぐるりと部屋を見回して、まことは先刻のビジョンについて、思いを巡らせる。
――――何処なんだろう?あれは…
見た事の無い、けれど、身体の何処かが、知っていると叫んでいる、あの場所。
この部屋とは明らかに違う所なのに、何か通じあうものがある。
そして、この室に、いや、この家を訪れた時から続いている、奇妙な既視感(デジャヴェ)。
眠っている亜美を見つめていると、それと同時に感じていた、胸の痛みが、尚、一層酷くなって。
――――……何?
不意に、頬を、つっ、と伝っていくものを感じて、右手を持ち上げる。
広げた掌の上に、光る滴を見つけて、まことは初めて、自分が泣いているのだと、自覚していた。
――――………どうし…て…?
今、泣かなければならない理由など、何も無い。
なのに、勝手に暴走をし始めてしまった感情は、どうにもならなくて。
ぎゅ、と握り締められた拳の上に、ぽた、と透明なものが落ちる。
室には、苦しげな亜美の呼吸の音と、まことの嗚咽の声が、長い間、途切れることなく聞こえ続けていた。

3.前世 〜ジュピター〜

 透き通る様な白い肌に、哀色を湛えた深い湖の瞳。俯きがちの面。
どこか儚い雰囲気が、やけに印象的な人、だった。
けれど、極、稀に見せた、その笑顔は、まるで花が綻んだかの様で。
「マーキュリー、調子はどうだい?」
今日は少しは、食欲あるかな?
大好きなその表情を、どうにかして、何時も浮かべていて欲しくて、毎日、彼女の館へと通っていた。
四守護神の一人、セーラーマーキュリー。
銀千年王国の、次代のクイーンを護る者として、この世の全ての叡智を授けられて生まれた彼女は、けれど、その生の半分近くを、ベッドの上で過ごす事を余儀なくされていた。
近年、この国で問題になり始めた、繁殖力の低下。
出生率だけで無く、漸くに生まれた者が大人になれる確率さえも、かなりに低くなり始めていて。
こうした現象は、長寿の生命体が、衰退し始めたという事実をはっきりと指し示すものだったが、今の所、効果的な解決策は何も無く。
マーキュリーとしての生命力が宿っていなければ、彼女もまた、生まれて幾許もしないうちに、その命を消していたに違いない存在だった。
「ジュピター…」
上体を寝台の上に起き上がらせ、キャスターをつけた移動テーブルに、取りつけられたコンピューターに向かっていた少女の瞳が、ノックと共に、室内に入ってきた人の姿を映す。
装飾品どころか、余計なものの何一つ無い、彼女が一日の殆どを過ごしている筈の、けれど、何処か生活感の無い、寂しい部屋。
始めて此処を訪れて、酷く心が寒くなるのを感じたジュピターは、以来、訪れる度に、何とか温かなものにしよう、と常に心を砕いていたのだけれど。
「ああ、また、仕事をしてたのかい?」
駄目じゃないか、ちゃんと寝てなくちゃ。
昨日だって、あんなに熱が、高かったのに。
やって来た途端に叱りつけられて、居心地悪げに、小さな肩が窄められる。
彼女が、自分を思い遣ってくれる故の言葉だと、知っているから。
「…御免なさい」
俯いて、小さく謝罪するマーキュリーに、寄せられていたジュピターの眉根が緩む。
彼女が、自分の脆弱な身体を、酷く厭わしく思っているのは、良く理解っていた。
四守護神は、魂の転生によって生まれる為、選ばれてしまった肉体が、例えどんな状態であろうと、その肉体が滅びる迄は、変わる事はありえない。
『なら、この身体を滅ぼしてしまえば…』
以前、彼女が言い掛けた言葉。
確かに、現在のマーキュリーが死んでしまえば、守護神を揃える為に、再度転生が行われる可能性が強い。
基本的には、その代、一度限りの筈のそれも、余りに早くその生が失われた場合、バランスを取る為にもう一度生み出される事は、これ迄にも有ったという記録が残っている。
けれど、それでは、現在いまのマーキュリーは、何の為に生まれてきたのか、それすら解らなくなってしまうではないか。
『莫迦な事、言うんじゃないよっ!!』
大好きな、大切な人の哀しい言葉に、かっと頭に血を昇らせて。
加減をする余裕も無く、その白い頬に、思い切り掌を振り下ろしていた。
はっ、と気が付くと、紅くなった頬に手を当てたマーキュリーが、ぽたぽたと涙をこぼしていて。
本当に辛いのは、彼女の方なのだ、と、咄嗟にそこ迄思い至れなかった、自分の浅薄さを悔やむ。
『御免……』
熱でほてった熱い身体を、そっと抱き寄せて。
この時、ジュピターは誓ったのだ。
彼女が、何時でも笑っていられる様にしよう、と。
その弱い体を、負担に思わなくても済む様に。
「…謝る事は無いさ。もう良いから、さ、早く横になって」
ほら、矢っ張り、熱があるんじゃないか。
無理はしちゃ駄目だって、何時も言っているだろう?
コンピューターの電源を切ると、テーブルごと、寝台の上から押し除ける。
額に当てられた、ジュピターの少し冷たい掌に、気持ち良さそうに目を細めると、彼女の手に押されるが侭に、マーキュリーは再びシーツへと身を沈めていた。
――――………
その素直な様子に、微かな笑みを、口元に浮かべる。
初めて会った頃の、全てを拒否する様な眼差しは、最近では、大分、鳴りを潜めるようになって来ていて。
世話を焼く度、困った様な表情をするものの、それは単に、どうすれば良いのか解らないだけ、なのだと、この頃になって漸く理解った。
それは、彼女が、一人でいた時間が、あまりにも長すぎた所為で。
だからジュピターは、事ある毎に、繰り返すのだ。
『大好き、だからね』
何があっても、貴女だけ、が。
一寸触れただけで、簡単に折れてしまいそうにも思える、華奢な身体を、ぎゅ、と胸に抱き締めて。
この想いが、その侭、腕の中の人へと届け、とばかりに。
「さて、そろそろ、夕食の支度をする時間だけど」
何か、食べたいものはある?
リクエストがあれば、何でも作るよ。
膝をついて、寝台に横たわっている人の瞳を、間近から覗き込む。
熱に潤んだ大きな瞳は、霞がかり、鬱蒼とした森に囲まれた湖のような、蒼とも碧ともつかない、深い色をしていて。
「…スープ、飲みたいな」
前に一度作ってくれた、あの、色々なものが入ってる。
ほんの少しの間沈黙の後、掠れた、小さな声で、遠慮がちに口にする。
それだけでも、多大な勇気が要ったのだろう。
熱、とは関係なしに、かあっ、と頬を紅く染めて、マーキュリーは視線を明後日の方向へと逸らしていた。
――――マーキュリー…
彼女にしては珍しい、少しばかりの甘えを含んだ言葉。
けれど、この時、ジュピターは、その言葉に込められた意味合いよりも、内容の方に、胸が熱くなるのを感じていて。
彼女は、ずっと、覚えていたのだろうか。
それは、ジュピターが、始めてマーキュリーの為に作った食事。
殆ど空に近い食料庫に、こんなんじゃ何時迄経っても良くならないよ、と説教をしながら、有り合わせのものを皆一緒に煮込んでしまい。
食欲のないという彼女の為に、出来上がった、後の世で言うポトフの様なそれの、スープだけを飲ませてやったのだけれど。
「…ん、解った」
じゃ、一寸キッチン借りるけど、ちゃんと、大人しく寝てるんだよ。
出来たら、起こしてあげるからね。
声が震えてしまうのを、悟られないよう苦心して。
ケットを肩迄引き上げてやりながら、柔らかく微笑んで見せる。
額に掛かった髪をくしゃ、と掻き上げると、軽く瞼に口吻け、ジュピターはその身を翻していた。
「…ジュピター」
「何?」
そっと背中に掛けられた声に、回し掛けていたノブから手を離す。
肩越しに振り返った視線の先で、彼女は身体ごと、反対の方向を向いてしまっていたけれど。
「ありがと……」
消え入りそうな、微かな、声。
けれど、はっきり口に出されたその言葉は、確りと、ジュピターの胸迄届けられて。
そして、確かに、その一瞬。
殺風景な、寂しすぎる筈のその部屋が、ジュピターには、何故だか、酷く温かな空気に満たされている様に、感じられたのだった。

4.現世 〜まこと〜


『ジュピター…』
誰か、とても良く知っている人間に、何処からか呼ばれた様な気がして、ゆるりと意識が現実に引き戻される。
――――此処……?
重い瞼を、のろのろと持ち上げ、はっきりしない視界を鮮明なものにしようと、幾度も瞬きを繰り返し。
蒲公英の綿毛が、一面、ふわふわと浮いている様な、ぼんやりとした思考の侭で、ぐるりと辺りを見回して。
少しの間を置いて、漸くの様に止まっていた頭の中が、回転を開始すると、まことは、自分の置かれている状況を、唐突に、把握していた。
――――眠っちゃったんだ、あたし…
カーテンの透き間から見える空は、既に朱あかを通り越し、紫に色を変え始めている。
その下に広がる地上の海原には、ちらちらと漁火が灯され始めていて。
まことは、どれだけの間、自分が眠ってしまっていたかを悟っていた。
――――あ……亜美ちゃん、は?
はっ、と現実に立ち返り、慌てて、寝台の上に視線を戻す。
自分が、何の為に、此処にこうして座っていたのか、思い出して。
「亜……」
言い掛けた言葉が、喉の奥に張り付いて、終わり迄出て来ない。
何時から、眼を醒ましていたのか。
夢の中と同じ、大きな、湖の色をした瞳が、そっと自分を見つめていた。
視線が絡み合ったその瞬間、それは、うっすらと、笑みの色を浮かべて。
「…まこちゃん」
ごめんなさいね、疲れてるのに…。
喉が渇いているのだろう。
掠れた、その大部分が空気の漏れる様な、殆ど音になっていない声。
けれど、まことは、水を持って来てあげなくては、と考えるより先に、つい今し方迄見ていた夢の中の人と、眼の前の人とを重ね合わせてしまっていた。
――――前世なんだ
あれは、私の。
たった一度、見ただけのあの夢に、自分でも奇妙に思う程の確信が、胸の中に溢れている。
そして、それと同時に、まことは、酷く納得してしまっていた。
――――矢っ張り、マーキュリーなんだ、この人は…
此処に足を踏み入れる度に、捉われていた既視感の理由が、やっと解った。
家具や配置は違えど、夢の中と、まるで変わらぬ雰囲気を持っている、この私室。
それらが象徴している様に、存在する世界や時代が変化しても、彼女の透明な魂は、決して、変わりはしないのだ、と。
「まこちゃん…?」
沈黙した侭、じっ、と顔を見つめられて、戸惑いの声が上がる。
どうかしたの、と口には出さずに瞳で問われ、まことはゆっくりと首を左右に振っていた。
これは、言ってはいけない事だと、解っているから。
「…何でも、ないんだ」
亜美ちゃんだなあ、って、思っただけ。
その不安を取り除いてやる為に、本当ではないが嘘でもない言葉を、小さな笑みと共につけ加えてやる。
そう。
前世のジュピター想いと、今の自分の想い。
亜美がマーキュリーの生まれ変わりだとしても、今の彼女には、前世のジュピターの想いなど、重荷にしかならないから。
ならば、わざわざ、それでなくとも考え込んでしまうこの人の心に、重しを加える必要など、ないだろう。
けれど、それでも、心配げに自分を見つめてくる瞳に困って、まことは何気ない振りを装い、別の話題へと転じていた。
「そんな事より、さ」
もうそろそろ、夕食の時間だよ。何か少しでも、お腹に入れない?
ずっと眠ってて、亜美ちゃん、お昼も食べてないだろ?
食欲、無いだろうけど、食べなきゃ元気になれないからね。
何か、食べたいものあるなら、何でも作るよ。
額に掌を当て、熱を計りながら、耳元に囁いて。
言ってしまってから、はっと気付く。
これでは、夢と、前世と同じではないか、と。
けれど、一瞬のその動揺は、表に出る前に、亜美の微かな微笑みに掻き消されて。
「……スープ…」
「え?」
聞き返したまことの視線から、逃れる様に天井を向いて、消え入りそうな微かな声で、もう一度繰り返す。
スープ、飲みたいな…。
…昔から、好きなの、そういうの。
独白とも、他人に聞かせる為に綴られたともつかない、小さな呟き。
ふい、と逸らされた瞳が、現実ではない、何か別のものを映していて。
――――もしかして、この人は憶えているのかもしれない
懐かしそうな、それでいて、酷く哀しげな瞳と、聞き咎めた『昔』という単語。
彼女が何を思っているのか、それはまことには解らない。
増してや、確証など、何処にも無かったのだけれど。
何となくそう思えて、けれど、それを口にするのは躊躇われて。
しん、とした沈黙に支配されてしまった室内に、亜美の、未だ正常ではない呼吸の音だけが、やけに大きく響く。
黙り込んでしまった大切な人の、何処か思い詰めた様な眼差しを見つめながら、まことは、掛けるべき言葉を必死の思いで捜していた。
そして、その、厚い沈黙の帳を破ったのは、他ならぬ亜美を唐突に襲った、喘息から来る激しい咳で。
「……っ!…………っ!!」
くた、と仰臥していた身体が、息苦しさを、どうにかして緩和しようと、無意識の内に横に倒し、全身を縮こめる。
ふかりとした羽枕に、顔を押し付け、右手で痛む胸を、ぎゅ、と押さえながら、大きく背中を震わせるその姿は、酷くまことを慌てさせて。
「あ、亜美ちゃんっ!?」
ぐるぐると、頭の中を駆け巡っていた全てのものを、瞬時に何処かに投げやって、がたり、と椅子から立ち上がる。
咄嗟に、身体の下に手を入れると、攣った様な咳き込みを繰り返す人の身体を、まことは、ぐい、と引き起こしていた。
「……っ!!………っ」
まともに酸素を吸い込めず、きつく瞼を閉じながら、ぜいぜいと喉を鳴らしている亜美が、自分の身体を支え切れずに、ぐら、と前にのめり掛ける。
右腕に力を込めて、ほんの少しの間、それを防ぐと、素早く寝台の端に腰を掛けて、まことは、小さなその身体を、自分へと寄り掛らせていた。
波打つ背中を摩る掌や、触れ合っている部分部分が、直に、振動を伝えて来る。
それは、時間にしてみれば、ほんの数分のものであったが、まことには、酷く長く感じられて。
「……ごめ…、も、大、丈……」
やがて、漸くに咳が治まり始めた亜美が、喉を喘がせながらも、緩慢な動作でまことの腕から離れる。
疲れ切った様に、再び、とさり、とシーツに身を沈め、小刻みの呼吸を繰り返すのを、暫の間、不安と心配の綯い交ぜになった瞳で、見つめていたまことは、それが、どうにか規則正しいものに戻ったのを確認すると、やっとの事で肩から緊張を解いていた。
「亜美ちゃん…」
「ごめんなさ…い、驚かせて…」
今の発作の所為、なのだろう。
元々、掠れていた声が、完全に別人の様な声になってしまっている。
焼けつく様な熱さが、その白い喉の内側を、荒れ狂っている事を予想して、まことは、乱れてしまったケットを肩迄引き上げてやると、無言の侭、くる、と裾を返していた。
「まこ、ちゃん…?」
呼び掛けに、懸念の色が、色濃く滲み出している。
それを敏感に感じ取ると、まことは、軽く振り返り、にこ、と笑みを作って見せていた。
「心配しないで。直、戻って来るよ」
お水、持って来るだけだから。
「あ…ありがと……」
自分の喉を、気遣ってくれているのだと理解して、ほわり、と感謝の意を表す。
それに応えて、小さく微笑んで見せていたまことは、けれど、ぱたり、とその室の扉を閉じると、瞬時にその笑みを消していた。
――――………
一歩二歩、歩いた処で、もう一度、扉を振り返る。
『御免なさい、心配掛けて…』
嘗てのマーキュリーが、都度に浮かべていた、物悲しげな表情と酷似していた様な気がする。
先刻の、亜美の表情は。
――――確かに、同じ魂かもしれないけど、それにしても…
忘れ掛けていた疑問が、再び、頭を擡げて来るのを、止められない。
けれどまことは、例え、そうであったとしても、今の自分には、どうする事も出来ない事を、良く理解っていた。
今の自分の想いと、前世のジュピターの想い。
関係ないと、一度は打ち消してはみたものの、別の人間なのだと、はっきり否定する事が、出来ないでいる自分には。
――――でも、亜美ちゃん
いつか……いつかで良い。
その時迄には、自分もきっと、心の整理をつけておくから。
心の澱みの、ほんの一部でも、自分に吐露して。
そして、その時こそ。
自分と、そして亜美の時間は、本当に回り始める様な気が、まことは、したのだった。


5.エピローグ 〜亜美〜


「御免ね、まこちゃん…」
一人になった部屋の中に、小さな溜め息が、ほう、と響く。
まことがいなくなった途端、それ迄、温かな空気に満たされていたその空間は、深い湖の奥底の様な、森閑とした雰囲気を取り戻して。
そして次の瞬間には、それ迄浮かべていた笑みを、すっ、と消し、亜美は、哀しそうに、小さく呟いていた。
閉じられた瞼の裏に映るのは、幸福そうな四人の笑顔と、辛かった長い闘いの最後の瞬間(とき)。
しん、とした室内に落とされた謝罪の言葉は、酷く重みを持って辺りに響いていた。
前世の記憶の封印を、解く、という事。
それは、頭脳として、軍師としてのマーキュリーに課せられた、亜美自身が最も厭っている、それでいて、必要不可欠な務め。
確かに、有効な策ではあるのだ。
それを行われた者は、記憶の解放と共に、前世の自分が培ってきた、経験と能力を、その侭手にすることが出来る。
事態が差し迫っている今、それは最良の手段で。
だが、一言に記憶を戻す、と言っても、それは言葉で言う程簡単なことではない。
なにせ、自分自身の記憶の他に、もう一人分の、全く違った人生を歩んだ者のそれを、持つ事になるのだ。
魂自体は同じと言っても、いや、それだからこそ逆に、事態は複雑になり、心の葛藤は大きくなって。
けれど、例え、皆に、どんなに辛い思いをさせようと、冷酷だと思われようと、自分はやらなければならないのだ。
今度こそ、大切なプリンセスを護り抜く為に。
自分の、全てである人達が、一人も欠けることなく、笑顔で最後の瞬間を迎えられるようにする為に。
とは言うものの、これから、まことが相対して行かねばならない、辛さの数々を思うと、亜美の心は重くなるばかりで。
今は、未だ良い。
封印を解かれ、先ず、真っ先に思い出すのは、その人間が一番大切に思っていた想い。
まことが何を思い出したのか、亜美には知る術は無かったが、どちらにしても、幸福なものに違いないから。
けれど、これから、徐々に思い出してもらわねばならないのは、一番底の方に沈められている筈の、辛く、思い出したくも無いだろう、記憶の方で。
「亜美ちゃん、お水、持って来たよ」
軽い音を立てて近付いて来た足音が、扉の前で止まり、かちゃり、と開かれた扉から、ひょこ、とまことが顔を覗かせる。
その、拘りの無い明るい笑みに、底へ底へと沈みかけていた気分が、ほんの少しだけ引き戻されて。
――――もう少し。もう少しだけ
この笑みが、私たちの下に、あります様に…。
前世の因業を決する闘いは、未だ、始まったばかり、だった…。

                                     END