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秋独特の気配を秘めた、爽やかな空気と、穏やかな風に揺られて、さわさわという葉擦れの音に満ちた、午後の公園。 ――――こんな所に… 木々の間から、ひょこ、と顔だけ覗かせて、まことが呟く。 近くに大きな公園がある所為か、人のあまり訪れない、忘れられた様な小さなそれ。 ベンチも花壇も無く、ただ自然に任された事が一目で解るこの公園の、不規則に生えた木や草を、見えない糸か何かに引かれる様に、掻き分けていったまことは、ぽっかりと開けた、小さな空間を見つけていた。 多くの植物に隠され、知る人間の少ない此処は、枝の切れめから柔らかな光が差し込んでいる。 自然に囲まれている事が好きな彼女が、此処に越して来て、先ず真っ先に訪れたこの場所は、酷く、気持ちの良い処だった。 ――――それにしても… がさがさと枝葉を掻き分けていた手を止め、空き地との境界で立ち止まったまことが、苦笑する。 やはり、同じ事を考える人間というのは、いるものなのだ、と。 丈の長い草地の上に、自分より、二回り程も小さそうなショートカットの少女が、腰を下ろしている。 読んでいたらしいハードカバーの本は、今だ彼女の手の内にあったものの、そよりと風が吹く度にページが括られ、当人はすっかり熟睡の体。 背後に立つ大きな樹木に背中を預け、他の人間が近く迄来た事にも、気付きもしない。 そして、その周囲には、彼女の眠りを妨げる者から、護ろうとでも言うかの様に、幾羽もの鳥が集まっていた。 ――――凄い…… 人間に飼われている鳥ならば兎も角、野鳥を、しかも、意図せずに、これだけ集める事が出来るなんて。 人の恐ろしさを熟知している、都会に住む鳥たちは、通常、人の気配を察知しただけで、その手の届かぬ処へと、逃げ去ってしまうものだ。 けれど、此処にいるもの達は、恐れるどころか、自ら、その肩や頭に留まり、安心してさえいる様に見えた。 まるで、この人が、彼らの唯一の安らぎの場である、とでも言う様に。 ――――何時か見た、あの絵、みたいだ… 嘗て、たった一度だけ眼にした、けれど、酷く印象に残っている、一枚のアクリル画を思い出しながら、ぼんやりと考える。 そして、その瞬間、まことは眼の前の光景に、何かがだぶった様な錯覚に陥っていた。 ――――え………っ…? ほんの一瞬のその感覚は、けれど、確かに覚えがある。 だが、それが何時の事だったか、掠めた光景は何だったのか、結局、まことは掴むことが出来なかった。 彼女がそれを手にする寸前、その心魅かれる綺羅の世界を、彼女自身の手で崩してしまったので。 「あ……」 気付いた時には、遅かった。 一枚の絵の様な、その様子に気を取られ、気取られてはならないと、無意識の内に消していた気配を、不用意に解放してしまっていた。 突然の、他人ひとのあからさまな気配に驚いた鳥達が、ばさばさと、一斉に空へと舞い上がって行く。 そして、その羽ばたきの音は、かの少女をも、夢の世界から引き戻してしまって。 「ん………」 閉じていた瞼が、二、三度軽く痙攣し、やがて、ゆっくりと碧(あお)の瞳が現れる。 朝霧に包まれた湖の様なそれは、幾度かの瞬きの内に、本来のものだろう、鮮やかな色彩(いろ)を取り戻していって。 「御免……」 正面に立つ自分の姿に、少女が気付かぬ筈もなく、驚いた表情で、自分を見上げている人に謝罪する。 既に完成されていたその世界を、壊すつもりは毛頭なかっただけに、それ以上、何と言って良いか解らない。 誰もが持っている、心の秘密を、不用意に覗いてしまった様な、そんな居心地の悪さが、まことを支配し始めていた。 もしかして、此処は、彼女の隠れ家の様なもの、だったのではないか、と今更ながらも思い至って。 「…………」 けれど、相手からは、まことが予測していたような負の反応は、全くといって良いほど返ってこなかった。 しん、とした空気に耐えられず、下げていた頭をそろそろと上げると、怒った様子は欠片程も見られない。 それ所か彼女は、今にも泣き出しそうな、それでいて、酷く懐かしげな笑みを浮かべていて。 ――――………え…………? 微笑みの意味が理解出来ず、一瞬、心を奪われた視線の先で、微かに、彼女の口元が動き、何かの言葉を綴る。 「…………ター……」 余りに小さすぎるその声は、まことの耳に届く前に、空気の中に溶けてしまって。 そして、まことが聞き返すよりも早く、少女はさっと立ち上がると、しなやかな身のこなしで、踵を返していた。 「え……あ…ちょっ……」 何故だか、そうしなければならない気がして、追いかけようと、脚を踏み出し、下生えの上に置き去りにされた、彼女の持ち物だろう分厚いハードカバーに気付く。 注意が逸れたその瞬間、視界の端に捉えていた筈の彼女の背中が、その時、まるで、彼女を護るかの様に、吹き抜けた風にざあっと揺れた、緑の中に紛れ込む。 取り残され、まことは一人、暫しの間、呆然と、その場に立ち尽くす。 この時、まだまことは、気付いてはいなかった。 彼女とのこの出会いが、自分の人生の、本当の始まりであった、という事に。 それは、それまでの彼女の人生が、決して幸福とはいえないものであった事もあるけれど。 「……」 緑の風が、呆然と佇むまことの足元で、ゆるり、と小さく弧を描いていた。
「此処だよ、まこちゃん」 此処はねえ、広いから、色んなゲームが一杯あるし、何より、バイトのお兄さんが、とーっても、格好良いんだよぉ。 早く早く、と急き立てられて、自動ドアの前で待っているその子の横に、並び立つ。 転校初日。 何処からどう、噂が流れたのか、有る事無い事囁かれ、まるで腫物でも扱う様に、一線を置いて接して来る他の人間達に、好い加減、うんざりしていたまことの元に、現れたのがこの子、だった。 『あんた…あたしが怖くないの?』 誰もが遠巻きにしているこの状況の中、一体どういうつもりで近づいてきたのか、解らなくて。 にこにこと、何の構えも無く、普通の友達がする様に話し掛け、その上、まことの作った弁当を、『おいしい、おいしい』と連発しながら、口一杯に頬張っているうさぎに、恐る恐る尋ねてみたのだ。 朝、助ける為には致し方なかったとはいえ、ああいった物騒な場面に慣れた一面を知られている上、流布している根も葉もない噂など、恐れられても致し方ない条件は、充分に揃っていたので。 『ん?何で?』 けれど、大きな瞳を、きょん、と一層に大きく見開いて、そう、聞き返す彼女には、露程の脅えも感じられなかった。 そして、学校での出来事や、彼女の大切な友人達の話を、取り留めもなく、休み時間を目一杯使って話してくれた彼女は、その子達に会わせてあげるね、と、H・Rが終わった途端、わざわざ、一番離れた教室に迄、誘いに来てくれて。 「亜美ちゃんはねえ、同じ十番中学だから、居れば、まこちゃんにも直判るよ」 今日は、学校から直接来るって言ってたし。 あと、髪型はショートカットで、多分、髪が長い女の子と、一緒で…。 ヴーン、という低い電子音と共に、左右に開いた自動ドアから、内へと踏み込む。 説明しながら、きょろきょろと辺りを見回すうさぎに付き合って、まこともまた、ぐるり、と室内に視線を巡らせていた。 ――――どの子、だろう? 公立にしては珍しい、大きなリボンのついた、可愛らしいデザインの制服を捜す。 そこそこに込んでいる室内は、けれど、殆どが男の子ばかりで、同年代の女の子の姿は、ちらほらとしか見られない。 増して、寄り道だと公言している事と同然の、制服姿の女の子など、見つける事の方が難しくて。 「多分、何時ものとこだと、思うんだけど」 まだ来てなかったら、二人でゲームして、待ってよーよ。 あのねえ、セーラーVゲームがね、難しいけど、すっごく面白いんだよ。 でも、亜美ちゃんは、あっという間にクリアしちゃって…。 広い店内の、入り口からは、大きなゲーム機に遮られて、死角になっていた部分へと、うさぎの後について廻り込む。 そして、矢っ張りいた、と、嬉しそうに彼女が声を掛けたのは、椅子に腰掛けた侭、ゲームはやらずに、何やら楽しげに話をしている、二人の少女達だった。 こちらに背を向けている為、顔立ちは解らないが、もの静かな雰囲気の、ショートカットの少女と、美しい漆黒の髪を腰迄伸ばした、どことなく、神秘的な空気を纏い付かせた少女。 ぱっと見の印象では、二人とも、凡そ、この様なプレイスポットには、自分から望んでは、脚を踏み入れそうもない…。 ――――ふう…ん…… 少し、意外に思った。 確かに、うさぎならば、どんな人間とも仲良くなれるだろう。 けれど、大抵、グループというものは、同種の何かを持つ者達が、自然、集まって出来るものだ。 それ程長い時間ではない、とはいえ、間近で、うさぎの言動を見ていたまことは、正直、もう少し、彼女に近い雰囲気の者達を想像していたので。 「亜美ちゃん、レイちゃん、遅れてごめーん」 けれど、振り返ったその少女に、まことは更に驚いた。 昨日、公園で出会った、あの少女。 まことが、もう一度、会いたいと願っていた。 ――――こんな所で、逢えるなんて… まるで、湖の水面みなも
の様な、深い、碧の眼差し。 けれど、自分を認識めたらしいその瞳からは、彼女の心の動きを、知る事は出来なくて。 「まーこちゃん」 「あ…、何?」 掛けられた声に、意識を現実に引き戻されて、慌てて顔を上げる。 視線は、然り気なく、彼女に定めた侭、動かさずに。 「亜美ちゃん、レイちゃん、紹介するね」 予告無しに連れられて来た、初対面の自分の突然の乱入と、うさぎの唐突な言葉に、けれど、慣れているのか、驚いた様子も無く、直様会話を打ち切った二人は、うさぎの明るい声に耳を傾けていた。 「今日、十番中学に転校して来た、木野まことちゃん」 すっごく強くて、お料理がとおーっても上手なんだよ。 「よろしく」 「…こちらこそ、よろしく」 「よろしくね」 間髪入れずに頭を下げると、戸惑った様な、短い沈黙の後に、レイと呼ばれていた少女が、ふっ、と相好を崩す。 続いて、昨日の、あの少女が、軽く首を傾げる様にして、ふわ、と淡い微笑みを浮かべていた。 ――――え……? 瞬間、感じた違和感に、戸惑いを感じる。 あれは、確かに、この人の筈。 けれど、その笑みは、どこか昨日と違っている様に思えて。 「それでね、まこちゃん」 うさぎの明るい声に、まことの思考は、ふつ、と断ち切られてしまう。 「こっちが水野亜美ちゃんで、あっちは火野レイちゃん」 亜美ちゃんは、すっごく頭が良くて、レイちゃんは、巫女さん、やってるんだよ。 にこにこと紹介する様から、うさぎが彼女達が大好きなのだという事が、はっきりと伝わって来る。 そして、それは、彼女達も。 一種、独特の繋りの様なものが感じられて、まことには、それが酷く羨ましく思えた。 遠巻きにされる事が多かった彼女には、嘗て、一度も、その様な友人を持った事がなかったので。 ――――良いよね、こういうの… 見る者を、つい、綻ばせてしまう様な、賑やかな三人のやり取りを、楽しげに見詰めて、心の中で呟く。 けれど、あの一瞬の。 胸に感じた違和感を、まことは、肌に刺さった刺の様に、決して、忘れ去る事は出来なかった。
ふつり、と部屋の灯りを落とせば、途端にそこは、別世界となった。 ベッドサイドの小さなランプだけが、唯一の光源となって、仄かに室を照らし出して。 雨風が、がたがたと、窓を叩く音に耳を傾けながら、まことは、ベッドの上に蹲り、鏡と化した窓ガラスに映る自分の顔を、見るともなしに見つめていた。 『入らないの、まこちゃん?』 休み時間、終わっちゃうわよ。 昼休みの視聴覚室。 それ迄、何度か顔を合わせていながら、何となく他人の前では言い難くて。 今日こそは、と決意して、ずっと返しそびれていた本を手に、亜美の教室を訪れた。 けれど、昼休みが始まると同時に、教室を出て行ったらしく、そこに彼女の姿は無く。 昼食を手にしていた、という事から、時間一杯戻らない可能性を感じたまことは、亜美の行きそうな場所を、学校中探し回った。 幸運にも、中庭から見える特別教室の一つの中に、その横顔を見つけ、慌ててその扉の前に立ったものの、今度は、どう言ったら良いものか、解らなくなってしまって。 けれど。 『…まこちゃん?』 何故、まことだと判ったのか。 暫の事、室の前で、躊躇っていたまことに、室内から、捜していた人間の、柔らかい声が促してくる。 『入るよ……』 からからと、注意深く引き戸を開いたまことは、後ろ手に戸を閉めながら、ぐるりと教室を見回す。 普通の教室の面積の、軽く倍はあるだろう特別室に、ずらりと、同じ様な機材が並んでいる。 そして、教室の一番後ろの窓際、入り口から見て、一番奥に位置するコンピューターに、彼の少女は向かっていた。 昼食を取りながらやっていたのか、傍らには、コンビニエンスストアのものらしい、封を切られたサンドイッチの包みが、広げられている。 『随分と難しい事、やってるんだな』 調べ物か、何かなのかい? グラフやアルファベットが並ぶ画面を、ひょい、と覗き込んで、意識して軽い口調で話し掛ける。 カタカタと音を立てて、キーボードを叩く手のスピードは、決して、緩みはしなかったけれど。 『そういうのでは、ないのだけど…』 …それより、私に何か、用があったのでしょう? 次々と変化し続けるディスプレイから、視線を逸らさぬ侭、質問には直接応えず、するり、と話題を転換させる。 話し掛けるきっかけが欲しかっただけで、特に、その内容に興味があった訳ではないまことは、それ以上、突っ込もうとはせずに、本来、するべき話題に入っていた。 『ああ……うん…実は、その…』 この本、ずっと、返そうと思ってて。 でも、何となく、言い出せなかったから。 大切に抱えていた腕の中の包みを、すっ、と、彼女に向かって差し出す。 そして、亜美は、その時初めて、動かしていた手を停めて、まことの方に向き直っていた。 『これ……』 自分よりも二回り程も小さな手に、そっ、と手の内の重みを移動させる。 華奢な指で、金で捺されたタイトルの文字を、軽くなぞって、亜美はふわ、と微笑んでいた。 『…有り難う』 ずっと、捜してたの。 何処に行ったのかと、思っていたわ。 受け取ったものを、大切そうに抱え込む。 ――――ああ、矢っ張り その様子に、小さく呟く。 意外にも、洋書だったそれは、中々に古いものの様であったが、破損している箇所は、各々丁寧に補修され、酷く大事にされていた事が、まことにも伝わって来ていたので。 そして、その笑みを見つめていた彼女の口からは、この一言できちんと伝わるだろうか、と散々に迷っていた筈の言葉が、極、自然に漏れ出でていた。 『…あの時は、御免』 『え?』 唐突な謝罪に、亜美の大きな瞳が、更に大きく見開かれる。 何故、謝られなければならないのか。 理解出来かねている事を悟ったまことは、然り気なく、亜美から視線を逸らし、更に言葉を続けていた。 『初めて、逢った時の事』 あたし、あんな所に、人がいるなんて気付かなくて…。 邪魔、しちゃったみたいだから、亜美ちゃんの。 だから…。 俯いて、口を噤む。 まことは、知っていた。 あれ以来、亜美が、あの場所を訪れていない事を。 それは全て、自分が、不可抗力とはいえ、彼女の秘密を、覗いてしまった所為の様に思えてならなくて。 けれど、亜美は、どこか寂しげな笑みを、小さく口元に浮かべると、首を横に振って見せていた。 『謝らないで、まこちゃん』 貴女が謝る必要なんて、全然無いのよ。 元々、あそこは貴女の場所なのだから。 私は単に、本来の主が戻る迄の、単なる間借人だっただけ。 『え…?』 不可解な亜美の言葉に、首を傾げる。 ――――あたしの場所?あそこが? 言われている意味が、理解らない。 けれど、聞き返そうとして、瞳を覗き込んだまことの言葉は、鳴り始めた、昼休みの終了を告げる、無遠慮なチャイムの音に掻き消されてしまっていた。 ――――亜美ちゃん…… 言われている事は、半分も理解出来なくて、それでも、あの時、はっきり、解った。 ゲームセンターで感じた、違和感の原因。 それは、瞳に浮かぶ、彼女の表情。 初めて出会った時には、言葉の変わりに、その心情を語っていた瞳が、まるで、唯の、硝子玉の様になってしまっていたのだ。 ――――一体、どうして…? 呟いて、ほう、と一つ溜め息をつく。 しん、とした室内に、雨の音だけがやけに大きく響き渡って。 立てている膝を抱え込み、額をぎゅ、と押し付ける。 その時。 (………………ター…) 耳元で、誰かに呼ばれた様な気がして、はっ、と顔を上げる。 反射的に、周囲に視線を巡らせるが、彼女、ただ一人で生活しているこの空間に、他の人間が存在する筈もなく。 ――――でも、あれは 確かに、自分を呼んでいた。 はっきりと呼ばれた訳ではないが、何故だか、そう、確信する。 と、同時に、湧き上がって来た、酷く切ない感情は、まことが、彼の人を想っている時に感じるものと、酷く似通っている様に思えて。 「……亜美…ちゃん」 いつの間にか、そんなにも大切になってしまった人の名を、無意識に、まことは、口に乗せていた。 矢も盾も堪らず、自分が何に突き動かされているのかさえ理解らぬまま、外へと飛び出す。 頬を、肩を、全身を、痛い程の強さで、大粒の雨が叩き付けて来て。 アスファルトで舗装された道路から、雨にぬかるんだ公園へと足を踏み入れたまことは、ひゅうひゅうと耳元で鋭い音を立て続ける風が、長い髪を嬲って行くのを、けれど、構い付ける事もなく、道無き道を、先へ先へと急ぎ続けていた。 ――――………っ 昼間はあれ程迄に、安らぎを与えてくれる緑は、すっかり闇の中へと沈み、黒々と見えるものたちは、風が打ち付ける度、ざわざわと不気味に動めいている。 他の人間ならば、中々に苦労を強いられる筈のその道のりを、何故か、植物達が彼女の為に、自ら、道を開こうとしているかの様にさえ思える容易さで、まことは大して骨を折る事もなく、目的の地へと、向かっていた。 ――――一体、何してるんだろう、私 自分が解らなくて、半ば、苛立ちながら、自身に問い掛ける。 誰かに呼ばれている様な気がして、けれど、胸に思い浮かんだのは、懐かしげな、そして今にも泣き出しそうな微笑み。 それが胸を掠めた瞬間、まことは、衝動的に、マンションの自分の部屋を、飛び出していたのだ。 行かなければいけない、と、自分の中で、何かが叫び続けている。 そして、ざっ、と枝を掻き分けたその先に。 狭かった視界が、不意に開けた。 激しく雨が降っている上に、明かりのないこの場所で、視界は酷く悪かったが、それでも、まことは、あの木の下に、彼の少女が佇んでいる事を感じとっていた。 ――――こんな、雨の中…! かっと頭に血が上る。 人が来ないだろう時間帯を、わざわざ選んだのかもしれないが、しかし、この天候では身体に良い筈がない。 とはいえ、彼女が遠慮するようになってしまった原因は、偶然とは言え、此処に佇む彼女を覗いてしまった自分自身で。 己の中を駆け巡る、腹立たしさの真実の対象が、自分である事までは、その時のまことには、思い至る事が出来なかったが。 湧き上がる怒りにも似たものに突き動かされ、考える間も無く、大股に下生えを横切って、そのほっそりとした右腕をぐいと掴む。 風雨で、音や気配が掻き消され、気付くのが遅れたのだろう。 突然に、強い力に腕を引かれ、亜美は、びくり、と大きく身体を震わせていた。 見上げたその先の、きついまことの瞳が、きっ、と眇められる。 一体どの位の間、そうしていたのか。 傘も差さず、濡れるに任された躯は、氷のように冷え切っている。 その余りの冷たさに、触れているまことの背筋に、ぞくり、と冷たいものが走っていた。 「何を、やってるんだ!」 傘も差さずにこんな所で…。 病気になってから後悔しても、遅いんだよ!! 今更無駄、とは知りながらも、傘を差し掛け、怒鳴り付ける。 けれど、叱られている人間の反応は、何処か鈍った。 霞が掛った様な眼差しが、ぼんやりとまことを映しだしているばかりで。 「ああ……まこちゃん…」 御免なさい。 もう、此処には来ないつもり、だったのに…。 ――――…亜……美…ちゃん…? 掠れた声で、芒洋と、それでも呟き続ける亜美の様子に、不審を感じる。 そして、その繊い躯を、ぐい、と引き寄せ、間近から皙い面を覗き込んだまことは、その頬に、未だ、紅いものがうっすらと滲む、一条の切り傷を見つけていた。 ――――これは……… 何処で、負ったものなのか。 多分、何か、鋭い物で擦られたのだろう。 すぱり、と綺麗に裂けた傷は、然して、深い物では無い。 けれど、良く見てみれば、皙い皮膚のあちこちに、同様の、いや、かなりに深いらしい傷が見受けられて。 軽く、ハンカチで止血されている箇所以外は、傷口は開いた侭。 雨に晒され、未だ、血の止まっていない処もあるらしく、少しずつ流れている血は、制服やソックスを、滲んだ、それでも鮮やかな緋色に染めていた。 「亜美ちゃん!」 何があったのさ、こんなに怪我して! ああ、それより、怪我の手当てしなくちゃ。 冷えた身体も、温めないと、この侭じゃ、風邪をひいちゃうよ。 驚きに、一瞬、我を忘れて、薄い肩に手を掛ける。 だが、直に思い直し、まことはびしょびしょに濡れた背中に、手を回し直していた。 話は、後。 取り敢えずは、一刻も早く、部屋に連れ帰った方が良い、と。 背中を押そうとして、未だ、芒、としている人は、しかし、その場を動こうとしなかった。 俯いた侭、小さな子供がいやいやをする様に、首が左右に振られる。 「大丈夫。ほっといてくれて、良いから…」 何とか説得しようと、色々な角度から言葉を尽くしても、そう繰り返すだけの亜美に、いい加減、まことの忍耐も限界に達する。 「放っておける訳、ないだろ!?」 怪我してる友達を、眼の前にして!! 思わず荒げた声に、ひく、と小さな肩が竦む。 それでも、亜美は、頑として、まことに従おうとはしなかった。 「今の貴女には、関係が無い事なのよ」 お願いだから、私に…私たちに、関わらないで。 瞬間。 完全に、我を忘れた。 叩きつけられた、拒絶の言葉。 後から冷静に考えてみれば、彼女の精一杯の優しさから、生まれたのかもしれないその言葉は、けれど、この時、まことに、その真意を伝える事は、出来なかった。 ――――………っ 気付いた時には既に、身体が、動いてしまっていた。 「―――っ!」 突然の出来事に、亜美の躯が堅く強張る。 けれど、まことは、衝動の侭抱き締めた、氷の様な躯を離そうとはせず。 色の失われた唇を、自分の唇で塞ぐ。 緩慢に身を捩って、抗う亜美の動きを、腕に力を込めて封じ込めて。 この時、まことは、唐突に気付いていた。 自分が、こんなにも、この人に捕らわれてしまっている事に。 「………ふ……っ…」 やがて、腕の中の人の身体から、くったりと力が抜け落ちる。 極度の緊張にあったのだろう、その人の膝が、かくりと大きく崩折れて。 全身の重みが、まことの両の腕に掛って来る。 ――――亜美ちゃん…… 気を失ってしまったその人の、まるで蝋の様な額に口接ける。 手にしていた筈の傘は、いつの間にか、まことの手から離れ、何処かに飛ばされてしまっていて。 まことは、そっと、小さな身体を抱き上げ、自分に寄りかからせると、ゆっくりとした足取りで、元来た道を辿り始めていた。
「――――気が、付いた?」 ぼんやりと自分を見上げて来る人に、囁く様に、声を掛ける。 何処か、焦点の合わない、潤んだ様な眼差し。 未だ、完全に覚醒し切っていないのか、ほわ、と小さく、口元に笑みが浮かべる亜美に、まことは柔らかく微笑んで見せていた。 あれから。 連れ帰って来た亜美を、風呂に入れて温めて。 傷の手当てをしてから、ベッドに入れようと、改めて、素肌を晒した亜美を見て、まことは我知らず、息を飲んでいた。 ――――酷い… 焦っていた所為か、入浴させていた時には気付かなかったが、元々、真っ白だったらしい、きめ細かな肌に、幾つもの傷跡が残っている。 どれも、比較的新しく、所々に出来た痣と相まって、痛々しい。 その中でも、特に、まことを驚かせたのは、左の肩から背中に袈裟掛けに走った、大きな傷跡。 それは、如何贔屓目に見ても、生命を左右する程の、大怪我だった筈で。 ――――一体、何をしていたんだ、亜美ちゃんは? 一般生活を営んでいる限り、然々頻繁に、怪我などする訳がない。 特に、今回の様な、抉られた様にも見える怪我などは。 ――――亜美ちゃん… 一見、勉強好きな、もの静かな少女の、秘められた部分。 出会って間もない自分に、何の構えもなく話をしてくれる訳がないと、解ってはいても、それが、酷く哀しくて。 閉じられた瞼に、そっ、と唇を落として、不意にまことは、その身体が不自然に熱い事に気が付いていた。 ――――もしかして、これは… ベッドに寝かし付けて、体温を計る。 案の定、体温計の目盛りは、あっという間に三十九度を越えた。 無理もない。 あんな所に、何時間も、雨に濡れて立っていれば、どんなに健康な者でも、風邪位引くだろう。 増して、亜美は、うさぎに聞いた話によれば、それ程丈夫な性質ではない、筈で。 そして、まことは、それから数時間の間、亜美の様子を、じっと見守っていたのだけれど。 「お水、飲むかい?」 それとも、他に、何か、欲しいものはある? 「…まこ…ちゃん……?」 掛けられる声に、漸く、意識が浮上して来たのか、掠れた声が、その名を綴る。 質問の意味迄は、捕らえ切れなかったらしく、暫の間、亜美は、ぼんやりとまことを見詰めていた。 静かな、沈黙の空間。 けれど、それは、長く続きはしなかった。 グルルルル……。 獣の唸り声の様な、籠った、けれど、危険を孕んだ声が、何処からか聞こえて来たので。 ――――何……? はっ、と、亜美が、無理矢理に意識を集中させたのに気付いて、何事か、とカーテンを持ち上げ、窓の下を覗き込む。 瞬間、まことは、ぴしり、と、凍りついていた。 闇にも浮かび上がる、皙い、四つ足の、けれど、まことの記憶にあるものでは決してない、異形のものが、視線の真下に佇んでいたので。 ――――………っ 鋭く飲んだ息の音が、やけに大きく部屋に響く。 持ち上げられていたカーテンが、ぱさり、と乾いた音を立てて、元の位置へと戻って行った。 そして、そのまことの様子から、何が起こっているかを、一瞬で悟った亜美には、次に起こり得る状況が、手に取るように解ってしまって。 「私の、ミスだわ…」 あれの嗅覚が飛び抜けて利くのは、初めから解っていた筈なのに。 緩慢な動作で、ベッドに半身を起き上がらせた亜美が、喉を喘がせながら、呷く様に呟く。 そして、枕元に纏めて置いてあった、彼女の持ち物の中から、何かを手にすると、ゆらり、と寝台から床に降り立って。 その侭、ふらふらとした足取りで、扉へと向かって歩いて行くのを、呆然と見詰めていたまことは、彼女がノブに手を掛ける寸前に、漸くの様に、押し止めていた。 「何処に行く気、なのさ?」 肩を掴んでいる手に、力が籠る。 「外よ、勿論…」 あれが狙っているのは、私。 私が此処にいれば、貴女の方が、危ないわ。 熱く火照った手で、まことの手を外しながら、荒れ狂う、窓の向こう側に視線を流す。 それは、嘗てまことが見た事が無い程、厳しい横顔で。 ――――この人は… 瞬間、理解する。 どういった理由でかは解らぬが、亜美が、あれ、と闘っているのだ、という事を。 けれど、高熱に浮かされた、まともに立っている事さえ出来ない、そんな身体で、一体、何をしようというのか。 「まこちゃん…」 御免ね…。 全ての心の、込められた言葉。 止めようとして、けれど、その瞳の勁さに、無駄だと言う事を悟って。 言うべき言葉を探して、沈黙したまことに、小さな笑みが、浮かべられる。 それは、始めて逢った時にも似た、今にも泣き出しそうな笑みで。 ――――あれは…… 何かを掴み掛けた気がして、思考を巡らせ掛ける。 だが、後少しで手にすることか出来たかと、思われたその瞬間。 がしゃん、と背後で、ガラスの割れる、悲鳴の様な音がする。 グルルルルル……。 直側から聞こえて来る、低い鳴き声に、ぞくり、と背中を走るものを抑え付け、ゆっくりと背後を振り返る。 どうやって、此処迄登って来たのか。 下にいた筈の、あのものが、今にも跳び掛って来そうな体勢で、鋭くこちらを睨め付けていた。 いや、その表現は、妥当ではないかもしれない。 眼に当たる部分には、丁度、暗い場所で生活している、生物がそうである様に、瞳は存在していなかったので。 「遅かった…」 悔しげに、亜美が、唇を咬む。 何とかするつもり、だったのだ、こうなる前に。 自分たち、三人の力だけで。 けれど、もう、考えている暇は無かった。 咄嗟に、腕に巻かれた包帯を解くと、ぐ、とその手に力を込める。 薄く膜が出来たばかりの傷口からは、忽ちに鮮血が溢れ出て、その身体には少し大きめの、まことのパジャマの袖口を、赤黒く汚していた。 そして。 「…まこちゃんっ!」 瞬間、隣室に続くドアを開き、まことを部屋の隅へと突き飛ばす。 測ったかの様に、跳び掛って来るそれの一撃を、病人とは思えぬ身のこなしで、間一髪、避けると、亜美は、隣室の、ベランダへ続く硝子戸を、身体全体で叩き割って。 ――――亜美ちゃん……っ! 自分には眼も呉れず、後を追っていくそのものに、先刻の、亜美の言葉の意味を漸くに理解する。 あれは、亜美の血の匂いを、追っているのだ、と。 けれど、自分を庇ってくれた亜美を、助けなければ、と立ち上がったまことの瞳には、信じられない光景が跳び込んで来た。 「亜美ちゃんっ!!」 散乱する、硝子の欠片に構う事無く、裸足の侭でベランダに跳び出す。 亜美と、同じく、彼女を追って、あのものが飛び降りた、ベランダの向こうでは、けれど、まことが想像していた様な状況は、起こってはいなかった。 「マーキュリーパワー、メイク・アップ!」 ぱあっ、と亜美が翳している手の中の物から、溢れた水色の光が、まことの視界を覆い尽くす。 やがて、落下する彼女に、纏いついた光が消えた時、鮮やかなアクアブルーのセーラー服が、亜美の躯を押し包んでいて。 ――――セーラー…マーキュリー? 視線の先で、くる、と綺麗に一回転すると、すとり、と軽く地に降り立つ。 そして、その無事を確かめたまことは、咄嗟に、身体を翻していた。 ――――亜美ちゃん… マーキュリー? あの子が? 眼の前で見ても、未だ、信じることが出来ない。 けれど、心の何処かが、納得している事も、また、事実で。 「――――亜美ちゃんっ!!」 エントランスを走り抜け、マンションの前の道路に飛び出す。 果たして、そこでは、一人と一匹が、何時果てるともつかない、激しい攻防を繰り返していた。 「シャボン・スプレー!」 元々、眼の見えない相手。 彼女の得意とする、眼眩ましは通用しない。 その上、腕から流れる血の匂いで、自分の位置は、正確に敵に悟られてしまうのだ。 決定的な攻撃力の無い、マーキュリーの闘い方は、自然、仲間が掛け付けてくれる迄の、時間稼ぎにならざるを得なかった。 けれど、それすらも、今の彼女には、難しい事で。 「…………っ」 もう、どの位の時間が、経過したのか。 ぜいぜいと、乱れる息を整えながら、間合いを取る。 実際には、それ程長い時間が経っている訳では無かったが、思う様に身体の動かない彼女にとって、それは、酷く永い時に感じられたに違いなかった。 ――――く… 視界が定まらなくなって来ているのを感じ、己の体力の限界を悟る。 「シャボン・スプレー・フリージング!」 狙いを定め、満身の力を込めて一撃を放ち、そして、亜美は、かくり、と膝を地面に付いてしまっていた。 「亜美ちゃん!!」 気付いたら、咄嗟に飛び出していた。 蹲っている亜美の身体を、どん、と身体全体で付き飛ばし、けれど、代わりに、避け切れなかった攻撃が、自分の身体に襲い来るのを感じ取って。 ――――……っ!! 衝撃を覚悟して、瞼を、ぎゅ、と閉じる。 けれど、何時迄経っても、予想していた痛みはまことを襲う事はなく。 それに替わるかの様に、何か熱い衝撃が、身体の奥底を駆け巡って。 「これは……」 恐る恐る、瞼を開いたまことの直ぐ眼の前に、眩い緑の光を伴って、木星の印の入った、ロッドが現れる。 まことは気付いていなかったが、それは、彼女の額に、浮き出ているものと全く変わらぬもので。 「まこちゃん!!駄目―――っ!」 気付いた亜美が、叫ぶ声も、その耳に届きはしなかった。 手に取った瞬間、まことには、自分のなすべき事が、はっきりと解ってしまったので。 「ジュピターパワー、メイク・アップ!」 胸に、湧き上がって来る言葉を、声に乗せる。 そして、全てが、始まった。
ぽっかりと浮かぶ雲が、吹きつける風に押しやられ、幾つも、幾つも、切り取った様な小さな青い空を、ゆっくりと横切って行く。 そして、その小さな空間の下で、二人の少女が、緑に囲まれた優しい時間をそれぞれの思いで感じていた。 『出会った時に、直ぐ、解ったわ』 貴女が、セーラー戦士の一人だって。 ベッドの中から見上げて来るその横顔は、此処数日のごたごたの所為か、少しばかり痩せてしまった様にも見える。 そして、まことは、そう言って口を噤んでしまった人の、その沈黙の中に、全ての答を見つけだしていた。 ―――だからか… 始めて出逢った時の、あの笑みは。 懐かしくて、二度、出逢えた事が、嬉しくて。 けれど、それでも、未だ、覚醒していない自分に、出来るだけ、「木野まこと」として、普通の女の子としての時間を、過ごさせてくれようとしたのだろう。 頭脳(ブレーン)である亜美には、解っていた筈だ。 徐々に本性を現し始めて来た敵が、そろそろ、三人では手に負えなくなって来ている事に。 少なくとも、後一人。 そうすれば、後少しの間、銀水晶を見つけられなくとも、持ち堪える事が出来る。 けれど、現れた、四人目の戦士は、未だ、欠片程の記憶も、持ってはいなくて。 ならば、もう少し。 どうにもならなくなる、その寸前迄は、と。 誰にも相談しようとせずに、一人で、その、埋め様とすれば簡単に埋まる筈の穴を、埋め様とした。 「…何?まこちゃん」 どうかしたの? 丈の長い下草の上に、とさり、と身体を横にして、じっ、と見詰める視線の先で、亜美が、ふわ、と小さく微笑む。 それは、表情に乏しいこの人が、かの仲間達にだけ見せる、酷く優しいそれで。 「ううん、何でもない」 軽く首を左右に振って、再び空を見上げる。 ――――きっとこの人は、気付いていないに違いない 彼女が想っているのと同じ位、自分が、他の人間から想われている、と言う事に。 だから。 何時か貴女に、それが伝われば。 そして、その時、傍らに立って居るのが、自分であったならば。 天高く続く、二人の小さな青い空は、何時迄も、彼女達の上に、存在し続けていた。
END
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