●水迷●  
 




それに気づいたのは、彼女と知り合って、暫く経った頃だった。



何の色づけもない、学校特有の無表情なチャイム音が、スピーカーを通じて四限目の終了を告げる。
その途端、校舎のあちこちが、ざわざわとざわめきだし、やがて、喧騒が学校全体を包み込んでいって。
「亜美ちゃ――ん、お昼にしよ」
チャイムが鳴って数分もしないうちに、がらりと勢いよくドアが開かれ、長い髪の少女が飛び込んでくる。
続いて背の高い、この学校のものではない制服に身を包んだ少女が、その頭上からひょこりと顔を覗かせていた。
「亜美ちゃん?」
思い思いに集まった生徒が、賑やかにおしゃべりをしながら、弁当を広げ始めている。
さして広くもない教室を、ぐるりと見回した二人は、けれど、目的の人物をそこに見つける事はできなかった。
「…いないねえ、亜美ちゃん」
「うん…。どこに行ったんだろう?」
顔を見合わせ、お互いに首を傾げる。
知り合ってから、昼食は、雨でも降らない限り、中庭に集まって食べる事にしていたのだ。
行きがけに、必ずうさぎが声を掛けるので、これまで、亜美が先に行ってしまった事などなかったのだけれど。
「お手洗いかもしれないよ、まこちゃん。ちょっと待ってみようよ」
「そうだね。亜美ちゃんの事だから、そうそういい加減な事、するわけないし」
毎日の様に繰り返される昼の行事に、既に、二人を気にするものは誰もいない。
他人の教室である、という事実に全く頓着する様子も見せず、入り口近くで話し合っていた二人に声を掛けたのは、けれど、その教室の人間だった。
「月野さん」
「え?あたし?」
入り口近くに位置しているという事で、一応顔は知っていたものの、話した事はない者にいきなり自分の名字を呼ばれて、うさぎが戸惑った声を上げる。
「ええ。あなたに伝言よ、水野さんから」
「亜美ちゃんが?何て?」
うさぎは兎も角、まことが気になるのだろう。
さっさと伝えてしまいたい、とばかりに、畳み掛ける様に言葉をつなぐ。
まことはその気配を察して、身を乗り出すうさぎとは逆に、然り気なく、一歩後ろに下がっていた。
「ちょっと用事があるから、お昼は二人で食べて、って」
「用事?」
繰り返したうさぎの言いたい事を汲み取って、ええ、と頷く。
「詳しい事は、何も言ってなかったけど」
お世辞にも、好意的、とはいえない口調で、それだけを伝えると、さっさと教室内に戻って行ってしまう。
一体どうやって頼み込んだのだろう、と思わず考えてしまう様な、素っ気なさで。
「あ、ど、どうもありがとう」
呆然として、それでも、彼女に聞こえるだけの声で礼を言う。
いつも人に囲まれて生きていたうさぎが、これまで経験した事もない様な、あまりにも冷ややかな彼女の態度。
亜美やまことにとっては慣れたそれは、うさぎにとっては、ショック以外の何物でもなかった。
「…行こう」
ぽんとその肩に手を乗せると、そのまま教室を出るよう促す。
「まこちゃん…」
すがる様な瞳を向けられて、何も言うな、と黙って首を横に振っていた。
ここで自分たちが何を言っても、どうにもならない事を知っていたので。
「取り敢えず、お昼にしようよ」
胸の内に、もやもやと燻っているものを押しやり、振り切る様に、明るくうさぎに笑い掛ける。
訳の解らぬその不安を、うさぎに気づかせない様に、と。
「昼休みは長くないんだし、用事が終わったら、亜美ちゃんも来るかもしれないだろ?」
「うん…」
俯き、小さく頷いたうさぎの背を押して、ゆっくりと廊下を歩き出す。
――――だけど、本当にどうしたんだろう?
口には出さず、疑問を自分に問いかける。
彼女は、自分と同じ種類の人間だ。
理解してくれない人間に対しては、何も望まない。
明らかにあちらの人間である彼女に、言伝を頼んだという事実に、まことは何かすっきりしないものを感じていた。
「まこちゃん?」
「え?ああ、何でもないよ」
数歩先で立ち止まり、振り返って不思議そうにこちらを見つめている、うさぎの声に、いつの間にか立ち止まって考え込んでいたことに気が付いて、まことは再び足を踏み出していた。



「亜美ちゃん?さあ、まだこっちには来てないけど」
学校から帰って、境内の掃除をしている処を、まことに捕まったレイが、箒を動かす手を止めずに応える。
「おっかしいなあ。亜美ちゃん、先に帰ったから、とっくに着いてる筈なんだけど」
「今日は、直接塾に行ったんじゃない?」
ここんとこ、休みなく敵が出てきて、ろくに行けてなかったみたいだから。
「うん、でも…」
拳を顎に押しつけて、視線を階段へと向ける。
こうしている今にも、亜美がそこを上ってくるのではないか、と。
「まこちゃん、何がそんなに、亜美ちゃんの事、気になるの?」
別に一緒に帰る約束、してた訳じゃないんでしょ。
ミーティングだって、今日は夜の予定だし。
そのまことの様子に、初めてレイが、掃除の手を止めて、彼女をまっすぐに見上げる。
大きな瞳を、不審そうに揺らめかせて。
「それはそう、なんだけど…」
「まこちゃん」
言い難そうに、口籠るまことを、ぴしりとしたレイの声が先を促す。
その瞬間、まことは後悔していた。
自分もそうだという自覚はあるが、彼女もまた、亜美に対して、何よりも心を砕いている事を、思い出したので。
きちんとした説明をしなければ、納得させられない事を悟って、まことは不承不承、口を開いていた。
「うん…本当に、気の所為かもしれないんだけど」
何となく、避けられてる気がしてさ。
偶然会わなかっただけじゃないのか、って、もしかしたら、言うかもしれないけど、でも、これ迄、一日学校にいて、一回も顔を合わせない事なんか、なかったんだ。
自信無げに視線を泳がして、けれど、本当にそう思っているのだろう。
二、三度、唇を開いては閉じる、を繰り返した後、結局、考えている事を口にする。
それは、まことが、内心、いかに苛立ちを感じているかを、表していた。
そして、彼女は、レイならば何らかの良い方法を、提案してくれるに違いない、と期待していたのだけれど。
しかし、それに対するレイの反応は、彼女の予想とは全く異なったものだった。
「…それ程、気にしなくても良いと思うわよ」
何があったって、私達の間が、どうにかなる訳は無いんだし。
「え……」
普段の彼女からは、考えもつかない言葉を口に乗せられて、まことは一瞬言葉に詰まる。
何時ものレイならば、それがどんな些細な事でも、亜美の下に真っ先にとんでいく。
まして、今回のような事なら、即座に何があったのか、問い質すと思っていたのだが。
「で、でも、亜美ちゃんが、故意に避けてるんだとしたら」
言いかけた言葉を遮って、レイが再び口を開く。
「大丈夫よ、小学生じゃないんだし」
何かあれば、自分から言ってくるわよ。
亜美ちゃんのあの性格、知ってるでしょ?
――――知ってるから、尚更心配なんじゃないか
何事もなかった様に、掃除を始めたレイに、心の中で呟く。
――――亜美ちゃんが、何でも、直ぐに抱え込んでしまうのは、レイちゃんの方が良く知ってるくせに
そこ迄考えて、まことは、はっと思いついていた。
亜美の様子がおかしい理由を、レイは知っているのではないか、と。
――――それなら、解る。レイちゃんのこの態度も
落ち着き払った、と迄はいかなくとも、少なくとも動揺している様には見えない相手の様子に、その考えが正しい事を確信する。
けれど、まことは、納得する事ができなかった。
確かに、長くうさぎを二人でサポートしてきた、彼女達の間には、口では言い表せない絆が、存在するのかもしれない。
だが、例えそうだとしても、自分達もセーラー戦士の一員なのだ。
理由わけ位話してくれたって、と胸の奥が訴えてくる。
「…いつも、そうなんだ」
「え?」
まことの低い呟きに、背を向けていたレイが振り返る。
訝しげなその視線にも構わず、まことは、次々と浮かんでくる言葉を、その侭口に出してしまっていた。
「確かに、あたしは、セーラー戦士になって日は浅いけど」
けど、仲間なんだから、話してくれたって…。
それに、解ってるのなら、何で、何も言ってやらないのさ。
「…あの子がああいう時は、ほっといた方が良いのよ」
ちょっとナーバスになってるだけなんだから。
責める様なまことの瞳から、ふっと視線を逸らせ、再び手を動かし始めながら、レイが呟く。
大した事ではないとでもいう様に、けれど、不満の色を、ほんの少しその声に滲ませて。
「レイちゃん…」
敏感にそれに気づいたまことは、それ以上、責める事もできず、黙り込むしかなかった。
彼女も、亜美に対して、水臭いと思っている事が、解ってしまったので。
「―――大丈夫よ、多分…」
まことに、そして、自分に言い聞かせる様に、そっと、レイが呟く。
風に揺すられて、木々に茂る青葉が、ざっ、と音を立てた。



こつこつと、アスファルトと靴が触れ合う音だけが、人通りが殆ど無い、薄暗い道に、やけに大きく響く。
足下を照らし出す、定間隔に設けられた電灯の光の所為で、大きく伸びた影法師が、幾重にも重なって見えていて。
自分の動作に従って、それらが動く様を見つめながら、亜美は、ひそりと溜め息を漏らしていた。
――――気が重いわ、今日のミーティング…
別に、内容的には、大した事はないのだ。
何時もの如く、ルナと自分の調査結果の報告と、今後の動きの確認。
塾のある自分に気遣って、わざわざ、夜遅くに行う事にしてくれた事も知っている。
けれど…。
もう一度、ほう、と大きく息を吐き出して、天を仰ぐ。
行きたくない理由は、良く解っている。
単に、自分の我が侭からだ。
普段、一人では寂しい癖に、時として、全ての人との付き合いを、一切、断ちたくなってしまう、どんなに良い関係の間柄でも、壊してしまいたくなる、そんな自分の…。
そして、それが、ずっとならば兎も角、ほんの一時の感情に過ぎない、という処に問題があるのだ。
例え、短い間とはいえ、心の中を直隠しに隠して、大好きな、大切な人達とつき合う事は、酷く苦痛で。
そんな感情を持ってしまう自分が、許せなくなる。
どうしようもなくて、だから、自分は、そうなる度に、その思いを押え込む為に、自分も、他の人間も、誰も傷つけない為に、出来るだけ、一人になろうとするのだ。
逃げていると言われようと、それ以外、どうすれば良いのか、解らなかったので。
――――うさぎちゃん、レイちゃん、まこちゃん…
三人の、大切な仲間たちの顔を、思い浮かべる。
再び足下に視線を戻すと、亜美は、再び、ゆっくりと足を踏み出して。
勘の良いレイを初めとして、他の二人も、薄々、自分が避けている事に、気付いているに違いない。
以前の、一人だった頃の自分なら、こんなジレンマに陥る事はなかった。
普段、一人でいる事は酷く寂しい事だった、が、偶に、こういった感情に取りつかれると、逆に、自分に係わる人間がいない事に、ほっとしたりもして。
けれど、自分は解っているのだ。
友人と一緒にいる時の、心の温かさを知ってしまった今、もう、一人になるのは、耐えられないという事を。
皆といたい。
一人でいたい。
相反する感情が、ぶつかりあって、スパークする。
余りに身勝手な己の思考に、自己嫌悪で、胸が一杯になって。
亜美は、血が滲むほど強く唇を噛むと、制服の胸の当たりを、ぎゅ、と掴んだ。
「…本当、嫌になる……!」
吐き出す様な呟きが、しん、とした道路に谺した。



「亜美ちゃーん」
遠くに、既に見慣れた後ろ姿を見つけて、大きな声でその名を呼ぶ。
びく、と肩を震わせて、振り向いた彼女に向かって、軽く、右手を振ると、まことは、たっ、と走り出していた。
――――やっぱり、まだ…
近づくに従って、自分が追いついてくるのを待っている亜美の顔色が、薄暗い所為、だけではなく、良く無い事を見てとって、小さく呟く。
亜美としては、出来れば、顔を合わせる時間は、必要最小限に抑えたかったのだろうが、まことの声に、反応してしまった以上、先に行く訳にもいかず、困惑をはっきりと面に浮き立たせていた。
「亜美ちゃん、今、塾の帰り?」
今日は、随分、遅く迄やってたんだね。
いつもなら、一度帰る位の余裕、あるだろ?
肩を並べて、歩き出し、何も気付いていない振りをして、気さくな調子で話しかける。
目は口程にものを言い、の諺通り、まことの深い碧の瞳は、如何に心配しているかを、正直に物語ってしまっていたけれど。
「ええ、休んでいた間に、何をやったのか、質問していたものだから…」
微かに微笑み、まことに合わせて、会話を進める。
けれど、その沈んだ様子からは、今現在も、彼女の心の葛藤が、続いている事をはっきりと示していた。
――――そんなに、優しい瞳をしないで。私、嫌な子、なんだから
自分に、構わないで、と、今もまた、心が叫び始めている事に、強い嫌悪感を覚える。
何故、それ程までに、人と係りたくなくなるのか、その理由は解らなかったが、衝動的に、拒否の言葉を吐いてしまいそうで、こういう時に皆と一緒にいるのは酷く恐ろしい事、だった。
落ち込んでいる時だけのものとはいえ、こんな感情を持っている事を知ったら、彼女はどう思うだろう?
もう、二度と、仲間だなどと、思ってくれなくなるかもしれない。
――――そんなのは、嫌。私、みんなの事、大好きなのに
でも、実際は、私は、皆を拒否してる。
他人と係るのを、苦痛に思ってしまう心を、止められない。
二つの感情が、互いに反発しあって、心が悲鳴を上げている。
そして、そんな亜美の様子を、話をしながらも、注意深く見つめていたまことは、昼間聞いた、レイの言葉を、思い出していた。
『…本当に、不器用なのよね、あの子って』
『うん…』
勿論、まことも、それは十分解っていたつもり、だった。
うさぎを除けば、自分も含めた、セーラー戦士達は皆、他の普通の人間達よりも、対人関係に苦労してきた、という認識もある。
けれど、実際に、戸惑っている様を目の当たりにして、考えていた以上に、彼女が他人との付き合いを苦手としている事を、これ迄、どれだけ気を遣って来たのかを、改めて、まことは悟っていた。
『何かの拍子に落ち込むと、私達も含めた、全ての人間との付き合いを、断ってしまいたくなるらしいの』
でも、実際は、そんな事する訳にはいかないから、万が一にも、そういった行動に出てしまわない様に、その間は、間を取って接しようとするのよ。
今更の様に、レイの科白が、頭の中でリフレインする。
長い間、二人でうさぎのフォローをしてきただけに、彼女は亜美の性格を、良く理解している。
その所為か、『誰でも、一人になりたい時はあるんだから、そっとしておこう』、という、レイの言葉は、まことの耳に、それなりの重みを持って、届いていたのだけれど。
だが、まことは、敢えて、その注意を無視しようと、決断していた。
自分でも良くは解らないが、今、この瞬間に、どうしても言わなければならない、という確信があったので。
「…亜美ちゃん」
俯き、ゆるゆると、歩みを進めていた亜美が、呼ばれて、ふっ、と顔を上げる。
自分を見上げてくる瞳が、動揺に揺らめいているのに気がついて、まことは彼女の心の不安定さを、感じ取っていた。
「…何?まこちゃん」
名を呼んだ侭、それ以上、何も言おうとしないまことに、逆に、亜美が問いかける。
不安げなその声に、まことは、出来るだけ、優しく微笑み掛け、自分より低い位置にある肩を、ふわりと引き寄せていた。
「ま、まこちゃん?」
訳が解らず、腕から逃れようとする、彼女の細い身体を、ぎゅっ、と抱き締め、耳元に唇を近づける。
これから言う言葉が、亜美の心に、直接、響いてくれる事を祈りながら。
「レイちゃんから聞いたよ」
亜美ちゃんが、此処んとこ、あたしたちを避けていた理由を、さ。
びくっ、と肩を震わせて、腕の中の人間が、全身を固く強張らせる。
やっぱり、知ってしまっていたのね、と。
そして、次に投げかけられる言葉に怯えて、小刻みに震えている、その様子を、痛々しく思いながら、まことは、抗いの止んだその身体を、一層強く抱き締めていた。
「でもね、亜美ちゃん、水臭いよ」
予想していた言葉とは裏腹の、優しい口調に誘われる様に、亜美がそっと顔を上げる。
月に照らされた蒼白い面に、今にも溢れ落ちんばかりに、涙で潤んだ瞳を見つけ、まことは胸に痛みを覚えていた。
「多かれ少なかれ、全ての人との繋がりを切って、一人になりたくなる時って、誰にでもあるんだよ」
亜美ちゃんが思ってる程、悪い感情なんかじゃ、ないんだ。
「でも」
だからって、大切な人達との関係迄、壊してしまいたくなるなんて…。
視線を合わせていられず、俯いてしまった亜美の、小さな背を軽く叩く。
「大切だから、尚更、そう思ってしまうんじゃ、ないのかな」
繋がりが深い分だけ、口にしなくても、心の中が解ってしまうから。
言いたい事が、旨く伝わってくれる様にと、考え考え、言葉を紡ぐ。
元々、人間という生き物は、中々、他人に本音を見せはしない。
例えそれが、どんなに親しい者であろうとも、だ。
けれど、本当に稀なことだが、自分達の様に、内面に位置している人間の場合、口や態度に出さなくとも、その人が何を思っているのか、解ってしまう様になる事があるのだ。
勿論、それは、決して悪い事ではない。
だが、神経質な人間には、逆に、それが重荷になることも、十分ありうる事で。
「だから、親しくなるほど、煩わしくなるのは、仕方のない事だと思うな」
あたし達が、口惜しいって思ってるのは、そんな事じゃなくて、それを、亜美ちゃんが一人で抱え込んじゃってるって事。
一人になりたいから、その間だけ、離れてるっていうのなら、やむを得ないって思えるけど、でも、煩わしいって感情を気にして、離れられるのは、その方が納得いかないよ。
「………」
逃げちゃ駄目だ、と、まことが言外に、言っている事に気がつく。
服を、掴んでいる亜美の拳に、力が籠った。
それに気づかない振りをして、一段、声のトーンを落とすと、まことは更に言葉を繋いでいた。
「八つ当たりでも、何でも構わないから、さ。もっと感情を、ぶつけてよ」
例え、拒否の言葉だって、それが本心か、そうでないかなんか、あたし達には、直ぐ解るんだから。
大体、あたしが聞いた話だって、亜美ちゃんが話したから、レイちゃんが知ってた訳じゃ、ないんだろ?
「まこ…ちゃん……」
ね、と囁き掛けられて、先刻とは違う意味で、薄い肩が震え出す。
「あ、亜美ちゃん?」
驚いて、顔を上げさせようとして、けれど、それは出来なかった。
「………っ」
「亜美ちゃん…」
再び自分の胸に、顔を埋めてしまった彼女の肩を、確りと抱き締めてやりながら、大切な名前を、そうっと呼んでやる。
自分達が、此処にいるという事を、もう一度、彼女に知らせる為に。
外灯の、切れかかっている蛍光灯の、ぱっ、と光を発する音が、二人の耳を軽く打つ。
やがて、しゃくり上げる音が、段々に落ち着いてきた頃を見計らうと、まことは小さな顎に手を掛けて、そっと上向かせていた。
未だ、潤みを残している、紅くなってしまった瞳が、漸くの様に、真っ直に自分を映す。
その様に、自分の言葉を、亜美が正確に受け止めてくれた事を悟って、まことは満足げな笑みを漏らしていた。
「…まこちゃん?」
涙の所為で、少々、浮腫んでしまった瞼に、ひんやりとしたものが押しつけられる。
それが、離れていくまことの唇だった事を悟って、亜美は戸惑いの声を上げていた。
けれど、それが、完全な追求になる前に、今度は唇の方を塞いでしまう。
亜美が、生まれて初めて経験する、深い、接吻。
やがて、まわしていた腕を解いた頃には、すっかりその思考は、回転を緩めてしまっていて。
ぼう、としたその眼差しが、再び、いつもの輝きを取り戻すのを待って、くる、と亜美に背を向ける。
そして、まことは、突然襲った激情と、衝動的な自分の行動に、自分でも、戸惑いを感じてしまっていた。
けれど、心のどこかで、いつか、こうなる様な気がしていたのも、また事実で。
「…さ、さあ、亜美ちゃん、速く行こうっ」
もう、約束の時間、過ぎちゃってるよ。
「あ、まこちゃん、待って…っ」
ほんのりと染まってしまった、その頬を隠す様にして、さっと亜美の手首を掴み、走り出す。
繋がれた箇所から伝わってくる、亜美の体温が、やけに熱く感じられて。
――――大丈夫だよ、亜美ちゃん
例え、何があろうとも、自分の、自分達の心が離れてしまう事など、決して決して無いからね。
そして…。
月と外灯の明かりの下、遠ざかっていく二人の軽い足音だけが、この場であった事を伝えていた。

                                     END