●水槽の部屋●  
 

 「ん……」
真っ白なシーツの海の上に、静かに下ろされた細い身体が、小さく声を上げ
て寝返りを打つ。
起こしてしまわない様に、と注意を払いながら、彼女を此処迄運んで来たま
ことは、唐突な動きに、びくりと全身に緊張を漲らせていた。
――――目が覚めた訳じゃ……ない、みたいだね…
暫の間、息を詰めて様子を伺い、それ以上、何の変化も無い事を確かめて、
ほう、と大きく息を吐き出す。
それが癖なのか、左腕を下敷きにした侭、規則正しい息を繰り返す亜美の表
情は、少し苦しげで。
此の所、満足に休んでいないのだろう、事を示して、目元には、疲労が青黒
い染みとなって浮き上がり、殊更に深い、ゆっくりとした呼吸は、乱れる事無く、長い睫は優しい造りの面差しに、濃い影を作った侭だった。
――――亜美ちゃん…
疲れてる、みたいだな
額に散った前髪を、そっと掻き上げてやりながら、ひそりと心の中で呼び掛
ける。
それも、仕方のない話ではあるのだ。
漸くブラックムーンとの決着がついて、ほっと一息ついたのも束の間、それ
から、何週間も経たないというのに、亜美とレイは、どうやら何事かを感じ取った様で。
『亜ー美ちゃん』
学校での昼休み。
少々授業が長引いたうさぎと一緒に、何時も、席に着いた侭、待っていてく
れる人の姿を捜す。
けれど、窓際近くのその席に、目的の人を見出す事は出来ず、珍しい事もあ
るものだ、と彼女の行きそうな場所を、幾つか、廻る事にして。
『あー、居た居た』
『捜したんだよ、亜美ちゃん』
からり、と横にドアを引いて、教室の一番後ろ、彼女のお気に入りの席に視
線を巡らせる。
予想通り、真剣な表情でディスプレイを見据え、かたかたとキーボードを鳴
らしている、見慣れた姿を発見して、二人は、ぱたぱたと傍らへと駆け寄っていた。
『亜美ちゃん?』
これだけ、大きな音を立てているにも拘らず、じっと画面を見詰めた侭、ぴ
くりとも反応の無い亜美に、不審を感じ、耳元で静かに呼び掛ける。
途端、びく、と大きく肩を震わせ、慌てて振り返った亜美は、いつの間にか
直側に立っててた自分達に、酷く慌てふためいて。
『う、うさぎちゃん、まこちゃん、何時、此処に?』
『一寸前からだよ』
入って来る時、一応、声は、掛けたんだけど。
『そーだよ。なのに亜美ちゃん、ちっとも気付いてくんないし』
大体、一緒にお昼食べよーって言ってたのに、何も言わずに、どっかに行っ
ちゃうんだもん。
そりゃ、遅くなったあたしも、悪かったけどー。
そっぽを向いて、ぷん、とむくれて見せるうさぎに、しどろもどろに亜美が
謝る。
その、じゃれあいにも似たやり取りを、微笑ましく見詰めながら、まことは
先刻からずっと気になっていたものに、そっと意識を移していた。
――――一体、何を見ていたんだ?
いっそ近寄り難い程の、普段は滅多に見る事の無い、厳しい横顔。
そう、あれは。
彼女がマーキュリーとして、行動している時にのみ、見せる…。
――――まさか……っ
そこ迄考えて、直様、そんな莫迦な、と首を振る。
つい先日、辛い闘いを終えて、漸く、平凡で穏やかな、日常を取り戻したば
かりなのに、と。
『…………』
ディスプレイに映っているのは、良く見る、東京23区の地図と、幾つかの
グラフ。
画面の切り替りが速い上に、添えてある文字が、アルファベットである為、
まことには読み取る事が出来なかったが、それは、ひどくまことの不安を掻き立てるもの、だった。
――――有る訳が無い、そんな事
だって、そんな、立て続けに、地球を狙う奴なんか、現れる訳が無い。
そんな発想が出来る者の方が、絶対的に少ないのだから。
――――でも…
否定しながら、心の何処かが、肯定している。
そう。
自分が知らないだけ、なのかもしれないのだ。
セーラーVが、セーラームーン達が、そういった者達と闘っていた事はおろ
か、彼女達や闇に潜む者達の存在すら、知らなかったあの頃の様に。
そして、そのまことの推測を裏づけるかの様に、亜美は、時折、ふらりと姿
を消しては、疲れ切って戻る様になって。
また、時を同じくして、レイも、毎晩の様に、夜遅く迄、何やら占いを続けていると、彼女の祖父から漏れ聞いていた。
――――…………
レイと、亜美。
特に、自身の持つ情報を、交換しあっている様子は無い。
それでも、セーラー戦士の頭脳ブレーンと、先見の能力ちから を持つ者が、ほぼ同
時に異変を感じ取った。
それが何か、彼女に解る筈も無かったが、少なくとも、これ迄とは比べもの
にならない程の、大きな闇が近付いて来ている様に、まことには思えてならなかった。
「全く……」
水臭いんだよね、二人とも。
少し蒼みがかった様な、さらさらとした髪を、梳いてやりながら、小さく呟
く。
毎日会って、一緒に行動して。
そして、あそこ迄、心が繋って仕舞っていたら、隠した所で、無駄だと言う
事を、あの二人は解っていない。
けれど、そんな所も、この人らしい、と、思って仕舞う自分も居て、まこと
は、苦い笑みを口元に浮かべていた。
――――亜美……
以前も、そう、だった。
独りで全てを抱え込んで、独りで行動して。
限界になる迄、何も言わずに。
ダークキングダムとの闘いの際、矢張り、独り、毎日の様に、クラウンのコ
ンピューターに、夜遅く迄向かっていて、元々、丈夫でもない身体を壊し掛けた。
何をそこ迄、考え込んでいたのか、決して、亜美は話してくれなかった為、
現在でも、それは彼女の胸の中に仕舞われたままだが、少なくとも、ヴィーナ
ス(みなこ)に巡り逢う次期が、もう少し遅れていたら、下手をすれば、入
院騒ぎに迄、発展していたに違いない、と今でもまことは確信している。
『亜美ちゃん』
こんな所で、またやっていたのかい?
ルナも言ってたじゃないか。
何度やったって、他の情報か入って来ない限り、今は、これ以上の結果は出
て来ないって。
『まこちゃん…』
現在、手元にあるピースから、如何にかして無い部分の絵を推測しようと、
あらゆる角度からのチェックを繰り返す。
それは、まるで、何百とある組み合わせの内の、たった一つを見つけ出すか
の様な、そんな気の遠くなる様な作業、で。
『御免なさい。…でも、もう少し、だったから』
『何処が少しなのさ。解散してから、何時間経ってると思ってるんだい?』
此の闘いは、度の位の間、続くかも解らないんだ。
毎日こんな事をしてて、身体が持つ訳、ないだろう?
肩を縮込め、困った様な表情で、見上げて来る亜美に、言い訳なんか聞かな
いよ、と、つん、と視線を逸らして仕舞う。
特に荒げた訳でも無く、静かな侭のまことの声は、けれど、だからこそ、彼
女の心配を、より正鵠に亜美へと伝えていた。
『まこちゃん…』
御免、なさい…。
俯いて、震えた声で、小さく謝る。
しょんぼりと肩を落としたその様子に、怒ってる訳ではないから、と、ぽん
と頭に手を乗せる。
そして、くしゃりと髪を掻き交ぜてから、そっと自分に視線を戻させると、
まことは、ふわりとした優しい笑みを浮かべていた。
『さ、帰ろ?』
電源を切るのを見届けてから、すっと手を差し出す。
そうして、あの時は、半ば強引に此の家迄連れ帰り、殆ど無理矢理、休ませたのだけれど。
「亜美ちゃん…」
その寝顔を、もっと良く見てみたくて、間近に顔を近付ける。
疲れている所為だろうか。
他人の気配には敏感なこの人には珍しく、まことの面が近付いても、目覚め
る気配はまるで無い。
何処へ出掛けているのか、何をしているのか。
チャイムが鳴って、然程、時間が経たない内に、ひょい、と教室を覗いてみ
ても、もう、既に姿は無く。
息を弾ませて、勉強会に滑り込んできた彼女を捕まえて、今日は、久し振り
に夕食でもと、殆ど、無理矢理に連れて来た亜美は、引き止める迄もなく、お気に入りのソファーに腰を落ち着けると、間も無く、うとうとと、うたた寝を始めてしまって。
「っ………」
小さく漏れた声に、苦笑する。
けれど、直に真面目な表情に戻り、まことは、宙に視線を彷徨わせていた。
――――……亜美ちゃん
きっとこの人には、一生、理解らないのだと思う。
自分が、他の人間達にとって、どれだけ大切な存在なのか、という事を。
ぼんやりと思考に耽る、まことの視界の中、窓硝子の奥に、夜にだけ現れる
決して入る事の出来ない、もう一つの部屋が、他人行儀にその様子を晒している。
ベッドサイドに灯された、橙に近い、暖かな光が、今の此の部屋の、唯一の
光源だった。
――――え…?
灯りを落とそうとして、ふと、ベッドの上に投げ出していた、右袖が、妙に
引っ張られる感覚に気付く。
不審に感じて、視線を巡らせてみれば、いつの間にやら、亜美のほっそりと
した指が、まことの右の袖口を、確りと握り締めていて。
――――亜美ちゃん…
無意識の甘えに、自然、優しい笑みが浮かぶ。
意識のある時は、決して、しようとはしないだろう行為に、如何に、この人
が、自分に気を許してくれているかが良く解った。
それは多分、彼女自身、自覚してはいないのだろうけれど。
――――でも、この侭じゃ、寝られないな
胸の内で呟いて、改めて、自分の体勢を顧みる。
ぺたりと絨緞に腰を下ろし、ベッドサイドに背中を預けて、両腕は寝台の上
に放り出して。
上半身を捩って、掴まれている部分を見てみれば、確りと握り締められてい
る五本の指を、彼女の眼を醒まさせずに解くには、相当の手間と時間がかかりそうに思えた。
――――まあ、いい、か
まことは、あっさりと努力する事を放棄すると、亜美の横の、空いた部分へ
身体を伸ばし、足下にきちんと畳んであった毛布を、反対の手で引き上げる。
深い寝息を立てている人を、起こさぬ様に気遣いながら、掴まれた侭でも楽
な様に、と腕の中に抱え込んで。
「お休み、亜美ちゃん」
閉じられた瞼の上に、そっと、ひとつ、唇を落とす。
ひたりと捺したそこは、ひんやりと冷たくて。
ゆうるりとした水の気配が、次第に、全身を包んで行くのを感じながら、ま
ことは、両の瞼を、静かに閉じた。
何れ来るだろう、血と硝煙とに塗れた、闘いの日々が、少しでも遠くに在る
様に、と心の何処かでひっそりと祈って。
やがて、規則正しい寝息に沈んだ小さな部屋を、消し忘れられた柔らかな光
だけが、何時迄も見守り続けていた。

END