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ただ今、と扉を開けるが、彼女を迎えたのはしんとした冷たい空気だった。 時刻は未だ九時にもなっておらず、何時もならば夕食後の団欒の時間帯で、美幸はどうした事かと頚を傾げる。 先に帰ると言っていたのだから、居るものだと思い込んでいたのだが。 『あーゴメン、あたしパス』 今日は真っ直ぐ家に帰りたいからさ。 そう言ってひらひらと手を振り、頼子と葵の誘いを、あっさりと断った彼女は、一人家路についていた。 夏実が断る等とは思ってもみなかった美幸は、先に了解の返事を返してしまっており、彼女の返事を聞いた後で掌を返す訳にも行かず、取り敢えず一軒目だけは付き合って来た。 ハロウィンの夜だからだろう。 街全体が何処か浮き立っており、美幸は本日までの限定だというタルトを手土産に、ディスプレイされた街並みを眺めながら帰って来たのだ。 ハロウィンは、此処数年の間に、急激に日本に広まったイベントだ。 二人が子供の頃は、一般には存在すら知られて居なかったが、最近では小学校や幼稚園のイベントにまで組み込まれているらしい。 日本人の、宗教等気にせず、楽しめるイベントは何でも受け入れる国民性と、外国人居住者の増加、そしてモノを販売する側の努力がマッチした結果だろう。 若しかすると、バレンタインの定着の再現を見ているのかもしれないと、美幸は思う。 ────にしても 気になるのは、矢張りというか、夏実の事だ。 今朝は取り立てて、何も思う処はなかった。 『おはよー美幸。はい、これあげる』 珍しく、起こす前に起き出して来た夏実が手にしていたのは、大小二つのジャック・オ・ランタン。 買って来たのかと思えば、自ら刳り貫いて作成したそうで、一体何時そんな事をしていたのだろうと思ったものの、流石お祭り好きと苦笑したのも事実だ。 『でもこれ…二つとも、私が貰っちゃって良いの?』 一つは夏実が持って居れば良いのに。 『ん、いーのいーの』 美幸に貰って欲しくて作ったんだ、それ。 そうまで言われてしまえば受け取らない訳にもいかず、大きな方はリビングに、小さな方は部屋のデスクに置く事にする。 だが、仕事に出て、パトロールで子供達に遭遇した際、違和感を感じる事になった。 『Trick or
treat?』 『お菓子くれなきゃ悪戯するぞー』 本日の巡回ルートを確認した後、こうなる事を予想して、キャンディの袋を用意していた美幸と違い、普段鞄にキャラメルやキャンディを幾つか入れている夏実の方が、今日に限って何も持ってはいなかったのだ。 尤も、美幸から御菓子を貰った三人にしてみれば、夏実には御菓子を貰うより悪戯の方が嬉しかったらしく、よじ登ったりぶら下がったりと散々ジャングルジム扱いして、御機嫌で帰って行ったのだが。 どちらかと言えばこういう時、大盤振る舞いをするのが夏実という人間だと知っているだけに、子供達に今日は手持ちが無いんだよね、と困ったような顔をして見せたのは、酷く意外だった。 イベントそのものを忘れていたならば兎も角、きちんと覚えていたのだから。 だが、訊いてもらしくも無く曖昧に笑って、単に忘れただけよ、と繰り返すばかり。 例え忘れたとしても、気付いた時点で何時ものように、美幸に車を止めさせれば良かったのだから、最初からその気が無かったのだろう、と美幸は推測しているが、然し、理由までは解らない。 その上、何時もなら二つ返事の飲み会を、特に理由もなく断った事が、美幸の中の違和感を決定的なものにしたのだった。 ────きっとこれ以上、考えても無駄ね どれだけ推測しても、結局、本当の答えを知るのは当人だけ。 後は夏実に、直に聞くしかないんだけど…出掛けてるのかしら。 通りすがりに夏実の部屋をノックしてみるが、案の定返事は返って来ない。 一応、声を掛けて中を覗いて見たものの、室は真っ暗の侭だった。 けれど、取り敢えず、ケーキの箱を冷蔵庫に収めるべく、リビングに脚を踏み込ませ…入って直ぐのソファーの上に、美幸は相棒を見付ける事になって。 此れが十一月になる季節の格好なのかと言いたくなるような、薄手の部屋着にショートパンツという出で立ちで、肘掛を枕に眠っている。 テーブルの上にはワインのボトルと、グラスが二つ並び、呼吸の度上下する豊かな胸の上には、小さなアルバムが乗っていて。 テーブルの端に何冊か積まれているそれらや、そして並べられたグラスの意味にも、美幸は大いに興味はあったが、然し、今は彼女を起こす方が先決だ。 この季節にこんな格好で、暖房も点けない部屋で転寝していれば、風邪をひきたいと言っているようなものである。 空いた場所にタルトを置くと、枕元に膝を付き、頬に手を伸ばす。 思った以上のひやりとした感覚に、眉根を寄せつつ、至近距離から囁き掛けた。 「夏実、起きて、夏実?」 この侭じゃ風邪引くわよ。 「せんぱい…?」 幾度かの呼び掛けに、ゆるゆると瞼は開いたもののどうにも茫洋とした様子で、その上返って来たのは、誰か別の人間に対する呼称だった。 瞬間、むっとしてしまったのは仕方の無い事だと思う。 眉を顰め、強制的に覚醒を促すべく、ひょいと胸元のアルバムを除け、覆い被さるような体勢になると、空いた腕をするりと腰に回し、彼女の唇を己のそれで塞ぐ。 仄かに開いた唇から舌を滑り込ませ、相手のそれと絡めて吸い上げ、息苦しさに漸くはっきりと覚醒した夏実が、ちゃんと起きたからそろそろ放してと背中を叩いて来るまで、決して開放しはしなかった。 たっぷりとした口接けを心行く迄堪能し、胸のむかつきが落ち着いた頃には、夏実の方がぐったりとソファーに沈み込む羽目になっていたが、例え無意識であれ、自業自得と言うものだろう。 毎度彼女は、何処が、と文句を言うが、耳を貸す気は全く無かった。 「…っ…も、美幸、前にも言ったでしょ」 此の起こし方止めてって…。 窒息でもしたらどうするのよ。 「此れまで、窒息なんかした事ないじゃない。それに、夏実が悪いんだもの」 私の顔見て、先輩って…。 そっぽを向いて、唇を尖らせれば、心当たりがあったのか、ああ…と呟いて、黙り込む。 普段と違う反応に、不安になって視線を戻せば、懐かしいような嬉しいような、そんな表情の夏実がいて。 「…夏実?」 「ん?ああ、ゴメン、今さっき見てた夢、思い出してた」 って美幸、何そんなに不安そうな顔、してんのよ。 唯、ハロウィンに託けて、遊びに来てくれたのかなー、って思ってただけ。 「…託けて?」 其処まで不安そうな表情をしているだろうか、と思いながらも、彼女の言葉に引っ掛かって首を傾げる。 「そ」 ハロウィンではさ、戻って来るのは悪戯しに来た悪霊って事になってるけど、でも、若しかしたら、賑やかな事が好きな霊も、紛れて戻って来てくれるんじゃないかなー、なんて思ってたんだよね。 彼女の言葉に含まれたモノに気付いて、はっとする。 物心がつく前に亡くなった母方の祖父を除けば、美幸の家族は健在で、正直、自分にとって死という事象は然程身近なものではない。 一方、夏実の方はといえば、実の母や育ててくれた祖父母、年の近い親しかった友人等、幾つもの死をその眼で見てきている。 その彼女にしてみれば、確かにハロウィンというイベントは、単に楽しむだけで済ませられるものではなかったのかもしれない。 「それじゃ、昼間、御菓子を忘れたって言ったのは」 「…ああ、うん、実は態と」 あの子達は仮装しては居なかったけど、子供達に御菓子をあげるのって、悪戯しに来た悪い霊を遠ざけて貰う為でしょ? あげちゃったら、若し来てても会えないかもしれないなー、って思ったら、ね…。 最初からあげる気がないなら、却ってお菓子なんか持ってない方が説得力あるでしょ、と淡い笑みを浮かべた彼女に、矢張りと思った。 「でも、それじゃ、今朝のランタンは…?」 「ああ、あれ?」 魔除けだっていうから。 私の所に悪戯に来るのは、まあ、望む所なんだけど、万が一、一緒に居る美幸にまで何かあったらヤだなって。 ま、あの子達に御菓子をあげてたから、大丈夫だとは思うけどさ。 美幸、おばけ苦手だし、保険のつもりだったんだと笑う彼女に、泣きたくなって少し困った。 どうしてこんな風に他人(ひと)を想えるのだろう、此の人は。 何気ない、一見すると全く関係のない、若しくは全く違う解釈の出来るような言動の中で、夏実は何時でも自分を気遣ってくれている。 明確に解る部分だけが相手の想いではなく、それは海面に現れた氷山のように、全体の中のほんの一部分でしかないのだという事を、美幸は夏実と付き合う内に実感したのだ。 それは、誰もが理解っているにも拘らず、時折見失ってしまう類の事で。 「…ばか」 肩口に面を伏せれば、ほのかに彼女が好んで使う、柑橘系のコロンの香りが鼻腔を突いた。 「う…どうせ、つまんない拘りだわよ」 イベントなんだから、流せば良いってんでしょ。 拗ねた声を出してみせた彼女に、そうじゃないわ、と囁きかける。 彼女が真剣に考えて行動した事を、それも宗教絡みのイベントなら尚更、そんな風には思わない。 「…夏実が気にしてくれたのは嬉しいけどね」 でも、どうせなら、一緒に来るの、待ちたかったな、って。 テーブルに詰まれたミニアルバムと、二つ並べられたワイングラス。 待ってたんでしょう?とそれらを示せば、まあね、と照れた声が肯定した。 「一緒に夏実のアルバム見ながら、思い出話聞くの、楽しそうだったのに」 お菓子をあげちゃったって事は、今年はもうダメかな…。 余程がっかりしているように聞こえたのだろうか。 ぽんぽんと優しく背中を叩くと、夏実が耳元にそっと囁く。 「そんな残念そうな声、出さないでよ美幸」 今からでも良いじゃない、まだ早いんだし。 「でも…」 「一人で思い出に浸るのも悪くなかったけどさ」 美幸が、思い出話を聞いてくれるなら、それはそれで嬉しいよ。 もう、本人を覚えている人達と以外、話題になる事もないと思ってたから。 それに、望んでたヒトの一人は既に来てくれた訳だしね。 その言葉に励まされて面を上げれば、何時もの笑顔が其処にあって。 「話…聞いてくれる?」 「幾らでも」 もう一度、今度は触れるだけの口接けを一つ落とし、彼女の上から身を起こす。 続いて半身を起こした彼女が、取り敢えず着替えてくれば、その間にお茶でも入れておくから、と眼に入ったらしい土産の箱を指し示した。 「それは有難いんだけど……夏実?」 矢張り、言うべき事は言うべき時に言っておくべきだろう。 一旦タイミングを外してしまえば、言いたい事も言えなくなってしまう事が多いので。 「んー?…って、あの、何でしょう、美幸さん?」 何の気なしに返事をしたらしい夏実の表情が、ついと面を上げた瞬間、強張った。 怒った時よりも笑顔の時の自分の方が怖い、と思われているのは、非常に複雑だが、然し、場合によって楽な事も確かだ。 そう、例えば今のように。 「一人でアルコールを飲む時の私とのお約束、覚えてる?」 「えーと…その、何だっけ?」 本気で首を傾げている人に溜息を一つ溢し、今度こそ忘れられないようゆっくりと口にする。 確かに約束したのは、かなり酔っ払っていた時だったから、今回は仕方がないだろう。 「空っぽの胃を、アルコールだけで満たす事はしない事」 空きっ腹にお酒だけ入れたら酔いは回りやすいし、何より胃を壊すでしょう? 「あー言われてみれば、聞いた気も…」 でもほら、私、胃だけは丈夫だし、そもそも折角お酒が飲めるのに、食べ物入れちゃうの勿体無いし。 「……一体どれだけ、飲む気なのよ」 夏実の底無しと言われる胃を酒だけで一杯にするのに、必要な酒量を思わず考え、途中で挫折する。 まあ、取り敢えず今夜の処は、約束を思い出させる事が出来ただけで良しとしよう。 折角の楽しい夜を、お説教と説得で終えてしまうのは勿体無い。 「それじゃ、夏実」 直ぐに着替えて、手だけ洗ってくるから、後は宜しくね。 「ラジャ!」 砕けた仕草で敬礼して見せた夏実に、ひらりと手を振って踵を返す。 「美幸ぃ、紅茶、何が良いー?」 「アールグレーでお願いー」 扉の向こうから追い掛けて来た問いに、少し大きな声で返すと、わかったー、と明るい声が鼓膜を打って。
一年に一度、ハロウィンの夜は、まだこれからである。
END
十月終わって大分経つんですが、此の侭一年眠らせるのも何なので、公開しちゃいます。大分冗長なのですが、楽しかったからいっかーって事で。十月下旬、長谷の職場の前の通りは、ハロウィン通りになって大分可愛かったんですよね。街灯からぶら下がる花の鉢が、全てジャック・オ・ランタンを模したものになってたり、各ビルの前にミニお墓が作ってあったり、通りの最後には大きなジャック・オ・ランタンが作ってあったり。長谷が通るのは一区画と一寸位ですが、見るだけで楽しかったです。これもあって、書きたくなったんですよねー。 |