1.そもそものはじまり

 「来ない……?」
 「うん、そろそろ丸二ヶ月になる」
 困ったように首を傾げる夏実に、美幸の型の良い眉が寄った。
 初めて同居した年、量を食べるのは変わらないものの、さっぱりしたものばかりを食していた所為で、カロリー不足で夏実の体重が減少してしまった事は、美幸の苦い記憶である。
 体重だけならまだ良かったのだが、元々脂肪の少ない夏実だ、覿面体脂肪率に反映され、不味い事に16%を切ってしまったのだ。
 女性の体脂肪率の理想値は、18%から22%辺りであり、16%を切ると月のものが止まったり、あっても排卵がされてなかったり、ホルモンバランスが崩れて良い事など一つもない。
 だが、聞けば、毎年、夏は月のものが止まっていたらしく、当の本人は楽だし何故いけないのかと首を傾げるばかり。
 要するに、夏は摂取カロリーは下がるのに、運動量は増える為、痩せるのは当然で、だがそれが身体に悪影響を与えるとは思っていなかったという。
 あの大量の食事が、この細い体の一体何処に消えるのか、墨東署の七不思議とされていたが、少なくともウエイトの維持には必須である事が、この一件で明らかになったのだが、しかし、感心してばかりもいられない。
 標準体重の自分は、多少痩せた所で歓迎はしても困りはしなかった為、その事実が判明する迄は特に気にしていなかったのだが、解った後は随分と反省して、さっぱりしていて且つカロリーが摂取できる料理を、随分と習得したものだった。
 勿論、夏実の方にも、毎日体脂肪を測る事を義務付け、お陰でそれ以来、そんな事態に陥った事は無かったのだが。
 「今年は夏になっても止まるなんて事無かったのに、涼しくなって止まるなんて、おかしいよね」
 最近は別にストレス掛かる様なこともしてないし。
 尚も首を傾げる夏実に、念の為にと問うてみる。
 「…体脂肪率は?」
 「言われた通り、ちゃんと18から20の間をキープしてる」
 過度に落ちたり、落としたりもしてないわよ。
 今さっき測って来たけど、やっぱり18だったし。
 あの年の美幸の剣幕と落ち込み、その後の奮闘振りを良く覚えているらしく、この件に関しては、夏実は彼女にしてはかなり気を遣って言い付けを守っており、この言葉は信用できる。
 となると。
 「…確か、東海林巡査長がヒマラヤに行って、その位よね」
 心当たりは?
 「そんなの、ある訳…って、あ!」
 「あるのね」
 「でも、たった一回だよ?」
 ちゃんとピルも飲んでたし。
 あっけらかんとした回答に、本の少し頭痛を覚える。
 高校の保体の時間、此の娘は一体何を聞いていたのだろうか。
 確かに昔の事ではあるが、然し、必要な部分は覚えていて貰いたいものである。
 「…薬だって絶対じゃないわ」
 今日、非番でしょ?
 取り合えず病院、行ってらっしゃい。
 何もなければ別の理由を見付けなきゃならないし、あれば、それはそれで今後如何するか考えなきゃならないし。
 「はーい」
 それじゃ、結果は携帯に入れるから。
 「ええ、そうしてくれると助かるわ」
 私の精神衛生上、ね。
 それが、全ての始まりだった。

END

 

2.まずは、ここから

 『え、ビンゴ?』
 解ったわ、今日は必ず定時で上がるから、詳しい話は帰ってから聞かせて。
 昼に掛かって来た連絡を、ガレージで受けた美幸は、言葉通り、速攻で自宅に戻った。
 通常、夏実だけが非番の日は、部屋に戻った美幸を迎えるのは、夏実の笑顔と、夕食の香り。
 お帰りの声に迎えられ、嗽手洗いの後、其の侭リビングに顔を出し、軽く水分を取りつつカウンター内の、若しくは料理の終了した夏実と他愛のない話を少して、適当な頃合で着替えとシャワーの為に部屋に戻る。
 その流れはこの日もほぼ変わらなかったが、何時もと少しだけ違ったのは、夕食前の短い”今日の報告”が、美幸からではなく夏実から、それなりの時間を掛けて行われた事だった。
 「…で?間違いないの?」
 「うん。たった一回、それも対処はしていた訳だし、突然そう言われても、一寸私も信じられないんだけどね」
 それはそうだろう。
 今朝の様子を思い起こせば、下手をすると、した事そのものを忘却の彼方に追いやっていたように思える程だったのだから。
 「結婚してないって言ったら相手と相談して、なんて言うからさ」
 今ヒマラヤに行ってて連絡取れないって言ったら、今度は、堕胎するなら何時何時位までには決断を、なんて言い出す訳。
 向こうもそういう女の子を沢山見ている訳だし、仕方ないんだろうなとは思うんだけどさ、未婚の母ってこんな風に見られるんだな、って実感しちゃった。
 「夏実…」
 コメントに困って言葉を濁すと、他人からそういった眼で見られた筈の当の本人は、まあその通りなんだけどね、とあっけらかんと言い切って。
 「…それで」
 如何するの?
 「産む」
 躊躇いがちな問いに端的に言い切った、親友であり恋人であり、相棒でも戦友でもある同居人の、端正な貌をじっと見詰める。
 初めから解っていた事だけれど、そう、これは、報告であって、相談ではないのだ。
 「結婚…するの?」
 声が震えないよう気にしながら、ぎゅ、と握った拳に力を込める。
 だが対する夏実は、あっさりと首を横に振って。
 「その気はないよ、この子には悪いけど」
 そりゃ、将司君の事は、そういう事しても良いって思う位好きだけど。
 でも、彼は富山で私は東京、お互いに仕事を辞める気ないんじゃ、結婚は一寸無理よねえ。
 多分アイツ、無事にヒマラヤから帰って来ても、またどっか登りに行くって言うと思うしさ。
 私の処に留めるより、アイツはアイツの好きな事してる方が良いって思うんだ。
 そこで言葉を一旦言葉を切った夏実が、不意に美幸の瞳を正面から覗き込んだ。
 「それに…こんな事になっのに狡いとは思うんだけど。私が無理をしてでもずっと一緒に居たいって思うのは、美幸だけ、だから」
 燃える様な力強い瞳が、真っ直ぐに美幸の胸を射抜く。
 照れ屋で、基本的に言葉が足りない此の人は、けれど、いざとなると、衒いのない原石のような言葉を無造作に寄越してくる。
 その一つ一つを大事に胸の奥にしまっている美幸は、また一つ、形のない宝物が増えた事を知った。
 そういう行為を東海林としたと聞いた時、他人が思うよりもずっと貞操観念が確りしている夏実が、何を思っていたのだろうと疑問に思っていたのだが、今、こうして視線を合わせて、何となく解った気がする。
 ヒマラヤへの登頂は、成功者は着々と増えてはいるが、今も昔も危険な事には変わり無い。
 だからこそ、東海林も夏実への告白を躊躇したのだろうし、彼女もぎりぎりまで悩んでいた。
 だが、いざ別れを前にした時。
 恐らくは、彼女は身体を張って、発破を掛けたのだ。
 無事に、自分の元に帰って来い、と。
 「子供を産んで、育てるって事が、どんなに大変な事かは解ってるつもり」
 でも、喜びがあるのも知ってる。
 美幸とそういう関係になろう、って決めた時、勿論その事自体は後悔してないけど、二人で切り捨てたものが、今、私の中にあるんだよね。
 美幸にしてみれば、浮気相手の子供…って事になるけど、面白くないだろうな、とも思うんだけど。
 でも、それでも…一緒に育ててくれないかな、美幸。
 最後まで、逸らされる事のなかった瞳が、彼女の本気を伝えてくる。
 プロポーズにも等しい言葉に、じわりと胸が熱くなって。
 「…うん」
 それ以上の言葉を、見つける事が出来なかった。

END

 

3.かみんぐ・あうと


 どんな仕事でも、給料を貰っている以上はそれなりにハードだが、婦警の仕事もなかなかにハード。
 ぎりぎりまで黙っている、とごねる夏実を、安定期に入るまでは流産の危険性も高く、力仕事や諸々禁止事項を避ける為には、職場への報告は必要だと説得したのは美幸だった。
 「…だから、ぎりぎりまで黙ってたかったのに〜」
 「そんな事言ったって、言わない訳にもいかないでしょ」
 ローテーションの関係もあるし、今はまだ大丈夫でも、つわりなんて始まったら如何するのよ。
 「う…」
 張本人を蚊帳の外にした眼前の騒ぎを、何処か遠くを見るような眼で見ながら囁きあう二人は、然し、気付いてはいなかった。
 一部の人間を除き、ほぼ公認状態のこの二人が、夏実に子供が出来たにも拘らず、喧嘩するでもなく、こうして何事も無かったかのような普段通りの様子でいる事が、一つの憶測を呼んでいた事に。
 曰く。
 ────実は子供が欲しくて、でも、流石に二人では無理だから、東海林と…?
 後にその噂が耳に入った際、んな訳ないでしょ、と全面的に否定した夏実は、それじゃやっぱり浮気な訳?とまともに頼子に突っ込まれて、言葉に詰まり、美幸は美幸で恋人の不義の結果を受け入れる、心の広過ぎる女性認定されてしまった。
 夏実に甘過ぎるのも考え物よ、と迄言われるに至っては、余計なお世話と思いはしたが、流石に男女の組合せである東海林よりも、美幸との関係の方が優先して考えられるとは、考えもしなかった二人だった。
 後にその事実を認識した二人は、流石墨東署、と笑いあったものである。
 倫理に煩い警察官にとって、所謂「未婚の母」というのは論外だ。
 通常、職場に居ずらくなる事は請け合いで、今は大丈夫でも、何れ墨を磨る羽目になるのは眼に見えている。
 だが、相手が同じ警官、それもそれなりに信頼の厚い人物であると解っていて、然も現在は連絡の取れない海外に居るとなれば話は別で、今すぐ結婚を迫られる事も、辞職に追い込まれる事もない。
 勿論それは、彼が帰国する迄の猶予期間である事は確かだが、その頃には既に子供は産まれており、彼自身の本来の所属は富山県警である事を考え合わせると、巧くやれば二人にとって都合の良い展開に持っていけるかもしれない。
 二人にあったのは、そういった、どちらかといえば、如何にして我が身を護るかという計算だったのだが、それは上層部に対しては兎も角、墨東署、殊に交通課に対しては、不要なものだったらしい。
 尤も、その分、大いに揶揄われる事で、チャラにされていたのかもしれないが。
 「美幸、本とに良いの?」
 こんな浮気性の旦那さんで。
 「良いの。それに夏実の子供なら、私も楽しみだし」
 「あー、開き直っちゃった、つまんなーい」
 「子供産むのは私なのに、何で私が旦那な訳…?」
 夏実の、至極尤もな突っ込みは、誰も聞いては居なかった。

END

4.めにみえるあいじょう1

 それが始まったのは、彼女の妊娠が発覚して、暫くしてからの事だった。
 「悪阻…夏実が?」
 「ええ、実は先週辺りから始まってたらしいんだけど」
 悪阻と夏実という、解っていても違和感のありまくる組合せに、恐る恐る問い返されたが、相棒の状態が気に掛かって仕方の無い美幸の方は、聞き手の戸惑いには気付かなかった。
 「頭痛って形で出てたものだから、悪阻とは思ってなかったんですって」
 薬を飲む訳にもいかないし、何時もの偏頭痛かと思って我慢して仕事してたら、どっと来たみたいでね。
 週末は、頭痛と吐き気のコラボレーションで、殆どベッドの中。
 今朝はプラス腹痛で、流石に出勤は止めさせたわ。
 出て来ても、あれじゃ、仕事にならないもの。
 ほう、と息を吐き出して自前の弁当を突く。
 病気ではないと解っていても、あれだけ具合が悪そうな夏実は此れ迄見た事が無かっただけに、矢張り心配になってしまう。
 「…それじゃ、食事は?」
 「無理。食べても全部戻しちゃうから、水分だけでもと思ったんだけど」
 ミネラルウォーターもスポーツドリンクも、ジュースもお茶も一切駄目なのよ。
 「え、それじゃ、一体何飲んでるの?」
 「発泡水」
 偶々貰いものがあって、試しに開けてみたらそれは飲めるっていうから、昨日、箱で買って冷蔵庫に入れて来たわ。
 「うわー、話には聞いてたけど、本当になるんだ、そんな風に」
 気持ちは解る。
 自分が第三者だったら、恐らく同じ感想を抱いただろう。
 だが、同居している美幸にしてみれば、感心してばかりもいられない。
 一口大に切った出汁巻き卵を口に入れ、咀嚼し、飲み込んから、ほう、と溜息を一つ吐く。
 本日の弁当は、実は夏実に用意した朝食で、食べ物の匂いが一切駄目、と言い出した彼女に、仕方なくランチボックスに詰めて来た代物なのだ。
 今日の出汁巻き卵は、美幸にしてはかなり良い出来だったのだが。
 「問題は、食事よ」
 食べ物の匂いがするだけで、トイレに駆け込んでるんだもの。
 料理中は席を外させてるけど、食べる時は如何しようもないじゃない?
 今まで余り気にした事なかったんだけど、食事って意外に匂いがあるものなのね。
 ほう、と息を吐く横顔は酷く悩ましげだ。
 中嶋辺りが見れば、一発でノックアウトさせられそうなものだが、生憎、彼女の頭の中は相棒の事で一杯だったりする。
 「確かにそうですね。…本人が食べるって言うまで、暫く放っておいたら如何ですか?」
 昔は、無理にでも何か食べさせたそうですけど、今は少し位食べなくても良いって方針に切り替わったと聞きましたよ。
 「うん、多分、普通の人ならそれでも良いんだと思う」
 唯、夏実、あの娘、余計な脂肪なんて殆ど無いから。
 発覚時に18%だった体脂肪率、今じゃ17%切りそうなのよ。
 「17%!」
 羨ましいと言おうか、不味いといおうか。
 眼を丸くする頼子に、確かに吃驚する数字よね、と心の中で呟いた。
 「不味いのよ。16%切らせる訳にはいかないんだから」
 匂いが駄目っていうから、夏実が好きなメーカーのプリンとかゼリーも用意してみたんだけど、封を開けもしないでゴメン、って。
 「うあちゃ〜」
 「以前は如何されたんですか?」
 前にもそういう事があったと聞きましたが。
 「以前は、兎に角さっぱりしていて且つカロリーが摂れるレシピを選んで、後は私が作ったプリンとかゼリーをデザートにって毎回食べさせたわね」
 でも、今回は前提条件が違うのよ。
 料理をすると、何かしら香りがするものだし、どれだけ換気扇を回して料理中の匂いは消しても、食事そのものが匂いがすれば駄目な訳だから。
 ランチボックスを放り出し、殆ど頭を抱えている状態の美幸に、暫し、何事かを考えていた葵が、やがてゆっくりと唇を開いた。
 「…市販のではなく、美幸さんのゼリーは試してみました?」
 「ううん、全般、駄目なのかと思ったから」
 「同じものでも、作り手が違えば違うものになる訳ですし、試してみるのも良いんじゃないですか?」
 作る時も、お湯で溶かしたゼラチンを固めるだけですから、殆ど匂いはしませんし。
 それにゼリーなら、コーヒーとかジュースとか入れるものを変えて、一寸ずつ色々な種類を作れますから、何が大丈夫か探せますよね。
 巧くすれば、ゼリーは栄養がありますから、多少は違うのでは?
 理由と利点を挙げられ、疑問符を浮かべていた美幸も、成る程と頷く。
 どの道手詰まりだったのだ。
 ダメ元でやってみるのも悪くない。
 「そっか…それもそうね、やってみる」
 駄目だったら持ってくるから、その時は消費するの、手伝ってくれる?
 「ええ。でも、多分…そんな必要はないと思いますよ」
 もう直ぐ昼休みも終わってしまうと、慌てて再びランチボックスを手にした美幸に、にっこりと葵は鮮やかな笑みを浮かべてみせていた。

END

5.めにみえるあいじょう2

 マンションに戻って部屋を覗いたものの、夏実の姿は何処にも無かった。
 夕食の準備なんかする必要ないからね、と散々言い聞かせた所為か、単に不可能だったのか、キッチンには立ち入った様子も無い。
 ────何処に行っちゃったのかしら、あの娘
 普段なら気にする程の事ではないのだが、今朝の様子を思うと、心配しない訳にもいかない。
 自分が帰る時間は予想出来ていた筈だから、その時間に家を空ける場合は、大抵メモの一つも置いていく彼女が、何もしていないのも気に掛かる。
 取敢えず着替えてからと、自室に戻って──其処で美幸は探し人を見付ける事になった。
 ────顔色は…うん、今朝よりずっと良いみたい
 膝を付いて傍らに屈み込み、覗き込んでみれば、美幸のベッドに潜り込み、枕を抱き締める様にして眠っている想い人は穏やかな寝息を立てている。
 思えばこの人が、美幸の部屋に、こうして主の許可なく入り込んだのは初めてではなかろうか。
 余りの具合の悪さに、美幸の気配に助けを求めてくれたのであれば、そして、こうする事で少しは落ち着く事が出来たのならば──それは実は、とても嬉しい事なのかもしれなかった。
 美幸自身、過去、夏実がこの部屋を去った際は、大分、彼女が残して行ったベッドに世話になったものである。
 安心して、ふふっと小さく笑みを零すと、鞄を置き、着替える為にクローゼットに向かう。
 「ん…みゆ、き?」
 扉の開閉音を気にしつつ、部屋着に袖を通していると、寝ぼけた声が美幸を呼んだ。
 袖のボタンを留めながら振り返れば、けぶる様な眼差しが、ベッドの中から見上げていて。
 「只今、夏実」
 「ん、お帰り」
 頬に軽く唇を落とせば、敷布に横になった侭、くすぐったそうに笑み崩れる。
 取敢えず、体調は悪くなさそうだと判断しつつも、意識がはっきりしたらどうだろう、と膝をついて視線を合わせた。
 「如何?気分は」
 広い額に手を当てるが、特に不自然な熱さは感じられない。
 週末から今朝に掛けては、常に微熱が出ていたものだが、此れは本当に収まっているようだ。
 「ん、大丈夫、何ともない」
 「食欲は?」
 「んー…」
 余り気が進まなそうな様子に、また、心配になる。
 「やっぱり何も食べたくない?」
 「そういう訳じゃないんだけど…」
 一寸、怖い、かな。
 折角久々に気分良いのに、食べ物前にしたら、また気持ち悪くなるのかな、って思ったらさ。
 「そう…」
 そっと髪を梳きながら、此れは大分重症ね、と胸の内で呟く。
 あの夏実が、ものを食べるのが怖い、とまで言うのだ。
 病気ではないとはいっても、その苦しさはいかばかりか。
 とはいうものの、珍しく気分が良いというこの機会を逃す訳にもいかないし、それは夏実自身も認識はしているのだろう。
 憂鬱そうに息を吐き出す夏実の気持ちは解らないでもなかったが、空腹は気分の悪さを助長するという。
 とはいえ、食べなければ、という気持ちが余りに大きくなり過ぎれば、それはそれで、心の状態が反映し易いと言われる悪阻の症状が益々悪化してしまいそうで、美幸はどうしたものか、と型の良い眉を顰めた。
 「そうね、じゃあ、食事じゃなくて、ゼリーとかプリンとかなら如何?」
 「昨日のなら、ゴメン、暫く見たくない」
 「あれじゃなくて、以前良く作ってたでしょう?」
 甘さ控えめ、美幸スペシャル。
 軽い口調で、片眼を瞑って昼間の葵の案を出してみせれば、僅かな沈黙の後、ほんの少し瞳を潤ませた夏実が、長い腕を伸ばしてくる。
 然して力は入っていなかったが、引き寄せようとする動きに逆らわず貌を寄せると、ありがと頑張ってみるね、と小さく囁いて来て。
 「大好き、美幸」
 美幸がいてくれて、ホント、良かった。
 「なあに、如何したの、急に」
 「だって…」
 どうやら、此の所の体調不良は、思う以上に夏実を打ちのめしていたらしい。
 「取敢えず、今から夕飯の支度をするから、夏実は余りリビングには近付かない方が良いと思うわ」
 ゼリーはこれから作るから、後、二時間位は掛かると思うし、此処でもう一寝入りしてたら如何?
 言われて、はた、と自分が何処にいるか思い出したらしい夏実が、あ、と小さく呟いた。
 「ゴ、ゴメン美幸。勝手に入って。それにご飯も独りにしちゃうし」
 「良いのよ、却って私、嬉しかったんだから」
 夏実が私を頼ってくれたみたいで。
 食事だって、今だけの事なんだし、夏実が悪いんじゃないんだから謝らないで。
 「でも」
 「…そうね、それじゃ、ゼリーは一緒に食べよ?」
 用意が出来たら持ってくるから…。
 「ううん、私がリビングに行く」
 先刻の頑張る宣言を、実践するつもりなのだろうか。
 まあ、ダメならその時はその時だ。
 「全く、負けず嫌いなんだから」
 また、具合が悪くなっても知らないわよ。
 「うん、でも…今回は何だか、大丈夫な気がする」

 二人三脚は、まだまだ続く。

END

6.めにみえるあいじょう3

 すうすうと穏やかな寝息が鼓膜を叩く。
 肩に感じるのは久々の温もりで、珍しくも何時もとは反対に、想い人に懐かれた状態の美幸は、ゆるゆると髪を梳きながら、大切にその存在を護っていた。
 ────あったかい…
 伝わって来る体温は、以前と全く変わりない。
 事が発覚した後も、夏実が美幸に触れる事が無い訳ではなかったが、流石に悪阻が始まってからは、彼女に余裕という余裕が全く無くなり、純粋な意味においても、ベッドを共にする事はなくなっていた。
 『そういえば…どうして私の部屋で寝てたの?』
 初めてよね、夏実がそういう行動に出たの。
 別に、文句言いたい訳じゃなくて…唯、珍しいなって。
 換気と業務用消臭剤の活躍の結果、夕食後にも拘らず、無事リビングでのデザートタイムが可能となった想い人の前に、どれが良い?と幾つかの容器を並べながら、美幸は頚を傾げて見せた。
 冷えるわよ、という美幸の苦言をスルーして、何時ものように床に直接座り込んだ夏実は、これ、と檸檬の果汁に砂糖を加えたシンプルなそれを選び出す。
 取敢えず見ただけで拒否されなかった事に安堵しながら、一つで良いの?と問うが、だって実際に食べられる保証は無いもん、と困ったように眉を寄せた。
 『あー、うん、最近眠りが浅くてさー』
 頂きます、と両手を合わせ、心配げな視線が見守る中、スプーンを唇に運ぶ。
 美幸の密かな緊張は、次の瞬間、夏実がおいし、と笑った事で、漸く霧散する事になって。
 なんか物食べて、久々に美味しいって感じるかも。
 ほっとしたような夏実の呟きは、正しく美幸の感想でもある。
 何時まで続くか解らない悪阻期間を乗り切る為の第一歩を、漸く踏み出せたように思った。
 『頭痛と吐き気は収まらないし、うとうとしても直ぐ眼が覚めるし、参ったなーって思ってたんだけど』
 美幸と一緒に眠った時は、大抵熟睡出来るから、美幸のトコでなら若しかしたら眠れるかなって。
 尤も、何時もなら思っても躊躇ったんだろうけど、でも、今回は、全然頭が動いてなかった所為で、ついふらふら入り込んじゃったんだよね。
 沢山眠ってすっきりした所為もあるだろう。
 何時もの快活な表情を取り戻した夏実が、ぱくりとスプーンを口に含んだ。
 若しかすると、頭痛は寝不足の所為もあったのかも、とこっそり考えながら、つるりと喉を通って行く冷たい感触を、眼を細めて堪能している彼女に、これは葵ちゃんに何かお礼をした方が良いかな、と美幸は半ば本気で考える。
 何しろ彼のアドバイスがなかったならば、今頃こんな穏やかな時間を得られていたか、解らなかったので。
 『そんな事で体調が上向くなら、幾らでも来てくれて構わないから』
 本音を言えば、寧ろ来てくれた方が、嬉しくもあり安心もするのだが、流石に其処迄は口にしなかった。
 『ん、悪いね、美幸』
 何故美幸のベッドならば眠れるのか、突き詰めて考えると照れ臭いのだろう。
 へへっと頬を掻いた夏実に、何だか酷く触れたくなって、ついその場で唇を奪ってしまったりもしたのだけれど。
 ────夏実…
 至近距離にある寝顔は酷く静かで、美幸の心まで穏やかにしてくれる。
 あれから、散々寝たから流石にもう眠くない、という夏実を部屋に誘い、沢山の話をした。
 此れ迄の事、そして、これからの事。
 一緒に子供を育てて欲しい、という夏実の言葉に頷いたのは美幸だ。
 悲しさや悔しさがあったのは事実だけど、それは同性の自分には決して与えられないものだ。
 それでも、彼女に対する気持ちは変わらなかったし、彼女の子供が楽しみだったのも本当で、けれど、一方で、本当に子供を愛せるか不安でもあった。
 ────でも、もう、大丈夫
 あの夏実がその身に宿し、此れだけ苦しんで育んでいる彼女の分身を、自分が愛せない訳がない。
 何よりそうして彼女が頑張っている姿を最も近くで見守り、フォローしているのは他の誰でもなく、美幸自身なのだから。
 ふと、思う。
 此れ迄、胎内で子供を育てる事で、母親の自覚を持つようになっていく女性と違い、男性は何時、どうやって親となる自覚を育てていくのかと、不思議に思っていたのだけれど。
 ────若しかして、此れが、お父さんになる男の人の気持ち、なのかしらね…
 頼子じゃないけど、旦那さんのイメージは、夏実の方が強かったんだけどな。
 つと思い付いてしまった戯言に苦笑しながら、ケットを肩口迄引き上げる。
 自身もまた、想い人の肩口に頬を寄せ、美幸はゆるりと瞼を閉じていた。

END

7.よろしくね!

 その病院では、最早二人は知られた存在となっていた。
 産婦人科の専科の病院の場合、やって来る人間のパターンは大概決まっている。
 本人の女性が独りで来るパターン以外であれば、母娘、若しくは男女、婚姻しているかは兎も角、所謂家族と分類される組合せが殆どだ。
 偶に、姉妹でやって来て、どちらかがどちらかをフォロー、等という場合もあるが、同じ年頃の、それも姉妹と言うには余り似ていない若い女性二人の組合せは、其処では酷く目立つ存在だった。
 勤務する看護婦が、一度だけ、ミニパトから降りる夏実を目撃しており、すわ何事かと内部で騒ぎになったのは、当人達には知らせていないが、院内では有名な事実である。
 尤も、妊婦本人である辻本夏実は兎も角、美幸の方は単に送り迎えをしていただけである為、顔は知られているものの、名前は知られていないのが現状だったのだが。
 「あ、美幸ぃ」
 話通ったから、一寸来て。
 夏実が診察室に入って数分、雑誌を捲りながら待っていた美幸は、ひょいと扉から顔を出した相棒の手招きに、はたりと閉じた冊子を鞄に押し込むと、すいと椅子を立っていた。
 にこにこと笑いながら、美幸がやって来るのを待っている夏実は、既に八ヶ月。
 体型も妊婦とはっきり解る様になり、来月まで勤めた後、産休に入る予定になっている。
 終わる気配のない悪阻にうんざりしながら、それでも胎動が始まった時は笑顔で真っ先に報告してくれて。
 御腹を触らせて貰い、初めて指先が彼女の内で動いている生命を感じた際は、酷く感激したものだ。
 余りに感動し過ぎて、夏実に本物のお父さんみたいだよ、と揶揄われもしたのだが。
 その彼女から、出産立会いについて訊かれたのは、つい先日、前回の検診の後の事だ。
 立会いについては病院毎に対応はばらばらで、可能な所でも、通常、父親しか入れてくれない処が多い。
 今回の場合、父親不在の為、当然話題にもならなかったらしいが、もし美幸にその気があるなら、家族同然の親友で同居人で、自分を支えてくれている人だから、と交渉すると言ってくれて。
 『…良いの?』
 『ん、美幸だからね』
 ま、産む時って、本能が全面に出るって言うし、ぶっちゃけ、グロテスクだって言うし。
 私的には、正直見ない方が良いんじゃないの、とは思うけど、見られるのが如何かって言われれば、美幸だったら別にどっちでも良いから。
 それに美幸、予定日には一緒に居てくれるって言ってたっしょ?
 あれ、嬉しかったんだよね、と笑われて、胸が詰まった。
 昔と比べ、安全性は上がったとはいえ、女性にとって出産は命懸けの一大イベントである事は変わりない。
 彼女が命を懸けて闘っている際、例え役には立たなくとも、傍にいたいと思うのは美幸にとって当然の感情で。
 彼女の明るさと今回のトリッキーな事態にすっかり忘れていたが、考えてみれば、通常、こういう場合に真っ先に頼れる筈の先達その他が、彼女には身近に存在しない。
 実の母親も祖父母も既に鬼籍に入っており、その上、本来夫の立場にあるべき人間は、事態すら知らされず海外で、また、実の父親とその再婚相手である母親も、矢張り海外だ。
 美幸が居なければ、今回の事態を、彼女は何もかもたった一人で処理しなければいけなかった筈で、恐らくは彼女もそれを視野に入れて結論を出したのだろう事を考え併せると、恋愛感情を抜きにしても、あの時頷いておいて本当に良かった、と今更ながらに思った。
 出産立会いは、して欲しいと望む者と、して欲しくないと思う者、割とはっきり分かれるそうだが、彼女は後者だろうと考えていた。
 美幸なら、という言葉は、その考察が間違っていない事を示しており、それでも望むならば、と言ってくれたのは、正直、嬉しかった。
 恐らくは自身が、この先一生体験する事無く終えるだろうそれを、立場は違えど、一緒に体験させてくれようとしているのだろう。
 けれど、それよりも何よりも、彼女が大変な時に、傍に居させて貰えるのが何より美幸には嬉しくて。
 出来れば、と控え目に希望した美幸に、じゃ、次の検診の時に話しておくね、と夏実が言った事から、念の為にと今回は美幸も付いて来たのだけれど。
 「話が通ったって事は、要するに許可されたって事?」
 「そう。何か、思ったよりあっさりしてた」
 んで、その条件がね、直接、美幸と話をする事なんだって。
 要するに、親友とはいえ、家族でもない者が、何故立会い等、言い出す事になったのか知りたいという事なのだろうか。
 本の少し表情を引き締めた美幸に、そんなに緊張する事ないって、と肩を叩くと、先に入るように促して。
 「初めまして、小早川美幸です」
 ぱたりと扉が閉じる音を背中で聞きながら、待ち構えていた人達に、深々と頭を下げる。
 夏実の担当は既に老境に差し掛かった痩身の男性で、傍らに立つ母親のような年齢の看護婦と共に、そんなに堅くなるような話じゃないから、とにこやかに椅子を勧められた。
 夏実はといえば、其の侭検査に引っ張られて行き、突然一人で彼らと向き合わねばならなくなった美幸は、とてもリラックス等出来なかったが。
 「…それで、話とは?」
 「いやいや、そんなに構えるような話じゃなくてね」
 単に、君に会って、話してみたかったんだよ。
 その後の会話は、前置き通り、何故立会いを望んだかという話ではなく、先日TODAYで夏実を送って来た際、院内が一寸した騒ぎになった事、そして、夏実の事、だった。
 聞けば、彼女の周辺事情は院側も把握しており、長い妊娠期間に彼女が潰れやしないか、心配していたという。
 けれど、蓋を開けてみれば、そんな予兆は欠片もなく、長引いている悪阻にもめげずにいられる彼女が不思議で、然り気無く尋ねてみたのだそうだ。
 そして彼女の答えは、実にシンプルなもので。
 曰く、「一人じゃないから」。
 確かに法に則った家族は傍にいないが、同居している相棒が子供を楽しみにしてくれていて、何かとフォローを入れてくれている、と。
 血の繋がりや、書類一枚で出来た関係が全てじゃない、と笑った彼女に、それらに拘って来た院側は多大な衝撃を受け、表向きの事情だけで同情してきた自分達を、恥ずかしく思ったという。
 そしてその結果、若し夏実がその相手を立会人に望んだ場合、直ぐに許可を出せるよう予め関連部署に働き掛けておいた為、今回、すんなり了承出来た、らしい。
 また、此れを機会として、独身人口が増えている今現在、今後もこういったケースが起こりうる事を想定し、立会人や身元保証、面会謝絶時の付き添い等々、諸々の規定を変えるように動き出したのだと聞いて、美幸は何処に行っても彼女は彼女なのだと苦笑した。
 当人が与り知らぬ間に、周囲に大きな影響を与えている、まるで台風のような存在。
 美幸の笑みの意味が理解ったのだろうか。
 老医師はにっと悪戯げに笑みを浮かべ、そこで大きな爆弾を落としてくれて。
 そんな影響度の高い人間に、命を預けられる相手、とまで言わしめた人物に、是非逢ってみたかったんだよ、と。
 「夏実が、そんな事を…」
 「おや、言われた事、なかったかい?」
 口許を引き上げ性質の悪い笑みは、若しかすると、夏実の照れ屋な性格を理解しての事かもしれない。
 「ま、難産になるのかあっさり終わるのか、その時が来なければ解らないのがお産だ」
 当日は宜しく頼むよ、と軽く肩を叩いた医師に、美幸もまた大きく頷き、こちらこそ宜しくお願いします、丁重に頭を下げたのだった。


END

漸く此処まで来た…!
次回、出産編です。長谷が書くので、当然、すんなりは行きませんが。


8.さあ、いっしょにがんばろう1

 その日は朝から曇り空で、今にも雨が降りそうな日だった。
 産み月に突入した相棒は産休に入り、未だ続く悪阻に顔を蒼くしながらも、いってらっしゃいと手を振ってくれた。
 平均では16週辺りで終了する悪阻が長引く理由は解らないが、稀にそんな人間もいるそうで、何で私がそのレアケースに当たらなくちゃならないの、と唸ってはいたが。
 ともあれ、産み月に突入したという事は、何時お産に入ってしまってもおかしくないという事で、今日は検診に出た後買い物をして帰る、という彼女に気を付けなさいと、くどい位に言い聞かせた。
 産休に入る迄は、公私共に一緒だった事もあり、無茶をさせないように常に傍らで気遣えたのだが、彼女が休みではそうはいかない。
 体調は芳しくなくとも、彼女の気性を知っているだけに、気が気でない美幸だった。
 「処でさー美幸」
 「何?」
 本日の美幸のパートナーである頼子が、暢気な声で話し掛ける。
 公務員なので、取ろうと思えばそれなりに長く取れる筈の産休期間だが、余り長期に渡ると異動が拘って来るかも知れないと、夏実はほぼ休まねばならない最低期間しか申請していない。
 その為、代用要員は来る予定はなく、美幸はその時々でペアが非番の者と組む事になっていた。
 「夏実の子供ってさ、男の子?女の子?」
 「女の子ですって」
 それにしては元気だって、蹴られて痛そうな顔してたけど。
 「蹴ったって解るんだ?」
 「らしいわよ、今どの辺に足がある、とか言ってたから」
 「はー、そういうもんなんだ」
 感心したように頷く頼子に、やっぱりそう思うわよね、と心の中で呟いた。
 その時。
 『墨東PSから巡回中の各PCへ』
 途端、車内の空気がぴりりと引き締まる。
 『暴走車が、現在三つ目通りを南下中』
 車種は、赤のアウディ、現在中嶋巡査が追跡中。
 各車、追跡を開始せよ。
 「了解」
 刻々と入って来る暴走車の位置。
 こうして走っている際、美幸の頭を占めているのは、如何にして暴走車を止めるか、だけだ。
 頭の中に地図を展開しながら、如何に追い詰めるかをシュミレートする。
 常識外の事項も含め、美幸の聞きそうな事を先回りで調べてくれる夏実程ではないが、ナビゲートし慣れているだけあって、頼子もパートナーとしてはやりやすい相手だ。
 ターゲットと仲間の位置を把握しながら移動し、道路一本隣を併走する処まで来た時、それは起こった。
 『あのヤロウ、信号無視…って歩行者が』
 っな、辻本!?
 「夏実!?」
 瞬間、事態を冷静に計算していた思考が吹っ飛んだ。
 奴は俺が追うから、小早川はそっちを頼む、という中嶋の言葉を聞くまでもなく、スピードを上げ、一つ先の交差点を右折すると、横断歩道周辺に数人が集まっているのが見えた。
 少し先にTODAYを停め、シートベルを外すのももどかしく、運転席を飛び出す。
 駆け寄った先、横断歩道の端にお腹を押えて蹲っているのは、見間違えようもなく彼女の相棒で、どくりと心臓が跳ね上がった。
 周囲に目をやれば、アスファルトが濡れている箇所があり、破水したのだと悟る。
 「今、救急車を呼びました!」
 直ぐ来てくれるそうです。
 背後で電話をしていた大学生らしい青年が、携帯を閉じながら声を掛けてくる。
 「それより、この侭パトカーで運んだ方が…」
 「何、莫迦な事、言ってんのよ!」
 言い掛けた美幸を遮ったのは、当の妊婦張本人だった。
 肩で息をし、眉間に深い皺を寄せているものの、見上げてくる瞳の力は貫くような毅さを持っている。
 「美幸、貴女は今、警察官なのよ」
 暴走車を止めるのが、貴女の仕事でしょうが。
 直ぐに救急車が来るんだから、私の方はそっちに任せて、貴女は貴女の仕事に戻りなさい。
 手前一メートル。
 きつい言葉を投げ掛けられ、毅い視線に縫い止められて、届きそうで届かない位置で脚を止めた侭、身動ぎすら出来ない。
 けれどその時間を再び動かしたのもまた、時間を止めた張本人で。
 「私の方は、大丈夫」
 先に病院行ってるから、蹴りがついたら来て。
 但し、今日はブレーキ担当が居ないんだから、スピードの出し過ぎは気を付けてよね。
 語調を緩め、自身の状態にも拘らず、パートナーを気遣う事の出来る彼女は、矢張り彼女だった。
 「…解った、わ」
 付いていてあげるって約束、守れなくて、御免なさい。
 貴女も、どうか、無事で。
 「ん」
 あんなふざけた車、絶対に許しちゃ駄目よ、と玉の汗をかきながらも笑顔を見せてくれたパートナーに、力強く敬礼すると、彼女もまた答礼してくれて。
 警察官として身体に染み付いて久しい所作だが、互いの気持ちが込められたそれは、無言の会話でもあった。
 「行って来る」
 「ん、行ってらっしゃい。待ってる、から」
 踵を返した美幸に、傍らに付き添っていた婦人が、自分が病院まで付き添います、と声を掛けてくれる。
 この子を助けてくれたんです、と傍らの幼児を示した彼女に、宜しくお願いします、と頭を下げた。
 今度こそ己のパートナーに背を向けた美幸は、全力で駆け出したのだった。

END

…ええ、こんなんでも出産編です。はい、間違いなく!取り敢えず一回目。



9.さあ、いっしょにがんばろう2

 出産に定時がある筈も無く、当然産院は、コンビニが普及するずっと以前から、二十四時間営業が基本。
 夏至までまだ少しあるとはいえ、日照時間が一年で一番長い時期であるが、流石にこんな時間では真っ暗だ。
 一部を除き、煌々と窓の灯りが並ぶ中、空いたスペースにTODAYを滑り込ませた美幸は、運転席を飛び出すと、夜間窓口へと駆け込んでいた。
 「それでは、まだ…?」
 「はい、詳しくはあちらでお聞き下さい」
 この赤いラインを辿っていけば、着けますから。
 説明の手間を省く為だろう。
 リノリウムの床には、この場を起点とした何色かのラインが、廊下の奥へと伸びている。
 礼を言って、流石に院内を走るのは不味い、と急ぎ足で向かった先で、連絡を受けて待ち構えていた看護婦に説明を受けた。
 破水の量が多かった所為で、産道が中々広がらないのだ、と。
 双子というのも、事態を面倒にしている一因で、帝王切開に切り替えるか否か、相談している最中という。
 「双子…?」
 「ええ、聞いてませんでした?」
 「はい…あの娘の事だから、吃驚させようとしたのかも」
 「そうですね」
 十ヶ月近くも通っていれば、流石に性格は把握しているのだろう。
 顔を合わせてくすりと笑いあった後、こちらへと陣痛室の夏実の下に案内される。
 覗いた先では、ぐったりとした様子の夏実が、脂汗を流しながら、ふうふうと呻っていた。
 「夏実」
 「…美幸」
 片は、付いた?
 この状況で第一声がそれ?、と一瞬思ったものの、しかし直ぐに制服の侭だった事を思い出す。
 「勿論よ。だから、来たの」
 シーツを握り締めている右手に掌を重ね、汗で額に張り付いた前髪を除けてやる。
 ポケットから取り出したハンカチで汗を拭ってやれば、夏実は気持ち良さげに瞼を閉じた。
 「捕まえて、署に戻ろうとしたら、此処はもう良いから行けって皆が」
 課長も、まだ連絡がないから、間に合うかもしれないぞって言ってくれて、それで現場から直行して来たのよ。
 「そっか…」
 んじゃ、この子達がまだ出たくないって我侭言うのに、付き合ってた甲斐があったかな。
 「ばか…」
 十二時間近くも痛みに耐える羽目になったにも拘らず、そんな風に言ってくれる彼女の気持ちが嬉しかった。
 美幸としては、夏実が苦しまないで済むのなら、立ち会えなくても良いと思っていたのだけれど。
 「でも、もう、美幸も着いた事だし、そろそろ私の方も、決着付けたいわよね」
 少し、美幸からも言い聞かせてくれる?
 お母さんを苛めるのも好い加減にして、そろそろ出ておいでって。
 「はいはい」
 以前、お腹を蹴られて痛がっていた際、矢張り同じ事を言った夏実に、戯れに従って見せた所、ぴたりと収まった事があり、以来、時折彼女はこういう物言いをするのだ。
 一人と思えば大きいが、二人入っているとなれば小さく見えるお腹をそっと擦り、彼女の言葉を繰り返してやる。
 顔を上げれば、満足げに笑った彼女と眼が合い、もう直ぐ逢えるわ、と囁いた。
 「双子、なんですって?」
 「あ、聞いちゃったんだ?」
 二人産まれたのを見せて、吃驚させようと思ってたのに。
 「矢っ張り…」
 予想通りの台詞に、ほう、と一つ息を吐く。
 と、話している間に再び波が来たのか、不意に夏実が顔を顰めた。
 シーツを握り込む手の力が、ぐ、っと強まったのが解り、ナースコールする。
 やって来た助産婦は、落ち着き払った態度で様子を確認すると、分娩室へ移動すると告げてきて。
 それからは、速かった。
 美幸が、手を消毒し、白衣を身に着けている間に、あっという間に体勢が整い、今までの苦労は何だったのか、と思いたくなるような程順調に事が進んで。
 必死でいきんでいる夏実が気付いていたかは解らないが、彼女の左肩に手を添える事で、此処に居るよ、と主張する。
 呼吸法等、一通り勉強して来たものの、いざとなると何の役にも立たないのが現状で、美幸は息を詰めて成り行きを見詰めるしかなかった。
 長いような短いような時間の末、助産婦の誘導に従い、やがて、一人、二人と小さな生命が取り上げられ、元気な産声が響き渡る。
 その様を呆然と見ていた美幸は、自身が何時の間にか、ぽろぽろと涙を流しているのにも気付かないでいて。
 泣いているのに気付いたのは、臍の緒を切る為に呼ばれた時で、視界が歪む理由が暫しの間、解らなかった。
 まるで夢の中に居るような、奇妙な非現実性の中、後処置、産湯等が手際良く進められる。
 それが急激に現実性を帯びたのは、産着を着せられた小さな命を、その手に抱いた時だった。
 ────あったかい…
 頚に気を付けてとアドバイスされながら渡された赤ん坊は、ほんの少し力を込めただけでも壊れそうで。
 振り返れば夏実の方も、己の腕力を気にしてか、おっかなびっくりといった体で、子供を抱いている。
 標準よりは小さいけれど、これだけ元気なら大丈夫、と予定日よりも三週間以上早く産まれた二人の赤ん坊は、保育器に入れる必要はないと告げられた。
 「…夏実」
 腕の中の存在に気を付けながら、ゆるりと傍らに歩み寄る。
 見上げて来たその表情は、酷く疲れ切ってはいたけれど、やり切った達成感で満たされ、そして、とても綺麗だった。
 「おめでとう、夏実」
 ご苦労様。
 此の場に居させてくれて、有難う。
 身を屈め、貌を近付け、笑みを浮かべる。
 両手が塞がっている所為で、毀れる涙は其の侭だったけれど、今此の場でどうしても伝えたい言葉だった。
 「ん!」
 こっちこそ。
 今まで、支えてくれて、どうもありがと。
 にこりと笑い、何時もの向日葵の笑みを浮かべると、互いに抱えた小さな生命を見比べ合う。
 流石一卵性というだけあって赤ん坊達はそっくりだが、さて、将来はどちらの親に似るのだろうか。
 「どっちに似てても可愛いわ、夏実の子だもの」
 「…何か、美幸、既に親ばか」
 十三時間もの全力疾走の所為だろう。
 大分眠たげな様子を見せ始めた相棒が、初授乳に入る事になり、美幸は署に連絡を入れる為、その場を辞した。
 一つの終わりは、次の始まり。
 明日から少しの助走期間を経て、此れ迄とはほんの少し違った毎日が始まるのだ。
 ────夏実、本当におめでとう
 閉めた扉を背に、もう一度心から囁いて。
 美幸は眦に残った涙をついと拭うと、廊下の片隅に設置された公衆電話へと歩み寄ったのだった。


END

書くに当たって、今回はとあるブログを大いに参考にさせて頂きました。…有難いなあ、インターネットって。



 10.かんわきゅうだい

 署に戻ると、其処は既に、お祭り騒ぎだった。
 「小早川美幸巡査、只今戻りました」
 課長、御計らい、有難うございます。
 ぴしりと敬礼しては見せたが、それは建前上の事。
 相好を崩した上司を前に、とても長続きするものではなかった。
 「いやいや」
 間に合って、良かった良かった。
 それよりほれ、主役も揃った事だし、誰か音頭をとれ。
 既に麦酒は皆に回っており、美幸もまた気を回した葵に、冷えた缶を渡される。
 TODAYをガレージに戻し、交通課へ荷物を取りに寄った所、食堂に皆いるからとの言伝を貰い、やって来たのだが、夜勤の者を除いた交通課のほぼ全員、そして、徳野や杉原を始めとする署内でも夏実と親しい者達が、揃って彼女を待ち受けていた。
 「それでは、夏実の無事と、新しい命の誕生を祝ってかんぱーい!」
 交通課の宴会部長の面目躍如と言うべきか、仕掛け人たる頼子の声で、宴の火蓋が切って落とされ、後は何時もの如く無礼講だ。
 確かに、そもそも美幸が抜けた時間が時間だったのだから、それなりに人がいてもおかしくはなかったが、それでも、大半の後処理は明日に回せるものであり、通常なら帰宅者が居て当然である。
 が、見渡せば、ほぼフルメンバーが揃っており、皆の気持ちが解って酷く嬉しかった。
 「ね、ね、それで美幸、どうだった?」
 赤ちゃん、見せて貰ったんでしょ?
 レポーター宜しく、真っ先に突撃してきたのは、矢張りというか、頼子だった。
 「うん、双子の女の子で…可愛かったわ」
 ちっちゃくて、あったかくて、でもちゃんと元気に動いてて吃驚した。
 「え、何、抱かせて貰えたの?」
 「女の子とは聞いてたけど…双子だったんだ!?」
 年頃の女性ばかりだ、矢張り興味があるのだろう。
 あっという間に取り囲まれ、質問攻めだ。
 男性陣は、流石にこの勢いに混ざる気にはなれないのか、麦酒を傾けながら、美幸の答えを聞いている。
 「双子なのは、私も直前に知ったのよ」
 駆け付けたら看護婦さんに、破水と双子なのとが原因で、帝王切開に切り替えるかも、なんて言われて。
 夏実、二人産まれたのを見せて、驚かせたかったんですって。
 「はあ、夏実だねぇ…」
 一卵性だからそっくりだった、という言葉に、羨ましいけど大変そう、という感想が来るのは、現実に眼が行く女性ならではかもしれない。
 「私も着いたし、そろそろ出て来なさい、ってお腹撫でたら、それから割と直ぐ陣痛が始まって、其処からは急転直下って感じ」
 「へえー」
 「手を消毒して白衣着て、こっちへって案内されてたら、もう準備万端整ってて…私は緊張してて長かったように感じたけど、多分、実際にはそんなに掛かってないんじゃないかな」
 「え、じゃ、立ち合ったの!?」
 頓狂な声を上げた頼子に、そうよ、元々その予定だったし、と簡単に肯定したが、然し、周囲にはそれなりに衝撃だったらしい。
 「あれって普通は旦那さん限定で、病院によっては、旦那さんすら立ち合せてくれなかったりするんでしょ!?」
 なのに、同居人とはいえ、家族じゃなくても大丈夫だったんだ?
 「ええ、家族同然って事で夏実が交渉してくれたから…」
 「うわー、やるなー夏実」
 「うん、甲斐性あるっていうか、美幸が喜ぶツボを押えてるっていうか」
 「此の場合、女がじゃなくて、美幸がって辺りが夏実だよね」
 「どっちにしても、他の男共には、一寸は見習わせたい…」
 男性陣に憚って、ひそひそと言葉を交わしあう。
 その輪に”女性”として加わっていた葵は、流石にそれには参加せず、もう一本如何ですか、と新しい缶を差し出した。
 そういえば、今日は非番だった彼が、私服とはいえ何故此処にいるのか問えば、予想に違わず、頼子に呼び出されたのだという。
 「態々有難う、葵ちゃん」
 当人が居ないのが残念だけど、話を聞けばきっと喜ぶわ。
 「いいえ」
 お祝い事は後から話で聞くより、その場に居たいですから、とにっこり笑った葵は、ふと思いついたように頚を傾げた。
 「そういえば…立会いされたという事は、若しかして、臍の緒も切らせて頂いたりしたんですか?」
 「うん、ちゃんと二人分」
 その後直ぐ、産湯を使った赤ちゃんを手渡してくれたのよ。
 最初に抱いたのはお姉さんで、後から夏実と交換で、妹の方も抱いた、という美幸の言に、今度こそ周囲は押し黙った。
 「一寸…」
 「それって…」
 「うん…」
 「如何聞いても、完璧旦那さんの扱いだよね」
 皆が敢えて口にしなかった事を、ずばりと頼子が口にして、慌てた葵が口を塞ぐ。
 やけに大きく響いたその声に、男性陣までが反応し、騒ぎが拡大するまであと少し。

END

11.これでけって…い?

 流石にアルコールが入った状態で、ヨタハチを運転して帰る訳には行かないと、他の同僚達と共に、仮眠室で一夜を明かした。
 本日、非番の予定だったその内の一人が、交代を申し出てくれた事もあり、美幸は朝一で自宅に戻ると、夏実の入院用の荷物を仕立て上げ、再び病院に出掛けていった。
 当然、面会時間からは外れているが、元々出産予定はまだ先で、突然の破水の末の緊急入院だった為、準備も何もしておらず、事情を解っている病院側も、あっさりと部屋に通してくれて。
 着いてみれば、他に入院者がいない所為で、大部屋にも拘らずたった一人だった夏実は、現在朝食の真っ最中。
 聞けば七時過ぎには授乳をして、漸く、なのだそうだ。
 授乳は三時間置きで、彼女が出向く事になっているらしく、母子同室となるのは四日目という事で。
 本来の面会時間は十三時から二十一時だから、午後、もう一度来た際は中座する事もあるから、と笑った。
 「ま、破水した時は焦ったけど、無事に出産も終えられたし、終わり良ければ全て良しってね」
 何が嬉しいって、あの万年体調不良状態から抜け出せたのが、一番嬉しいわよ、とご飯を美味しそうに頬張る夏実に、こっちはあんなに焦ったのに、と溜息を吐く。
 「でもホント、無事で良かったわ…」
 蹲ってる夏実を見た瞬間、何もかも頭から吹っ飛んだもの。
 あんなに、気を付けてって言って置いたのに、と軽く睨むと、ゴメン、と何時もの仕種で頚を竦めた。
 「や、でも、あの侭だとあの子、跳ねられてたしさ」
 仕方なかったんだってば。
 それに、走ったとか激しい動きをした訳じゃなくって、単に手を伸ばして子供を引っ張り寄せただけなのよ。
 まあ、勢い余って、その子をお腹にぶつけちゃったりはしたけど。
 「……」
 コメントする気にもなれなくて、ほう、と息を一つつく。
 彼女のこういった部分は人としてとても大切で、美幸としても愛すべき長所だとは思う。
 思うが、想い人を大事に思う自身としては、こんな時位は、もう少し己を省みて欲しいと思うのは、そんなに贅沢な事だろうか。
 その溜息を如何取ったのか、困ったように箸を咥え、上目遣いに見上げて来る彼女を行儀が悪いと叱り、やがて食事が終わると、それじゃ一旦帰るわね、と腰を上げた。
 面会時間を彼女とゆっくり過ごす為には、今のうちにやるべき事を全て片付ける必要があったので。
 「そういえば…名前はもう決めたの?」
 今迄、話には出なかったけど。
 踵を返し掛け、ふと思いついて尋ねれば、大きな瞳が一つ瞬き、え?と口の中で呟いた。
 まさか、何も考えていなかったとか、と思わず考え、まさかね、と否定する。
 名前は親からの最初の贈り物。
 美幸ですら、一度ならず考えを巡らせたのだから、例え決定してはいなくとも、母親である彼女が全く何も考えていない筈はない、と。
 尤も、夏実なら、若しかして、と思ってしまったのも事実だが。
 「必要なら、命名辞典とか買ってくるけど…如何する?」
 「え、あ、いや、それは大丈夫なんだけど…」
 私、美幸に何も言ってなかったっけ?
 「何もって…何を?」
 「だから、美幸から一文字貰いたいって」
 「…え?」
 思わずフリーズした美幸に、あれ、ホントに言ってなかった?と呟いた夏実は、おっかしいなーと頚を傾げた。
 「美幸の『幸』の字を読み方変えて、コウとユキ」
 漢字で書くと同じだけど、音で読むと違うってやつ、に、しよっかなーと思ってたんだけど。
 ダメ?と近距離から瞳を覗き込まれ、漸く、相手が何を言っているのか理解する。
 両親や尊敬する者、親しい者から一文字貰う、というのは良くある事だが、然し、これは結構、いや大分変わっているのではなかろうか。
 実の両親からではなく、態々、実際にそういう関係とはいえ、同性の相手から貰おうというのも、二人共に全く同じ字面を使おうというのも。
 加えて、事の次第を知った時の、東海林の反応も少しばかり怖い気がする。
 「…使うのは構わないけど、せめて、一人は変えた方が」
 「そっかなー?良い案だと思ったんだけど」
 「夏実か巡査長から一文字貰う、とか」
 「えー、だって、『将』も『司』も女の子向きじゃないし、私だったら『夏』しかないじゃん」
 「可愛いじゃない、夏ちゃんって。『実』だって良いと思うし。…大体、何でそんなに一文字に拘るの?」
 「楽だから」
 すっぱりと言い切った夏実に、最早言葉もない。
 がっくりと肩を落とし、取り敢えず、一旦帰って家事を済ませたらまた来るわ、と今度こそ部屋を出たのだが。
 この時、はっきり止めなかった事を、午後、出生届に既に記入された名前を見て、美幸は大いに後悔する事になるのだった。


END


12.おかえりなさい!そして、ようこそ

 タクシー使うから、無理に休みを合わせる事ないよ、という夏実に、私がそうしたいの、と押し切ったのは美幸だった。
 出産の為に入院して五日、漸く訪れた帰宅日を楽しみにしていたのは美幸も同じで、昼前には出られる、と指定された時間より、ほんの少し早く着くように出掛けて行った。
 部屋に行ってみれば、夏実は授乳の真っ最中で、あれもうそんな時間?悪いけど一寸だけ待っててね、と笑い掛けられて。
 見慣れた笑顔の筈なのに、とくりと鼓動が跳ね上がる。
 出産してからこっち、彼女は急激に綺麗になったように思う。
 お陰で美幸の心臓は走りっ放しで、相手に聞こえてしまうのではないかと心配になる程だ。
 「何かやる事ある?あるなら、私の方でやっておくけど」
 「んー、大丈夫」
 元々荷物少ないし、此れが終わったら出るつもりだったんだ。
 それにほら、もう終わるし。
 とんとんと小さな背中を叩いてげっぷをさせると、口許を拭いてやってから双子の片割れの隣に並べる。
 シャツの前を整える夏実の横で、眠りに落ち始めている二人の赤ん坊に視線を奪われていると、不意に、美幸って凄く優しい眼でその子達を見るよね、と夏実が呟いた。
 肩越しに振り返れば、ボタンを留める手を止めた夏実がじっと美幸を見詰めていて、美幸は、ぽう、と頬を染めると居心地悪げに身動いだ。
 夏実の瞳の方が、余程優しく見える、というのは、決して口には出さない美幸の思いだ。
 あの大きな地球色の瞳に見詰められると、体温が上がり、何もかも受け入れてしまいたくなる。
 「…そう?」
 「うん、その子達が羨ましくなる位」
 「何言ってるの」
 口調だけは殊更に冷静な様子を取り繕い、早く留めちゃいなさい、という代わりに、ついと身を寄せると、ひとつふたつとボタンを留めてやった。
 「ありがと」
 にこりと口許に笑みを浮かべる彼女に、思わず口接けたくなったものの、此処が何処であるかを思い出して、慌ててブレーキを掛ける。
 それじゃ行こっか、という彼女の言葉に頷いて、大きなバッグを肩に掛けた夏実同様、自分も菓子折りの入った紙袋を肩に引っ掛け、夫々に赤ん坊を抱き上げた。
 此処数日で増えた同室者達に挨拶してから、看護婦の詰め所に寄れば、何時の間にか仲良くなっていたのか、沢山のスタッフにおめでとうの言葉を貰う。
 お礼として渡す菓子の数が、やたら多かったのは此の所為か、と少々驚きながら、何かあったのと問うてみるも相棒は別にと惚けるばかりで。
 矛先を変えて看護師の一人に尋ねると、一昨日緊急入院して来た外国人の妊婦が、言葉が解らず混乱していた所、夏実が間に入って巧く宥めたのだそうだ。
 ────こうやって、私の知らない内に、交友を広げてるのよね、この娘…
 気さくで懐深い彼女に惹かれる者は、老若男女を問わず後を絶たない。
 代表的な例は、幼稚園時代にマホ経由で知り合ったというユウタで、夏実が大事な人が居るから無理だよ、と真面目に断ったにも拘らず、彼は未だ、夏実は将来オレとケッコンするんだ、と言い続けている。
 尤も、いの一番に惹かれたのが自分だとは、そう考えている美幸自身、気付いていなかったのだけれど。
 菓子折りと引き換えに、夏実が受けた筈の帰宅後の諸注意を確認し、一通り謝辞を述べるとタイミングを見計らって退出する。
 手続きを終え、駐車場にやって来た夏実を迎えたのは、柔らかな布を敷き詰めた、籐で編まれた大きな籠で、なにこれ、と疑問符を飛ばす夏実に、笑いながら子供を入れるように指示した。
 「ああ、成る程ね」
 頚が座ってないし、ヨタハチじゃ寝かせるスペースないから、如何抱こうか考えてたんだけど、ちゃんと考えてくれてたんだ。
 「迎えに来るって言った以上、当然でしょう?」
 それに、その内保育所に連れて行く時にも必要になるし。
 「そっか、それもそだね」
 保育所、近いから歩けば良いかって思ってたんだけど。
 感心したように呟く夏実に、らしいと思いつつ、そうはいかない事もあるだろうと思う。
 此れ迄だって朝は戦争だったのだ。
 にも拘らず、やるべき事が増えるのだから、恐らくは徒歩で、等と悠長な事を言っている暇は無いに違いない。
 荷物はトランクに放り込み、夏実が籠を抱えて定位置に収まると、滑らかに車をスタートさせる。
 何時も以上に繊細な運転は、当然、眠っている赤ん坊を意識してだ。
 何処に立ち寄るでもなく、真っ直ぐに帰宅した二人は、荷物と籠を抱えてエントランスを潜って。
 籠を抱え、両手が塞がっている夏実に先行し、玄関の扉を開けた美幸は、一段上ってくるりと向きを変えると、手を伸ばして籠を大切に受け取る。
 夏実の腕力の所為か、見ている分には大した重量に見えなかったのだが、流石に赤ん坊二人だとそれなりの重さだ。
 万が一の事が無い様、慎重に床に置き、改めて彼女と向き直る。
 「お帰りなさい、夏実」
 「ん、ただいま」
 にこりと笑いあい、そっと触れるだけの口接けを一つ。
 それは、彼女達が離れて戻ってを繰り返す度、何時の間にか習慣になった儀式だ。
 明確な決まりごとという訳ではないけれど、区切りの際に執り行ってきたそれだが、今日は特別にもう一つ追加があった。
 すいと屈んで、ほんの少し後ろに下ろしていた籠を、上がり込んだ夏実と共に覗き込み、すよすよと眠る小さな二つの生命に、そっと柔らかく囁き掛ける。
 「コウちゃん、ユキちゃん、ようこそ、我が家に」
 これから、ずっと、宜しくね。
 四人の賑やかな生活が、今、此処から始まる。

END

ま、冗長なんですが、区切りって事で。

13.おやすみなさい

 生まれたばかりの生き物の世話は、仔猫も人間も然して変わらない。
 オムツだミルクだとほやほや泣くのを、さっと対応して宥めてやるのが、母親の役目で、それは夜でも昼でも同じ事だ。
 一ヶ月あったバッファが突然ゼロとなったお陰で、消え去ったのは新生児に対する準備の時間だ。
 当然の如く、検討はされてはいても、用意してはいなかったのがベビーベッドで、まあ、暫くの間は寝返りすら打てないのだから大丈夫でしょう、と夏実の部屋の隅に布団を敷いた。
 退院後、一週間は入院中と同じ生活を、という病院側の申し付けは、彼女の中では聞かなかった事になっているらしく、退院してからこっち、夏実が昼間、夜着になる事は結局なかった。
 尤も、それを知りつつ、美幸が煩く言わなかったのは、買い物なんかは自分がするから一週間は外出禁止、という美幸の指令には、大人しく従ってくれたからで。
 母親の手が頻繁に必要な生まれたばかりの子供達から眼を離すのが、単純に怖かっただけかもしれないが、結果が意に沿うものであれば、理由は美幸には如何でも良かった。
 慣れない新生活には、それなりに問題が転がっていたが、特に二人が困ったのは、夜だ。
 規則正しい生活は、夜泣きの減少と比例すると聞いていた為、二十時には子供達の寝室、イコール夏実の部屋は消灯としたのだが、そんな時間に電気を落としてしまうと、彼女が自室に居るのは難しい。
 とはいえ、リビングに居たのでは、泣いていても聞こえ難く、ドアを開け放しておけば空調が意味を成さなくなる。
 結局、プライバシーの面には眼を瞑り、リビングと美幸の部屋から、スイッチさえいれておけば、夏実の部屋の音を聞けるよう、インターホンを設置した。
 美幸の部屋にも設置したのは、主には夏実が居ない時、手が離せない時もあるだろうと考えてだったが、二人一緒に眠った際、翌日仕事に出なければならない美幸を、起こさないようにという夏実の配慮でもあった。
 尤も、そんな配慮は不要だと主張する美幸の言が通って、今夜は夏実の部屋で、二人眠っていたのだが。
 ────ん、何…?
 外部からの刺激に、意識がふっと浮上する。
 基本的に寝覚めの良い美幸だが、緊急時を除いては、中途半端な時間に強制的に起こされるのには慣れていない。
 反対に、あれだけ寝起きが悪かった夏実の方は、子供の声に酷く敏感で、一昨日の晩、美幸が傍らの温もりがなくなっている事に気付いた時には、既に一連の作業は終わっていた。
 勿論、夏実が美幸を起こすまいとして、部屋を出る際、インターホンのスイッチを切って行った事も一因だが、然し、彼女が気が付いて自分が気が付けなかったという事実は、普段の寝起きの悪さを知っているだけに、美幸には随分と衝撃だった。
 だが、流石に同じ部屋にいる今夜は、泣き声を遮る物も無く、ぼんやりと眼が醒めた今も、どうやら夏実の作業は終わっていないらしい。
 「なつ…み?」
 「ああ、ゴメン」
 矢っ張り起こしちゃったか。
 自分が望んだ事なのに、罪悪感など抱かないで欲しかった。
 下着にシャツを引っ掛け、ベッドの端に腰を下ろして授乳の最中だった夏実が、済まなさそうな顔をするのに、頚を一つ横に振ると、美幸はゆるりと半身を起こす。
 「…良いの、私が手伝いたいの」
 それに、本当に家族って思ってくれてるなら、遠慮はしないで。
 霞が掛かったような思考が、次第にはっきりしてくるのを自覚しながら、枕元のライトに手を伸ばす。
 勿論、蛍光灯のような明るさではないけれど、既に点けられていた、子供達の布団の足元に置かれたライトの灯りと相俟り、部屋全体が見渡せるようになって。
 「何、すれば良い?」
 「ああ、うん…それじゃ、コウ、抱いてやっててくれないかな」
 オムツじゃない事は確認出来てるから、多分ミルクだと思うんだけど…。
 ユキが終わったら、交代するから。
 「了解」
 自分もまた、手近のフィットネスマシンのハンドルに掛けられた夏実のシャツを拝借すると、前は留めぬ侭、泣いている赤ん坊を抱き上げる。
 教えられた通りの抱き方をして、軽く揺らしながら、リズムを付けて背中を叩いてやると、ぴたりと泣き止んだ赤ん坊が、シャツの間から覗く乳房に手を伸ばした。
 本能の凄さに半ば感心しながらも、残念ながら、美幸ではお乳が出る筈も無く、哺乳瓶の準備とユキの授乳、どちらが早く終わるだろうかと考えた。
 「…何か、美幸もすっかりお母さんだよね」
 「そう?」
 「そう」
 子供を抱く腕は其の侭に、じっとこちらを見詰めていた瞳が、優しく撓む。
 「見てて、全然危なっかしくないし、ほら、その子も安心してるじゃない?」
 下手な人が抱くと、安定しないのか泣き止まないもんなのよ。
 隣のベッドの娘が大分苦労してた。
 ねー、と腕の中の我が子に同意を求めると、そろそろお腹も膨れたらしい赤ん坊を縦に起こし、ゲップをさせてやる。
 じゃ、交代ね、と一度ベッドにコウを降ろすと、代わりにユキを渡されて。
 ほわりと香ったのは、赤ん坊特有の甘いミルクの香りで、美幸は酷く幸せな気分になった。
 その気持ちが表情に出たのだろうか、夏実がくすりと笑みを零して。
 「何、夏実」
 「ん、いや、幸せそうだなー、と」
 んく、んく、と勢い良く乳を飲んでいる胸元の赤ん坊に視線を落とし、くすりと笑う。
 「だって、可愛いんだもの」
 夏実は違うの、と含みのある口調に頚を傾げれば、いや勿論可愛いけどね、と苦笑した。
 「可愛いばっかりじゃないって事」
 今夜は大人しいけど、昨日なんかは泣いて泣いて凄かったもの。
 それも、片方が泣き始めると、もう片方も刺激されて、サラウンド状態よ。
 「…起こしてくれれば良かったのに」
 「翌日も仕事の人を、そう簡単に起こせる訳ないじゃない」
 良い?此れは遠慮なんかじゃないの。
 デスクで居眠り程度なら兎も角、美幸は車を運転しなきゃなんだから、寝不足は大敵。
 勿論、私が復帰したら、手伝いを頼む事になるだろうけど、でも、私が休みの内は、極力私がやるべきだと思う。
 美幸なら大丈夫だとは思うけど、それでも可能性はゼロじゃないのは、私達が一番良く知ってるでしょう?
 万万が一にでも、事故なんて起きて欲しくないのよ。
 静かな口調できっぱりと述べた夏実が、今夜、此方で眠る事を承諾したのは、つまりは明日が非番だから、だったらしい。
 夜中に目覚めて、ベッドを共にした筈の人が、何時の間にか姿を消しているのは酷く寂しいのだけれど、彼女が心の底から自分を心配してくれているのだと知れば、それ以上強く出る事は出来なかった。
 けれど、そんな美幸の心情も見透かしたのか、夏実はふっと苦笑して。
 「美幸、子育てはこれから何年も続くのよ」
 私が復帰するまでだって、何ヶ月もある訳じゃないんだし、こんな事を言ってられるのも多分今の内だけだと思う。
 その内嫌でも頼る事になるんだから、焦んないでよ。
 ちゃんと、パートナーだって、家族だって思ってるからさ。
 ね、美幸お母さん。
 ウインクを一つ寄越されて、ほんのりと頬が桃色に染まる。
 白熱灯の灯りのみのほの暗い室では、それは夏実には判別が付かなかっただろうけれど。
 「…ばか」
 腕の中の赤ん坊を、大事に大事に抱き寄せながら、美幸は想い人から視線を外すと、熱くなった頬を如何する事も出来ずに、小さく呟いていた。


END

夜泣き編の割りに全く泣いてない…。落とし所を見付けられなくて、偉く時間を食ってしまいました。


14.ばんじかいけつ

 その話が話題に上がったのは、まだ、子供が生まれる前の事だった。
 『次世代育成支援対策ぅ?』
 『そ。次世代育成支援対策推進法、だったかな』
 要するに、国や地方公共団体を対象に、少子化対策をしなさい、って法律が何年か前に制定されて、当然、警察にもその義務が課せられた訳。
 勿論、全国の警察機関に、警視総監の名前で通達が出されて、警視庁でも現在進行形で推進中。
 積み上げられたパンフとPCを前に、情報収集の結果を滔々と語る美幸は、まるで事件の時のように生き生きしている。
 対して夏実は、積まれたパンフの量に慄いたのか、少々引き気味になりながらも、然し、自分の為だとも判っている為、大人しく弁舌を拝聴中だ。
 『…それで?』
 『具体的な取り組みとしては、休暇の充実や取得の推進、超過勤務の削減、取得や勤務体制を含めた育児関係の支援、情報提供、後は…子供がいる家庭の配置転換の考慮ね』
 『…超過勤務や休日出勤が減ったり、休暇が取りやすくなった記憶なんか無いんだけど』
 ぼそりと入った突っ込みを、要するに建前って奴でしょ、と軽く流す。
 だが、実態は兎も角、就学前の子供を持つ親には超過勤務や深夜勤務の制限や看護休暇等が存在し、巧く利用出来れば、子育てが大分楽になるのは確かだ。
 尤も、今回、美幸が着目したのはそちらではなく、今年から試験的に庁内に設置された、託児施設の方で。
 『墨東署は、所轄でも割と婦警の平均年齢が低いから、これからニーズが出る筈だって、モデルケース作成に手を上げたそうよ』
 『はあー、そんなんやってたの、今まで気付かなかった』
 『…確か、募集が始まったのは、春頃じゃなかったかしら』
 掲示板に告知があったわ。
 『…身近に利用者がいるなら兎も角、そんなんで、気が付く訳ないじゃん』
 美幸は良く覚えてたね、と感心されて、春の交通安全週間のポスターを剥がしたのは自分だったから、応えてみせれば、なーるほど、と納得された。
 『で、やっぱ美幸のオススメは、此れな訳だ』
 積み上がったパンフの内、一番上にあったそれを、夏実がひょいと取り上げる。
 実は、今回の此れは、最初に調べ始めたのは夏実だったのだが、体調不良に悩まされているのを見て、先日美幸が引き継いだのだ。
 元々、区が認可している処をピックアップしていたようだが、なかなか条件が厳しく、無認可の所も調べなきゃならないかな、と呟いていたのを聞いていた所為もある。
 だが、保育所の問題は、送り迎え等、美幸にも深く拘りがある事が解りきっていた為、事務の方からも情報が貰える筈だし、と請け負ったのだ。
 『矢っ張り、署内の方が送り迎えは断然楽だし、何より、こっちの事情をある程度解ってくれるじゃない?』
 一応、スタッフの経歴も調べたけど、ベテランを引っ張って来てるようだし、何より使ってる人の評判が悪くないの。
 『へー』
 感心したように頷いた夏実は、じゃあ、実際見てみて、良さそうなら其の侭手続きするね、と開いていた冊子をぱたりと閉じた。
 その後、仕事の合間を縫って、二人してその一室を覗いた結果、早々に予約を入れたのだけれど。
 「たっだいまー」
 美幸ぃ、遅くなって御免ねー。
 交通課に挨拶に寄ったら、頼子達が離してくれなくてさー。
 耳慣れた足音が、ぱたぱたと廊下から近付いて来て、賑やかな声と共に、想い人がリビングに入って来る。
 瞬間、室がぱっと明るくなったように感じて、美幸は自身の感覚の現金さに、ひっそりと苦笑した。
 血の繋がらない愛娘が二人も出来たというのに、自身ときたら相変わらずだ。
 「お帰りなさい、夏実」
 久し振りの外出で、疲れたでしょう?
 今、お茶入れるわね。
 身軽に立ち上がってカウンターに入ると、ありがと、と素直な礼が返る。
 本日、夏実は、退院以来、ほぼ初めての外出だったのだ。
 目的地は墨東署。
 要するに、此ればかりは代理が利かず、予約していた保育室の正式な手続きを踏みに出掛けたのだ。
 通常、出産して八週間、医師の復帰許可があれば六週間が法で定められた強制休暇期間である。
 だが、此の際だから、と一年の産休期間を選択する者が多く、夏実のように、即、職場復帰する者はそれ程多くは無い。
 が、夏実自身は、八週間どころか六週間で戻るつもりで準備を進めており、二週間位なら変わらないから素直に八週休みなさい、と現在説得工作の最中だ。
 因みに夏実が出ている間の双子の世話は、当然というか、美幸の担当で、つい先刻、ミルクとオムツの交換を終えて、寝かし付けた処だった。
 「頼子達、話を聞きたくてうずうずしてたみたいだったから、大変だったでしょう」
 「うん、凄かった凄かった」
 レポーターもかくやって感じ。
 でも、出産なんて、別に其処まで特別な話じゃないのにねー。
 「仲間内からは初めてだったし、皆の入院前最後の記憶があれじゃね」
 で、肝心の手続きの方は巧く行ったの?
 「うん。そっちはばっちり」
 冷蔵庫から取り出した麦茶を氷を入れたグラスに移し、盆に載せて移動する。
 授乳中の彼女には現在食事制限が掛かっており、カフェインは御法度。
 美幸もそれに付き合っている為、最近のこの家では、お茶と言えばほうじ茶や麦茶が殆どだ。
 丁度上着をハンガーに掛け終えた彼女は、余程暑かったらしく、氷が浮いた冷たい飲み物にぱっと顔を輝かせて。
 「あ、さんきゅー美幸、冷たいの嬉しい」
 「大分暑そうね」
 「うん、まあ、気温は大した事ないんだろうけど、やっぱ湿気がねー」
 いそいそとソファーの定位置、美幸の向かいに腰を下ろすと、一口飲んで、おいし、と笑った。
 彼女の元気な笑顔がとても好きだ。
 真っ直ぐに向けられた、衒いのないそれに、とくり、と心臓が高鳴り、頬が熱くなる。
 そこで不意に、今は我慢する必要等全くないのだと思い至って。
 「それで、コウとユキは?ちゃんと良い子にしてた…って、ええと美幸サン?」
 グラスを置いて、一息吐いた夏実の声が戸惑いに揺れる。
 無論原因は、不意に立ち上がった美幸が、ついと腰を折ってローテーブル越しに彼女の頚に手を掛けたからで。
 「我が家のお姫様達は、勿論良い子にしてたわよ」
 つい先刻(さっき)、ミルクとオムツを済ませて、今は大人しくお休み中。
 という訳で夏実。
 取り敢えず肩の荷は下りた事でしょうし、時間もたっぷりある事だし、久し振りにパートナーも構いなさい。
 彼女が此の顔に弱い事を重々承知の上、至近距離でにっこりと微笑んで見せる。
 頬を赤らめ、あーだのうーだの意味不明の言葉を漏らし、視線をうろうろさせていた夏実は、やがて、上目遣いに視線を合わせると、こっくりと頷いて。
 「…はい、誠心誠意、構わせて頂きます」
 「宜しい」
 触れるだけの口接けをひとつ落とすと、回していた頚から腕を解き、身体を起こす。
 同時に彼女もまた、ソファーから立ち上がり、ほんの少し恥ずかしげに左手を差し出して。
 人気の無くなったリビングのローテーブルには、汗をかいたグラスが二つ、並んで取り残されていた。

END

うちの美幸さんは大抵こんなノリですが、このシリーズの彼女は特に強気かも。まあ、繋いだ手を確り握っておかないと、何時年下の上司に掻っ攫われるか、という危機感がありますから。何せ、既に子供も居るしね。反対に、自分が想われている自覚に薄いのは、夏実を引き込んだ罪悪感やら、東海林に対する劣等感、片想い時代が長かった故でしょうか。夏実、甲斐性ないなあ…。

15.ふっかつ…?

 復職は、非常にスムーズに行われた。
 元々、三ヶ月の予定だった所を、出産が早まった事で約二ヶ月に短縮された事、元の職場への復帰である事もあるが、美幸の根回しも効いている。
 だが、復帰はしたものの、未だ以前の夏実ではないと、皆に大きく印象付けたのは、初日、残業はまだ難しい彼女の為に、昼休みに設けられた女性職員に拠るささやかな昼食会での事だった。
 「夏実ぃ、一体何、そのお重」
 「んー?美幸お手製、スペシャルランチ」
 風呂敷から登場した、行楽弁当の見本のような見栄えの良い三段のお重は、如何見ても、女性一人前の食事とは思えない。
 ブラックホールの異名を取る胃袋の持ち主、辻本夏実のランチとしては、少ないのは確かだったが、とはいえ、朝の忙しい時間に、此れだけのものを作った美幸の手間は想像に難くなく、頼子は呆れたように息を吐き出した。
 「…美幸ぃ、あんまり甘やかさない方が良いのと違うー?」
 「別に甘やかしてるわけじゃないのよ」
 「えーこれでー?」
 見栄えだけでなく、栄養バランスやお腹への溜まり具合まで考慮された和食中心のそれには、何処から如何見ても、夏実を気遣う美幸の気配りが溢れている。
 けれど美幸は、ゆっくりと首を横に振って。
 「夏実は授乳中だから、今、食事制限が掛かってるの」
 食堂のメニューって、体力勝負の男性に合わせてあるから、カロリーだけ高くて、禁止リストに引っ掛かるものも多いのよ。
 リストの食べ物は百パー駄目って訳じゃないけど、でも、アレルギーとか、赤ちゃんに直結する事だから、此れを食べてそれでも足りない時は食堂を利用、って事にしたの。
 簡単に言うが、夏実の食欲では、この程度のサイズの弁当では、到底足りないのではなかろうか。
 けれどそう尋ねた頼子に、それがそうでもないのよ、と美幸は肩を竦めて見せた。
 「夏実、悪阻の期間が長かったでしょう?」
 食事は、体調が良い時を狙って一寸ずつ、って事を半年以上やってた所為で、胃が小さくなってるみたいなの。
 母乳を出していると、一日で八百位はカロリーを消費するんでお腹は空くらしいから、退院後は三食きちんと食べてるんだけどね。
 退院当初に比べれば、あれでも量は大分増えたんだけど、それでもまだ、あのサイズで十分足りる筈、と説明する美幸に、その場の全員が驚いたように声を上げた。
 「あの夏実が…?」
 「信じられない…」
 全員の視線が集中する先では、夏実が幸せそうにお重を突いている。
 が、言われてみれば、確かに嘗てのスピードや迫力は感じられない。
 「で、でもほら、エンゲル係数、低くなるとか、良い事もあるんじゃない?」
 それに、ある意味今の侭の方がフツーの範疇だし。
 慌ててフォローを入れる頼子に、金銭的にはそうかもだけど、と溜息を吐いた。
 「何か、あるのですか…?」
 首を傾げた葵に、美幸は困ったように頷いて見せて。
 「先刻も言ったけど、授乳って下手なスポーツよりよっぽどカロリー使うのよ」
 それを、元々燃費の悪い夏実が十分な補充を出来ない侭にしている訳だから、栄養が足りてないみたいで。
 「…という事は」
 「そう。現在、体脂肪率16%」
 「うあー」
 「ある意味、女の敵」
 「手っ取り早く太らせたくても、今回は乳製品も油モノも禁止リスト入りしてるから…」
 呻っていた美幸は、その場の全員が顔を見合わせ、ふっと笑みを漏らしたのに気付かなかった。
 眉間に皺を寄せ、どうしたものかと悩む美幸と、反対に何の悩みもなさそうにのほほんとしている夏実。
 久々に揃った墨東署交通課の誇る名物コンビの変わらぬ姿は、皆に安心感を与えていて。
 「大丈夫ですよ、美幸さん」
 私も協力しますから、最適なレシピ、作りましょう。
 にっこりと笑った葵の言葉に、私も、私も、と口々に協力の意が示される。
 報酬は、業後、二人の赤ん坊を、各々抱かせて貰う事で。

 此れ迄とほんの少し、形を変えた日常は、こうして始まったのだった。


END

嵐の前の静けさ、かな。次回、お待たせしました、の対決編その1。

16.そのひ、かぜはふきあれた(SideM)

 その報が飛び込んで来たのは、丁度あと少しで夏服から合服に切り替わる、そんな季節の頃だった。
 夏実が現場復帰して約二ヶ月。
 交通課宛に送られて来た葉書を、課長が態々夏実に渡したのは、恐らく、どういう選択をするにしろ、心構えはしておけ、という意味なのだろう。
 渡された葉書には、余り上手ではない自画像と、帰国予定の日時。
 大胆な構図と余計な事は一切書いていない無骨さが、如何にも彼らしい。
 受け取った夏実は嬉しそうではあったけれど、どちらかと言えば恋人というより、親しい友人の帰国の報せを受けたような反応で。
 逆に、自身でも意外な程大きく動揺してしまったのは、傍らから覗き込んでいた美幸の方だった。
 ────一週間後…
 心が冷えていくような感覚は、此処最近では、滅多に感じる事のなかったそれだ。
 夏実の気持ちを疑うつもりはない。
 この一年、二人で過ごして来た時間は、少なくとも美幸にそう思わせるだけのものがあった。
 美幸から取られた二人の子供の名前はその象徴で、簡単に揺らぐような気持ちなら、最初からそんな事はしなかったに違いない。
 そこまで考えて、ふと、片方は実の親から付けるべきでは、という美幸の忠告を退けて、夏実が二人共美幸の名前から貰う事に拘ったのは、若しかすると自分の為かもしれない、と思い至った。
 それでも、不安が湧き出てしまうのは、自身でもどうしようもない事で。
 「…ゆき、美幸」
 「ん…」
 耳元で囁かれ、ゆるりと意識が浮上する。
 「ゴメン、悪いけど一寸離して?」
 子供達が泣いてる。
 「うん…」
 頭が霞が掛かったようにぼんやりとしていて、何を言われているのか理解出来ない。
 ちょいちょいと指先で軽く腕を叩かれて、何時の間にか、自身が夏実の腰に腕を回し、確りと抱き付いていた事に気が付いた。
 「ああ…ごめ…」
 ゆるゆると腕を緩めると、するりと抜け出した夏実が寝台から脚を下ろす。
 離れてしまった体温が寂しくて、その猫科の獣の様なしなやかな動きをじっと見詰めていた美幸の額に、ついと屈み込んだ夏実が唇を落とした。
 「そんな顔しないでよ、寝かし付けたら直ぐ戻るから」
 煩くても良いなら、インターホンもこの侭にして行くし。
 「ん…」
 何時もなら、一緒に起きて、手伝いを申し出る所だが、どうにも頭と身体が動かない。
 それを見て取ったのだろう。
 至近距離から見詰めて来る夏実の瞳が優しく細められ、疲れてるみたいだから、無理に起きなくて良いからね、と囁いた。
 髪を梳いてくれる手が心地良くて、とろりとした眠気が襲って来る。
 肩までケットを引き上げてくれた人の気配が離れていくのを感じ取った後、暫くして、彼女が赤ん坊達をあやす声が、インターホンを通して聞こえて来た。
 『あーよしよし、二人共、遅くなってゴメンねー』
 隣で美幸が眠ってるから、もう一寸静かにするんだぞー。
 歌うように話し掛ける声と同時に、さやさやと衣擦れの音が入って来る。
 やがて、泣き声が静まった頃、柔らかな子守唄が聞こえて来て。
 聞いた事のある調べだが、融け切った思考では、脳内検索など出来る筈もない。
 ふわふわとした感覚が、唯、酷く心地良かった。
 ────なつ…み…
 それを最後に、美幸の思考は完全に闇に溶け、暫くしてから戻って来た相方は、柔らかく眦を撓ませる事になる。
 だから、美幸は知らなかった。
 眠っている耳元に、夏実がそっと囁いた事を。
 「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ、美幸」
 例えあいつが帰って来たって、美幸と離れる気なんて、これっぽっちもないんだから、さ…。

 夜が明ける迄には、まだ幾許かの時間が必要だった。

END

先ずは短く前哨戦。前々回みたいな強気の美幸さんも好きですが、こういう自分の殻に篭って悩む美幸さんもまた可愛いと思うのです。…こんな書き手でゴメンね、美幸。
次回は、遺伝子の責任者の割りに、シリーズ初登場、東海林編。時間軸を被らせるつもりは余り無いので、基本、リレー形式になります。ああ、でも、その次の夏実編は美幸視点でも書いてみたいなあ・・・。うーん。


17.そのひ、かぜはふきあれた(SideT その1)

 銃器の発見から始まり、信号機の故障、電話の不通、桜橋の爆破と橋の爆破予告、そして、墨東署への襲撃…。
 東京中を震撼させたその大事件の最中、彼は墨東署に帰って来た。
 未だ復職の手続きはしていなかったけれど、親しい人達へ挨拶…を名目に、夏実の顔を見に行ったというのが本当の所だ。
 が、そこで見た物は、滅茶苦茶になった墨東署と、その後始末に追われる署員達。
 当然のように、パンクしたタイヤの交換を行い、無線の番を頼まれた処で、彼は相も変わらず最前線にいるという、想い人と言葉を交わす行幸に恵まれた。
 けれど最終的に着いた勝鬨橋で、予想よりも早く合流を果たした東海林は、然し、初めて直に見た彼女達の仕事振り、もとい暴走振り──ひいては、絆、を見せ付けられる事になって。
 互いの思考が解っているからだろう。
 視線一つ交わす事なく、各々次の行動に移る彼女達の間には、他人が踏み込む事の出来ない何かがあるように思われた。
 以前の中嶋の言葉を思い出す。
 『小早川の場合、信用も信頼も依存も、何もかも、辻本が一番だからなあ』
 素の自分を出すのなんて、あいつの前だけだし。
 二人に割り込むんじゃなくて、それを受け入れた上で小早川と…なんて思ってるんだが、中々難しいんだよなあ、これが。
 自分が知る限り、あの時点であの二人はそういう関係にあったから、確かにそれは難しい事だっただろうと思う。
 他人に眼が向いている人間を振り向かせる事程、難しい事はないからだ。
 そしてそれは自分も同じで…だが、彼との違いは、夏実が美幸よりずっと大らかで懐が深く、奔放だった事だ。
 日本を発つ直前、日本人アルピニストが二人、ヒマラヤで遭難した事件があった。
 幾ら万全を期しても、それでも人の手ではどうしようもない場面がある。
 それは自分も良く理解っていて…その為、告白すら出来なかった自分に、彼女は未練がないから駄目なんだ、と襟首を掴み上げた。
 神とやらの領域があるにしろ、それらを跳ね除け生き残るのは、結局、気力が勝った人間なのだ、と。
 未練、心残り、そんなものが、生に対する執念に繋がる事を、彼女は知っていた。
 そして、その勢いで、あんた他人の事ならいざ知らず、自分の事に関しては、いざと言う時にあっさり諦めそうだから、一つぐらい未練を残して行け、と強引に押し倒させられた。
 美幸との関係を知っていた為、固辞しようとしたものの、それは私が考える事であって、あんたが考える事じゃない、とすっぱりと切捨てられてしまって。
 尚も躊躇う自分に業を煮やしたのか、強引に掴んだ襟首を引かれて口接けられ…要するに、理性が吹き飛んだ。
 だが、その形のないお守りは本当に効いたのだ。
 あの危険と隣り合わせの偉大な土地で。
 礼を言っても、彼女はきっと受け取らない。
 いや、そもそも礼を言う事そのものに違和感がある。
 なら、代わりに自分が彼女に渡せるのは、厳しさ、苦しさ、喜び、感動等、写真や話だけでは決して伝えられないものを、何時か彼女と共有したい、という想いだけだ。
 けれど、そんな気持ちを抱える自分と、彼女が生きる今眼の前の現実とには、余りにもギャップがあって。
 その上、己の限界と向かい合いつつ、一瞬一瞬に最善を尽くす彼女達は、自分の知っている普段の彼女達とは別人だった。
 彼女達の本業に同席したのは、実は今回が初めての事。
 夏実だけなら兎も角、冷静な美幸と組んでいて、何故墨東署きっての暴走コンビ、等と称されるのか不思議だったが、追跡中の美幸は自分以上、という夏実の言にも、これで漸く納得がいった。
 吊り下げられたヘリから強引に降りたのも無茶なら、その後ミニパトで銃を相手にしたのも、バイクでヘリを足止めしたのも何もかも無茶。
 その後、自分を他のメンバーに預けて出掛けて行った東京タワーで、更に銃に生身で対峙するという、とんでもない真似を二人してやらかして来たそうで、後から事の次第を知った自分は、本気で眩暈を覚えてしまった。
 だがもっと衝撃的だったのは、此れだけとんでもない無茶を重ねているにも拘らず、顛末を聞いた周囲の反応が、ああまたか、程度のものだった事だった。
 命懸け。
 将にその言葉が当て嵌まる。
 警察官という職業に就いている以上、どんな部署でも、現場に立つ者には多かれ少なかれ、それなりのリスクが掛かっている。
 それでも、機動隊や自分達救助隊等に比べれば、比較的安全と思っていた交通課の所属の二人が、此れ程迄に危険と隣り合わせにいるとは考えてもみなかったのだ。
 あんな事を、毎日…とは言わないまでも、周囲にあんな反応をされる程度には繰り返しているのだとすれば、二人の絆が強くなるのは当然で。
 正直、敵わないと思ってしまった。
 護るでもなく護られるでもなく対等で、そして二人でいる事が、互いの力を引き出している。
 自分と夏実なら、決してあんな風にはなれないだろう。
 けれどそれでも。
 何処かに希望はあると思ってしまうのは、自分の想いの強さ故、彼女が渡してくれた想い故、そして好敵手(ライバル)の性別故かもしれなかった。
 浅ましいと、他人は言うかもしれないけれど。
 ────それでも、俺は、貴女が欲しいんです、夏実さん
 事態の変化を、未だ彼は知らなかった。


END

す、済みません、状況説明だけで結構な行数を食ってしまったんで、此処で一度切ります。
映画を繋げたのは、イメージがしやすいかな、と思ったので。但し、事件の内容以外の部分、
特に背景部分は全く違ってますけれど。


18.そのひ、かぜはふきあれた(SideT その2)

 滅茶苦茶になった署内において、数少ない無事だった場所──食堂にて、半ば自棄なのかはたまた明日からの自身を鼓舞する為なのか、緊急に開かれた、「お帰りなさい&事件解決ご苦労様&明日からまた頑張ろうね」パーティーに、主賓として連れ込まれた東海林は、場も酣となった頃、漸くやって来た二人に、やっと話し掛ける事が出来ていた。
 「夏実さん、美幸さん、お疲れ様です」
 「おー、将司君」
 「巡査長こそお疲れ様です」
 何か、随分手伝って頂いたみたいで。
 会場の隅で食事を始めた二人の間に流れる空気は、以前と全く変わった様子はない。
 東海林と夏実の間にあった事を、美幸が知っているのかいないのか非常に気になる処だったが、流石に尋ねる訳にも行かなくて。
 「あの後、また無茶をしたそうで…」
 お二人とも、あんまり吃驚させないで下さいよ。
 「うーん、無茶かなあ?」
 単に、警察官としてのベストを尽くしてるだけなんだけど。
 ねえ?と同意を求められて、美幸がまあね、と苦笑する。
 彼女もまた、夏実の行動を無茶と思っている部分があるのだろうが、然し、他人から見れば、自身が同じ穴の狢という自覚があるのかもしれない。
 「ま、終わり良ければ全て良しってね」
 そういえば、遅くなったけど、将司君も、登頂成功おめでとう。
 からりと笑って話題を変えると、べん、と手近のボトルを手持ちのそれにぶつけて来る。
 そのボトルがミネラルウォーターであった事から、釣られるように周囲に眼をやり、二人の周辺にアルコールの類が一切ない事に気が付いた。
 「珍しいっすね、夏実さん」
 今日はバイクかなんかなんすか?
 美幸が車で来ている事は知っているので、彼女がアルコールを手にしていない理由は解ったが、例えバイクで来ていても、彼女の車に同乗すれば問題ない夏実迄が、好きな麦酒に全く手を出していない理由が解らない。
 余程不思議そうな顔をして見えたのか、夏実は小さく苦笑すると、くいとボトルの中身を口にした。
 「まー色々あってさ。禁酒中なのよ、今」
 「身体でも壊したとか…?」
 「そんな風に見える?」
 「いえ。でも、全体に少し痩せたみたいなんで」
 そう。
 ヘリから放り出された夏実をぎりぎりの処で受け止めた後、冷静になってから、ふと、そう感じたのだ。
 帰って来て初めて彼女を見た瞬間も、一回り小さくなったような気がしていたのだが、状況に違和感は流されてしまった。
 が、実際に腕に抱いてみて、自身が覚えているよりも、幾分骨張っているような気がする。
 じっと見詰めて真実を見定めようとすると、夏実はばれたか、とでも言うように、肩を竦めて見せていた。
 「当たり」
 肉類や油物減らして、所謂食生活の改善、って奴をしたらさ、こうなんだよね。
 言われた言葉の内容を咀嚼し、眉を寄せる。
 確かに夏実の皿には、こういったパーティーには定番の揚げ物は、一切乗っていない。
 「ダイエットでもしてるんすか?」
 確かにそれ、食生活として、一般には良いって言われてますけど、夏実さんなんかがやったら、エネルギー不足になるんじゃ。
 「私なんかって何よー」
 「夏実さんや俺みたいに、燃費が悪いヒトって意味っす」
 別に太ってる訳じゃないんだし、下手な事をすると身体を壊しますよ。
 けれど、真剣な忠告は、へらりとした笑みにあっさりと流されて。
 「だいじょーぶだもーん」
 美幸がちゃんと管理してくれてるし。
 「…はあ?」
 唐突に出された美幸の名前に途惑って、反応が遅れた。
 その間に、夏実は頼子に呼ばれ、一寸行ってくるー、と身を翻す。
 「あの、美幸さん、今の夏実さんの台詞って…?」
 思わず黙って見送ってしまった東海林は、矢張りその場で彼女を見送った、名前を出された当のそのヒトに、彼女の言葉の意味を尋ねてみた。
 聞きたいような、聞きたくないような、そんな心情を押え付けて。
 だが、何でも無い事のように返って来た返答は、それが故に東海林を沈没させた。
 「ああ、別に管理してるって程の事でも無いんですよ」
 単に、ウエイトと体脂肪率をチェックして、食事に気を付けさせているだけで。
 もうずっと前からやってる事ですし。
 美幸は否定したが、それは立派に管理の内に入るのではなかろうか。
 黙り込んでしまった自分を如何思ったのか、美幸は小さく笑みを浮かべると、反対側の壁際で、頼子や葵達に囲まれている夏実に視線を巡らせた。
 「…初めて同居した年の夏、矢っ張り夏実が体重を落としてしまって」
 月のものが止まってるっていうのに、何か不味いの?ですよ?
 放って置けないじゃないですか。
 それに…。
 「それに?」
 「徳野さんに、言われたんです。夏実を長生きさせたかったら、私の方で気を付けろって」
 「徳野さんに?それってどういう」
 長生きさせたかったら、とはまた不穏な台詞だ。
 「身体に自信を持っている人間の方がぽっくりいってしまって、却って病気がちの人間の方が長生きするって良く言いますよね?」
 そういう人間は、概して痛みにも我慢が利くから、自分は丈夫だから大丈夫、って思ってる内に病気が進行して、病院に行った時は取り返しがつかなくなっている事が多いんだそうです。
 「…夏実さんがそのタイプだと?」
 「ええ。言われてみればその通りでしょう?」
 それに、徳野さんにそう言われた時、夏実、肋骨にあちこち亀裂入れてて、でも私を含めて周囲には一切気付かせなかったんです。
 蹲ってる夏実を見付けた時、心臓が止まるかと思った…。
 だから、その時決めたんです。
 もう二度と、こんな思いをしないようにしようって。
 「美幸さん…」
 きっぱりと言い切った彼女の夏実を見詰める視線は、酷く優しい。
 出会ってからずっと、美幸はこうして夏実を見詰め、そして大切にしてきたのだろう。
 話せば話す程、一緒に居れば居る程、彼女の想いの深さや、絆の強さを思い知らされる。
 翻って、自分は如何か。
 彼女が好きで、大切にしたいという想いは同じだが、何か行動を起こした記憶が、余り、無い。
 「美幸ー、そろそろ時間ー」
 視線の先で、頼子達の輪の中から、夏実が室のざわめきをものともしない、良く通る声で美幸を呼んだかと思うと、ぶんと大きく手を振った。
 思考の渦に入り込み掛けた東海林が、はっと我に返った横で、美幸もまた小さく手を振って。
 「解った、直ぐ行くねー」
 それじゃ、巡査長、私達はこれで。
 ぺこりと頭を下げると、自分の皿を手早く片し、さっと身を翻す。
 直ぐに出入り口付近で待っている夏実に合流すると、夏実がまたねーと手を上げて。
 視界から消えていく二人の背中を追いながら、東海林は、不甲斐ない自身に向かい、大きく息を吐き出したのだった。


END

東海林編その2、の割りに、予定の所まで行ってない…。もう一回だけ、東海林編が続きます。
…苛められっ放しだなあ、このヒト。
因みに、美幸の台詞は、実は別個に書いてる話とリンクしてたり。途中まで書いて、放りっぱなしだなー、これも。こうして過保護な美幸さんになりました、みたいな話の予定、なんですけどね。

19.そのひ、かぜはふきあれた(SideT その3)

 その話を聞いたのは、彼が帰国して、一週間以上も過ぎた頃の事だった。
 無茶苦茶になった署内も、穴だらけになった機材の正式交換はまだ済んでいないものの、清掃や使い物にならない機材の撤去は済み、使用可能な代替機等が緊急に集められ、取り敢えず、通常業務を回すのは何とかなる程度には落ち着きを取り戻していた。
 帰国した翌日には本庁に赴き、復帰の手続きを済ませた東海林は、関係各所に挨拶を済ませると、当然のような顔をして、墨東署の手伝いに当たっていた。
 勿論、夏実や美幸とはそれなりに顔を合わせていて、だから彼女達が口を噤んでいたのは、彼女の意思なのだと解る。
 けれど、此れはないのではないかと思う。
 結婚するしないは兎も角として、存在位教えてくれても良いのではないかと思うのだ。
 『巡査長は、式とか所属とか如何するつもりなんだ?』
 夏実と美幸が揃って非番の、のんびりとした昼下がり。
 お腹を満たし終え、のんきに昼寝をしていた束の間の彼の平和は、唐突に遣って来た闖入者によって壊された。
 『巡査長、一寸聞きたい事があるんだが…』
 そう言って、彼の元を訪れたにも拘らず、暫くの間、言い難そうに口篭っていた自称墨東の白き鷹は、やがて、意を決したように面を上げると、どもったり躊躇ったりを繰り返しながら、漸く先の台詞に辿り着いた。
 だが、東海林にしてみれば、唐突過ぎる問いであり、一体何故、突然こんな質問が飛び出て来たのだろう、と首を傾げるばかりだ。
 墨東署は確かに放送局と渾名される頼子がいるお陰で、噂には事欠かない場所柄だが、この問いはやけに彼が夏実との結婚を確信しているように耳に響いた。
 だが、公には兎も角、夏実には彼女が決めたパートナーが存在し、現時点では自分に出る幕はない。
 とはいえ、リスクを背負った関係であるのも確かで、だから自分は長期戦のつもりでいたのだが。
 『あの…唐突に、一体何の話っすか、中嶋さん』
 『や、だから、結婚式の時期とか、形式とか…』
 それに、巡査長は何れ富山に戻るんだろう?
 だが、辻本が警官を止めるとは一寸思えないんで、その辺の処を如何するのかをだな…。
 『ちょ、待って下さい、中嶋さん』
 何時の間に俺、結婚する事になってるんすか?
 展開に驚いて話を遮り、根本の部分を問い質す。
 が、相手の方は、何故東海林が慌てているのか理解が出来ないらしく、何言ってんだ、という顔をするばかりで。
 『何時の間にって…しないつもりだったのか?』
 それは同じ男として、如何かと思うぞ、と肩を叩いて諭され、益々混乱する。
 『や、してくれるものならして欲しいっすけど…』
 そうじゃなくて、俺が聞きたいのは、そもそも何で俺が夏実さんと結婚するって、中嶋さんが思い込んでるのかって事っす。
 『何でって、子供が出来たんなら、誰だって結婚するって思うだろ』
 『は?子供?』
 『…まさかとは思うが、聞いてないのか?』
 思わず上げてしまった頓狂な声に、此方もまた信じられんといった表情の中嶋が、恐る恐る尋ねてくる。
 こっくりと頷いた東海林に、何を考えているんだアイツは、と頭を掻き毟った彼は、大まかに昨年自分が国を出てからの事───つまりは、妊娠発覚から出産迄の過程、そして夏実が復帰してまだ二ヶ月しか経ていない事等を教えてくれた。
 『頼子がいるんだから、例えあいつ等が話さなくても、とっくに耳に入ってて良い筈なんだがなあ』
 独白に、けれど、却って東海林は納得した。
 つまりは、夏実と美幸の関係を知る者達の間では、自分にこの話は流さないという事になっていたのではあるまいか。
 けれど、眼前の中嶋は、幸か不幸か未だ二人の関係に気付いていないらしい。
 だからこそのこの質問。
 そして、だからこそ比較的早いこの時期に東海林も知る事が出来たのだ。
 自分は元々警視庁の所属ではないから、そう遠くない未来に富山に帰る事になる。
 加えて、登山の計画への誘いも無いではなく、状況によっては一生知らないで過ごしてしまう可能性もあった事を考えると、自身にとっては中嶋の鈍さは間違いなく行幸で。
 ────夏実さん……
 先ずは真実を確認すべく、何時もの如く自転車で署を飛び出し、教えられた、というより聞き出した二人のマンションへと向かう。
 あの後、中嶋は頼子を中心とした交通課の女性陣に引っ張って行かれたが、その後については彼の意識の蚊帳の外だ。
 辿り着いた小奇麗なエントランスを自転車ごと潜ると、インターフォンの呼び出しボタンを数度押す。
 珍しく焦りが態度に出てしまったのか、鳴った音は酷く乱れたものだった。
 が、暫しの間大人しく待ったものの、一向に繋がる様子はなく、東海林は再び、今度は少し落ち着いた間隔で、呼び鈴を鳴らして。
 「はーいはい。わーかったって、どちらさまー」
 …って将司君?
 カメラに映った自分姿を確認したのだろう。
 聞き覚えのあり過ぎる声が自分を呼ぶ。
 上がった語尾に、疑問符を飛ばしているのが姿を見ないでも解った。
 「突然、済みません、夏実さん」
 でも俺、聞きたい事があるんで、取り敢えず此処の玄関、開けて貰えますか?
 「…解った、今開ける」
 あ、自転車、そこに置きっ放しは拙いから、持って上がってきてね、悪いけど。
 何となく、話の内容が予測出来たのだろうか。
 やけにあっさり了承したかと思うと、ぷつんと通話が切れ、眼前のエレベーターホールへの扉が開く。
 降りて来たエレベーターに、言われた通り自転車ごと入ると、中は意外な程広い。
 ゆっくりとした浮遊感と共に、現在階のランプが指定フロアまで上がって行くのをじりじりとした気持ちで眺め、やがて、辿り着いたフロアで降りると、部屋番を確認しながら移動する。
 ────此処だ
 聞いていた番号が付された扉の前で、押していた自転車を止めると、端に寄せてロックする。
 深呼吸を一つして、壁に設置されたインターホンに手を伸ばした。
 「はーい」
 ふと、思った。
 勢いで此処まで来てしまったが、一体どんな顔をして会えば良いのだろう。
 近付いて来る足音に、俄かに緊張して、彼はぎゅっと両の手を握り締めたのだった。

 END


ハロウィンssと同時に書いていたら、結局どっちも終わらんかった……。二兎を追う者は一兎も得ず、の良い見本。
これにて漸く、東海林編終了です。次回、夏実編。紛う事なく、山場です。…というか修羅場?

20.そのひ、かぜはふきあれた(SideN その1)

 意識が浮上したのは、恐らくは外部からの刺激に因るものだった。
 何時もは比較的大人しい二人が昨夜は大荒れで、いっそ起きた侭だったなら兎も角、うとうとした所を泣き声で起こされる、を只管繰り返した夏実は、朝から酷い偏頭痛に見舞われており、少し眠ったらという美幸の勧めに従って、ベッドに戻ったのが十時頃。
 時計を見れば、お昼を少し回った処で、たっぷり二時間は眠った事になる。
 その所為か、米神辺りから眼球の奥に掛けて間断なく続いていた、錐でも捻じ込まれる様な痛みは綺麗に消えており、夏実はすっきりとした目覚めに身軽に身体を起こすと、喉を潤す為に部屋を出て。
 扉を閉じた処で、自身の部屋の表示にメッセージが貼り付けられている事に気付く。
 ────子供達と散歩、か…気を遣わせちゃったかな
 休日ともなれば、用事がなければ子供達の傍に居たがる美幸の事だから、散歩デートを確り楽しんでいるのだろうとは思う。
 が、今日のこれは、先ず間違いなく眠っている自分を気遣って、外に連れ出したに違いない。
 ────メモの時間からすると、もうそろそろ帰って来てもおかしくないよね
 お昼は何か、美幸が好きなものを作ろうと考え、リビングへ移動する。
 ミネラルウォーターで喉を潤した後、さて何を作ろうかと冷蔵庫を覗き込んだ処で、エントランスのインターフォンが賑やかな音を立てた。
 自分達は休みだが、世間で言えば平日の真昼間だ。
 宅配便の覚えも来客の覚えもなく、不審に思いながらモニターを覗き込めば、見覚えのあり過ぎる青年が佇んでいる。
 らしくもなく、酷く焦った様子に、何とはなしに状況を悟った夏実は、それでも普段の口調を装いながら、ラインの向こうと会話して。
 苛立ち、焦り、戸惑い、そんなものを、モニター越しにも解る程その身に纏わせ、彼にしては珍しく、強い口調で対面を求めて来た。
 何れ通る道なら、早い方が良いだろうと、すんなりエントランスを開ければ、却って彼は酷く戸惑ったようだった。
 元より、一年も前から覚悟を決めていた夏実だ。
 今更慌てる必要もなければ、先延ばしにする必要も無い。
 いや、最近の美幸の情緒の不安定さを考えれば、彼女としても早期にはっきりと蹴りをつけてしまいたかった、と言うのが正直な所である。
 それでも、彼に事情を話さなかったのは、どちらにせよ何一つ渡す気がないのなら、彼の中では最初からなかったものとして置いた方が、余計な悩みを抱え込まなくて済むだろう、という夏実なりの彼への気遣いだったのだ。
 ポーン、と玄関のフォンが鳴り、出ようとして、自分が部屋着と言っても余りにラフな格好をしている事に気付いたが、まあ良いかと通りすがりにソファーに掛けてあった美幸のカーディガンを拝借する。
 軽く袖を通しながらはーい、と声を上げ玄関に出ると、一応モニターを確認してからロックを開けた。
 「おー将司君、一日振りー」
 そんなに慌てて、何かあった?
 勢い込んで遣って来た彼は、のんびりとした夏実の様子に、気勢を削がれたらしく、一瞬黙り込んだものの、しかし、この侭では夏実のペースに巻き込まれると思ったのだろう。
 意を決したように面を上げると、躊躇い勝ちに切り出して。
 「その…夏実さんに、俺との子供が出来たって聞いて」
 ストレートな物言いは、誤魔化されるのを警戒してか、はたまた単に性格か。
 出国前の煮え切らない様子を考えれば、どちらかと言えば前者かな、等とそれなりに失礼な事を考えつつ、現場に出た時の落ち着きや決断力を、少しはプライベートにも生かせば良いのに、と内心でぼやいた。
 「…どっから聞いて来たの、その話」
 「中嶋さんっす」
 式は何時にするんだ、って聞かれて、何の事すか、って聞いたら、子供が出来たんだから結婚するんじゃないのかって。
 夏実さん、俺、子供が出来たなんて、聞いてないっすよ。
 ――――あちゃー、中嶋君か
 まあ、確かに彼にしてみれば、私が常に一緒にいる現状より、結婚してくれた方が都合が良いのかもしれないけど。
 この状態になっても、未だに気付いていないって、どんだけ鈍いのよ。
 子供が出来ても同居が続いている時点で、察するものがないのかあいつは。
 自称墨東の白き鷹に心の裡で盛大に文句を連ねながら、大きく頚を縦に振った。
 「そうね、言ってないもの」
 「夏実さん!」
 「一寸、こんな処で大きな声、出さないでよ」
 取り敢えず、入って。
 少なくとも、玄関先でするような話題じゃないしね。
 肩を翻して中に促し、リビングのソファーに案内する。
 最近はすっかり定番のほうじ茶を用意し、カウンターから戻れば、彼がやけに落ち着かなげなのに気が付いた。
 「子供達なら居ないわよ」
 今、美幸が散歩に連れ出してるから。
 ことりと熱い茶碗をテーブルに置くと、彼の向かいに腰を下ろす。
 若しかして具合悪いんですか、と今更ながら、申し訳なさげに尋ねられて、そんな様子を見せたかな、と頚を傾げた。
 「具合って程の事でもないけど…何時もの偏頭痛?」
 もう収まってるし。
 何で解った?
 「最初に鳴らしたインターフォンに反応が無かったのと…随分ラフな格好してるし、それに此れ」
 額を指し示されて当ててみれば、吸熱シートが貼ってあるのが解った。
 「あー、美幸か」
 すっかり温くなっているそれを剥がし、丸めてぽいとゴミ箱に放る。
 あっても微熱程度だった筈だが、心配性の美幸の事だ、気にして態々貼って行ってくれたのだろう。
 「心配性だからねえ、美幸は」
 苦笑するが、しかし、東海林の方は思う所があるらしく、夏実さんにはその位の方が丁度良いっす、と神妙な顔で返してきた。
 出会った頃はそんな事はなかったし、そういう関係になった後も、多少口喧しくなったかな、位で今程ではなかった。
 彼女が怪我や病気に対して過敏に反応するようになったのは、自分が怪我で入院するしないの騒ぎになった後からで、それだけ心配を掛けたのだと思うと、夏実もまた多少大袈裟に感じてはいても、拒む事が出来ないでいるのだ。
 「…で?」
 美幸の帰宅時間を気にしつつも、話しやすいよう水を向ける。
 彼女の精神の安定を考えれば、出来れば美幸も此の場に同席して欲しいのだが、そう巧くは行ってくれないらしい。
 あれだけ互いに気持ちを確かめあったにも拘らず、矢張り性別という壁は破り難いのだろうか。
 何より、あの十ヶ月間、夏実を支え続けてくれたのは、他の誰でもなく美幸だというのに。
 「どうして…言ってくれなかったんすか?」
 「言って何か変わる?」
 「変えたいとは思ってます」
 言ってくっと面を上げると、真正面から睨み据えて来る。
 胆を決めた男の表情って、こういうものだよね、と夏実は他人事のように思った。
 彼の事が、好きな気持ちは偽りない。
 そういった行為も抵抗は無かったし、だからこその此の状況だろう。
 多分、美幸という存在がなければ、素直に彼と結婚する気になっていたに違いない。
 彼と出逢うまで、自分の背中を守れる人間等、存在しなかった。
 それはあの東京タワーの一件でも解る。
 あの強風の中、男性よりも遥かに体重の軽い夏実がそれでも救助要員として選ばれたのは、彼女以上の適任があの場にいなかったからだ。
 そうして、常に先陣を切って来た夏実にとって、自身の得意分野に関して、己より上を行く存在は初めてだった。
 自分以上の存在を認めたくなくて反発し、けれど何時しか惹かれていた。
 初めて出会った、自分を包める可能性を孕んだ人物だったからかもしれない。
 けれど、その時には既に、自分の隣には美幸がいて。
 正反対と言われつつ、根っ子の部分で似たものを持った、時には背中を預け合いながら同じ歩幅で走れる存在と、似たもの同士で自分を包み込める存在。
 どちらも大切で大好きで、天秤に掛けている自身に嫌悪を感じつつも、掛けざるを得なかった。
 これからの人生を歩くに当たり、真実、自身と歩んで欲しいヒトは、一体どちらなのだろう、と。
 だがその自問には、己の気性を考えた瞬間、既に答えが出ていたのだ。
 加えて、執着心の薄いこの自分が、誰にも隣を譲りたくないと思うのもただ一人で。
 辻本夏実が辻本夏実らしくある為に必要なのは、同じ目線を持った、共に走れる存在なのだ、と。
 ブロックに例えれば、似ていて似てない丁度対称の形の美幸と、サイズ違いの同じ型の東海林。
 同種の存在は安心できる。
 けれど、自分はきっと、それだけでは満足出来ないのだ。
 似ていて、けれど決して同じでないが故に、生み出される様々な形は、だからこそ夏実をこんなにも魅了する。
 こうして真剣に自分を想ってくれている彼には、非常に申し訳ないのだけれど。
 視線が絡み合い、暫しの間、沈黙が落ちる。
 ふと物音を聞いたような気がして、ついと彼から視線を外した夏実は、彼の斜め後ろに位置する廊下へと続く扉の向こうに、慣れた気配を感じ取って。
 ────入るに入れないか、これじゃ
 扉を開けて、招きいれようかと思考を巡らせた瞬間、夏実さん、と遮られる。
 再び視線が合わさると、待っていたかのように、ゆっくりと彼が唇を開いた。
 
 長いような短いような、そんな時間が室を満たしていた。
 
END

済みません、とんでもない部分で、続く、です…。おかしい、あっさり一回の予定だったんですが。シリーズ初の夏実編の所為か、漏れなく書こうと思ったら、百行書いてもまだこんな所…。後一回だけ続きます。で、対決編のシメはやっぱり美幸編で行こうかと。バランスも良いし、やっぱり当事者の一人でもあるんで。


21.そのひ、かぜはふきあれた(SideN その2)

 「単刀直入に言います」
 結婚して下さい。
 真っ直ぐな瞳と、誤解も曲解もしようのないストレートな台詞。
 緊張に頬を強張らせながらも、ひたりと視線を逸らさない彼に、酷く彼らしいと思った。
 彼のこういう朴訥とした部分が好きだった。
 昨今では、行動よりも先ず口が出るタイプの人間が多いが、育ててくれた祖父がそうだったからだろうか、夏実としては言葉より背中で示す人間の方が好みだったりする。
 尤も、だからと言って、既にパートナーを得ている自分が、彼の言葉に頷く訳もなかったが。
 「ダメ」
 一世一代のプロポーズをすっぱりと一言の元に拒否されて、流石に凹んだのだろう、がっくりと両の肩が落ちる。
 彼自身も予想はしていたのだろうが、矢張り、正面きって言われると落ち込むらしい。
 「夏実さん…」
 せめて、もう少し言葉を選んでくれても、と言う彼に、けれど夏実は、誤解させるような台詞は吐きたくない、と頚を横に振っていた。
 「大体、此のタイミングって事は、子供が出来たからって事でしょ?」
 そんな理由で結婚なんて、真っ平御免よ。
 「違います。いや、勿論それもあるんですけど、俺は、貴女が」
 「夏実って名前の女のヒト、他にもいるわよ」
 遮るように、出発時の煮え切らない台詞を揶揄すれば、きっと眉が寄せられた。
 自身でもあの台詞は流石にどうかと思っていたらしい。
 「その件は謝ったじゃないすか」
 「ま、どっちにしても駄目だけど」
 知っての通り、私にはもう、決めた相手がいるしね。
 きっぱり言い切れば、そりゃ解ってましたけど、とほんの少し情けなく表情が崩れた。
 内心でゴメンと謝りつつ、けれどそれは決して口には出すべきではないと、瞬き一つで押さえ込む。
 「妊娠が解った時、色々考えた」
 自分の為には、子供の為には、如何するのが一番良いかって。
 世間体を考えるなら、結婚する方が良いんだと思う。
 多分、子供の為にもね。
 でも。
 きっとそうしたら私、一生後悔すると思った。
 だって私のココが、こんなにも美幸じゃなきゃイヤって叫んでるんだもの。
 とん、と自身の胸を指先で叩き、笑みを作る。
 何時ものような笑みになってくれたかは、自分では解らなかったけれど。
 「だから、あの時、決めたの」
 結婚はしない。
 自分の気持ちに正直に生きようって。
 それを其の侭美幸に伝えたわ。
 一緒に子供を育てて欲しい、って。
 あの時。
 他人と行為をしたと知っても、そしてその為に子供が出来たと知っても、美幸は一言も責めなかった。
 男女の間柄なら、先ず間違いなく修羅場になっていただろうあの場面で、それでも彼女がそうしなかったのは、恐らく自分と付き合う上で、東海林と引き比べ、自身の性別に引け目を感じていたからだろう。
 『…結婚、するの?』
 あの痛々しい表情は、自分がさせたのだと思うと、未だに胸が痛む。
 そして、ずるいとは理解りつつも、自分は彼女の気持ちに付け込んだのだ。
 『一緒に育ててくれないかな、美幸』
 『……うん』
 己の気持を曝け出し、引き換えに彼女の将来を要求した手口は効果覿面で、躊躇い勝ちとはいえ、彼女は確りと頷いてくれて。
 だが、一度は頷いたとはいえど、好きな相手の子供とはいえ、自分ではない、恋敵である他の男性との間に出来た子供を育てようとしているのだ、葛藤が無かった筈が無い。
 にも拘らず、妊娠中も、そして出産後も、自身と子供達をこの上なく大切にしてくれている彼女を、夏実は彼女が自分を想ってくれている限り、大事にしようと心に決めていた。
 二度と、あんな顔をさせるつもりは無い。
 「それって…事実上のプロポーズ、っすか?」
 それも、周囲の男共に比べれば、随分とストレートな台詞に、思わず自身や周囲の連中と引き比べたのか、東海林の眉間に皺が寄る。
 恐らく交通課の女性陣に聞かせれば、爪の垢でも煎じて飲ませたい、等の発言が飛び出してくる事だろう。
 「私的にはそのつもり」
 ま、美幸が如何取ったかは知らないけど、伝わってると良いなとは思ってる。
 「………」
 伝わっているかは解らないと夏実は言ったが、それでも美幸が一緒にいる以上、少なくともニュアンスは伝わっていると見て良い筈で。
 する方もする方なら、受ける方も受ける方だ。
 彼の顔には、ありありとそう書いてあったが、残念ながら、夏実が気付く事は無かった。
 「それに…将司君、仕事辞める気、無いでしょ?」
 悪いけど、私も無いし。
 山の方もさ、聞いたわよ。
 また、何処か登りに行く話が出てるって。
 コッチの事なんて気にしてないでさ、やりたい事を目一杯してなよ、将司君は。
 私は、そういう貴方の方が好きかな。
 ね、と笑い掛けて見せると、はああ、と大きく東海林が息を吐き出した。
 既に道を決めてしまった夏実に、何を言っても無駄、という事を、思い切り実感したのだろう。
 「せめて…認知くらい」
 「止めときなさいよ、後で面倒事に発展するわよ、それ」
 将来の事も考え頚を横に振った夏実に、東海林の瞳が切なげに眇められる。
 それはそうだろう。
 何しろ、プロポーズしたその場で、当のその相手から、別の人間と結婚する可能性を示唆されたのだから。
 「子供の顔…時々、見に来てもいいすか」
 「まあ、その位なら…良いかな?美幸」
 扉の外で動けずにいるだろうヒトに声を掛けると、すいと立ち上がって大股に歩み寄り、徐にノブに手を掛ける。
 ひょいと廊下を覗き見れば、扉の横の壁に背を預けていたらしい美幸が、吃驚したように此方を見ていた。
 「お帰り、美幸」
 これ、とその娘達も、ありがとね。
 額を指し示した夏実にゆるりと頚を横に振ると、伸びて来た掌が額の熱を図る。
 触れた手が余りに冷たい事にほんの少し吃驚して、直ぐにそれが精神的なものから来ている事に気が付いた。
 「只今…うん、ちゃんと下がってる」
 「でしょ」
 それよりゴメン、気付いて直ぐ、中に入って貰おうと思ったのに、タイミングが掴めなくて。
 「ううん、私も…」
 皆まで言わせずにその手を掴むと、ほら入ってと中に促す。
 足元の籠を一つずつ持ち上げ、手を引いてリビングに入ると、東海林が驚いたように眼を見開いていた。
 「美幸さん…何時から」
 言い掛けて、けれど直ぐに、自分達の持つ籠の中身に気付いたのだろう。
 ソファーの横に並べて置くと、視線が釘付けになって。
 「…それ」
 「ん、そう」
 話題の子供達。
 「って、双子だったんすか!?」
 「そーよ、知らなかった?」
 「聞いてないっす…」
 がっくりと。
 本日何度目かの脱力感を味わっているらしい彼に、そんなに驚く事かなと呟くと、決まってるでしょ、と横から答えが返って来る。
 「あの…女の子っすよね?二人共。名前は?」
 「ん?お姉さんの方…ええと、ソファー側のがコウ、妹の方がユキ」
 「…どういう字、書くんすか?」
 妹の方は、想像付きますけど。
 ちらりと美幸に視線を投げて苦笑した彼に、何処となく申し訳無げに美幸が肩を窄める。
 対して、夏実の方は、実にあっけらかんと真実を告げていた。
 「同じよ。美幸から貰ったの二人共」
 「同じ、…てっ漢字が?二人共っすか!?」
 双子で同じ字って…後で混乱するんじゃ。
 それに、どっちも美幸さんからって。
 「いーじゃない」
 美幸のユキは幸福のコウ。
 幸せになって欲しかったんだもん。
 ま、良い女に育つ事は間違いないけどね。
 何せ、こんな良い女を二人も母親に持ってるんだから。
 自信満々に言い放つと、二つの籠に並んで寝かされている赤ん坊達に、ねー、と同意を求める。
 母親に話し掛けられたからだろうか、ほやほや楽しげに笑う赤ん坊達に、ほんの少し緊張を孕んでいた美幸の表情が柔らかくなって。
 「その…抱かせて貰って良いすか」
 母と子の平和過ぎる光景に、つい、といった調子で申し出た東海林に、一瞬、夏実の視線が美幸のそれと絡む。
 どうぞ、とでもいうように頷いてみせた美幸に、にこりと笑って見せると、夏実は赤ん坊の一人をひょいと腕に抱き上げていた。
 「まだ首が座ってないから、気を付けてね」
 一応の注意事項と共にはいと差し出せば、神妙な面持ちで頷き、こわごわと小さな塊を腕に抱く。
 見掛けに拠らず豪胆な彼が、恐る恐るといった様子なのが珍しくて、美幸と視線を合わせてくすりと笑みを溢した。
 「じゃ、私、お昼の用意するね」
 美幸、オムライスで良いかな?
 将司君も食べてくでしょ?
 機嫌よく笑って身を翻し、後は任せたとカウンターへ向かう。
 「夏実、貴女、卵はまだ」
 「解ってる、自分の分は中身だけにするから」
 慌てたような美幸の指摘に、大丈夫と手を振った所でそれは起こった。
 東海林に渡された赤ん坊が、それまで機嫌の良かったにも拘らず、如何いう訳かぐずり始めたのである。
 それに反応してか、籠の中の妹の方まで俄かにふやふや言い出して。
 「み、美幸さん、あの……」
 一体如何すればと眼前の女性に助けを求め終える前に、ひょいと手を伸ばした美幸が、腕の中の子供を引き取る。
 ほんの少しあやしただけで、ぴたりと収まったのを見て、東海林の目が丸くなった。
 「…俺、嫌われてる?」
 「そうじゃなくて、多分、抱き方の問題かと」
 それに、赤ちゃんは基本的に、女性の声の方が宥められるそうですし。
 当然のように始まった、美幸の臨時赤ちゃん抱き方講習に、取り敢えずミッション完了かな、と一人ごちる。

 大切な人達の気配を背中に感じ、耳に心地良い声をBGMにしながら、張り切って作ったランチの皿をテーブルに並べ、完全に仕事を忘れた東海林が、呼び出しを食らって慌てて飛び出して行くまで、まだ数時間の猶予があった。

END


落とし所を探して、時間を食ってしまいました。赤ちゃんの容貌とか、色々入れたい事あったのに、入らんかった……。まあ、何れ再チャレンジするって事で。取り敢えず、これで山は越えました。対決編、後、残るはエピローグのみです。


22.そのひ、かぜはふきあれた(SideM その2)

 彼が来ているのは、自宅前に停められていた自転車の存在で、直ぐに解った。
 知らない方が幸せって事もあるよ、という夏実の言葉に取り敢えずは頷いたものの、迷いが無かった訳ではない。
 何せ美幸は、夏実とその子供達、両方を独り占めしている状態なのである。
 性別の問題さえなければ、立場的には彼と同じ立ち位置にある美幸だが、彼は遺伝子上の父親である。
 当然、子供の存在を知る権利はある筈で、それを黙っているのだから、罪悪感が沸かない訳も無い。
 子供と聞いて拒否するだろう事が予想出来るなら兎も角、彼は恐らく夏実の子なら、喜んで母親ごと引き受けただろうからだ。
 奇妙な安堵と共に、玄関のロックを外し、二人用のベビーカーごと中に入ると、何時ものように子供達を籠に移した。
 加担した以上、夏実と共に彼の前に出るのが筋だろうし、そもそも、此処まで来たら、子供達に会わせずに済ませる訳にもいかないだろう。
 マンションの廊下等、大した距離がある訳も無く、覚悟と共にリビングの扉を叩こうとして───そこでぴたりと手が止まった。
 『結婚して下さい』
 防音している訳でもない上、応接にも使うソファーは入り口傍に配置してある。
 漏れ出でて来た声は正しく予想通りに東海林のものだったが、まさか、プロポーズの真っ最中に乱入する訳にもいかない。
 入るに入れず、ノックの形に持ち上げた手を扉から離し、困って壁に身を預けると、図らずも先刻より明瞭に二人の声が聞こえて来る。
 『ダメ』
 きっぱりとした否定は、此処最近の美幸の恐れを吹き飛ばすもので、彼には悪いと思いつつも、美幸は知らず入ってしまっていた力を、ほっと肩から抜いていた。
 続く会話は、これだけ一緒にいながら、却って聞く事の出来なかった夏実の葛藤を晒すもので、こんなに自分は想われていたのかと、胸が熱くなって。
 それらの会話が、ある意味美幸に聞かせる為に行われたのではないかと思い至ったのは、此の日から随分と経った後の事で。
 やがて、唐突に掛けられた室内からの声に戸惑った瞬間、かちゃりと傍らの扉が開き、美幸は彼女が自分の気配に気付いていた事を知った。
 其の侭、子供達と共に室に招き入れられ、呼び出しに彼が血相を変えて飛び出して行く迄、意外な程和やかな時間を過ごして。
 『すんません、俺、午後の仕事すっぽかしてました!』
 唐突に鳴り出した携帯に、顔色を変えた東海林が、早口でそれだけ告げると、機敏な動作で部屋を飛び出し、二人が廊下を出た時には、既に玄関から姿を消していた。
 唖然としている内に、けたたましい物音に眼を覚ました子供達がダブルで泣き出し、漸く二人掛かりで宥め終えたのだが。
 「はあー、吃驚した」
 ぐったりとソファーに背中を預け、瞼を閉じて天を仰いだ彼女にしてみれば、昨夜に続いて、という所なのだろう。
 行為の後の騒ぎであり、悔しい事に美幸は気付けなかったのだが。
 直に床に座り込み、ふやふやと一人遊びをする子供達を見詰めていた美幸は、つとその膝に寄り掛かる。
 子供まで生した彼の求婚を退け、自分を選んだ夏実。
 浅ましいと思いつつ、それでもきちんと能動的に自分を選んでくれた事に、喜びを覚えずにはいられなかった。
 とはいえ、何時か来るかもしれない日への恐怖は、自身から完全に消える事は無かったけれど。
 その様子を如何取ったのか、夏実の大きな掌が、ぽんと反対の肩に乗せられて。
 「美幸」
 「ん?」
 「私、後悔なんて、してないからね」
 静かな、けれど、確固とした声だった。
 きっぱりとした声は酷く硬質で、彼女の真剣さを物語る。
 振り返ってその瞳を自身の瞳に映したかったけれど、その緊張が伝播したのか身動ぎすらできなくて。
 「うん…」
 頷いて、肩の上の手に何時の間にか力が篭っているのにふと気付いた。
 「時々私、思うんだよね」
 あの時、美幸が頷いてくれなかったら、若しかすると今頃、この娘達、産まれてなかったかもしれないなって。
 「……」
 「美幸だって覚えてるでしょ?」
 やたら悪阻が酷くてさ、仕事だって美幸がフォローしてくれなきゃどうなってたか判らないし、今なら先生達が最初の検診であんな顔してたのも理解るもの。
 「夏実…」
 彼女の言う事は、理解出来た。
 子供を作り育てるという事は、夫婦の共同作業だと良く言われるが、身を以って体験したと言える。
 確かに、彼女の言うように、あの一連の事態を独りで乗り切ろうとすれば、途轍もなく大変な事になっていたに違いない。
 「だからさ、美幸」
 もっと自分に、私にとっての小早川美幸の存在に、自信を持ってよ。
 どんな人間だって、美幸の代わりになるヒトなんか、いないんだから。
 「……っ…」
 強引に身体を捻って背後を見上げれば、地球色の双眸が優しく見下ろしている。
 この真っ直ぐな瞳が傍らにあれば、自分はどんな事態も乗り切れる、と思うのだ。
 そしてだからこそ、喪失の予感は常に美幸を脅かし続けて。
 「美幸はさ、性別に拘ってるみたいだけど、そこまで気にしなくても良いんじゃないかな」
 男性との関係の違いなんて、所詮、紙切れ一枚よ。
 法律の縛りがあるかどうかって位で、でも経済的に独立してれば、そんな縛りはあって無きが如しだもの。
 今の離婚率、知ってる?
 38%位って事だけど、経済的に自立できないからしないだけで、ホントはしたいっていう、潜在的な層が実は随分いるんだって。
 温泉地なんかは、女性は仲居さんて仕事があるから離婚しても経済的に困らないんで、昔から離婚率高いっていうし。
 要するに、男女の組合せだから幸せって事は必ずしも無いって事。
 だったら最初から、ココが求めてるヒトと一緒になった方が良いと思わない?
 自身の胸を指し示してにこりと笑うと、肩に回した手は其の侭に、夏実もまたすとんとソファーを降りて、美幸の隣に腰を降ろす。
 「美幸は性別も含めて美幸って存在で、女性である事も込みで私は美幸が好きになったんだから」
 それを、後ろめたく思って欲しくないよ。
 ね、と同じ目線で微笑むと、そっと彼女の肩に抱き寄せられる。
 敵わないと思うのは、こんな時だ。
 日頃は、自分が彼女をフォローする事が多くても、最終的に心を包み込んでくれるのは、何時も何時も彼女の方で。
 「夏実」
 「ん?」
 「…大好き」
 普段は中々口に出来ない言葉を形にすると、酷く嬉しそうに彼女は笑った。
 お返し、とでもいうように、ちょん、と頬に接吻けを一つ。
 「ん、ありがと」
 私も好きだよ、美幸。
 其の侭、反対の頬にもう一つ口接けを落とすと、最後にそっと唇を塞がれる。
 次第に深くなっていくそれに、未だ陽が高いにも拘らず、珍しくも彼女がその気になったらしい事を悟って。
 あれだけのパワーを秘めているにも拘らず、自身とそう変わらない細い肩に、ゆったりと腕を回す。

 長閑な午後のリビングに流れる空気が、熱く濃密なものに変わる迄に、そう時間は掛からなかった。

 END

 遅くなりましたー。これにて対決編終了。後はゆっくりと子供成長期というか、若葉マークお母さんズの子育て日記として継続の予定。