END
ランディ・ハモンド2(第二話その二)
ぽっかりと眼を開けると、其処は見知らぬ部屋だった。
自分の足で、此処に来た記憶が全く無い事から、経験上、「誘拐」という文字が頭を過ぎり、思わずがばりと身を起こしたものの、特に拘束されている訳でもなく。
辺りを見回せば、目の前にはローテーブルに一人掛けのソファー。
ずり落ちたケットに、自分もまたソファーの上で眠って居た事が解る。
立ち上がってみれば、ソファーの向こう、大きな窓から光が射し込んでおり、窓際のテーブルには矢張りケットに包まれた人物が、突っ伏して居るのが見えた。
「あ、このヒト…」
知っている顔を見た事で、一瞬にして状況を理解する。
そういえば、自分は、昨日、日本にやって来たのだった。
そして、連れ戻されそうだった処を、偶々飛行機で知り合った、美幸という女性に助けられた。
その美幸を助ける為に、来てくれたのがこのヒトで。
行く所がない自分を、取敢えず今夜は、と二人の家に泊めて貰う事になったが、二人して暫く空けていた為に部屋には食材が何も無く、またこれから買い物して作るのは大変だから、とレストランに寄ったのは覚えている。
が、その後の記憶が全くない事を鑑みるに、自分は其処で眠ってしまったのだろう。
人前で眠るなんて、アメリカに居る時は考えられなかった。
マナー等の問題ではなく、誰が敵か味方か解らない状態なので、家族以外の前で気を抜く等、言語道断だったのだ。
眼が覚めたら誘拐されてました、なんて事になったら、流石に洒落にならないので。
だが、昨夜は、疲れもあったろうが、何より、二人の醸す暖かな空気に気が緩んでしまったに違いない。
絡むケットから抜け出し、そろそろと眠っている人物に近付いてみる。
良く見れば、彼女は服を纏って居らず、肩から掛けられたケットの下は、バスタオルを一枚巻き付けただけの状態だ。
あられのない、とは言わないが、ランディが此れ迄遭遇した事のないうら若い女性の艶姿に、自然、頬が赤くなる。
少なくとも、子供とはいえ、同じ空間に男性が居る以上、するべきでない格好なのは間違いない。
────ジャパンの女のヒトって、もっと控えめなイメージだったんだけどな
現在のこの姿といい、昨日の行動といい、少なくとも”淑やか”とか”控えめ”という単語は、二人には似合わない気がした。
尤も、ランディにとっては、それはどちらでも良い事で、且つ、若し二人がそういうタイプの人間であったならば、今此処で彼がこうしている事はなかっただろうけれど。
────そういえば、ミユキは?
ふと思い出し、ぐるんと辺りを見回すが、少なくともこの部屋には居ないようだ。
だが、許可もないのに、他人の家の探索をするのも気が引ける。
そもそも、態々探すような用事がある訳ではなかった。
ただ、此処で一人でぼんやりしているのも、手持ち無沙汰だっただけで。
その時。
がちゃりと音がして背後を振り返ると、タオルを首に掛けた美幸が、丁度入って来た所だった。
「おはよう、ランディ、早いのね」
立ち尽くしていた自分に直ぐに気付き、にっこりと朝の挨拶をくれる。
シャワーでも使って来たのだろうか。
近付いて来た美幸から、ふわりとシャボンの香りが漂った。
「モーニン、ミユキ」
その、ナツミ、なんだけど…。
「ああ、良いわよ、其の侭で」
風邪をひいてもいない様だし、どうせその娘、普通に起こしただけじゃ起きないから。
「は?」
普通じゃない起こし方って、一体?
いやいや、その前に、この格好について何か対処しようとは思わないの?
首を傾げたものの、言った方は気にしていないのか、特に答えは返らず、唯、寝顔を覗き込み、ふわりと微笑んだ。
愛しい者を見る眼だ、と不意に思った。
柔らかで温かなそれは、父の母を、母の父を見る眼差しを其の侭連想させるもので。
「夏実の事は放って置いて構わないわ」
それよりランディ、取り敢えず、顔を洗ってさっぱりしてらっしゃい。
其の侭カウンターの中に入って行き、ケトルを火に掛けながら肩越しに振り返り、未だ立ち尽くしているランディにバスルームの位置を教え、リネン類の在り処を伝えてくれる。
素直に従い、部屋を出て行き掛けた処で、あ、そうだと声が上がった。
振り返れば美幸が、丁度カウンターを出て来た所で。
「忘れてたけれど、ランディ」
昨日も言ったけど、私達、暫く此処を空けていたから、朝食になるようなものが何も無いの。
今日は仕事は午後からだし、取敢えず近くのコンビニに、簡単な食料を調達に行こうと思うんだけど、散歩がてら貴方も来る?
流石にこの時間じゃ服は無理だけど、下着程度なら直ぐ手に入るから、貴方もシャワー使えるわよ。
昨日は汗も大分かいたでしょう?
「…うん」
優しい笑みに誘われて、こっくりと首を縦に振る。
此れだけ盛大に迷惑を掛けて来たのだ。
今更遠慮するのもおかしな気がするし、何よりランディ自身、ゆっくりと日本を見てみたかったので。
気掛かりは夏実だが、彼女のこの様子では、特に問題は無いのだろう。
例えランディの眼には、問題大有りのように見えていても。
「じゃあ、急いで行って来るね!」
慌てて走り去ったランディの背を、慌てなくて良いわよ、出る前にやる事あるしとの声が追い掛ける。
彼が先刻の”普通でない起こし方”の意味を知るのは、これから約十数分後の事になる。
波乱万丈な、来日二日目の幕開けだった。
END
メモリを整理していたら、書き掛けの原稿を発見したので、ちょいちょいと追記して完成へ。この頃は、最終回にまたこの子が出て来るって信じてたんですよね…。そういえば、まだ美幸と夏実の再会して初めての二人きりの晩、書いてないなあ。美幸の渡米前夜とか、夏実に研修の話が来た時の会話とかも、実は考えたんですがそれも書いてない…。
夕闇にて(第四話)
ぽん、ぽん、と一定のリズムで、柔らかく背中を叩いてやる。
全身の強張りが徐々に解れ始め、きつくタンクトップを握り締めていた手の力が少々抜け出したのに気付いた夏実は、そっと耳元に唇を寄せる。
「落ち着いた?」
囁く様な優しい声は、美幸にだけに聞かせるそれだ。
二人きりの時にのみ発せられる声に、恐る恐る眼だけ覗かせた美幸が、上目遣いに見上げてくる。
未だに潤んだ瞳に、どれだけ怖い思いをしたのだろうと、抱きしめる腕に力を籠めれば、ほんの少し安心したようだった。
「もう…いない?」
「いないよ。大丈夫、あの子にも引き取って貰ったし」
漸く停止していた思考が回り始めたのだろう、ほっとした様子で再びばふりと面を埋める。
その様子に、本当に可愛そうな事をしたと、夏実は自分の作戦ミスを反省した。
外に出ていて、何も知らない美幸に、態々怖がらせる事も無い、と情報を伏せたのは夏実だ。
出入り口を封鎖し、署内を蛇の居やすい気温にしたとはいえ、相手は一寸した隙間から出入り出来る蛇だ。
抜け出される可能性がゼロではない以上、せめて、伝令を走らせておけば良かったと、今更思っても後の祭りだ。
覆水盆に返らず、の諺通り、起ってしまった事は、なかった事には出来ないのだ。
「御免…美幸」
「え?」
「蛇が居るから気を付けてって、一言言っておけば良かった」
そしたら、シャッターを完全には閉めなかっただろうし、そうしていれば、あんな怖い思いする前に、外に逃げられたのに。
その一言で、恐怖の時間を思い出したのか、背中に回された手に再び力が篭った。
「ううん…」
逆に、入って来ないよう、閉めたかもしれないし。
夏実が謝る事なんて、ない。
少し震えの残るか細い声に、眉を寄せる。
が、話が出来るようになっただけでも、格段の進歩なのだ。
パニックを通り越して、恐慌状態に陥っていた為、夏実の腕に包まれる迄は、声すら出せない状態だったのだから。
「…そっか、ありがと」
無理をしているのは解ったが、それを指摘するつもりはない。
美幸の言葉にも一理あるが、然し、反省は反省として、自分の中に留めておく。
強過ぎない程度の力で面を上げさせれば、未だ頬は蒼白い侭だ。
冷たくなってしまっている頬に手を当ててやると、じんわり伝わる体温に安心するのか、摺り寄せるようにして瞼を閉じて。
────もう少し落ち着いたら場所を変えて、少し扇いであげた方が良いかな
後は、美幸のロッカーの前に放りっぱなしのあの抜け殻、見付からない内に処分して…。
もう一方の頬にひたりと唇を押し付け、吃驚した様子の相手を、再び大切に懐に仕舞い込む。
静まり返ったガレージの中、二人の時間が動き出すのは、もう少し先の事だった。
END
夜はこれから(第五話)
夏実、と何気なく手招かれて、捕獲された所でどん、と眼の前に置かれたのは、真新しい消毒薬の瓶。
周囲には脱脂綿やガーゼ、包帯、軟膏など、救急キットの中身が、見る見るうちに、ずらりと並べられていく。
「全く、もう少し、自分の身体を大事にしてよね」
「ちょ、美幸、それ痛い、絶対痛い!」
「痛い位で夏実には丁度良いの」
ほら、観念して手を出しなさい。
たっぷりと消毒薬を含ませた脱脂綿に、恐れをなした夏実が逃げ腰になるのを、にっこりと笑って引き止める。
かっとしやすい自身よりも、表面上は冷静に見える美幸の方が怒らせれば怖い事は、交通課の面々なら誰でも知っている事だ。
彼女の怒りのツボは幾つかあるが、中でも最も大きな地雷は、自分のものと認識したものに傷を付けられる事で。
例え下手人が当の当人だったとしても、怒りが緩和される事はなく、却って何故大事にしないのかとこんこんと説教される羽目になるのだ。
「えええっと、美幸さん?」
「なあに、夏実?」
聞く耳を持ってくれそうな雰囲気はまるで無く、捕まえられた右手をぐいと引かれる。
諦めて広げられた掌には、血の滲んだ四つの爪の痕。
くっきりと残ったそれに眉を顰めると、美幸は情け容赦なく、滴る程に消毒薬が染み込んだ脱脂綿を傷口に押し当てた。
「〜〜〜っ〜」
身を凍らせて、声も無く悶絶している夏実の様子に頓着せず、今度は無防備だったもう一方の手を捉えると、再び新しい脱脂綿を薬瓶に突っ込み、静止する隙すら無く、掌の傷に押し付ける。
こちらの傷はばれていないだろうと、油断した隙を衝かれた格好になった夏実は、ふるふると身を震わせて、末端から伝わる痛みに耐えていた。
「〜〜っ、美幸、痛い!」
「痛いようにしたんだもの、当然でしょ」
暴挙と言いたい美幸の行動に、涙目の侭取敢えず抗議してみるものの、ぴしゃりと言い返される。
図らずも、彼女の怒りの深さを垣間見る格好になった夏実は、困った様に眉を寄せてうろうろと視線を彷徨わせた。
「えーと、取敢えず無事に全て解決したんだし」
「確かに事件は無事解決したけど、夏実とモトコンポは無事じゃないでしょ」
後で背中も見せなさいよね。
きっと擦り傷か良くても痣になってるだろうから。
僅かな抵抗の試みは、思ってもみなかった方向に及んでしまい、一層に身を縮こめる。
「美幸ぃ…」
でも、それ、不可抗力なんだけど。
「解ってるから、そっちは怒ってないでしょ」
私が怒ってるのはこっち。
唯でさえ夏実は怪我が多いんだから、付けなくて良い傷迄作らないの。
め、と怒った表情で上目遣いに睨まれて、夏実が陥落しない訳も無く。
「う〜」
「機械なら私にも直せるけど、人間の怪我は直せないんだからね」
せいぜい、こうして手当て出来る位で。
ガーゼを当てる為、俯けた瞳に映るのは、もどかしさや哀しさだ。
美幸にこういう表情をされてしまうと、抗弁する気が急速に萎み、もうしませんと謝りたくなってしまう。
彼女が、不条理な事を言っている訳でもなく、ただ、心配してくれているだけである事を知っているだけに。
「…ゴメン」
素直に謝れば、ほんの少し眦が緩む。
ふと思った。
この娘があの女性を引っ叩いた理由の一つに、この傷があったのではあるまいか、と。
訓練の成果で、以前よりも腕力を増している自分が、頭に血が昇った状態で叩けば、例え利き手でなくとも遣り過ぎになる可能性がある。
それ故、両の手をぎゅっと握り込む事で、衝動を必死に押し込めていた夏実だったが、我慢の限界が来る前に、爪が食い込んだ皮膚の方が限界を越えてしまった。
美幸が手を上げたのはその直後で、だから夏実は、その疑念を捨てきれないのだ。
尤も、沸き起こったそれを正直に美幸にぶつけても、こんな時は全く素直でない彼女が答えてくれるとも思えなかったが。
「はい、此れで良し、と」
ほら夏実、左手も出して。
ガーゼを止めるためだけの、薄く巻いた包帯の上をぽんと叩かれ、代わりを、と要求するようにはいと手を差し出される。
黙って利き手を預ければ、先程とは打って変わった慎重な手付きで、手当ての続きをし始めて。
この娘にあんな顔をさせたくないのに、させてしまう自分が情けない。
やってしまった事は仕方ないので、先ずは反省して、今後に生かそうと決意する。
────取敢えず、今夜は、モトコンポに掛かり切りの美幸に付き合うかな
傷に汚れは大敵だから、作業の手伝いはさせてもらえないだろうが、軽食を用意して一緒の時間を持つ事は出来る。
色気がないと言われ様と、ガレージで過ごす時間は、二人にとって、大切なものなのだ。
それが解らない者には、決して美幸は譲れない。
────ま、例え解ってる人にだって、譲る気なんてナイけどね
真剣な面持ちで、きつくなく、さりとて緩まないよう包帯を巻いている相棒の、俯きぎみの貌を、気付かれないようこっそりと見詰める。
美幸の好きな紅茶、確かまだあった筈、と今夜のひと時に想いを馳せて。
終業を知らせるベルまで、後三十分。
END
未来に向かって(第八話)
「それじゃ、ソウコちゃん、またね」
にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべながら、戸口に佇む少女に美幸が手を振っている。
その横顔を、ナビゲートシートから眺めつつ、夏実は、美幸が本当に子供が好きなのだと実感していた。
夏実とて、子供は嫌いじゃない。
近所の幼稚園児達と、先に仲良くなったのは夏実だった。
が、恐らく自分は、ユウタやマホのような、物怖じしない子供達とは仲良くなれても、そうでない子供には余り受けが宜しくないだろうと思う。
事実、短気な自分は、ついついストレートに迫ってしまい、怖がらせるばかりだったが、駄々を捏ねるソウコをお手洗いに連れて行った時もその後も、美幸は、何を言われても声を大きくする事無く、上手にあしらって見せていた。
子供の主張がどんなに理不尽でも、軽く受け流し思うようにコントロールする様は、余りに見事で、自分には決して真似出来ないと思わされて。
だがそれらは、彼女が子供が好きだという一面を有しているからこそ、培われた技術に違いない。
子供が好きでなければ、そもそも近寄りもしないものだ。
何しろ、言葉が通じない。
彼ら特有の世界観に振り回されるのが精々で、故に大抵の子供に拘りのない人間は、子供の扱い方等知らない者が大半だ。
けれど、この様子だと、美幸の子供好きは本物で、そしてその考えは、酷く夏実の胸を衝いた。
────子供、か…
この侭の関係を貫く限り、決して得る事の出来ないものだ。
勿論、望んで選んだ選択肢だが、その為に捨てざるを得なかったものがある事は事実だ。
それは、世間体だったり、家族の無理解だったりと色々あるが、最たるものは、血を分けた子供の存在だろう。
自分と付き合い続ける限り、彼女は決して自身の子を腕に抱く事は出来ないのだ。
自分は構わない。
覚悟は疾うに決めている。
東海林との事はあるが、会う機会も少なく、どうにも結婚等は想像も付かなかった。
だが、美幸は?
基本的に彼女はノーマルで、そもそも自分が墨東署に配属になる迄は、中嶋との仲を取り沙汰されていた。
彼女の告白から始まった関係ではあるが、実際の処如何なのか、心の裡迄覗ける筈も無く。
────あー、嫌な想像、しちゃった
ふうと息を一つ吐き出し、どうにか意識を切り上げる。
どちらにせよ、此れは美幸に訊いて良い疑問ではない。
下手をすれば誤解を招く。
気持ちを疑われているのかと。
何より、美幸が子供が欲しいと言った訳でもなく、全てが夏実の憶測なのだから。
隣では漸く、エンジンを掛けた美幸が、アクセルを踏んだ処で、軽い加重を感じた後は、スムーズに車が走り出す。
滑る様にスタートしたTODAYは、ゆっくりと住宅街を抜け、大通りを目指して移動して行って。
その様をぼんやりと眺めていた夏実は、美幸が様子のおかしな自分を気にしているのに気付いたものの、問い掛けずにいてくれてくれている事に甘える事にした。
美幸の事、ソウコの事、彼女の祖母の事等、上滑りしている思考が、脳裏を空回りし続けている。
こんな時は、そう、思い付いた事を思い付いたようにやってみるのが良いのかもしれない。
そして、答えの出ない疑問は、隅に追いやってしまうのだ。
一度表面に出て来てしまったそれは、恐らくそう簡単には忘れられないに違いない。
だがそれで良いのだ。
勘や経験が考えを上回る事など幾らでもあるし、美幸のように思索に向くタイプで無いのは自覚している。
先ず行動、といったスタイルの方が夏実には合っているのは確かだが、然し、思考する事そのものは必要な事とも思うのだ。
何れ、考えていた事が、現実になる時が来るかもしれないのだから。
その時に混乱するよりも、余程、冷静な判断が出来るに違いない。
尤も、この件に関してはこれ以上の思考は必要なく、取敢えず気持ちを切り替える必要がある。
そして、それには、眼の前の問題が最適で。
「美幸ぃ、如何思う?」
「夏実、行き成りそれじゃ、解らないんだけど」
「えっと、課長とソウコちゃん」
デート位させたげたいけど、本当の父親になれないなら、却って可愛そうな気もするし。
あれだけそっくりならあの子が重ねちゃうのは仕方ないけど、でも、課長は本当のお父さんじゃないからなあ…。
呟きに、けれど意外な肯定が返って来る。
思慮深い美幸なら、反対しそうな気がしていたのだが。
「…夏実は夏実の思う通りに、やってみると良いと思うわ」
ソウコちゃんだって、本当は解ってると思うから。
「そっかあ…うん、そだね」
小さい子って、意外に色んな事、解ってたり考えてたりするもんね。
言葉の裏に、夏実への信頼を感じ、背中を押してくれた事が酷く嬉しい。
「それじゃ、帰ったら早速課長の約束取り付けて、計画立てなきゃね」
「はいはい、頑張って。応援だけはしてあげる」
「えー、美幸は一緒しないの?」
「お母さん役が二人居るのは不味いでしょ」
「え?あー、そういう事になっちゃうの、かな?」
自覚していなかった事を指摘され、狭い車内の雰囲気が、途端、賑やかなものになる。
車は一路、墨東署を目指していた。
END
世界で一番大事な貴女へ(第十一話)
「あーあ…」
大きくひしゃげたフロントに、美幸ががっくりと肩を落とす。
火事を消し止める為、消火栓に突っ込ませた結果だが、自分でやったにせよ、矢張り悲しくなるのだろう。
あれだけTODAYに情熱を傾けているのだから、当然かもしれないが。
────矢っ張り、こうなっちゃったか
内心で呟いて、少しばかり、眉間に皺を寄せる。
それは、以前にも何度か見た光景だ。
此れ迄にも、美幸は自らTODAYを犠牲にして、事件を解決に導いている。
此れは、美幸が、最終的な部分で、車を道具と見なしている証だろう。
どんなに大事にしているそれであっても、人命と天秤に掛けた場合、躊躇いなくTODAYを差し出す方を選ぶに違いない。
だが、大切にしているものが壊れてしまうのに、心が痛まない訳も無く。
結果、事件が収束した後に、こうして盛大に落ち込む事になって。
が、こうしていても始まらない事は、誰より美幸が理解っている。
一頻り嘆いた後は、工具を持ち出し、何時ものように修理タイムだ。
何時もなら、時間が許すだけ手伝う夏実だが、しかし、今夜ばかりはそうもいかなかった。
「修理も良いけどさ」
美幸、貴女、軽度とは言っても指先、火傷してるんだから、程々にしておきなさいよ。
「解ってるー」
返事は良いが、聞いているのか怪しいものだ。
美幸は一旦集中し出すと、周囲の雑音を全てシャットアウトしてしまう癖がある。
如何いう訳だか、それなりにまともな返答が返って来るのがクセモノで、安心して放って置いたら、真夜中まで作業をしていた前科が何度もあった。
幾度かの経験後、今では、言っても無駄だと判断した夏実が、無理矢理引き離して連れ帰るのが当たり前のようになっている。
普段は冷静で確りしている美幸に、こんな一面があるのは、少々意外な気もするが。
それは、美幸が夏実に気を許しているからこその事象だとは、未だ気付いていないのは夏実らしいのかもしれなかった。
何時ものように、クリップボードを取り出し、被害状況をチェック始めた美幸に、力仕事が発生する迄は、取敢えずやる事が無い夏実は、邪魔にならないよう、ガレージの片隅にある木箱に腰を掛ける。
ぼんやりと作業をする相棒を眺めながら、ふと、今日の事件を振り返り、其処から此処数日様子のおかしい中嶋を連想した。
────ほんっと、中嶋君、此処数日、挙動不審なのよね
確証は無いのだが、夏実のこういう勘は如何いう訳だか良く当たる。
本日の火事にしても、葵等は素直に、逸早く中嶋が事件に気付いて追跡していた、と解釈していたが、夏実には如何にも胡散臭く思えるのだ。
何故なら、パトロールに出掛ける前の中嶋は、屋上で黄昏ていた挙句に柵を越えようとしていて、かと思えば、突然バイクを駆って飛び出して行ったのだ。
体格の違う相手を落とすまいとしていた最中だから、自分は余り周囲を見て居なかったが、恐らくその間に何かを見た、と考えるのが自然だろう。
だが、仮にそれが、あのトラックだったとしても、直ぐ様火事を発見したと考えるのは早計だ。
あの時間にあの程度の火、とすると、逆算してみれば、あの時点で屋上から発見出来る程度の火種があったとは、考え難いからだ。
走っているトラックの前に出て、生身を晒して無理矢理止めたのも彼らしくない気がする。
強権力を持つ自分達だ。
先ず、マイクで呼び掛けて止めるのが、最も手っ取り早い。
にも拘らず危険を犯し、尚且つ、飛び散る火種には、見向きもせず、荷台に飛び乗ったのだ。
続いて火を消し止めに入り、自分達も状況の収拾に当たって良くは見ていなかったが、何かを探していたように思えたのは、自身の気の所為だろうか。
その後は、報告書を書いたり、落ち込む美幸を宥めたり、火傷の治療をしたり、とばたばたしていて、あの時感じた違和感はすっかり忘れてしまっていたが、こうして時間が出来た今、つらつらと思い返すと、不審さがやけに気に掛かった。
加えて、その後の、何かを吹っ切ったような彼の表情もまた。
ちりちりと意識の端を焼かれているような感覚が、絶えず警告を送って来ている。
殊更鈍い、自称墨東の白き鷹は、ほぼ交通課公認状態の今になっても、未だ、自分達の関係に気付いていない。
彼がアプローチしようとする度、きっちり邪魔しに入っている夏実の真の意図にさえ。
────ま、美幸の気持ちが変わらない限り、引く気はナイけどね
彼のあの行き過ぎた純情さは、私にとっては利点かな。
性質の悪い笑みを口許に浮かべ、視線を眼の前の相棒に移す。
既に集中している彼女は、熱心に被害状況の確認をしている。
直し終える迄、梃子でも動きそうもない様子に苦笑して。
────こりゃー、矢っ張り夜食の準備が要るかなあ?
いや、でも、今日位は、連れ帰った方が…。
水面下の綱引きは、まだまだ続く。
END
涙(第十五話)
綺麗な、涙だった。
夕陽にきらりと反射して、肩越しに見えた横顔は、誇りを汚された事への憤りに満ちていた。
そして、その横顔が語る何かを、彼もまた感じ取ったのだろう。
ふてぶてしい態度を崩さなかった男が、その涙を見た瞬間、言葉を無くして全面に非を認め、殊勝にも頭を下げたのだ。
そして、その後、呆然とする仲間を纏め、課長に挨拶を済ませると、悄然した様子で帰って行って。
「美幸ー、こっち、報告書終わった」
「じゃあ、そろそろ帰りますか」
「おー」
朝の起床時間の差異から、同じ部屋に住んではいても、通常、二人は別々に通勤している。
基本的に美幸は車、夏実はバイクか、最近は運動不足解消と称して徒歩も多い。
が、今日は一緒に食事に出る予定であり、二人、ヨタハチで来ていたのだが、どうにもそんな気分では無くなってしまって。
「夏実、夕食の事だけど…」
「ああそれねー」
自分から誘った食事であり、如何言葉を繋ごうかと、考え考え口を開いた美幸に、けれど、夏実はあっさりとしたものだった。
「勝手で悪いんだけどさ、今日は止めにしない?」
なーんか気分じゃ無くなっちゃってさ。
あ、でも、絶対止めたい訳じゃないけど。
付け加えたのは、中止の理由が要するに気分の問題で、用事が出来た訳ではないからだろう。
だが、食事は矢張り、気持ちに負う部分が大きく、乗らない時に幾ら評判の店で食べても、大して美味しく感じられないに違いなく。
退屈だ、と自分達の仕事を見て、あの監督は言った。
それはそうだろう。
交通課の仕事は、パトロールと取り締まり、交通安全に関する啓蒙が大部分を占め、基本的に派手な内容ではない。
だが、それで良いと思う。
警察は、本来縁の下の力持ちであるべきで、派手である必要は全く無い。
昨今では組織に関する不合理性を指摘され、様々な問題が浮かび上がり、実際に不祥事も起きているが、少なくとも、自分達は、警官を人を助ける為の職種であると認識している。
それが、派手な職業として誤解されているのは、推理物のドラマや小説の効果であって、実際にはそんな事は殆どないのだ。
特に、交通課、地域課等はその最たるもので。
だが自分達は、そんな警官の仕事に、心底誇りを感じている。
時に、きつい上にまともに帰る事も侭ならなかったり、理不尽な事もあったりするが、それでも、いや、だからこそ、誇りなくしてはやっていられない。
それは、下層に属する人間であればある程に。
そして、だから、あの時の夏実の涙は、あれ程に美しかったのだろうと思う。
自分は如何なのだろう、と思わず自身に問い掛けてしまう程に。
「…ううん、丁度、私もそう言おうとした所だったから」
「そっか」
ほっとして頷けば、にかりと夏実が笑ってみせる。
彼女の、こういう遠慮の無い部分は、正直、有難い。
気遣いが過ぎて、気分が伴わない状態で無理に付き合うのは、幾ら好きな相手とでも疲れるものだ。
その点、夏実ははっきりと言ってくれるので、無理につき合わせているという心配はせずに済む為、つい気を回してしまい勝ちの自分には、非常に楽なのだ。
それは、自分もまた、断る事に罪悪感を持たなくて良い、と言われているのと同じなので。
「それじゃさ、帰ったら、簡単に何か作ってぱっと飲もうよ。」
この間貰ったマンゴー酒と柚子酒、開けてみよう。
「良いわね」
それじゃ、スーパー経由で帰るわよ。
「りょーかい」
そんじゃ、早い所着替えますか。
少しばかり声を弾ませて、廊下へと飛び出して行く。
外での食事と自宅での食事。
場所が違うだけで、一緒に居る相手は変わらないのに、何故か先刻よりもずっと気持ちが軽くなっている。
扉の向こうからは、早く早くと急かす声が聞こえてきて。
「はーい、今行くー」
貴重品の入った小さな手提げを手に取ると、お先に、と声を掛けて後を追う。
自身の結論は、ゆっくりと導き出せば良い。
窓外は、柔らかな闇に包まれ始めていた。
END
偶にはこんな日も(第十七話)
「辻本夏実さん、診察室へどうぞ」
「ふあーい」
隣に座っていた夏実がよいしょ、と立ち上がり、おぼつかない足取りでよたよたと扉の内へと入っていく。
どうにか無事に辿り着けそうだと判断した美幸は、視線を再び壁に向け、ふう、と大きく溜息を一つ吐いていた。
『ちょ、夏実もう酔ったの?』
『えー、酔ってないよぉ』
事が発覚したのは昨夜の事だ。
簡単なつまみを作っている間、先に呑み始めていた夏実の言動のおかしさが目に付いた。
たった一本干しただけで、あの夏実がこんなになる訳が…、と考え、ある可能性に思い当たる。
慌てて額に手を当ててみれば、接触している掌は、案の定、じっとりとした熱を伝えて来て。
『夏実、凄い熱!』
『えー、大丈夫大丈夫』
この位、何でもないよー。
微妙に呂律が回っていない話し方で、全く根拠の無い大丈夫を繰り返していた夏実が、不意に意識を沈没させたのはそれから直ぐの事。
そういえば、この娘は、限界が来るまで自身の体調の変化に気付けない娘だった…、と過去を思い出しても後の祭り。
流石に美幸では、女性とはいえ大人一人を抱え上げる事は難しく、意識を取り戻すのを待ち、肩を貸して何とか部屋まで連れて行った。
それからは、大忙しだ。
冷却シートや薬を準備し、それから薬は胃に何か入れないと飲めないと気付いて、慌てて冷凍してあったご飯を使って簡単な雑炊を仕立て上げた。
直前まで普通に食べ、アルコールまで摂取していたにも拘らず、態々そんなものを作ったのは、単に他に直ぐ食べられる消化に良さそうなものが他に無かったからで。
────今日は帰りに、夏実を荷物持ちにして、食料調達に行こうと思ってたんだけど…
夏実のお昼、如何しよう、と少しばかり眉間に皺を寄せる。
実は現在、冷蔵庫が綺麗に空なのだ。
急に帰れなくなる事もある職業であるから、普段から、レトルト以外の余分な買い置きはしない事にしている。
それでも、普段ならもう少し何かある筈なのだが、今回はどうにもタイミングが悪かった。
昼食用に、急遽冷蔵庫に残っていた最後の野菜で、簡単な野菜スープを昨夜の内に作っては置いたが、あれでは夏実には到底足りないのは眼に見えている。
昼休みには、何とか戻って何か届けたいが、理由はあれど、唯でさえ遅刻の身。
巧く抜けられるかは、仕事に出てみなければ解らない。
駄目だった時はどうするかと、うーんと考え込んでいると、やがて、呼ばれた小学生らしき男の子と入れ替わりに、ふらふらと夏実が戻ってくる。
「お帰り、如何だった?」
「んー、唯の風邪ー」
何か、今年のは、やたら熱が上がるんだって。
でも、注射打って貰ったから、直ぐ良くなるって言ってた。
「そう、良かった…」
安堵にほっと口許を緩めたが、自身の事で一杯一杯なのだろう、美幸のそんな様子に気付く事無く、夏実がぼすんと隣に座り込んでいた。
ぐったりと背凭れに沈み込むその様子は、酷く心配にされられる。
が、彼女が美幸に移す事を恐れて、それ以上の接触をしようとしないのも理解っている為、何を言うでもなく、其の侭じっと、二人で精算に呼ばれるのを待って。
────取敢えず、スポーツドリンクとゼリー飲料だけは、帰りに調達して行こう
でも、コンビに弁当は、流石に病気の身には重いわよねえ…?
この時の判断が正しくて、でも正しくなかった事が、出勤して会議室に呼ばれた際、判明するのだが…それはまた別のお話である。
END
偶にはこんな日も(第十七話)ver.2
「凄かったんだよ、美幸、もう半狂乱」
うっそぉ、という顔をしたのが判ったのか、頼子の弁舌が熱を帯びる。
「あ、信じてないなー、夏実」
ホントだってば。
犯人、あっという間に捕縛したら、後は全然見向きもしないで、夏実、確りしてーって。
あんな美幸、初めて見た。
「えー、でも、そんな様子、無かった気がするけど」
それにほら、その割にはさっさと行っちゃったし。
漸くお腹が満たされて、人心地付いた夏実は、お茶を啜りながら控え目に反論してみた。
確かに自分は正気を保っていなかったが、しかし、普段の彼女とはギャップがありすぎる。
尤もそれは、自分と二人きりの時の彼女ではなく、第三者といる時の彼女とは、という注釈が付くが。
「そりゃね」
あれだけ、生きるか死ぬかみたいな大騒ぎした後じゃ、照れ臭いに決まってるっしょ。
あんなに派手に倒れといて、その原因が、空腹だったなんて。
全く、と上目遣いに睨まれて、たはは、と笑って誤魔化す。
だが、仕方ないではないか。
普段から食べる自分が、昨夜から胃に入れたのは、殆ど流動物のみ、という有様だったのだから。
尤も、倒れる事になったのは、それだけが原因ではなかったのだろうが。
「それに美幸さん、今日は一日、とっても不安そうにしてらしましたよ」
反論を止めた夏実に、納得したと思ったのだろうか、お茶で口を湿らせた葵が、口を挟む。
「時々、空を見上げては溜息を吐いて}
きっと、夏実さんの事、心配で心配で仕方がなかったんじゃありませんか?
「そう、かな…?」
頼子だけなら兎も角、葵に其処まで言われてしまっては、それ以上、ごねてみせる訳にも行かない。
実は以前、似たような事を言われた事があるのだ。
二人でいると非常に確りしているように見える美幸だが、個人毎に見てみるとそうではない。
どちらかと言えば一人で立つ事を知っているのは夏実で、引き離されると、途端に弱くなるのが美幸である、と。
そして、それがはっきり見えるのは、夏実と仲違いをしている時と、何らかの理由で、夏実が美幸のパートナーとして動けない時だ、というのだ。
要するに、喧嘩の時を除けば、夏実が目にする事の無い彼女の話で、言われた時は半信半疑だったのだが、葵がこうも言い切る以上、矢張り真実なのだろう。
────確かに、意外に甘えたな処、あるもんね
普段の彼女を思い出して、ふと思う。
嘗て、遠距離恋愛が理想、と言い切っていただけあって、夏実は精神的充足が定期的に得られれば、実際の距離にはそれ程拘りが無く、適度な距離感を保つ関係をベストと考えている。
が、一方美幸の方はといえば、意外な程、相手との触れ合いを求めているのだ。
恋愛の相手ともなれば、夜の関係は当然にして、普段も一緒に居たい、出来れば触れ合いたい、という無意識レベルでの欲求に従った行動を取る。
自分達が女性同士で、下手に離れたら、という危機感が拭えないのだろうという解釈のもと、信用ない自分を少々情けなく思っていた夏実だったが、もしかすると、彼女が接触を欲しがる理由は、それだけではなかったのかもしれない。
────私のフォローをする事で、精神の安定を図ってるのは知ってたけど、一寸拙いかな、この侭じゃ
例え、パートナーだとしても、行き過ぎた依存は、互いに不幸を呼び寄せる事にしかならない。
自分達は、確かに互いを半身と認識してはいる。
が、然し、どんなに良いパートナーに公私共に恵まれたとしても、結局の所、自分の人生は自分だけのものである。
隣を並んで歩く事は出来ても、他人に自身の道を歩かせる事は出来ないのだ。
幾度か、離れて戻ってを繰り返して来た自分達だから、恐らく美幸も理屈では理解っているだろう。
唯、感情が付いて行っていないだけで。
「兎に角夏実さん、きちんとフォローしてあげて下さいね」
「そうそう」
やっぱ、らしくないの見てると、こっちも気になるしさ。
「りょーかいりょーかい」
二人掛かりの念押しに、少々押されつつも快諾する。
今日の美幸の不調は余程眼に付いたらしい。
勿論、今日のフォローはするつもりだが、然し、それだけでは今後も繰り返される事になる。
────しかし、こりゃ、一体如何するべきかね
此ればっかりは、あの娘の性格って気もするしなあ。
此れまでの、異動の話が出る度に起きた、数々のどたばたを思い起こしながら、夏実は本日二度目の風邪薬を、喉に流し込んでいた。
END
第19話 手が届く幸せ
「美幸、署に連絡して応援呼んで」
私はドライバー達の様子を見てくる。
不用意に動かなければ、多分大丈夫だと思うけど、あの侭じゃ危ないし、万が一にでも逃亡されたら不味いから。
それだけ言い置いて、細い女性の、でも美幸にとっては何より頼もしい背中が、Todayから飛び出して行く。
殆ど水面に突っ込んでいる車から、乗員を救出するには矢張り人手が必要で、依頼通り手早く人員の要求をしてから、いざという時の為に、現場にTodayを近付けた。
「夏実」
「あ、美幸、如何?直ぐ来れるって?」
「ええ。それで様子は?乗員に怪我とか…」
「んー、窓から見える限り大丈夫そう」
思ったより、大人しくしてるし。
ま、下手に外に出ようと暴れて、一寸でもバランス崩したら、車ごと水の中に真っ逆さまだと思ってるからね。
大人しくもなるでしょ。
にっと口許だけで笑って、けれど、車内の二人からは視線を逸らさない。
一応、これ以上は落ちないよう、取敢えず鎖でガードレールに括り付けたようだが、重量からして安全とは言い難い。
其の侭何かあった時の為、近くに待機していた二人だったが、程なくして依頼していた応援が駆け付けて。
バランスが良くない中、無事に救出されるのを見守り、車の方は、クレーン車が来るのを待って欲しいと伝えられた。
「良かったよね、そんなに待たずに来そうで」
「ええ、助かるわね」
この侭、この状態の車を放置する訳にもいかないが、長時間待たされるのは結構辛い。
聞けば、クレーン車の依頼先が、此処からそう離れていない為、それ程待たずに来るのだという。
夏実の報告にほっとしながら、頭の中で報告書を纏めていると応援の者達の手により無事救出されたドライバー達が、しおしおとパトカーに乗せられて行く。
その様子をきっちりと最後まで見届けると、夏実ははいと手を差し延べて来た。
一瞬、何を要求されているか判らなくて、ぱちりと瞬きを一つすれば、大仰に溜息を吐く。
「応急処置をするから手を出して」
それ以上悪化したら、困るでしょ。
ほら、ともう一度手を差し出す。
この追跡劇の前なら、素直に従えなかった要求に、けれど今なら応じられるのが嬉しい。
喧嘩の時等、時折暴れ出す意地っ張りな一面は、実は自身でも扱いかねている厄介な性癖で。
不味いと思いつつい出てしまう天邪鬼な言動は、美幸が夏実と出遭う迄、表面的な人間関係しか構築出来なかった原因の一つでもあった。
自分が意地を張れば張る程、相手の態度を硬化させてしまう事が判っているのに、でも、止める事が出来ない自分が嫌いだった。
夏実もまた、美幸のそういった性質に手を焼き、今回のような衝突や、以前あった別れる寸前まで行った大喧嘩に発展する事もままあったが、互いに譲ったり、相手の良さを思い出す事により、此れ迄の処は如何にか元の鞘に収まる事が出来ていて。
今回の仲直りは、夏実の譲歩だ。
喧嘩の直接の原因は彼女にあったかもしれないが、自分の意地が事態を面倒にした事は確かだろう。
だが、自身ではそうしてしまう自分がどうしようもなくて。
この手に応える事が示すのは、先程迄の表面上だけでの仲直りではなく、本当の意味での仲直り。
明らかにおかしな運転の様子を指摘されても、只管何でもない振りを続けて来た自分に、彼女は要求しているのだ。
素直になって、作った壁を壊してよ、と。
怪我のフォローをして貰った以上、確かにこれ以上頑なに拒むのは意味が無い。
だが、彼女が求めているのは、恐らく、そういう理由からの歩み寄りではなく。
「ん」
小さく頷いて、差し出された掌に左手を乗せると、腫れ上がった手首に型の良い眉が寄る。
「あー、酷いわこりゃ」
私に気付かれないように、なんて意地張って、治療もしないで無理するから…。
溜息交じりの苦言に、けれど、今は反発心は沸いては来なかった。
助手席側の扉を開け、身体を伸ばして後部座席からコンビニのロゴの入った袋を引っ張り出すと、ちょいちょいと自分の定位置に美幸を招く。
事件の勃発で忘れていた、夏実のコンビニの買い物の内容を、美幸は其処で初めて知って。
「それ…」
「うん、備え付けの救急箱の中身は、傷とか骨折とか、そっち用のがメインだからね」
手早く湿布薬のパッケージを開けると、掌サイズのそれを、一旦患部に合わせてみてから慎重に貼り付ける。
本来なら、ずれている筋を戻してからの方が良いのだが、素人が勝手な事をすべきではないと判断したのだろう。
与えられたひんやりとした感触に、一瞬身を引いてしまいそうになったのが判ったのか、宥めるようにとんとんと肩を叩かれた。
適当に残りを袋に戻すと、代わりに取り出したのは、昔ながらのガーゼの包帯。
固定するには確かに此方の方が向いているが、昨今は巻き易い伸縮包帯が一般に使われる事が多く、薬局でもないコンビニに良くぞ置いていたものだと、見当違いな感心をして。
「美幸、きつかったら言ってね」
うんと頷いたものの、きつ過ぎず緩すぎず、丁度良い按配に、くるくると手際良く巻かれ、長過ぎる部分は切り落として、サージカルテープで端が留められる。
簡単に手首が動かないのを確認すると、此れで良し、と夏実は満足げに頷いた。
「念の為、後で病院、行きなさいよ」
「ん、解った」
諭すような言葉に素直に頷けば、少しばかり驚いて、胡乱な視線が寄越される。
自分が素直なのがそんなに珍しいのかと、一寸ばかり拗ねたい気分になったが、しかし、夏実の心配はそんな処にはなかったらしい。
「念の為に聞くけど、その手で運転して行く気じゃないでしょうね?」
少しばかり低い声音で確かめて来るのに、芝居掛かった調子で視線を逸らす。
自身の内の何処かにある回路が、何時の間にか甘えモードに切り替わったらしい。
じゃれ付いているのが彼女にも解ったらしく、見詰めて来る彼女の瞳は酷く優しかった。
「えーと、じゃあ、また夏実が」
「駄目駄目、あれは緊急時専用」
「えー」
夏実が、これに弱いのを知りつつ、態と上目遣いで強請ってみせれば、バイクで良いなら送るけど、と譲歩してくれて。
遠ざかっていた日常が、再び手の届く所に帰って来たのを感じて、美幸は我知らず、笑みを浮かべたのだった。
END
リスタート(第19話)
日差しが柔らかくなって来た昨今では、外での食事も悪くない。
朝の内に調達してあった紙袋を片手に屋上までやって来た美幸は、街を見下ろせる位置にゆっくりと腰を下ろしていた。
緩やかな風が髪を擽り、こんなにのんびりとした昼休みは、何時振りだろうと思い起こす。
昼休みというのは、普段の美幸にとって、最も忙しい時間の一つだ。
デスクで昼食を摂ったら速攻で着替えて、残った時間の大半を、ガレージで過ごす。
美幸のランチが手製の弁当か、若しくは通勤時に調達したコンビニ製品であるのは、要するに移動や調達の時間を極力短縮して、少しでも長く好きな事をやりたいからだ。
因みに夏実の方は、朝に弱い為、どちらかと言えばコンビニや食堂の利用が多い。
以前、自分が弁当を作る時は一緒に作ろうか、と提案してみたが、それはあっさりと断られてしまった。
自分の序だから負担でも何でもないのに、という主張にも、最初はそうでも美幸は真面目だから、そのうちやんなきゃいけない項目に入れちゃいそう、と苦笑して。
自分の分だけなら、面倒な時は止めれられるけど、私のも作らなきゃ、って思ったら、無理しそうだという彼女のコメントには、性格を把握されている分説得力があり、言い返す言葉を捜して、暫し黙り込む羽目になった。
尤も、ほんの少し肩を落としたのが解ったのか、それじゃ、私が起きられて美幸が作ろうと思った日は、お願いしても良い?、と笑ってくれて。
朝食の方を自分が用意すれば、負担にならないだろうという配慮だったようだが、以来、夏実を起こす時間が早くなったのは、彼女には内緒である。
とはいえ、左手を痛めている今現在、夏実から整備を初めとした、手を使う全ての作業を止められている為、当然弁当作成も停止中だ。
現在夏実は、近所の公園に時折やって来る移動パン屋に出掛けており、一緒に彼女お勧めのデザートを買って来てくれる約束になっている。
先に食べてて、と言い置いて出掛けて行ったが、折角二人でゆっくり出来る時間だ、のんびり待つつもりで美幸はパック紅茶にストローを通していた。
「美幸さん」
重い扉が開閉する音に、肩越しに振り返れば、小さな紙袋を携えた葵が、丁度屋上に足を踏み入れた所だった。
「葵ちゃん」
デスクで頼子と食べる事の多い葵が、こんな所にやって来るのは珍しい。
首を傾げてみれば、葵はにっこり笑って紙袋を掲げて見せていた。
「実はパウンドケーキを焼いたんです」
後で夏実さんと食べて頂きたくて。
「有難う」
腰を下ろしている自分の為に態々膝をつき、手渡してくれた葵に、先ずは礼を言う。
袋の隙間から、洋酒とバニラの甘い香りがふわりと漂い、つられたように笑みが毀れた。
料理上手の彼が作るお菓子はどれも美味しくて、実は密かなファンが付いている程なのだ。
だが、添える程度にしか使われていない、何時もは器用な手の動きが気に掛かったのか、葵は気遣わしげに眦を眇めて見せていた。
「如何なんですか?怪我の調子は」
「此れ?」
大丈夫、もう少しで包帯取れる予定なの。
思ったより、直りも速かったみたい。
元々、大袈裟なんだけどね、と笑って見せれば、いいえ御医者様がそうしたならそれなりに理由があるのですよ、と彼女らしい返事が返ってきた。
「良かったです」
「え?」
耳に届いた呟きに、ふと面を上げれば、葵がにこにこと嬉しそうに笑っている。
「仲直りされたんでしょう?」
喧嘩の引き金となったといって良い酒盛りに、居合わせてしまった所為か、はたまた盛大な口論を聞かせてしまった所為か。
気にしてくれていたのだろう彼に、少々申し訳ない気持ちになる。
けれど此処で謝るのも唐突な気がして、言葉を捜して戸惑っていると、謝らないで下さいね、と先手を取られた。
「私は御二人が御二人でいるのを見るのが好きなんです」
安心するというか、ほっとするというか…。
お二人が一緒なら、何があっても大丈夫って思えるんですよ。
「…葵ちゃん」
穏やかな声に滲んだ、確かな信頼。
自分達の関係が、そんな風に思われているなんて、考えた事もなかった。
ただ、排斥の対象になっていない事に、ほっとするばかりで。
一見正反対に見えて、実は似た部分も沢山持っている自分達。
二人が二人共意地っ張りで負けず嫌いの為、歯車が巧く噛み合っているいる時は此れ以上なく順調だが、一旦狂うととことん迄行ってしまう。
普段は許せている相手の欠点が、許し難く思えてきてしまうのだ。
尤も、ある程度まで行くと、意地の張り合いが先に来て、原因など如何でも良くなってしまうのだけれど。
「以前、お二人が喧嘩して、パートナーも同居も解消、って事があったでしょう?」
同じ騒ぎを思い浮かべたのだろう。
ふと思い出すように瞼を閉じて、葵が口を開いた。
「あの時も夏実さん、自分は美幸さんがいなければ何も出来ないと思われているのでは、って随分と悩んでらしたんですよ」
綴られたのは、嘗ての夏実の気持ちの欠片。
自分に語られた訳でないそれは、けれど、酷く胸を衝くものだった。
「そんな、つもりじゃ…」
「ええ、夏実さんも解ってます」
ですから、あの後、夏実さんも黙って美幸さんのフォローを受け入れていたでしょう?
動揺から抜けられず、手が震えているのが解る。
だが、続けられた言葉にほんの少し落ち着いて、こくりと頷いて見せていた。
つまりは、世話をされるのも、度量の一つ。
美幸にとって、夏実のフォローはやりたい事であり、やるべき事でもあり、夏実がそれを不満に思っている等、考えた事もなかった。
そして、その仕事を取り上げられる事もまた。
恐らく夏実はそれを知っていて、だからこそ何も言わずにいてくれたのだろう。
────なのに私が意地を張るから、急に、自分の事は自分でやるって言い出した…?
疑問は既に確信で、あの時の酔った夏実の科白が脳裏に蘇る。
夏実の内に、自分でも出来る事を美幸が先回りしてやってしまう、等の気持ちが何処かにあるのだとすれば、あの言葉にも合点が行く。
あの時、ついついムッとしてしまったのは確かで、其処には何時も手間を掛けさせている癖に、という思考が根底にあったのは否めない。
けれど良く考えてみなくても、それは美幸が勝手にやって来た事で、夏実が要求した事では決して無い。
深酒も遅刻もその他の失敗も、彼女が自身で責任を取るべき事項であって、それは夏実自身理解し、実際に一人の時はそうして来ていたのだ。
「私…余計な事、してるのかな」
「お互いに納得しているのなら、それはそれで良いんじゃないですか?」
如何して良いのか解らなくなって、思わず漏れた呟きに、返って来た答えは明快だった。
「何故美幸さんが夏実さんの世話を焼いてしまうのか、その原点さえ忘れなければ」
義務になってしまうと、如何して自分がこんな事を、という気持ちに繋がってしまいますから、と続けられ、ランチの一件を思い出してはっとする。
あの時夏実は、こういう事を言いたかったのかもしれない、と。
「ただ…」
「ただ?」
「対等でいたいなら、常に頭に置いておく必要があるかもしれません」
時には、責任を相手に被せたくない時もあるという事を。
「…っ……」
遠慮勝ちに、でもはっきりと告げられた言葉に、そっと両の瞼を閉じる。
今回の発端は将にそれだからだ。
真実を衝く言葉は心に痛いが、受け止めなければ先は無い。
「片方ばかりが責任を取る関係は対等ではない、という夏実さんの主張は確かにその通りだと思います」
夏実さんは、美幸さんがどんな事でも自分が悪い、って抱え込んでしまうのが嫌だったそうですよ。
過ぎた事だからもう良いじゃない、という言葉は、確かにその通りかもしれないけれど、でも相手を突き放す言葉でもあると思う、って。
そして、そうまでして美幸さんが一人で被ろうとするのは、自分が美幸さんから見て、頼りないからではないか、と。
「そんな」
反射的に反論し掛けて、けれど相手が違う事に思い至り、沈黙する。
怪我を隠そうと、つい手早く事態を過去のものにしようとしただけなのだが、何も知らない夏実にしてみば、そう捉えてしまっても仕方がない。
「だから夏実さんも、ついお酒で箍が外れて、極端に走ってしまったんだと思いますよ」
一緒に責任を取りたいのに取らせて貰えないのなら、全部自分で責任を取るしかないって。
そうすれば、美幸さんも、何時か認めてくれるかもしれない、と。
「…」
誤解だと言えば伝わるだろうか。
認めてない筈が、無い。
美幸にとって、夏実は唯一人、背中を預けられる存在で、誰よりも頼れる相棒なのだから。
けれど、伝わっていると思っていたその気持ちは、天邪鬼な自身の所為で、伝え損なってしまっていて…。
「夏実さんは、美幸さんに頼られたいんですよ」
美幸さんが夏実さんに頼って欲しいように。
にこりと微笑まれ、ええ、とひとつ小さく頷く。
『自分の事は自分でやるって決めたの』
夏実の言葉にかちんと来たのは本当で、でも裏にそんな想いがあったなんて、気付けなかった。
ふと、包帯で固定された左手に視線を移す。
最初に手当てしてくれたのは夏実だった。
既にばれていた事もあったが、態々一式買って来て、手を出してと言われれば、意地を張る気にもならなくて。
あの時夏実が丁寧に巻いてくれた包帯は、洗濯をした後、実は美幸の部屋に大切に保管してあった。
お風呂上りに包帯を替えてくれたり、病院に送ってくれたりと、以来、一生懸命怪我の面倒を見てくれている夏実を思い出す。
最初から自分が素直に話をしていれば、あんなに揉める事無く、今の状況になっていたに違いない。
「少し…夏実と話してみる」
ずっと一緒にいるって事に、私、甘えてたみたい。
言わなくても伝わる事って勿論あるけど、言わなきゃ伝わらない事もあるよね。
「…そうですね」
はっきりと気持ちを口にすると、ほんの少し胸が軽くなる。
すいと面を上げ、にこりと視線を返すと、葵もまた嬉しそうに微笑んで。
と、柔らかく落ちた沈黙の中、耳慣れたモトコンポの軽いエンジン音が近付いている事に不意に気付く。
柵の下をついと見下ろせば、想像通りの白い車体が門を抜けようとした所で。
「…それじゃ、私もお昼に行きますね」
「うん。…有難う、葵ちゃん」
立ち上がったすらりとした長身が、鉄の扉の向こうに消えていく。
もう直ぐ、代わりに元気な足音が聞こえて来る事だろう。
────…空が、蒼い
ゆったりと移動する大きな雲を見上げながら、美幸は眩しげに眼を細めていた。
END
うちの設定では、洋食系は美幸、和食系は夏実が主に担当で当番制。
朝食、昼食は各自調達。夏実が朝、大抵起きられないので、自動的に
そうなる、と。美幸は朝早めに行って、ガレージに行く事も多いしね。
起きられたら当然一緒に用意しますが。
フルスロの給湯室情報では、美幸が食事担当で、料理好きな人間ぽい
発言をしてるそうですが、元々美幸は料理や食事に大して興味はなかった
のではないかと長谷は思います。
食事って日に三度もあるし、先延ばしは難しく、作るのに時間掛かる割りに
食べるのは一瞬だし、合理的な美幸には面倒って感覚の方が強かったのでは、と。
ので、単に好意を持った相手が、偶々食べるのが大好きで、嬉しそうに景気良く
食べるのを見るのが楽しかっただけではないかと予測してます。
嬉しそうに沢山食べる人間が傍にいると、こっちも釣られて箸が進むし、
食べてくれる所を想像すると、作るのも楽しくなるしね。
一人になったら、きっと美幸は食事を抜くのも頻繁で、貧しい食卓になる
んじゃないかなあ・・・。
宴の前に(第20話)
開いた鞄から出てきたのは、幾つもの小さなお菓子の箱と、お約束の焼酎の箱だった。
「うわー、まだこんなにあったんだ」
感心した、と言うよりは呆れた風情で夏実が呟く。
まあ、彼女の気持ちも解らなくはない。
何せ昼間、署に寄った際、この鞄から出て来た交通課の人数分の菓子の山を、彼女はその眼で見ているのだから。
尤も、実を言えば、此処にあるのも土産の一部でしかなかった。
本当の土産は宅配で送ってあり、現在手元にあるこれらは、帰った日に何も無いのも寂しいからと、空港で調達したものであるからだ。
それを口にする気は微塵も無いけれど。
「取敢えずこれは今夜の分」
残りは明日、届く予定よ。
「…そんなに気を遣わなくても良かったのに」
「別に気を遣った訳ではないのよ」
地元の人に教えて貰った、土産屋にはないお勧めが気になって、酒屋さんに郵送を頼んだだけ。
でも、空港で空いた時間にお土産屋さんを見ていたら、瓶が気に入っちゃって。
「ああ、成程」
綺麗だもんね、この瓶。
パッと見、焼酎っぽくないっていうか。
「でしょう?」
スタイリッシュなデザインの瓶を改めて眺め、一転、楽しげに表情を変えた夏実に、購入して来た美幸も嬉しくなる。
折角買ってきたのだ。
申し訳ない顔をされるより、喜んでくれた方が当然嬉しい。
大体、同居している事を考えれば、土産といえど二人で消費する事が前提で購入する訳で、自身が触れてみたいものもまた選択の対象に入って来る。
そうなれば、普段スーパーであれが食べてみたい、これ飲んでみようと二人で買い物をするのと、結果は余り変わらないと思うのだ。
尤も、受け取る側から言わせれば、美幸の視点のみで選ばれたそれらは、より美幸が夏実を想って手にしたものであり、また美幸の趣味が何時もより色濃く出ている為、同義とするには異論が出ているのだが。
「それに、これ、御土産屋さんのお勧めだったの」
最近、女性にも人気の銘柄なんですって。
「ふーん、そりゃ楽しみ」
箱から出された瑠璃色の瓶を、一頻り、試す眇めつした後、ひょいとテーブルの中央に置く。
機嫌良く笑いながら身軽に立ち上がり、ついと踵を返して。
「んじゃ、夕飯の支度しておくからさ」
美幸は先にお湯、使っちゃいなよ。
葵ちゃんに簡単で美味しい御摘みのレシピ教わったから、楽しみにしてて。
「ん、解った」
肩越しに声を掛け、ウインク一つ寄越した後、真っ直ぐカウンターに向かうその背を見送りながら、残りの荷物を出して行く。
あの口調なら、件の料理は、一度は作ってみたのだろう。
披露してくれるという事は、彼女の口にあったという事で、和食を得意とする彼女の繊細な味付けを好む美幸としては、中々に嬉しい夕食になりそうだ。
────それにしても、作るのはあんなに繊細に作れるのに、食べる方は大味でOKなんて、良く考えなくても不思議よね
普通、逆じゃないかしら。
内心首を傾げながらキッチンの方向を見れば、冷蔵庫から材料を取り出そうとしているのか、ごそごそと音は聞こえて来るものの、カウンターの影に隠れて夏実の姿は見えなくなっていた。
「それはそうと、夏実」
「んー?」
「先刻(さっき)頼子が騒いでたけど、何かあったの?」
私がいない間、頼子と組んでたんでしょう?
鞄の一番下に入れておいた洗物の袋を取り出しながら、何気なく尋ねる。
「あー、あれね」
美幸はあんまり、聞かない方が良いような気もするんだけど…。
目的のものを見付けたのか、ひょいとカウンターの上部に半身を現した夏実が、ちらりと振り返り、言葉を濁す。
「うーん、でも、頼子が騒いでいる時点で、何れ美幸の耳に入るのは確実だしなあ・・・」
事実が曲げられて伝わる前に、話した方が良いような気も…。
シンクに向かった事で、再び背を向けた夏実の呟きからすると、特に聞いて拙い事ではないらしい。
にも拘らず、夏実が渋る理由が解らず、美幸は手を止めて眉を顰めた。
「そんな事言われたら、益々気になるわよ」
「だよねぇ」
それでも更に、迷った様子をしていた夏実だったが、然し、結局は今黙っていても同じと踏んだらしい。
「うーん、まあ、ぶっちゃけて言えば、頼子が幽霊を見たって事なんだけど」
「幽霊!?」
「あらら、矢っ張り」
ぴきりと固まった美幸に苦笑すると、大丈夫、と頚を振ってみせて。
「頼子が居るーって叫んだ時、私、直ぐ傍に居たけど、何にも見なかったし」
ま、状況が状況だったから、そんな気がしただけじゃないのかな、って。
「…状況」
「うん…丁度、事故があった場所に、花を添えていた処だったんだよね」
「一体、二人で何をしてた訳…?」
パトロールに出ていただけなら、先ずありえないだろう話に、少しばかり眉を顰めて。
「あー、うん…一寸長くなるから食事しながら話すわ」
それより早い所、お風呂に行っといでよ。
でないと、夕食の方が先に出来ちゃうしさ。
「え、ええ…」
ほらほら、と軽く急かされ、洗い物を片手に、着替えを取って来る為にソファーを立つ。
今夜の宴の肴は、沖縄土産に新作の料理、そして互いが傍に居なかった間の報告となるらしい。
────あの様子じゃ、当事者はどっちかというと、あの娘みたいね
取敢えず、判断は後回しにして、何があったかきっちり聞き出しておかないと。
フォローは私の役目なんだから。
…それに、事情を知ってないと、明日頼子に振り回される事にもなりそうな気がするし。
夏実が聞けば、別にフォローなんて要らないのに、とでも言いそうだが、しかし、性分というものは中々変えられないものなのだ。
尤も、本当の所を言ってしまえば、自分が居なかった間に何が起きて、彼女が何を考えたのか知っておきたいという、独占欲の方が大きかったりもするのだが。
己も周囲も、つい建前で誤魔化そうとしがちな自身は自覚しているが、解っていながら受け入れてくれる相手がいる所為か、まだ暫くこの悪癖は直りそうにはなかった。
洗濯機に洗物を放り込んでから、着替えを取りに自室の方へと足を向ける。
休暇は終わり、明日からは再び仕事の毎日だ。
だが、忙しい日々に戻る迄には、まだ数時間の猶予がある。
そして、それを楽しむだけの、自分達の心の余裕も。
────まあ取敢えず
幽霊の話が出る覚悟だけ、しておけば良いかしらね。
先刻の夏実の様子から、恐らく、自分の弱点を刺激される事になるだろう事を予想しつつも、美幸は数十分後の極々近い将来へと思いを馳せていた。
…その後、二人の宴会がどういった経緯を辿ったかは、また別の話となる。
END
おまけ
「絶対絶対、居たんだってば!」
私、見たのに何で信じてくれないの〜?
今にも地団太を踏みそうな様子の頼子に、美幸がくすりと笑ってみせる。
「一緒に居た夏実が見てないなら、気の所為って思われても仕方ないんじゃない?」
「でも、確かに見たんだってば」
葵ちゃん〜と無い胸に飛び込まれ、よしよしと葵が背を叩く。
ビジュアル的にも、当人達の意識としても、既に女性同士のそれだった。
「葵ちゃんは如何思うの?」
「私はその場に居ませんでしたから、何とも」
唯、夏実さんは、そういったものは見ない人のようですから、一概には。
「見ない人…?」
「ええ」
丸っきり信じてないと、見えるものも見えませんから。
でも、夏実さんにとっては、その方が良いのかもしれませんね。
「というと?」
「夏実さんは、かなり強い力を持ってますので、惹かれて来る霊も多いようですから」
「でも私、結構長く夏実の傍にいるけど、そんなの見た事ないわよ」
驚いて眼を見開いた美幸に、葵はにっこりと微笑んだ。
「夏実さんの力は強すぎるので、惹かれて来ると、大抵は消されてしまいますし、偶に強いのが来ても、弾いてしまうんです」
彼女の傍に居れば、その手のものからは、此れ以上ない位安全で居られますよ。
何故そんな事が解るのか、やら、葵には見えているのか、やら突っ込みたい所は沢山あったが、取分け美幸が気になったのは矢張り夏実の事だった。
────それってつまり、幽霊にも夏実は魅力的に見えてるって事…?
適当な理由を口にして、慌てて席を立った美幸の背中を二つの視線が追い掛ける。
「結局美幸、私が見たって事、信じてくれたのかなあ・・・?」
頼子の呟きは、既に美幸には聞こえない。
END
思い出を作ろう(第23話)
パシャ、とシャッターを押すと共に、時が切り取られていく。
手にしているのは、ずっしりとした重さのある、手に馴染んだ一眼レフ。
昨今の主流のデジタルではなく、昔ながらの一品だ。
────アナログもまた、味があって良いのよね
ガレージに鎮座するTODAYや、モトコンポに跨る夏実を被写体として、思う侭にシャッターを切りながら、フィルムカメラ独特の小気味の良い音を楽しむ。
夏実が古ぼけたカメラを持ち込んで来たのは、先日、大掃除と称して、生家に帰った後の事だった。
父親は海外で、祖父母が亡くなり、且つ職住接近を迫られる職業柄、彼女も家を出ざるを得なかった為、下町に構えられた平屋は、嘗ての様相をその身に留めた侭、今も主を待っている。
空き家の侭では物騒だし、何より人の住まない家は荒れる。
売るか貸すかした方が良い、との忠告は、祖父が亡くなった時世話になった弁護士に貰ったそうだが、その為には残った家具の処分や書類の手続き等、面倒な作業が目白押しで、結局、年に何度か掃除に行く事でお茶を濁し続けているという。
今回もまたその一環で、以前整備したサイドカーの様子を見がてら、のつもりで出掛けた際、祖父の部屋から見付けたのだそうだ。
『これさ、今も使えるのかな』
この手のカメラ、使った事ないから、壊れてるのかどうかも解らないんだよね。
そう言って差し出されたのは、型の古い一眼レフ。
当然のように、今は使用者が減り続けているアナログのそれは、けれど、当時はかなり値が張ったと思われる、高級品だ。
引き出しの中から数本のフィルムと写真の束と共に見付けたというが、大事に扱われていたのだろう、年数が経っている割に、レンズにも曇りはなく、状態は悪くない。
電池が抜かれていた事も幸いしたのだろう。
中身については開けてみなければ解らないが、それは取敢えず試しに写しみて、不具合が見付かってからで遅くなさそうだった。
『えーと、電池の買い置き、あったかしら』
適合する電池のタイプを確認し、手持ちのそれを見つけて差し込んでから、フィルムの残りがあるかを確認する。
カメラ内に使用中のフィルムが残っている可能性を考慮しての行動だったが、この場合それは適切だったらしい。
何枚撮りのものが入っているかは知らないが、現在の枚数からすると、24枚用だったとしても後数枚は取れる計算だ。
『如何?使えそう?』
『中は解らないけど、見た処問題はなさそうね』
フィルムも入っているみたいだし、試しに何枚か撮ってみたら?
後は撮るだけ、の状態のそれを差し出せば、しかし、彼女の反応は芳しくなかった。
『そうしたいのはやまやまだけどさ…使い方、解らないんだよね』
それって、自分でフォーカス、調整しなきゃならない奴でしょ?
私、オートフォーカスのしか、使った事ないもん。
困ったように首を振られ、確かにそうかも、とこっそり呟く。
機械に興味のない女子学生にしてみれば、重くて面倒な高級品より、自動化された手軽に扱える廉価品の方が有難いに違いなく。
バイクと同様、身体で覚えてしまえば、それ程難しい物でもない為、後で使い方を教える事を申し出つつ、取敢えずは自分が試してみる事にする。
其の侭、数枚、夏実をモデルにシャッターを押し、フィルムの巻き戻しまで正常に稼動終了する事を確認すると、続きは現像した写真を確認してからね、と取り出して。
翌日、早速署の売店に依頼した現像は、戻ってきてみれば、フィルムが古かった事が関係しているのか、セピア色に染まっていたのものの、なかなかに綺麗な出来上がりだった。
カメラに問題がなさそうな事を確認した翌日は、当然のように夏実への一眼レフ使い方講座が催され、その後も時折、こうしてカメラを持ち出しては、二人で撮る事を楽しむようになっていた。
「美幸美幸、TODAYと一緒に撮ったげようか?」
丁度ぴかぴかにした所だし。
「うん、じゃ、お願い」
頷いてカメラを渡し、TODAYに寄り掛かる。
が、肝心の夏実は、シャッターを切った後、何故か苦虫を噛み潰したような表情でカメラを下ろした。
「…どうしたの、夏実?」
「中嶋君よ」
「え?」
「あそこ」
指先で示された方を見れば、確かに中嶋とV-MAXだ。
「シャッター押した瞬間、あそこでぴょこぴょこ飛び跳ねてた、中嶋君」
多分、入っちゃったと思う…。
酷く残念そうに肩を落としたのを、まあまあと背中を叩いて慰める。
中嶋も、自分達が余りに楽しそうにしているので、羨ましかったのかもしれない。
前回撮った写真を整理している際、俺達のも撮ってくれよ、と何度か戯れのような口調で言っていた。
尤も、背後で耳をダンボにしている同僚の数に、一人OKすると済し崩しになる可能性を読み取って、矢張り冗談めかした口調で、夏実が断っていたけれど。
「美幸、悔しいからもう一枚!」
「別に先刻(さっき)ので構わないわよ」
まあ、中嶋君のその行動は、一寸如何かと思うけど。
くすりと笑って首を振れば、本当?と上目遣いで尋ねてくる。
子犬を思わせるそんな仕草は、出会った頃から変わらない部分だ。
受ける自分の感情は、大いに変わってしまったけれど。
「却って、後から写真を見た時、何時撮ったのか思い出す切欠になったりするかもしれないし」
「…それもそっか」
重ねた言葉に、思い当たる事でもあったのかもしれない。
意外に素直に頷くと、ぱっと切り替え、それじゃそろそろ時間だし、戻る準備をしようか、と何時もの笑顔を向けてくる。
そうねと同意し、工具やクリーニングに使った道具を二人で手分けして片付けて。
「美幸、急がないとあと十分!」
左手にはカメラを抱えた夏実が、空いた右腕をがしりと頸に回してくる。
耳元近くで聞こえて来る伸びやかな声が、ざわざわと血を巡らせて。
────意識しないでやってるから性質(タチ)が悪いのよね、夏実は
私だけが、何時でもどきどきしてるみたいなんだもの。
触れ合った場所から伝わってくる体温に、頬が熱くなるのを止められない。
早く早く、と急かす夏実に合わせて小走りになりながら、薄く染まっているだろう頬に手を添える。
更衣室まで、あと少し。
END
最終話の写真のエピソードに萌えたので(というか、あそこしか萌え所がなかった…)、特に意味のない日常のひとコマを軽く一本。番外編と銘打っていたとはいえ、シリーズ最終話に持ってくるのは如何かと思えたお遊び話でしたが、あれはあれで普通に面白い話ではありました。但し、夏実と美幸のファンとしては、最終回に二人が殆ど出てこないのは、大いに不満が残りましたが。もし、頼子の回の代わりに此れをやっていたなら、結構納得行ったかも。
大した話でもないのにやたらと時間が掛かったのは、一度書いた話が気に入らなくて、大幅に書き直ししていたからです。削除したのは、オリジナル設定満載の部分。感想小説と銘打っているので、一寸場違いに思えたので、ばっさり切って書き換えました。一寸気に入った部分もあったので残念ですが、まあ仕方のない事です。その内、再利用するかもしれませんけどね。
第24話 これまでも、これからも
『警察官の日々』
書いて、と渡されたコラムのテーマを聞いた時、真っ先に浮かんだのは、長年の相棒の顔だった。
高校を出て警察学校に入学し、卒業してからそれなりの年数を経ている。
とはいえ、長い警官人生を過ごして来た徳野辺りから見れば、まだまだひよっこ同然の筈だが、少なくとも、後輩の指導官を任される程度の年数は経っているのだと、新人達を見て改めて認識した。
検挙率は高いが遣り方が不味い、と常日頃言われ続けている自分達が敢えて指導官に指名されたのは、若しかすると、嘗て自身が新人だった頃、先輩にされた指導を思い出せ、という事なのかもしれない。
ともあれ、勤続年数と夏実と知り合ってからの年数を比較すれば、既に後者方が半分以上を占めるようになっている。
尤も、異動だ研修だと年単位で離れていた時期もあるから、その年数イコールコンビを組んでいた年数という訳ではなかったが、それでも、彼女と過ごして来た時間は酷く濃密で。
美幸の中でそれらは、総合年数的には然して変わらない筈の、他の時間とは比べ物にならない程煌いている記憶となっていた。
例えていうなら、それはフルカラーの映像とモノクロ映画程に違いがあって、美幸の中での比重の大きさが窺える。
その差は、実際の年数に係らず、自身の警察官人生と彼女の存在とを、ストレートに結び付けるようになっていた。
エディタを開き、キーボードの上を、両の指が軽快に滑る。
相棒は、新人達に引っ張って行かれて、今頃はガレージだ。
彼女達のお目当ては夏実のモトコンポで、初日から頑張りすぎると後が辛いよ、と苦笑しながらも、ガレージから更衣室に直行出来るよう、夫々に鞄を持たせ、付き合い良く出掛けて行った。
今朝、課長に指導官に任命された時、『美幸は兎も角、自分は向いてない』と言っていた彼女だが、実際はそんな事は無いと思う。
現に、固い印象のあるらしい自分よりも、ざっくばらんで人が良く、面倒見の良い、所謂姉御肌の夏実は、既に二人の新人に慕われている。
自身といえば、自分ではそうでもないと思うのだが、真面目で融通の利かない優等生的な印象があるらしく、親しくなる迄に時間が掛かるのが通常だ。
それでも、夏実と知り合ってからは、表面上だけでなく付き合える相手も増え、且つその域に至る迄に掛かる時間が大分短くなったように思う。
恐らく、夏実と常に一緒にいる事で、結果的に接触が増え、普段表に出ていない美幸の人となりを知って貰える機会が増えたからだろう。
人は第一印象で相手を判断する事が大半で、だからこそ第一印象を大切にせよ、というのは、昔から言われる事であるが、夏実と最初に組んだあの日、あれ程その言葉を痛感した事はなかった。
真面目な優等生は、親や教師、上司などから見れば、扱い易いが故に歓迎される。
だが、同じ立場の者から見れば、例え人当たりは良くともとっつき難く敬遠されがちで、更に美幸はそれを他人に踏み込ませない為の壁として来た。
長年の間に、既に自身の一部となってしまっていたそれを、真正面から否定したのは、珍しくも自ら親しくなりたいと思ったその人で。
直後に起きたFOX騒ぎを、実は美幸は今でもこっそり感謝してたりするのだ。
あの後、夏実の美幸への評価は、『真面目で融通の利かない、自分とは正反対の御節介』から『真面目で几帳面で御節介だけど、実は面白い奴』に変わったらしく、拒まれるかと思った同居の提案にも、意外にすんなり頷いてくれたのだから。
やがて、仕事上のパートナー兼同居人、にプライベート上でのパートナーの肩書きがひっそり加わり、異動や研修を繰り返しながらも、自分達は此処にいる。
此れまで、一緒に解決して来た事件の数々を思い出すと、同時に、その度に見て来た彼女の様々な表情が思い起こされた。
ストレートな感情表現は、美幸が苦手としているものの一つで、脳裏に焼き付く彼女のそれらは、憧れると同時に大切な宝物となっていて。
「…夏実」
瞼の奥の鮮やかな笑顔に、想いを込めて大切な名前を音に乗せ、思うが侭に文章を書き連ねた後、保存をして第一稿を印刷する。
立ち上がってプリンタから取り上げた処で、賑やかな音と共に夏実が姿を現した。
「あれ、まだ帰ってなかったの、美幸?」
先に帰ってて、って言ったのに。
プルを開けていない、彼女にしては珍しいミルクティーの缶を左手で弄びながら、大股に入って来た彼女は、美幸の手にしたプリントアウトに、今日何か急ぎの仕事あったっけ、と頚を傾げた。
「心配しなくても、仕事じゃないわ」
頼子に今朝、署内報のコラムを頼まれて、締め切りが今週末だって言うから、さっさと片付けちゃおうと思って。
「署内報?」
そんなんあったっけ?
「これよ」
自分と同じ反応をする夏実に、矢っ張りこの娘も知らなかったか、と内心少し安堵しながら、席に戻ってデスクにあった最新号を手渡す。
「墨東だより…?」
「そう、それで、頼子や葵ちゃんはもう書いたからって、私に回って来たの」
次の号に載せるんですって。
「へー、こんなのあったんだ」
あ、杉原さん。
受け取った小冊子をぱらりと開き、興味深げに覗き込む。
光の加減で、俯けた貌に落ちた陰影が、普段、くるくると良く変わる表情に隠された、彼女の整った造作を殊更に強調して、どくりと心臓が跳ね上がった。
こんな時、自分は彼女を本当に好きなんだ、と改めて認識させられるのだ。
そんな美幸の動揺を知ってか知らずか、不意に面を上げた彼女は、持った侭だった缶のプルを片手で器用に開け、其の侭口に運ぼうとして…美幸も飲む?と掲げた缶を軽く横に振る。
示されたパッケージは美幸の好きな銘柄で、それじゃ少し、と既に空になっていたカップを差し出せば、気前良く中身を注いでくれる。
上まで満たされてしまったカップに、こんなに良いの?と問い掛けるが、良いの良いの、と気軽な返事が返って来て、若しかすると、彼女は自分が未だ居残っている可能性を考慮して、これを選んだのではないかと思い至った。
「ふーん、『警察官の日々』かあ…」
紙面に視線を落としての呟きに、ふと、彼女なら如何書くだろう、と好奇心が胸を過ぎる。
「そのテーマで、夏実なら何を書く?」
その内、夏実にも回って来るわよ。
これ、各部署で持ち回りらしいから。
カップを傾けながら、何気なさを装って問えば、そうねえ、と真面目な色を浮かべた瞳が虚空を見詰めた。
が、それは僅かな間で、直ぐに表情を戻した彼女は、ひょいと肩を竦めてみせていた。
「駄目駄目。いっくら考えても、美幸とTODAYに乗ってるトコしか浮かばないわ」
他にも、色んな体験、して来てる筈なのに、やっぱ、私にとっては美幸の隣にいるこの今が、警察官としての象徴みたい。
美幸が思っていた事を、当たり前の事のようにさらりと口にすると、手にした紅茶をくいと呷る。
元々、然程大きくない缶は、美幸に半分以上分けてしまった所為で大して残っていなかったらしく、直ぐ様空になったそれは、柔らかな軌跡を描いて宙を舞い、見事ゴミ箱へと収まる事となった。
その際に発生した賑やかな音は、先の言葉に気を取られた美幸には、右から左だったけれど。
「私も…」
「ん?」
「私もそうだったわ」
読み終わった署内報と引き換えに、はい、と出したばかりのプリントアウトをその手に渡す。
何の気なしに眼を落とした夏実の頬が、読み進める内に朱に染まった。
不意打ちのそれは何処か告白めいていて、夏実を赤面させるのに充分だったらしい。
尤も、書いた張本人である美幸にとっては、単に正直な気持ちを文章にしただけなので、特に何を思う事も無いのだが。
「〜〜これ、恥ずいよ、美幸ぃ」
「…そう?」
口許を利き手で覆い、耳まで紅くして、肩口に貌を埋めてしまう。
表情は見えないが、触れ合った場所から、制服越しに彼女の体温が伝わって来て、美幸は酷く嬉しくなった。
親しさが表れたその所作は、単に照れているだけで、彼女が自分の想いを込めたメッセージを、受け止めてくれた事が判ったので。
暫しの後、やがてゆっくりと面を上げた夏実が、未だ顔を赤らめた侭であるのに、そこ迄恥ずかしがる事を書いた覚えはないんだけどな、とぱちりと一つ瞬いた。
「…美幸が良いなら良いけどさ」
時々、美幸ってこういうとこ、天然だよね。
口には出さなかったものの、考えている事が理解ったのか、小さく苦笑して頬を掻く。
そして、その手は降ろされる事なく、ついと美幸の肩を引き寄せて。
「こちらこそ、これからもよろしく、相棒さん」
囁きは、酷く甘く耳に響いて、寄せられる侭、美幸は唯一と決めたヒトの胸に貌を埋め、こくりと頷いたのだった。
END
第24話その2 これまでも、これからも2
「それにしても…何か今日は、やけに昔を思い出させられる日だったな」
お風呂上りにビールを持ち出し、月見酒と洒落込み始めた夏実に、アルコールだけでは身体に良くない、と適当に摘みを用意して。
向かい合わせに席に座ると、積んである缶の一つを手に取った。
大食漢で食べる事が大好きな割りに、一旦飲み出すと夏実は只管アルコールだけを口にする。
夕食の後なら兎も角、夕食を兼ねた酒宴の場合、空きっ腹にアルコールだけが入れられる事になり、同居を始めた頃は、これじゃ良く回る筈ねと呆れたものだが、然し、そうしてばかりもいられない。
胃を悪くしてからでは遅い、と自分がいる時は必ず何かしら用意しているが、離れている際はどうしようもなく。
二人分なら兎も角、自分の為だけに料理をするのは億劫なのは解るので、一人で飲む際はナッツでも何でも構わないから、兎に角一緒に何か入れなさい、と毎度説得を試みているのだが、しかし、この自分が胃なんか壊す訳ないじゃない、と笑って取り合ってはくれなくて。
研修等で生活を別たざるを得なくなる度、時間を掛けて言い含めてはいるが、今回もまた、帰国した晩の様子を鑑みるに、残念ながら、悪癖は直っていないらしかった。
「夏実、ビールばっかり飲んでないで、ちゃんと食べてよね」
本当に何時か、胃をやられるわよ。
「だーいじょうぶ、大丈夫」
でも、美幸のご飯は大好きだから、勿論これは有難く頂きます。
美幸に向かって頂きますと手を合わせてから、二人分の取り皿に料理を取り分け出した彼女に安心して、美幸もまたプルを引く。
昔は注意する度、『ものを食べたらお酒が入らなくなっちゃうじゃない』と、一部では墨東署の七不思議とさえ噂される胃を抱えておいて、一体どれだけ飲むつもりだと突っ込みを入れたくなるような、空恐ろしい返答が返って来たものだが、こうして素直に箸を取ってくれるようになったのは、美幸の心からの心配と、粘り強い教育の賜物かもしれなかった。
「…で、どんな昔を思い出した訳?」
「ん?」
取り皿の一つを美幸の前に置き、再びビールの缶を手に取った夏実が、どの話?と小首を傾げる。
有難うと受け取った皿に、美幸が好きなマリネが多めに盛られているのを見て、美幸は彼女の然り気無い気遣いが嬉しくなる。
「今言ってたじゃない」
やけに昔を思い出す日だった、って。
「ああ、それね」
空になった缶を脇に置き、新たな缶を手にした夏実に、飲み終わってから食べても意味ないでしょ、と皿を示すと、照れたように笑って、プルを開けた缶を手放した。
「今朝見た夢がさ」
美幸と初めて逢った日の夢だったんだよね。
んで、署に着いてみれば新人の指導官、なんて指名されるし、美幸のあれも、ね。
「成る程」
確かに、どれもこれも過去を意識させる事ばかりだ。
指導官は新人時代を、そして、あのコラムのテーマは二人で辿って来た道程を。
美幸自身、あのコラムを書きながら、出会ってからの事、二人で解決して来た様々な事件の事そ取り止めもなく思い出していたのだから。
「…にしても、出会った時の夢なんて、相変わらず、その手の勘が鋭いわね」
「うーん、そうなのかな」
「そうよ」
過去、何の気なしに交わされた夢の話を総合すると、彼女の夢は、フルカラーで音付味付、ものに触れた感触すら再現される、現実かと見紛うような、それはそれは豪華な夢らしい。
そして、見ている内容は割と現実に即しているようだが、良く良く聞いてみると、その日に起きる事と関係している事が時折、ある。
「初めて逢った時っていうと…追い掛けっこ?」
「じゃなくて、その前」
「その前って…あ」
「ん、そう」
私が、美幸に貴女とは合いそうに無いから、コンビは組めないって言った時の事。
言われて、思い出す。
そう、あの時、表面には出さなかったけれど、自分は必死だったのだ。
どうしたら、この人を引き止められるだろうかと。
警察学校で、彼女の顔と、校史に残る武勇伝は知っていた。
けれど、実際に逢ったリアルの彼女は、想像していたよりもずっと、パワフルで豪快で優しくて、そして、魅力的だった。
理詰めの説得では、このヒトは動かない。
だから美幸は、心の内を正直に晒し、コインに全てを委ねたのだ。
結局、途中で割り込んだFOXの御蔭で、未だその結果は知らずに済んでいるのだけれど。
あの時、あのタイミングでやって来てくれたFOXには、幾ら感謝してもし足りない。
「運命…か」
ふと、昼間のさくらの言葉を思い出す。
大抵は後からあれがそうだったのだと解る事なのだけれど、物事のタイミング一つで、未来の全てが変わってしまう瞬間が、確かにある。
自分達二人にとっては、それは将にあの時で、そういった人知を超えた処にある采配の妙を、人はそう呼ぶのではあるまいか。
けれど、その美幸の解釈に、けれど夏実はあっさりと頚を振っていた。
「んー、まあ、確かにそういう瞬間に、そういう不可思議な巡り合わせが起きる事があるのは認めるけどね」
でも、少なくとも、私達が今一緒にいられるのは、別にそんな大仰なものじゃなくて、あの時美幸が頑張った結果でしょ。
「私…?」
「そーよ」
思いもよらない言葉に美幸は頚を傾げるが、発言した当の本人は、あ、此れ美味しい、等と呟きながら、ちりめんじゃこを散らした大根のサラダを、嬉しそうに頬張っている。
先日、葵から借りた雑誌のレシピを、冷蔵庫の中身と相談してアレンジしたものだが、和食党の夏実の口にも無事合ったらしい。
口の中のものをきちんと飲み込み、美幸に窘められて先程置いた缶を今度こそ手にすると、一口喉に流し込んでから、再び夏実は口を開いた。
「チャンスの神様は前髪しかないって良く言うでしょ?」
で、今のこの現状は、美幸がその少ないチャンスを掴んでくれたからこそ、生まれる事が出来たんだと私は思ってるんだよね。
一体何の事を言っているのか、と疑問符が浮かぶが、夏実の説明は明瞭だった。
「だって、あの時、組みたくないって言った私に、普段なら相手がそう言うなら仕方ないって諦めてしまうだろう貴女が、簡単には頷かなかったじゃない」
初対面の、それも自分を否定した相手に対して、自分の気持ちをちゃんと口にして、それでも最大限の譲歩をしようとした。
コイン投げなんて、普段の貴女なら先ずしない方法まで取ってね。
美幸の性格を考えれば、あれってもの凄い努力だと思う訳。
で、そういう風に努力するヒトには、神様、かどうかは知らないけど、大抵、良い方に導いてくれる力が働くもんなのよ。
「その結果が…FOXって?」
「そんなとこ」
明快な言葉は、恐らくは彼女が、幾度もこの件に付いて、考えてきた結果だろう。
知らなかった。
あの時の事を、彼女がこんな風に思っていたなんて。
「素の貴女を知ってしまえば、話は簡単だった訳だけど、知らなきゃ、表面上の貴女しか知らない侭で、コンビそのものが生まれなかったかも知れないし、そうなれば当然、今の関係はなかったと思う」
現状があるのに、仮定なんて、意味がないけどね。
でも、時々、考えるのよ。
あの瞬間は、私達にとっては大きな曲がり角の一つで、美幸があの時、ああ言ってくれてなければ、きっともっと違う現在(いま)になっていただろうなって。
手元の缶に視線が落とされ、軽く伏せられた睫が陰影を作る。
けれど、不意に上げられた瞳は、真っ直ぐに美幸を捕らえ、二人の視線が絡みあった。
「…だからさ、運命なんて言葉で片付けちゃうのは勿体無いよ」
出会いもパートナーに指名されたのも偶々だったけど、少なくとも、私は、其処から現在(いま)に発展出来たのは、美幸のお陰だと思ってるんだから。
「夏実…」
まじまじと見詰める美幸の視線から逃れるように、ぐいと大きく缶を傾ける。
その際に視界にでも入ったのだろうか、一気に中身が減っただろうそれを口許から外すと、ふっと夏実の瞳が窓外を映した。
見詰める視線の先にあるのは、パールホワイトの夜の象徴で、満月には少し欠けてはいたが、その玲瓏さは全く損なわれていない。
そして、それを見上げる怜悧な横顔は、何時もの賑やかに彩る感情はなりを潜め、静謐という言葉が良く似合った。
時折、彼女はこういった遠くを見る視線で、虚空を見詰める事がある。
そんな時、美幸は大人気ないと思いながらも、彼女の意識を無理矢理にでも自分に向けたくなるのだ。
そしてそれは、今もまた。
ほんの少し身を乗り出して、くっと袖の端を引く。
今回は、然程意識を持っていかれていなかったのか、直ぐに反応した夏実は、美幸?と大きな瞳をひとつ瞬かせた。
地球色の虹彩は先祖返りなのだと、昔何かの際に教えてくれた、彼女のルーツを思い出す。
あの時、この瞳に自身を映して欲しくて必死に取った行動が、現在(いま)を導いたのだと彼女は言った。
だがそれは、いわば旅に出る際に最初の進路を指定しただけで、その後は自分達の選択の一つ一つが現在に繋がっているのだ。
連綿と続いてきた見知らぬ誰かの沢山の選択が、彼女を生み出してくれたように。
「…有難う、夏実」
凄く、嬉しい。
貴女がそんな風に思っていてくれて。
瞳を見詰めて正面から想いを告げれば、照れ屋の彼女らしく、アルコールにも変わらなかった皙い頬に朱が走る。
「…でも、今、私達が此処でこうしていられるのは、それだけが要因じゃないよね」
私達、最初にパートナーになった後、随分あちこち異動したけど、でも、二人共が此処に戻ってくる事を選択したから、こうしていられるんだと思う。
「…うん」
そう、どちらか片方が、違う道を選んでいたら、プライベート上は兎も角、少なくとも仕事上でのパートナーは、解消されたままだったろう。
「私達、名コンビなんて言われているけど」
多分、これからも、色々な選択を迫られる事になると思う。
でも、また離れる事になったとしても、二人で此処に帰って来れたらな…って。
「……うん」
うん、そうだね、美幸。
夏実の、きつい眦が優しく撓んで、くしゃりと笑みが浮かぶ。
彼女が笑うこの瞬間が、とても好きだ。
すいと椅子を立つと、テーブルを回って傍らに立つ。
指導官を任される程度の年数は経たとはいえ、二人の警察官人生は、まだまだ始まったばかり。
それでも。
離れたり戻ったりを繰り返しながらも、この侭、二人で歩んで行けたら。
幸福な未来の欠けらを相棒に見ながら、美幸は眼前の公私のパートナーの皇かな貌に、ついと手を掛けたのだった。
END
第24話その3 これまでも、これからも おまけ
ぱらりと表紙を一枚捲ると、恒例の署員のコラムが現れる。
第56回に当たる今回の担当は、我らが交通課のホープ小早川美幸で、見てくれとやる事にギャップのあり過ぎる彼女が、普段何を思っているのか、実は密かに皆の注目を集めていた、のだが。
「あちゃー…」
隣から聞こえる頼子の声に、内心葵も大いに同意した。
部屋の隅では、紙面に顔を突っ込むようにした中嶋が、どんよりとした空気を背負っている。
考えらえない訳ではなかったが、然し、恥かしがりな一面を持つ美幸の事、彼女の羞恥心を期待したのだが、無駄に終わってしまったらしい。
紙面を先ず飾るのは、恐らくは夏実の手に拠るのだろう、TODAYに寄り掛かる美幸の写真で、撮り手の所為か表情が柔らかい。
そして、肝心の中身といえば、彼女の警察官人生がイコール相棒の存在と直結しているときっぱりはっきり告げていて、二人の関係を知る者には、如何見ても、美幸からの夏実への告白にしか見えなかった。
例え関係を知らなくとも、美幸の夏実に対する認識や思い入れの強さが読み取れるそれは、それなりの破壊力を持っていたが。
そう、彼女に想いを寄せる者を撃沈させられる程度には。
「ったくう…最近、美幸、臆面がなさすぎるよ」
アメリカに羞恥心、忘れて来たのと違う?
「…」
中嶋君が落ち込むと、大きいだけに鬱陶しいのよね、という頼子の言葉は図星を突いているだけに頷き難い。
表立って同意も出来ず、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった葵に、救いの手が伸べられたのは、次の瞬間だった。
「おっはよー」
ばたん、と景気の良い音と共に登場したのは、話題の二人で、頼子はその片割れを、PCを上げるのも待っていられないとばかり、給湯室に連れ込んだ。
不意をつかれたとはいえ、その腕力を駆使すれば、頼子を封じ込める事等造作もない筈の彼女は、戸惑いながらも付き合い良く引っ張るその腕に従ってくれて。
「で、一体朝から何だってのよ」
どうせまた碌な話じゃないんだろう、とでも言いたげな顔をしている彼女の鼻先に、これよこれ!と件の冊子を突きつける。
「今月号の署内報に、美幸が書いてるって知ってる?」
ここ、ここ、と頁を開いて示してやれば、若しかすると存在そのものを知らないのではないかと危惧されていた夏実は、ああこれ、とあっさり納得して。
「知ってるわよ」
書いてる時に、第一稿を見せられたもの。
んー、ああ、でもこれ、あれと殆ど変わってないみたい。
美幸の事だから、もっと全面に手を入れるかと思ってたんだけど。
「読んでたのに止めなかったの!?」
夏実の認識も変えなきゃ、かも…と頭を抱えた頼子に、失礼ね、と夏実が唇を尖らせた。
「私だって言ったわよ、恥ずいって」
でも、そしたら美幸、どの辺が?って真面目な顔して聞くんだもん。
そんなの、答えられる訳ないじゃない!
拳を振って力説する夏実に、まあ確かに、と苦笑する。
けれど、ふと思い付いてしまった想像を、まさか、と思いつつ葵は止める事が出来なかった。
「でも、夏実さん」
若しこのコラムが其の侭載った場合、中嶋さんへの牽制になる、…なんて考えませんでした?
恐る恐るの問いは、さーどうかな、という惚けた答えで誤魔化されたが、然し、その思う所は明らかで。
「あれって、どっちもどっちって奴だよね…」
解っていない美幸と、解っていて放置した夏実。
探しに来た美幸と共に去っていった背中を思い出しながら、二人は大きく溜息を吐いたのだった。
END