●Girl Meets Girl

プロローグ

 古ぼけた黒の帽子の中心を飾る、「R.T.Z」の金の縫い取り。
 その意味する所は、鍔の縁に沿って入れられた、矢張り金の「RACING TEAM ZERO」の文字が、表している。
 初めて自分の元に来た時から、既に使い込まれていたそれは、草臥れてはいたけれど、大切に扱って来たお陰でまだまだ現役だ。
 美幸が被るキャップタイプの帽子は、今も昔も、これ一つ。
 ────ねえ、如何してる?
 時折取り出しては眺めやりながら、顔も覚えていない相手に話し掛ける。
 思い出すのは、楽しいばかりだった、鮮やかな時間。
 其処で知り合った、現在の自分の原点ともいえる笑顔の眩しい一人の少女。
 ────そうだと良いなと思ってるけど、違うのかな、矢っ張り
 遭いたいよ、もう一度貴女に。
 何時か再び巡り会える時を信じて、今日も美幸は思い出の少女に話し掛ける。

 

Scene 1 美幸〜思い出1

 夏の、暑い日だった。
 陽炎が立ち昇るお昼時、少女は人気のないその場所を歩いていた。
 照り付ける太陽がアスファルトを焼き、空気を上昇させていく。
 そうでなくとも催し物の無い時は元々人気が少ない其処は、人工構築物に囲まれている為気温が上がりやすく、且つ此の時間が一日の内で最も暑い時間帯である事から、此の時間に通る人間は殆ど居ない。
 これが、朝や夕方等の、もう少し涼しい時間帯であったならば、その後の展開は大きく変わっていただろうし、そして、その事は、彼女の人生をもっと違った、恐らくは無難なものにしていたに違いない。
 だが、運命の輪は、そんな穏やかで退屈な人生を、彼女に送らせるのは良しとしなかったらしく、此の日、此の時間に彼女を此の場に導いて。
 ────暑い…
 流れる汗を拭いながら、中天に丁度居座る太陽を仰ぎ見る。
 夏休みに入ったのは三日前。
 子供が小さい内は、と誘いを断っていた母が、小学校も中学年になれば、と今年から正社員になったのが事の始まりだ。
 もう少し大きくなれば、塾だの部活だので子供自身忙しくなって来る筈だが、まだ此の年齢ではクラブ等に入っていなければ、長い休みは特にする事はない。
 流石に、四十日間、丸一日自宅に子供を放置するのは如何なものか、と共働きとなった両親は、話し合いの末、娘を父親の実家に預ける事にしたのだった。
 岡山から三重迄の、初めての一人旅。
 大人にとっては大した距離ではなくとも、子供にとっては大冒険だ。
 休みに入って二日目、昨日は、移動の緊張と疲れで早々に休み、今日は朝からノルマ分の宿題を片付けると、周辺の探検へと飛び出して。
 涼しい内に宿題を、というのは学校推奨の正しい生活リズムではあるが、その後に外に出るという事は、つまり一番暑い時間帯に外出している、という事だ。
 初めての土地に胸を弾ませ、きょろきょろしながら足を進めている内、年の割りに慎重な彼女にしては非常に珍しい事に、周囲に気を取られ過ぎて自分の位置を見失った。
 所謂迷子という訳だが、然し、道を聞こうにも人が居ない。
 先程から聞こえて来ていた、大きな騒音も今はぱたりと止み、陽の光の最中にいるにも拘らず、美幸は世界にたった独りになってしまった様な、恐ろしさを感じていた。
 ────何処か、日陰・・・
 帽子も被っていなかった事も拙かったのだろう。
 喉は渇き、くらくらする視界は、本人の自覚は兎も角、日射病の一歩手前だ。
 太陽が真上にある為、見渡しても陰になっている場所は殆ど無く、美幸は人気の無い建物へとふらふらと近付いて行った。
 「ふう…」
 コンクリの床にぺたりと直に座り込み、膝に面を伏せる。
 ポケットには、今朝程、祖母に貰った硬貨が幾つか入っている筈だが、一度座ってしまえば立ち上がる気にはなれなかった。
 ────今、何時なんだろう…
 時計は持っていないが、結構な時間が経っているのは解る。
 昼食迄には帰っておいで、と出掛けに声を掛けられたが、疾うにその時間は過ぎてしまっているだろう。
 心配しているだろうと思うが、昨日の今日で、一寸近所の散策、のつもりだった為、電話番号も解らない。
 何とかしなきゃ、とは思うものの、あの炎天下をまた歩くと思うと、とても動こうとは思えなかった。
 抱えた膝にうつ伏せた侭、一体どれだけ経っただろうか。
 傍らに、ふっと気配がしたかと思うと、ねえ、と徐に声を掛けられる。
 ゆるりと面を上げれば、何時の間にか、眼の前に同い年位の女の子がしゃがみ込んでいた。
 逆光で表情は解らないが、綺麗に髪を切り揃えた子が、愕く程近くから覗き込んでいる。
 「どうしたの?具合悪い?」
 「う、ううん」
 疲れたから、休んでたの…。
 思わず口を衝いたのは、そんな台詞だ。
 嘘は一つもないのだけれど、何処か突き放す言葉に聞こえて、言ってしまってから美幸は、折角声を掛けてくれたのに、とうろたえる。
 けれど、相手の少女は特に気にしなかったらしく、そっか、と声を弾ませて。
 「ならさ、こんなとこに居ないで、一緒に来ない?」
 狭いしばたばたしてるけど、冷たいものもあるし、此処よりは良いと思うよ。
 「え、でも…」
 一瞬過ぎった誘拐の二文字は、けれど、直ぐに頭から消え去った。
 ひょいと身軽に立ち上がった少女が立ち位置を変えた所為で、先刻まで見えなかった表情が露になったので。
 「あ、勿論、無理にとは言わないけど」
 如何する?と小首を傾げ、見詰めて来る少女の大きな瞳は、光の加減か蒼味掛かっており、見る者を惹き付ける。
 けれど、何より美幸を惹き付けたのは、屈託のない笑みと、生き生きと生気に溢れた彼女の纏う空気だった。
 「…行く」
 「そう来なくっちゃ!」
 にかりと笑い、すいと右手を差し出され、釣られたように握り返せば、毀い力で引き起こされる。
 「あっちあっち、早く行こ!」
 一旦離して逆の手に繋ぎ変えると、先導するように一歩前を歩き出す。
 建物の奥へと足を踏み入れるその背中は、この建物の印象が良くない事もあってか、少し前にやったRPGの勇者のようにも感じられて。
 ────人が居るって、こんなに違うものなんだ…
 廃墟のようにも見えていた巨大建造物は、何時の間にか、人を拒む空気をほんの少し潜めたように思われた。

 

Scene 2 美幸〜思い出2

 「たっだいまー」
 「おー、お帰り、なっちゃん」
 「随分掛かったけど、迷子にでもなったかい?」
 「もう直ぐ、再開するぞー」
 気軽な返事とは裏腹に、応えた声はそれなりに年を行った男の声が多かった。
 父親以外、それなりの年齢の男性と話す機会等、殆ど無かった美幸だ。
 一瞬、繋いだ手の力が強まったのが解ったのだろう、少女は肩越しに振り返ると、大丈夫、と言うように笑って見せていた。
 「お、なっちゃん、どうしたい、その子」
 「へへー、入り口の所で座ってたから、連れて来ちゃった」
 「相変わらずだなあ、なっちゃんも」
 キャンプ等に使われる組み立て式の椅子を美幸に勧めると、なっちゃんと呼ばれた少女は、簡易テーブルの下に置かれたクーラーボックスに屈み込む。
 連れて来られた其処は、外へと向かう壁を一面取っ払ったような、室というよりは、野球場のベンチをずっと広くしたような場所だった。
 最も置いてあるのは椅子等ではなく、数台のバイクに沢山の工具、美幸には良く解らない幾つかの機械だったが。
 「はい、一寸此れ飲んでて」
 ひょいとテーブルの上に顔を出し、細身のスポーツ飲料を渡される。
 如何にも薬臭い気がして、正直、この手のアルカリ飲料は好きではなかったのだが、態々出してくれた物に文句は言えない。
 「ありがと…」
 プルを空けて、素直に缶に口を付けると安心したように、再びボックスをごそごそしだす。
 取敢えず一口流し込んだ美幸は、喉を流れ落ちる液体を酷く美味しく感じている自分に、密かに驚いていた。
 ────これって、こんなに美味しいものだったっけ?
 暑い所に冷たい飲み物であり、且つ、喉が渇いていた所為もあっただろう。
 だが、以前にも似た条件の時があった事を思い出し、それだけではない気がして、美幸はほんの少し頚を傾げていた。
 「あ、これお昼。私達、もう食べ終わってるし、残り物で悪いんだけど、良かったら食べて」
 再びひょいと立ち上がった少女が、今度は市販の御握りの包みを、幾つも美幸の前に並べ出す。
 気温を考慮して、クーラーボックスの片隅に入れてあったのだろう。
 少しばかりセロファンの内側に水滴が付いていたが、気にする程でもない。
 唯、子供の彼女が好きなようにやっているのに戸惑って、確認するように周囲を見渡せば、大きな魔法瓶を抱えてやって来た白髪頭の男性が、大丈夫という様に頷いて見せていた。
 「遠慮は要らないよ、御譲ちゃん」
 気温も気温だからね、早めに食べてくれた方が有難いんだ。
 それとなっちゃん、もう始めるから、そろそろ準備しておいてくれないか。
 「はーい」
 ね、午前の最後に言ったの、もう直ってるのかな。
 「ああ、勿論」
 設定は変えてあるから、話は直接聞いて来てくれ。
 「ラジャ!」
 ぱっと身軽に立ち上がり、ぱたぱたと外へと走っていく。
 その背中を眼で追っていた美幸は、彼女が駆け寄った人物の前に、小さなオートバイが鎮座しているのに気がついた。
 「────バイク?」
 「そうだよ、あれがあの子のマシンでね」
 「バイクって16歳にならないと乗れないんじゃないんですか?」
 浮かんだ疑問を素直に口に出せば、眼を見開いた初老の男性は、一瞬眼を見開くと、確かに普通はそう思うわな、と大きく笑い出した。
 それは、一般人の感覚と自分達の感覚の差を目の当たりにした故の苦笑だったのだが、何故笑われたのか解らない美幸は頚を傾げて見上げるばかりだ。
 「ああ、済まん済まん」
 確かに外の普通の道を走るには、16歳になって免許を取らなけりゃならないが、サーキットや私有地なんかでは子供でもバイクや車…カートに乗れるんだよ。
 「そうなんだ…」
 感心したように呟いた美幸に、眼の前の簡素な、けれど彼女にとっては立派な食事を勧めながら、彼は持っていた魔法瓶から温かいお茶を紙コップに注いでくれて。
 「そういえば、入り口で座ってたって?」
 若しかして道にでも迷ったのかい?
 にこにこと人の良さそうな様子で尋ねた男性の、一見何気なさそうな、けれど実はそうでない問いに、美幸は御握りを食べていた手を止めて、眼を丸くして相手を見上げた。
 「え…どうして…?」
 「御譲ちゃんが、バイクの事を知らなかったからさ」
 「え…?」
 言われた言葉の意味が解らなくて、困ったように眉を顰めた美幸に、男は相変わらずにこにこしながら、驚くような事じゃないさ、と種明かしをしてみせた。
 「此処はサーキットだからね」
 イベントがない日のそれもこんな暑い日に、態々こんな処に来るのは、余程の物好きか迷ったのかだよ。
 近くに遊園地があるから、モータースポーツに興味のない子供がこんな日に此処に居たら、迷子を連想するのは難しくない事さ。
 「えっと、じゃあ、あの子、も…?」
 「なっちゃんかい?」
 うーん、あの子は多分、其処迄は考えなかったんじゃないかなあ。
 唯、何か困ってるとは思っただろうね、態々此処に連れて来たんだから。
 視線の先で、熱心に話をきいている少女に男が眼を細める。
 彼の説明によれば、彼女は捨て犬や捨て猫を拾ってくる事はしょっちゅうで、その度に貰い手探しに走り回っているのだという。
 それと同様、困っている女の子を見付けて、放って置けなかったんじゃないかな、と犬猫と一緒にされて眉を寄せた美幸の頭をぽんぽんと叩きながら、男はまた豪快に笑っていた。
 「お待たせっ」
 私、一寸、走ってくるね!
 再びぱたぱたと美幸の下に走り寄って来ると、ジッパーを下ろして腰に巻きつけていたライダースーツの上半身部分に、袖を通す。
 ジッパーを首まで上げ、フルフェイスのメットを抱えた姿は、何処から見ても立派なライダーで、別人のように表情を引き締めた彼女を、美幸は声もなく凝視していた。
 「んじゃ、一寸行って来る」
 おじさん、その子の事、宜しくね!
 「おお、任せとけ」
 それより、慌てて事故るんじゃないぞ。
 「大丈夫ー!」
 ぱちんとあご紐を留め、踵を返した彼女が、再びマシンの下に駆け寄り、クリップボードを抱えた傍らの男性と二言三言話すと、マシンに跨る。
 固唾を呑んで見詰める美幸の視線の向こうで、滑らかにマシンを発進させた彼女の背中は、見る間に小さくなって行った。

 

Scene 3 美幸〜思い出3

 連絡を取って貰った岡山の自宅は、矢張りというか、不在だった。
 未だ携帯等無い時代、こちらも暇な訳ではなく、時間を決めて再度連絡する旨を、取敢えず留守電に吹き込んでおく。
 電話に行く際、一応外を覗いてみたが、相変わらず人っ子一人通る様子は無く、それでも可能な限りの手は打って貰った事で、肩からほっと荷が降りた。
 「でも、東京から、こんな遠く迄、走りに来るなんて凄いですね!」
 「うーん、多かれ少なかれ、皆やってる事だからね」
 この世界じゃ凄い事ではないんだけれど、まあ、一般の人から見るとそうなるのかな。
 弾むような足取りでパドックに戻れば、彼女は未だ出た侭だ。
 最も、現在走っているのは彼女だけではないらしい。
 パドックの人数は三分の二程になり、止めてあったバイクが消えている。
 「どうだ、調子は?」
 「皆、良い感じです。全員、午前よりタイムも上がってます」
 「ほう」
 走っているバイクから眼を離さず、ストップウォッチを片手に構えた侭、クリップボードを示した青年の言葉に、紙面を覗いた彼は満足げに頷いた。
 「お、あのマシンでこのタイムか」
 相変わらず良いな、なっちゃんは。
 「ええ、五、六年後はひょっとしますよ、あの子のセンスなら」
 最短の距離を見付け出すあの感覚は、天性の物としか思えません。
 今はまだ、経験やテクニックが足りませんが、この調子で行けば何れは・・・。
 「ああ、どうなるかは解らんが、先が楽しみな子だ」
 頭の上で交わされる会話が、どれ程の意味を持っているのかは知らない。
 だが、彼女が褒められている事だけは理解出来、酷く誇らしい気持ちになって。
 「良し、順次、呼び戻せ」
 「はい」
 ボードで指示を送り、戻るように促せば、更に数周したライダー達が、一台、二台と戻って来る。
 賑やかになり始めたパドックに、自分が邪魔になる事を考えて、どうしよう、と戸惑ったのを見て取ったのか、彼は御嬢ちゃん、と声を掛けてくれて。
 「なっちゃんが帰って来たら、ポカリとタオル渡してくれないかい」
 「はい、タオルは何処に?」
 「ああ、御嬢ちゃんが座っていた椅子の、向かいの席に掛かっていた奴だよ」
 はーい、と良い子の返事をして、クーラーボックスに駆けて行き、よいしょと蓋を明ける。
 中には保冷材と氷が敷き詰められ、清涼飲料水が詰め込まれている。
 先刻、自分が渡されたものと同じ物を見付け、取り出そうとして躊躇する。
 此の暑さなら、ボックスから出してしまえば、あっという間に温くなってしまうだろう。
 如何しようかと、思わず外に視線を投げたそのその瞬間、此れ迄に戻って来たバイク達とは明らかにサイズが違う、子供用のマシンが滑り込んで来る。
 丁度パドックの前でぴたりと止まり、マシンを固定すると、無駄の無い動きで地に降り立つ。
 顎のバンドを外してメットを外すと、クリップボードを抱えて駆け寄って来た青年と、二言三言会話して。
 ボックスの所にしゃがみ込んだ侭、じっと見上げていた美幸と、不意に眼が合う。
 格好良い子だな、と素直に思った。
 先頭に立って何かするタイプではないが、勉強でもスポーツでも遊びでも、大抵の事は難なくこなせる美幸は、自分と同じ年頃の子に対して、そんな風に感じた事は此れ迄なかった。
 にも拘らず、今現在、美幸が彼女に対して感じているのは、憧れという感情だ。
 それは、スポーツの選手だったり、何かの専門家だったり、これ迄、どちらかと言えば手に届かない存在に対して感じていたもので。
 「たっだいま!」
 にっと笑って大股に近付いて来る。
 一歩歩く毎に、ぽたりぽたりと汗がコンクリの床に跡を残し、彼女がまるで水を被ったような状態である事に直ぐに気付いた。
 「はい、これ」
 「あ、ありがと」
 受け取ったタオルで流れる汗をがしがしと拭くと、喉下まで上げてあったジッパーをしゃっと下ろす。
 中のシャツは当然のように汗で色を変えていて、彼女は軽く首筋だけを拭うと、タオルを肩に引っ掛け、背後を振り返った。
 「おじさん、私、一寸着替えて来るー」
 「おー、ちゃんと見えない所で着替えろよー」
 それと、此れは皆だが、水分補給は忘れずになー。
 おー、だの、はい、だの野太い声と共に、わらわらと他のメンバー達が寄って来る。
 成り行き上、臨時のクーラーボックス専任係となった美幸に、彼女はひょいと受け取った青い缶を掲げて見せると、近くにあったスポーツバッグを肩に引っ掛け、それじゃね、と廊下に出て行く。
 やがて、彼女が戻って来た頃には、美幸はすっかりパドック内の者達と打ち解けていて。
 固定した侭の位置に鎮座した彼女のマシン傍で、再調整するメカニックの手元を熱心に見詰めていた美幸の視界が、急に暗くなる。
 被されたそれを持ち上げて、しゃがみ込んだ侭肩越しに背後を振り返れば、何時の間に戻って来たのか、シャツを替えた彼女が笑っていた。
 「あの、お帰りなさい」
 「ん、只今」
 何、バイクに興味あるの?
 「うん、こんな近くで見たの、初めて」
 こんな機械の塊で、あんな風に走れるなんて、凄く不思議。
 それに、こんなに複雑な物の何処を弄れば良いのか、見ただけで解るのも。
 「そっかー、私は走るのは好きだけど、コッチはどうもねー」
 まあ、それは良いけどさ。
 そんな所でじっとしてたら、日射病になるよ。
 せめて、帽子位被ってないと。
 「あ、これ…」
 頭に載せられた物を改めて手に取ってみれば、それは黒のキャップだった。
 此処にいる人間の内、何人かが同じ物を被っている処を見ると、此れは此処のチームで作っている物なのだろう。
 「それ、私んだからさ」
 古いけど、洗濯はしてあるから、安心して良いよ。
 彼女の好意が素直に嬉しくて、でも、気に掛かったのはそんな事ではなかった。
 「有難う、でも、貴女は…?」
 「んー、私が次に陽の下に出るのは、また走る時だから」
 取敢えずそれは、無くても平気。
 必要なら、その辺にあるのを適当に被るし。
 言って、床に纏めてあるバッグの辺りに、一つ二つ転がっているそれを指してみせる。
 確かにそれは、彼女になら出来るだろうが、部外者である美幸には出来ない事だ。
 「そう、なら遠慮なく借りるね」
 「ん!」
 にかっと笑って、パドックの中に戻って行く彼女の背中を見送ってから、再び傍らのメカニックの手元を見詰める。
 彼女が態々話し掛けて来たのは、純粋に、自分に帽子を貸す為だったのだろう。
 同じような年の同性の子供が同じ場所にいるにも拘らず、自身とは違うものに興味を覚えた事に対して、彼女が感想すら口にしなかったのがほんの少し不思議だった。
 少なくとも、自分のクラスメイトならば、異質な人間に対して、違った反応をするに違いなかったから。
 そして、無理に一緒に居ようとしたり、必要外の事は話そうとしない事にも。
 ────でも、だからかな?あの子と居ると、凄く楽…
 迷惑になったらと、じっと見詰めるだけだった自分に、此の楽しさを理解してくれるなんて、と妙に喜んだ年若いメカニックが、少し説明してあげようか、というのに大きく頷く。
 二人の羅針盤が同じ方向を向いた事を、まだ、誰も知らなかった。

 

Scene 4 美幸〜現在(いま)

 ────結局、あの後、撤収する迄、お世話になっちゃったのよね
 夕方、予告通りの時間にもう一度連絡を入れてみたが、そもそもその時間に帰れないから、美幸を預ける事にしたのだ。
 最終的に、両親と連絡が取れたのは、夕食をご馳走になり、彼らが東京へと帰る直前で、どうせ通り道だから、と教えて貰った祖父母の家まで送り届けてくれたのだけれど。
 『帽子は、あげる』
 もう、炎天下を帽子なしで歩いちゃ駄目だよ。
 日射病にでもなったら、折角の夏休み、台無しだもんね。
 そう言って、返そうとした帽子を、再び頭に載せてくれた彼女は、変わらぬ向日葵のような笑みで笑った。
 そして、今日、皆に貰った沢山の親切を、如何やって返したら良い?という問いには、大真面目に頚を傾げて。
 『うーん、私達には無理かもしれないけどさ』
 誰か困った人を見掛けた時に、助けてあげれば良いんじゃない。
 それで、その人がまた、別の人にそうしてくれたら、何時か私達にも届くんじゃないかな。
 確かそういう話、何かで読んだ事がある!と笑った彼女に、そうだったら素敵だな、と幼心にも思った。
 今思っても、あの時、あそこで彼女と出会ったのは、途轍もない巡り合わせだったと思う。
 東京と岡山という全く違う地域に住んでいた二人が、あの日あの場所に居合わせた。
 祖父母の家が鈴鹿になかったら、自分が其処に預けられなかったら、彼女のチームがあそこに来ていなかったら、晴れた日でなかったら、自分が迷子になっていなかったら、そして彼女があそこに来て自分を見付けてくれなかったら。
 たった一つ、どの条件が欠けても、今の現状はなかったろう。
 そして更に、連れて行かれた先がバイクチームのパドックでなかったならば、現在車やバイクに此処まで興味を覚えていたか解らない。
 あの後、休みが明けて、自宅に帰った自分は、レーシングカートのチームを主催している、近隣の修理屋に出入りするようになった。
 バイクではなくカートだったのは、バイクは危険だとの両親の反対があった所為で、けれど其処で沢山の事を学ばせて貰った。
 そして、彼女のあの一言が、人を助ける職業に就こう、と決意をした原点で。
 インターネットのなかった当時、キッズバイクの情報等、口コミや業者に流れる情報、そして雑誌に限定されていた。
 そんな中で、田舎の小学生が集められる情報等、たかが知れたもので、もう一度彼女に逢いたくて調べてみたものの、中々らしい情報には当たらなかった。
 貰った帽子からチーム名が判ってはいても、チームが解散したり、名前を変えてしまえばそこでアウトだ。
 彼女のフルネームを聞かなかった事が、つくづく悔やまれる。
 唯、気になる名前はあった。
 中学、高校と年齢が上がるにつれ、色々な大会で何度も入賞する選手が出て来る。
 トップグループを形成する者達は、やがて、プロの予備軍として取り上げられる事が増えて行き、大きな大会の後は、大会レポートとして、雑誌に名前や顔が掲載されるようになる。
 その中に、時折見掛ける、同い年の女の子。
 辻本夏実。
 東京出身の、サーキットでの大会に主に出場していて、バイクは五歳の頃から乗っているという少女。
 初めて雑誌でその名を見付けたのは、中学も最高学年になった頃だった。
 半日一緒に居ただけの、たった一人の女の子の顔等、五年以上も逢わなければ記憶の彼方で、だが、そのプロフィールとファーストネームが気を引いた。
 増えたといっても、まだまだ大会に出場するような女性ライダーは少なく、にも拘らず、何度も優勝している彼女は異彩を放っていた。
 最も、だからと言って、それだけであの子だとは、とても言い切る事はできなかったけれど。
 出場する大会を調べて直接尋ねてみるのも手だったが、人違いだったら、そして何より自分を覚えてなかったら、と思うと勇気が出なくて、結局其の侭、高校も卒業を迎えてしまった。
 就職先に、地元の県警でなく、態々警視庁を選んだのは、それでも心の何処かで諦め切れなくて、少なくとも岡山にいるよりは、逢える可能性が高いと、微かな期待を抱いたからだ。
 例え、彼女があの子でなくとも、現地で情報を探せれば、可能性はゼロではない。
 それが限りなく低い可能性であっても。
 だから、驚いたのだ。
 警察学校に入学し、食堂で彼女の姿を見掛けた時は。
 けれど教場が違っていた為、彼女の存在に気付くのが遅れ、結局、話し掛ける機会も接点も無い侭、卒配を迎えてしまって。
 ────一度タイミングを外すと、ずるずる行ってしまうのは、私の悪い癖よね…
 帽子をデスクに戻しつつ、情けない自分に苦笑する。
 紆余曲折を経て、二人墨東署に配属され、公私共にパートナーとなって同居までしている現在に至っても、実はまだ確かめられてはいなかった。
 一方で、地元のバイクショップでレースに出ている店をピックアップし、チーム名を元に検索を掛けてはいるが、此方も芳しくはない。
 昨今では、若いスタッフがいたり、特にレース活動をするような店は、大抵HPを持っているのでチェックしやすい事は確かだが、それでも雲を掴むような話で。
 夏実が当人であればそれは全く必要のない作業であるし、若し当人でなくとも、自分よりは間違いなく参加者を知っている彼女に聞いた方が、効率が良いのを理解っていて、それでも出来ないでいるのは、美幸の臆病さが原因だった。
 「ねー美幸、そろそろ私、うちを出るけど、結局如何する?一緒に行く?」
 不意にとんとんと扉を叩かれ、その向こうから夏実に呼ばれる。
 本日夏実は、昔彼女の愛車を購入したという、古馴染みのバイクショップに出掛けるのだそうで、顔を繋いでおけば、何かあった時融通利かせて貰えるんじゃないかな、と誘われていたのだ。
 現在は美幸が整備をしている為、態々バイクショップを使う事は殆どなく、あっても菅野や大丸の店ばかりだ。
 その彼女が昔使っていたバイク屋、というのは非常に興味があるものの、昔話に華が咲いてしまえば疎外感や、自分の知らない彼女に寂しさを感じる事にもなり、如何にも躊躇いがあった。
 だが、これは、天啓かもしれないとも思うのだ。
 此れまでの臆病すぎる自分を払拭する為の。
 「う…ん、それじゃ、一緒に行く」
 着替えるから、一寸だけ待っててくれる?
 「おっけーおっけー」
 リビングにいるから、ゆっくりおいでよ。
 あ、解ってると思うけど、バイクに乗れる格好でね。
 「ん」
 デスクの帽子は其の侭に、さてどれにしようとクローゼットに歩み寄る。
 彼女があの子であってもなくても、昔話が花咲く中なら、然り気無く、大切な思い出を口に出来るかもしれない。
 ほんの少しの勇気を出せば、確かめる事が出来るかもしれないのだ。
 若し違っていても、夏実に協力を頼めるかもしれないし、寂しさと楽しさの天秤は、どちらに傾くかも解らない。
 ────頑張れ、美幸
 臆病な自身に発破を掛けて、くっと視線を上げる。
 取り出したのは、以前夏実が、良く似合うと褒めてくれた裾の短い淡い色のパンツ。
 行き先がバイクショップなので、それなりに動きやすい格好を選択して。
 ────お待たせ、なっちゃん
 デスクに鎮座する物言わぬ存在を鞄に入れる。
 一度だけぎゅっと大切に抱き締め、そして一つ息を吐き出すと、美幸はゆっくりと踵を返していた。

 

 エピローグ

 店先にバイクを止めると、とても久し振りとは思えない気軽な調子で、おひさでーす、と声を掛けて中に入って行く背中を追い掛ける。
 中はオーソドックスに作業場とショップ側に分かれていて、夏実が真っ先に踏み込んだのは、作業場の方だった。
 「こんちわー、おじさん、久し振り!」
 「おー、本とに久し振りだな、なっちゃん」
 どうだい、最近は。
 ちゃんと乗ってるのかい?
 「ん、ばっちり。公道ばっかりだけどね」
 とっとと中に入り込んだ夏実に対し、入り口のシャッター付近で足を止めた美幸は、その向こうにいる彼が使った呼称にどきりとする。
 それは、あの時、あの子が呼ばれていた。
 「そっか、そうだな、随分良い音させてたもんなあ」
 なんだい、どっか近くで腕の良いショップでも、見付けたのかい?
 なっちゃんの眼鏡に適う所なんざ、滅多にないだろうから、その内また来るだろうと思ってたら、随分長く空いちまったから、如何したかと思ってたんだ。
 またバイク止めたって言い出したのかも、ってあいつも心配してたぞ。
 「へへー、その節はご心配を」
 ふざけたような物言いは、余り触れられたくない話題なのだろう。
 一寸会話を聞いただけでも、ぽんぽんと出て来る、自分の知らない夏実の欠片。
 けれど、今の美幸には、それを気にしている余裕はなくて。
 どくどくと鳴る心臓が、まるで早鐘のようだった。
 「でも大丈夫、ちゃんと乗ってる」
 でさ、今日はその整備をしてくれてる娘をね、紹介したくて連れて来たんだ。
 「何だ、店休ませたのかい?休日ってのは、バイク屋にとっちゃ書入れ時だぞ」
 「ぶー、残念でした、バイク屋じゃないもん」
 ほら美幸、そんな所に居ないで、入っておいでよ。
 半身を此方に向け、手招く夏実に引き寄せられるように、一歩ずつゆっくりと歩み寄る。
 修理し掛けマシンを前に、直接床に座り込んだ痩身の男が、夏実の影から見え隠れしていた。
 今日は?それとも初めまして?
 一瞬、言葉に迷った美幸に、けれど男は驚いたように眼を見開き、そして直ぐに相好を崩した。
 「おー?何だ、紹介したい娘って、みっちゃんの事かい、なっちゃん」
 それにしても、いやーべっぴんさんになったねぇ、みっちゃん。
 あの時、随分熱心に見てるなって思ったけど、そうかい、整備士になったのかい。
 にこにこと笑って、うんうんと納得したように頷く彼に、お久し振りです、と頭を下げる。
 そういえば、自宅に連絡をして貰ったのだから、この人だけは美幸の本名を知っていた筈だった。
 「何、知ってんの?おじさん」
 「何だ、解ってて連れて来たんじゃなかったのかい?」
 鈴鹿に練習走行に行った時、なっちゃんが迷子の子を拾って来た事があっただろ。
 「あったけど…え、あれって、美幸だったの?」
 「うん…夏実だったのね、矢っ張り」
 大きな瞳を益々大きく見開いて、うっそお、と呟いている夏実に、鞄の中から件の帽子を取り出してみせる。
 大分、草臥れてはいるが、まだ型を確りと保っていて、その経過年数を考え併せれば、持ち主が随分と大切に扱って来た事を伝えていた。
 嘗ては自身のものだったそれを、まじまじと見詰めている夏実に、にこりと笑みを浮かべて見せる。
 「有難う」
 ずっと、そう言いたかったの、なっちゃんに。
 あの時、貴女に出会ってなければ、今の私は無かったから。
 「若しかして…探してた?私の事」
 「うん…実は」
 「何だ、見当を付けてたなら、聞いてくれれば良かったのに」
 「そうは思ってはいたんだけど…人違いなら兎も角、忘れられてたらって思ったら、勇気が出なくて」
 少し貌を俯けた美幸をじっと見詰める瞳が、優しく撓む。
 そっと肩を引き寄せられ、いざとなると大胆なのに、変な所で臆病だよね美幸って、と耳元で囁かれた。
 「…っ……」
 不意に、何かが込み上げる。
 じわ、と視界が歪むのを感じ、瞬きを一つすると、ぽろりと涙が零れ落ちて。
 「美幸…?」
 「〜〜っ〜」
 泣きたい訳じゃない。
 でも、どうしたんだろう、次々と何かが溢れて来て、自分自身でも如何すれば止められるのか解らない。
 泣き顔を見られたくなくて、眼前の肩に面を伏せると、肩から背中に移動した手が、ぽんぽんと優しく叩いてくれる。
 「おじさん」
 「ああ」
 ショップの方に居るから、落ち着いたら二人でおいで。
 此れ迄、十何年も言いたいのに言えなかった言葉を漸く吐き出せて、ほっとしたって処だろ。
 気が済むまで泣かせてやんな。
 「ん、解ってる」
 傍らから他人の気配が消え、二人切りになるが、中々涙は止まらない。
 どれだけ経ったのだろう。
 既に時間の感覚が無い。
 全身の体温が上がり、伏せている夏実の肩の布地は疾うにびしょ濡れで、それでも、何時の間にか抱き合う形になっていた腕を解く事は出来なかった。
 「美幸」
 驚かせないよう気を遣ったのだろう艶やかな声が、そうっと優しく鼓膜を叩く。
 「探してくれて、有難う」
 美幸が私を見付けてくれなきゃ、こんなに近くに居るのに、ずっと気付けない処だったもんね。
 あの時ね、私、すっごく嬉しかったんだ。
 あんな、普通の女の子なら一寸如何かって場所に連れてったのに、美幸が全然嫌がらずに逆に楽しんでくれたから。
 何時かまた、逢えると良いなって、ずっと思ってた。
 昔、バイクを止めようって思った事、あって…でも、若し止めたらもう絶対逢えないだろうなって思ったら、止められなかったんだ。
 美幸の言葉を借りるなら、今の私があるのも、美幸のお陰、って事になるのかな。
 「なつ、み…」
 抱き着く腕に力を込め、殆どしがみ付く様な状態になりながら、喉を震わせる。
 嬉しい、とか、大好き、とか、有難う、とか。
 様々な感情がごちゃ混ぜになって、言葉にならない。
 何も考える事等出来ず、触れ合っている部分から伝わって来る、彼女の温かな体温にのみ意識を向ける。
 回された腕が、酷く熱く感じられた。
 偶然の悪戯である、たった半日の魔法の時間。
 けれど、その出会いが齎した、二人の人生への影響は途轍もなく大きくて。
 十数年の時を経て、二人の羅針盤の針は、今、漸く重なったのだった。


END


girl meets girl …って、和訳すれば、FILE1のタイトルそのまんま。うん、でも、書きたいのは将にそれだったのでした。年齢が大分違いますが。
初めは、貧血で派手にひっくり返った長谷が、沢山頂いた見知らぬ方々の親切に、思った事を夏実に言わせたかっただけだったんですけどね。脳内でこねくり回している内に、あっという間に、美幸が何処であの技術を学んだか、やら、警官目指した理由は、やらの話に。だってねえ…美幸の技術って、どちらかというと、学校で勉強したというより現場での経験から、と思えるんですね。学校は飽く迄正統と言うか、基礎的な事や将来何かをするに当たって、大本となる事は教えるけど、それだけではあんなチューンは出来るようにはならないんじゃないかな、と。実際長谷はプログラミングの基礎を専門学校で習いましたが、それだけではハッカーにはなれませんでした。何処にでもいる技術者の一人になっただけで、それは車でもそうじゃないかな、と。
因みに今回、尻切れトンボっぽくしたのは、態とです。そうする事で、逆に余韻が感じられないかな、という気持ちでそうしてみたのですが…如何でしょう?本当はエピローグもばっさり切って、後は想像してね、にしようかとも思ったのですが、流石にそれは…と思って書き足しました。お任せ、にしようかと思ったのは、今回は美幸だけがそうじゃないかなって思ってる話にしましたが、他にも@夏実だけA実は両方、等バリエーションはある訳で、確定しないで好きなバージョンで想像するのも楽しいかな、と。