●はじめの一歩●
| 「やり過ぎとは思わなかったのかね?」 昼過ぎのざわついた室内に、呆れを押し隠した課長の声が、先刻から途切れ途切れに響いて来る。 デスクの前に並ぶのは、つい二週間前、この墨東署に配属された夏実と、コンビを組んでいる美幸の二人。 実質十日という短期間の間に、既に見慣れてしまったこの光景を、課内の者達は、皆無関心を装いながら、その実大いなる興味を孕んだ眼差しで、見詰めていた。 ――――一体、今回は何をしたんだか 見詰める総ての者の胸に、似たり寄ったりの疑問が浮かんでいる。 幾人かは、更に、こっそりと過激な感想を付け加えて。 ――――此れは、時間の問題だな とはいえ、彼等がそう考えるのも、無理も無い事ではある。 夏実とコンビを組むようになる迄、美幸は少なくとも、ああして課長に説教を食らう事は、無いに等しかったのだ。 堅い訳ではないが、それなりに真面目で規則正しい美幸と、時間にルーズで雑把な夏実。 この如何見ても正反対な二人のコンビが、何時まで続くかというのが、目下の処、交通課に属する面々の、最大の関心事だった。 「以後、気を付けます」 美幸と夏実の声が、ぴたりと揃い、一礼して各々の席へと足音が向かう。 けれど、二人の、殊に美幸の表情をそっと盗み見た者達は、意外な気持ちにならざるを得なかった。 夏実とコンビを組んだ事に対する後悔は、露程も浮かんでいなかったので。 ――――本当、何を考えているんだか 大きな眼鏡をずり上げながら、自分の席に着いた侭、頼子が胸の内だけで呟く。 美幸のパートナーとなるべく、夏実が配属されると聞いた時、彼女がどれ程喜んだかは、間近に見ていて頼子は良く知っていた。 けれど、耳にした夏実の噂を聞いて、漠然と胸に浮かんだ懸念は、当人を眼の前にして益々大きくなってしまって。 別に、夏実が嫌な人間だという訳ではない。 寧ろ、気さくで明るくてさっぱりした気性の夏実は、あっという間に職場に居場所を確保してしまった。 だが、二人を並べて先ず思ったのは、恐らく、二人は決して噛み合わないだろうという事だ。 何故なら、二人は、余りにも正反対だったから。 何処をとは理解らぬものの、兎に角、夏実を気に入ったらしい美幸は兎も角、夏実の方が反発するだろう事は予測が付いた。 そして、その直感を裏付ける様に、剣呑な雰囲気で夏実が美幸に突っ掛かっていった処を、中嶋がはっきりと目撃している。 だが、不思議な事に、パトロールから延々と戻って来なかった初日、定時を大幅に過ぎて漸く戻って来た二人は、酷く通じ合うようになっていて。 「夏実、始末書、書けたら寄越して」 私のと一緒に提出するから。 美幸の声に、はっと我に返る。 頼子や他の人間が、心配している最大の原因は此処にある。 そう。 二人がコンビを組んでから、夏実に引き摺られる様にして、美幸の始末書も増大しているのだ。 とはいえ、普段の美幸に変化はない。 そして、それは詰まり、夏実といる間だけ、美幸は此れ迄に無い無茶をやっているという事で。 相手がポーカーフェイスが得意な美幸であるだけに、その事について、当人が如何考えているのかは理解りかねる。 だが、意に添わない事であるのならば、そろそろ我慢が限度に来てもおかしくない頃合いだった。 ――――だけど、理解んないなぁ 先刻の美幸の表情は、如何見ても、そういった感情からは無縁だった様に思う。 諦観とも違う、納得し切っている人間の、さばさばとしたそれ。 ――――何かあったわね、此れは 夏実は兎も角、美幸の明らかな変化に、頼子独特の感覚が反応している。 未だ、賑やかに何事かを話し合っている二人が、直傍で耳をぴんと傍立たせ、じっと自分達の様子を伺っている、同僚の不穏な思考に気付くのは、もう少し先の事だった。 然して広くも無い車道の両端を、違法駐車の車がずらりと群を成している。 余りの数の多さに、ミニパトから降りて、端から取り締まりを行なっていた頼子は、応援に駆け付けて来てくれた二人の様子を、ちらちらと横目で伺っていた。 「ほい、一丁上がり、っと」 「確かに此れじゃあ、私達を呼びたくなる気持ちも理解るわね」 頼子の応援の要請に応え、パトロールの予定を変更してやって来てくれた夏実と美幸が、矢張り反対側で同じ作業を繰返している。 特に、おかしな点は見られない。 極普通の、仕事風景だ。 『ねえ、美幸』 本当に本当に、大丈夫なの? どうしても気になって、あれから、美幸が一人になった時を見計らい、こっそりとあの事について尋ねてみた。 声を潜め、主語迄抜かれたその問い掛けに、始め、何の事だか理解らないというように、首を傾げてみせた美幸は、けれど直に言いたい事を悟ると、にっこりと微笑んでみせて。 『夏実の事?』 だったら、大丈夫。 心配する事なんで、全然無いわよ。 『でも、あんなに始末書…』 釣られるようにするりと言い掛け、慌てて口を押さえはしたものの、聡い美幸にはそれだけで充分だったらしい。 口許に淡い笑みを浮かべると、視線を足元にすいと移す。 『うん、でもね』 ちっとも悪い事をしたって気がしてないのよね、困った事に。 持てる力全てを尽くした、結果があれだっただけって感じで。 それに、あの娘といると、ほっとするのよ。 全然自分を作る必要が無いって言うか…。 無意識の内に此れ迄抑えてしまっていたものを、何時の間にか、引き出してくれるのよね。 …だからきっと、夏実だけの所為じゃないのよ。 私の中にあったものが、表に出てしまったんだと思う。 呟くように、最後に付け加えられた一言に、もう何を言っても無駄なのだと悟った。 だからあの時は、黙って頷く事しか出来なかったのだけれど。 ――――だけど、ねえ… 当人が大丈夫だと言っている以上、余計な嘴を挟むべきではないとは理解っている。 けれど、この美幸の変化が、彼女にとって良い事なのか、頼子には皆目見当がつかなかった。 美幸自身が歓迎している事他は、少なくとも確かだったが。 「一寸頼子、手が止まってるわよ」 「あ、御免」 コンビを組んでいる同僚に声を掛けられ、はっと現実に引き戻される。 慌てて手元に視線を戻した頼子は、ふと、離して止めてあるミニパトから、甲高い呼び出し音が響いている事に気付いていた。 「何かあったのかしらね?」 一瞬、顔を見合わせると、直様車二人で車へと駆け寄る。 自分達の動きに気付いた美幸達が、矢張り手を止めて駆け寄ってくるのが視界の端に映った。 「はい、こちら墨東14号」 無線をとった頼子に、三対の視線が集中する。 先刻までと打って変わって、その表情は、既に厳しく引き締まっていた。 『頼子か、此方中嶋だ』 聞こえてきたのは、交通機動隊に所属する、中嶋の声だ。 けれど、それは普段の何処か頼り無い彼のそれとは、似ても似つかぬ程張り詰めていて。 『違反車がそっちに向かってる』 至急、追跡を開始してくれ。 何度も取り逃がしてる、悪質な奴なんだ。 緊迫した中嶋の声に、急を要する事だと悟る。 尤も、こういった状況で、緊急の用事ではない事等、ある筈もなかったが。 「判った、車種とナンバー、経路を御願い」 皆まで聞かず、ドライバーの二人が、夫々の車の運転席へと走り出す。 「夏実!」 二人が情報を聞き終えるのとほぼ同時に、軋んだ音を立てて横付けされたTodayの、助手席の扉が開かれた。 「サンキュ、美幸」 頼子の乗り込んだミニパトが、発進するよりも早く、まるで猫科の動物のような、しなやかな動作で夏実が車内へと滑り込んで。 「出るわよ、頼子」 ナビゲートお願いね。 「判った」 急発進して行くTodayを、唖然としたように眺めていた頼子に、隣りから相棒が短く声を掛ける。 刻一刻と変わる状況を、パソコンに呼び出された地図から読み取りながら、頼子は大きく頷いていた。 その内心は、現在の状況とは、見事に懸け離れていたけれど。 ――――チャンスよね、これは 薄く口許に笑みを浮かべ、眼だけは周囲に注意を凝らす。 考えてみれば、これが現場に出ている小早川・辻本ペアとの、初めての合同の仕事なのだ。 百聞は一見にしかず。 昔からある古い諺は、実に的確に真実を突いていると思う。 ――――若しかしたら此れで、美幸の態度の意味も理解るかもしれな い 挟み撃ちにする事で、違反車の逃げ道を塞ごうと、別ルートを行った美幸のTodayは既に視界から消えている。 状況に反し、胸をわくわくさせながら、頼子は無線から入ってくる情報を地図にトレースさせ始めていた。 「今回の事で、良っく理解ったわ」 課長のお小言の理由も、美幸の言葉の意味も、夏実とのコンビを解消する気は更々無いって事も。 匙を投げたとでも言うように、明後日の方向を向くと、投げ遣りな口調で言い放つ。 ガレージの入口から見やる外は、陽が高い季節にも拘わらず、既に真っ暗だ。 呆れた、と全身で表現して隠そうともしない頼子に、けれど、美幸は整備の手を止めぬ侭、にっこりと微笑んでみせていた。 「良かったって、言うべきなのかしらね、この場合」 その、後悔の欠片も見えぬ、曇りの無い笑顔に、ほう、と大きく息を吐き出す。 頼子にも、本当はもう理解っていた。 自分達と同様、出会ったばかりの筈の二人の絆は、既に、誰よりも固く結ばれてしまっているのだと。 『夏実、宜しくね』 『まっかせて!』 一秒の遅れが命取りになる、あの追跡劇の中。 パトカーには二人で乗車すると言う常識を打ち破り、態々フルチューンのTodayを止めてまで、敢えて出力の小さなモトコンポで夏実を追撃に加えた美幸の言葉には、けれど、絶対の自信が宿っていた。 そして、四輪や大型バイクには無い、その機動性を生かした夏実の、一見無茶な行動は、その期待を裏切る事無く、違反車を確実に捉え続けて。 最終的な逮捕は、中嶋達に一歩譲ったものの、夏実がああいう形で追跡に参画していなければ、事態はどう転んでいたか判らなかった。 そして、その二人の行動を目の当たりにして、初めて頼子が知った事には。 夏実の、無謀とも思える行動は、美幸の存在があればこそ、なのだと。 正確に夏実の能力を識る美幸が立てた策は、夏実の限界能力を実に有効に引き出している。 そしてその限界値が、常人とは並桁外れたものであったが為に、無茶だと言う評価を下されて。 自分の所為でもある、という美幸の言葉に、嘘はなかった。 美幸が居たからこそ、美幸が立てた策があったからこそ、夏実はあれだけの事を、遣って退ける事が出来たのだから。 美幸の存在が無ければ、恐らく、夏実の墨東署での評価は、もっと違ったものになっていたに違いなかった。 「…心配しないで、頼子」 確かに始末書は増えたけど、此れで良いんだと思えるの、私には。 黙り込んでしまった頼子に、不意に、美幸が声が掛ける。 当人が納得してしまっている分、余計に始末が悪い。 最も、頼子にしても、無理にコンビを解消させよう等と言う気は全く無かった。 唯、急にお小言を食らうようになった事を、真面目な美幸が如何思っているのか、その本心が知りたかっただけで。 「全く…一体、夏実の何処がそんなに気に入った訳?」 「そうね…、裏表の無い、真っ直ぐな処かしら?」 呆れたような問い掛けに、けれど、返答は何の衒いも無く、あっさりと返される。 処置無し、と天を仰ぎ、しかし頼子は、返ってすっきりとした気持ちになっていた。 少なくとも、既に周囲の者には、二人が一緒に居る事は、酷く自然な事と認識されている。 彼女達二人が出会ったのが、たった二週間前だという事実が、まるで嘘であるかのように。 そして、何時の間にか自分達も、彼女達には一緒に居て欲しいと、心の底で思うようになっていて。 「あーもー理解ったわよ」 元々、私の御節介なんだから、美幸が納得しているなら、それで良い筈なんだもの。 「御理解頂き、感謝します」 茶化した物言いに、敢えて応えず、その場に留まり、作業に戻ってしまった美幸を、ぼんやりと見詰める。 かちゃかちゃと、美幸の立てる、金属のぶつかり合う音だけが、ガレージの中にやけに大きく響いていて。 やがて。 「美幸ぃ、私、そろそろ帰るけど、美幸はどうする?」 未だ制服の侭の夏実の、太陽のような笑顔がガレージを覗く。 「うん、一寸待ってて。私も直に帰るから」 反応した美幸が、バイクの影から、ひょいと顔を覗かせ、ばたばたと後片付けを始める。 この間の非番の日に引越しをして、二人が同居を開始した事は、今朝程、知らされたばかりだ。 二人、あれこれと工具やパーツを仕舞い込むその様は、実に呼吸が合っていて。 ――――ま、良いか 肩を竦め、くすりと小さく笑うと、自分もまた、手伝う為に奥へと踏み込む。 彼女達がどうなるのか、全てはこれからなのだから。 「あ、頼子、悪いけど此れ、後ろの棚に戻してくれる?」 あっという間に、忙しなく動き回っている二人の輪の中に溶け込んで。 煌煌と光る蛍光燈の下で、賑やかな三人の笑い声が、暫しの間、明るく響いていた。 END |