隅田川花火大会

 「えー、警備?」
 何で急にそうなったの?
 私達明日、夜勤明けだから一日非番の筈なのに。
 「それが、どうも上の方から、人数増やせって言って来たらしいんです」
 ほら、去年、不審者騒ぎがあって、てんやわんやだったじゃないですか?
 だからだと思いますが…。
 その代わり、明後日に非番は繰り下げという事で。
 「だからって酷いー」
 折角折角、今年はゆっくり二人で花火見れるって、思ってたのに。
 大袈裟に眉を寄せてみせながら、駄々を捏ねる口調で愚痴を言っている夏実も、解ってはいるのだ。
 葵は単に、言伝を伝えられただけで、彼に幾ら文句を言っても、決定は覆らない事を。
 判ってはいるが、愚痴を言わなければ収まらないという事なのだろうが、だからといって、此の侭葵に迷惑を掛ける訳にも行くまい。
 心の中では同じ気持ちでも、相方が先に騒いでしまえば、残りは宥めに回るしかなかった。
 「仕方ないじゃない」
 東海林さんだって、事情を聞けば納得してくれるわよ。
 彼だって警察官なんだし。
 まあまあと肩を叩きながら、葵に行けと目配せし、来週の江戸川区花火大会に誘ってみれば、と話の方向を変えてやる。
 流石に20000発もの花火が上がる隅田川の花火大会よりも規模は小さいが、それでも14000発と打ち上げ数は少なくはない。
 デートをするなら知り合いがあちこちにうろうろしている地元よりも、管区外の方が良いでしょう?との言葉も添えて。
 けれど、言われた方の夏実は、美幸のその台詞に一瞬、虚を衝かれたように眼を見開くと、次いで、何言ってるのと低く応えていた。
 綺麗な型をした眉は顰められ、眉間には皺が寄っている。
 「何って…だからデートの約束、してたんでしょう?」
 「そうだけど、相手間違ってる」
 「え」
 続けるべき言葉を失って、口を開いたままぽかんと相手を見つめる美幸を、ほんの少し拗ねた色を浮かべた瞳が睨み返した。
 「相手は貴女」
 覚えてないの?去年の事。
 美幸も、私の事、笑えないわよ。
 思いも寄らない彼女の言葉に、呆然としている美幸を置いて、夏実がくるりと背中を向ける。
 其の侭、ぷいと大股に行ってしまった恋人をぼんやりと見送らざるをえなかった美幸は、しかし、彼女の姿が見えなくなった途端、必死になって昨年の花火大会の日の事を思い出そうと、過去の記憶を掘り返し始めて。
 ―――――ええと、去年は矢っ張り警備で、夏実と二人でスリの常習犯を捕まえて…
 そういえば祭りが終わった後、夜、二人で飲みながら、来年、巧く非番の日にあたったら、屋上で飲みながら見物したいよね、という話が出たような気がする。
 その後、酔いも手伝ってベッドに雪崩れ込んでしまったお陰で、今まですっかり忘れてしまっていたけれど。
 どちらかといえば、普段、飲んだ後の記憶を殆ど残していない夏実が、覚えていた事の方が驚きだった。
 ―――――夏実…
 とくとくと心臓が暴れだし、かあ、と頬が熱くなる。
 ここが人気のない場所で本当に良かった。
 滅多に焦った様子を見せない美幸の、非常に珍しい姿を、危うく他人に晒す所だったのだ。
 全く以って、夏実は自分を慌てさせる名人だと思う。
 ―――――早い所落ち着いて、夏実を見つけなきゃ
 胸の高鳴りを抑える為に、TODAYの整備に使っていた工具類を、殊更ゆっくりと纏め出す。
 飲んでいた間に一寸話しただけのそれを、約束、とまで考えていてくれた事が、酷く嬉しかった。
 尤もそうだとすると、今後、記憶にない約束が、幾つも出現してしまう可能性もなきにしもあらずだが。
 「先の事は置いておいて、先ずは、夏実の機嫌、直さなきゃ」
 特別な夜を過ごす相手として、東海林ではなく自分を、折角選んでくれていたのだから。
 ―――――この埋め合わせに、来週、江戸川の花火に行くのも良いし、ああでも、明後日は確か、世田谷の等々力渓谷で蛍祭りをやる筈だから、そっちでも…
 場所柄、高揚している気分に任せて、行動できないのがもどかしい。
 マンションにいる時ならば、間違いなくその背中に抱きついているのに、と。
 その上、今夜は夜勤で二人きりになる事も出来ないのだ。
 「これでよし」
 始めはゆっくりと集めていた筈が、何時の間にかスピードアップ。
 手際良く何時もの位置に工具箱を押し込むと、着替える為に更衣室を目指し、大股に歩き出して。

 梅雨の明けたばかりの空は、何処までも青かった。

END