●星の降る夜

 「何やってるのよ、こんな時間にこんな所で」
 どこか呆れたような声に、ひょいと眼線を頭上に上げれば、見慣れた貌が逆さに映る。
 扉が開いた音も聞こえていたし、何より纏っているその気配で、近付いてくる人間が誰なのかは最初から判っていた。
 逆光になる為、陰影がくっきりとついたその表情が、心配げな色彩を浮かべているのに敢えて気付かぬ振りをして、夏実は再び濃紺の天空へと視線を戻す。
 満天の星々が、今にも零れそうにちかちかと瞬いていて。
 「天体観測」
 「こんな所で大の字になって?」
 コンクリって、意外に湿ってるし、それにこの寒さじゃ風邪ひくわよ。
 「理解ってる…」
 そっけない短い応えに返された、諭すような美幸の言葉に、しかし気のない返事を返すと、ぼんやりと虚空を見詰め続ける。
 二人の住むこのマンションの屋上は、此の辺一帯では、比較的高い位置にあるが為、余計な照明か眼に入らず、都内にしては意外な程、星が良く見える場所だ。
 とはいえ、普段、星など眺めようなどとは、滅多に考え付かない夏実が、何時間もこんな所で空を眺めているのには、それに足りるとは言わないまでもそれなりの理由はある。
 獅子座流星群。
 それは、無数に煌く星々の中、天を横切る星座の路黄道の、たった十二しかない星座の一角を占める獅子座を放射点として、時間によってはまるで雨の様に引っ切り無しに流星が見えるという、今年最大の天体ショーだ。
 勿論、獅子座流星群そのものは、毎年この時期になると見られる現象であるのだが、一時間に数百子から数万個にも達する大規模な流星となると、実に三十三年ぶりで、普段星に興味など示さぬ者達までが、雑誌等を買い込んでは一目見ようと待ち構えている。
 派手に騒ぎ立てる世間に乗せられたという訳ではないが、流星と聞いて、今はもう居ない、星が好きだった祖父を思い出した。
 若い頃、従軍して赴任させられた北の地で彼が見たという、降るような美しい星空の話とそれに纏わる神話と共に。
 『見張りの役目も忘れてしまう程、それは綺麗な星空でな』
 日本に帰ってきてから、星を見る為に随分と色々な所に行ったもんだが、未だにあれ以上の空には出会った事がない。
 小さな頃、事ある毎にぽんぽんと頭を叩いてくれた、大きく温かな手の感触が、口癖のように繰返された、嗄れた声と共に甦る。
 仕事の関係で、数年に一度帰ってくるか否かの父の代わりに、夏実を育ててくれた母方の祖父だった。
 バイク、釣り、好きなものは何でも祖父から教わった。
 けれど、警察学校を卒業し、正式に配属になった頃、まるで夏実が独り立ちした事で安心したかのように、あっさりとこの世を去ってしまって。
 降るように見えるだろうという各種メディアの予測に、どれほどのものかと思いつつも、誘われるようにして屋上に上ってきてしまったのは、まるで空が、祖父の命日である事を知っていて、態と今日という日を狙ってくれたかのように思えたからかもしれなかった。
 ――――え?
 何を考えるでもなく、ぼんやりと巡っていた思考に、不意にギイ、と軋んだ金属音が届く。
 「美幸…?」
 仰向けになった状態の侭、首を巡らせてみれば、何時の間にか、其処に居た筈の人の姿が消えていた。
 ――――何処に…
 がばりと起き上がり、後を追おうとし掛けて、けれど再び座り込む。
 すっかり、美幸が傍に居る事を、当然の様に思っていた傲慢な自分に気がついて。
 けれど、それは、決して当然でも何でもなく、様々な事が積み重なって漸く辿り着いた、奇跡のような事象の一つであるのだ。
 そして、その事を識っている人間は、この広い地球上でも、数えるほどしか存在していなくて。
 こつこつと、階段を降りていく音が、次第次第に遠ざかっていく。
 何時の間にか、深く心に入ってきてしまっていた人。
 出会った瞬間、自分とは絶対に合わない人間だと思った。
 けれど、頑なになっていた自分の心を、すんなりと解いた彼女は、何時しか掛け替えのない存在になっていて。
 自分を捕らえられる人間など、それ迄もそれからも、決して現れないと思っていたのに。
 「あ…!」
 声を出す間も無く、ちかちかと瞬く星の中、まるで、しゅん、と音が聞こえるかのような勢いで、太く短く皙い軌跡が描かれる。
 それは、思わず洩れた短い声が、終るか終らないかの短い時間。
 一瞬にして消え去っていくそれは、けれど、それ故に酷く鮮やかな残像を瞼に残していた。
 ――――これじゃ、願い事なんて、とても無理ね
 事あるごとに言われる決まり文句を思い出して、小さく笑みを口許に浮かべる。
 消えない内に、願い事を三度唱えれば、願い事が叶う、という古来から言われ続けた言い伝えは、案外、だからこそ、真実であるのかもしれなかった。
 それだけの事が出来る程、長く流れる星に巡り合える確率は、願い事が叶う幸運に匹敵するに違いない。
 つまり逆に言えば、願い事が叶う程の強運の持主だからこそ、そのような星に巡り会えたのだ、と。
 ――――また…っ
 ぼんやりと思考を巡っていた夏実の瞳が、再び、流れる瞬間を捉える。
 そうしている間にも、視界のあちらこちらでほろほろと星が流れ始めて。
 そろそろ、ショータイムが始まろうとしているのかもしれない。
 腕に嵌めた時計の、文字盤を読む為のミニライトを点せば、しかし、未だ零時には達していない。
 予測では、極大は日本時間で四時から五時という事だったから、若しそうだとするならば、四時間ほど前にずれたという事になる。
 ――――美幸、呼んで来ようかな
 ちょっと寒いかもしれないけど、滅多にある事じゃないし。
 でも、戻っちゃったって事は、矢っ張り見る気がないって事なのかなあ…。
 明日も一応、仕事あるし。
 でも、一晩中じゃなくても、ちょっと位なら…。
 考え込んでいる間にも、またひとつ、皙い軌跡が視界の橋を横切っていく。
 その時。
 らしくもなく逡巡していた夏実の耳が、ふと、ある音を捉え、がばりと身を引き起こしていた。
 それは、階段を上ってくる、聞き慣れた足音。
 そして、その予想通り、数秒後、再び重い鉄の扉が軋んだ音と共に開いていて。
 「美幸」
 「どう?」
 肩越しに振り返ってみると、後ろ手に扉を閉めていた美幸は、何やら大荷物を抱えている。
 少しばかり距離がある上、敢えて照明を落としてあった為、それが何かははっきりとは夏実に判断できなかったけれど。
 「あ、うん…」
 遮るように掛けられた短い問い掛けの意味を正確に受け取って、今し方の光景を思い出す。
 「三つ四つは見たよ、一応」
 「そう」
 私が外していたのが五、六分として、その間に四つとすると、約一分強に一つか…。
 一時間に数百個流れた場合、約十数秒に一つという事になるから…極大に達するにはもう少し掛かるかしらね。
 一応、美幸も興味を持っていたのだろう。
 前以って仕入れてあったらしい知識から、現状を分析しようとする美幸の相変わらずの理屈っぽさに笑みを誘われる。
 特に星座や星の名前など知らなくても、綺麗なものは綺麗なものとして楽しめる自身の感性を、美幸が内心、羨ましく思っている事を、夏実は知らなかったけれど。
 良く見知った気配が、足音と共に、間近に近付いてくる。
 ――――え?
 再び空に視線を戻した夏実は、けれど、不意に視界を何物かに覆われて、咄嗟に両手で視界を確保しようとする。
 だが、それが成功する前に、ふわりと温かな感触が、冷え切った身体を包み込んで。
 ――――これって…?
 漸く布の波間から脱け出して、何が起きたのか理解しようと、周囲を彷徨わせてしまった瞳が、闇に浮き出す存在を捕らえる。
 丁度、同じく毛布を被った美幸が、ゆったりと傍らに座り込もうとしている処だった。
 「美…幸?」
 「それ、掛けてなさい」
 少しは違う筈よ。
 掛けられた言葉に、手に触れている、ざらついた、けれど温かなそれが、毛織物の感触だという事を悟る。
 ちょっとやそっとでは動きそうもない夏実の様子に、傍らで心配し続けているよりは、この方が余程建設的だと思ったのだろう。
 態々一度部屋に降りて持ってきてくれた、予備に仕舞ってあったらしい毛布は、少々ナフタリンの臭いが鼻についたものの、それでも普段の格好のままでいた夏実にとっては酷く有り難いものだった。
 「ありがと…」
 どうしてこの人は、何時も。
 何も言わずに、自分を理解ってくれるのだろう。
 時折、怖くなる。
 自分の何処を、美幸はそんなに好きになったのだろうかと。
 自分が、どちらかといえば、美幸に迷惑を掛け続けているという自覚は、多少はある。
 そもそも、あの最悪の初対面で、しかし、まったく逆の反応を見せた事そのものが、最大の夏実の疑問だ。
 大遅刻の上の、交通警察官の自覚を問われる、大幅な交通違反。
 加えて、相手を拒絶する言葉。
 普通の人間ならば、「こんな人間とは組みたくない」と早々に言い出しても不思議ではなかったのに。
 それが…。
 一緒に行動している内に、自分もまた彼女が嫌いではなくなって、そして、長い時間を共有する内に、何時しか、別の感情が育っていった。
 けれど、自身ではその気持ちに気付くか気付かぬかの内に、美幸もまた同様の感情を抱いている事を知って。
 『夏実は…自分の魅力にちっとも気付いていないのね』
 もっとも、そこがまた良い処なんだけど。
 それは、何時かのベッドの中での美幸の呟きだ。
 誉められているのだか、貶されているのか良く判らないそれに、思わず『は?』と聞き返したものの、それ以上美幸は決して口を開こうとはしなかった。
 理解っているのは、ありの侭の自分を、美幸が受け入れてくれているという事だけだ。
 そして、同時に思う。
 自分は、美幸が自分を理解ってくれているほど、美幸を理解っているのだろうか、と。
 美幸が与えてくれるものと、それが何だか良く判らないが、兎に角自分が美幸に与えているだろうものとの釣り合いが、大幅に取れていない気がする。
 ギブアンドテイクではないが、恋愛も含めて人間同士の関係は、互いが互いに必要とするものを持っているからこそ、成り立っているのだと思う。
 けれど、自分と美幸との間には、その方程式がきちんと成立しているかというと、些か自信が持てないのが実状だった。
 ――――何か、好きになればなる程、怖くなっていく気がする
 我知らず、ほう、と小さく吐息を洩らす。
 自分が、こんな事で頭を悩ます日が来るとは、思いも拠らなかった。
 悩みなんて言葉は、自分には尤も似合わない筈なのに。
 「珈琲あるけど、飲む?」
 容れたばかりだから、まだ熱いわよ。
 不意に掛けられた、柔らかな声に、ひくりと肩が震える。
 黙り込んでしまった夏実に、気を回したのだろう。
 問い掛けるような眼差しを向けた侭、けれどそれ以上は特に口にしようとはせずに、美幸がひょいと小振りのポットを前に掲げてみせていた。
 「うん、ありがと」
 こぽこぽと鉄のポットから、蓋に褐色の液体が注がれるに従って、香ばしい香りが辺りに立ち込める。
 手渡されたそれを、ふうふうと、気を付けながら喉に流し込めば、直ぐに体内に熱さが広がっていく。
 徐々に広がっていくその感覚を楽しみながら、夏実はふわりと口許に笑みを浮かべていた。
 「あ、またっ…」
 未だ中身の入ったカップを両手でを包み込んだ侭、ぼんやりと天を見上げた夏実の瞳に、再び、皙い軌跡が映る。
 隣では、この日初めてになるそれを眼にした美幸が、丁度、満たしたばかりのカップを、口にしようとしていた事も忘れてしまったかのように、身動ぎすら出来ない様子で、矢張りその光景に見入っていて。
 「凄い…」
 「…うん」
 どこか呆然としたその呟きに、短く相槌を打つ。
 本格的に星が流れる時間には、まだ時間が要るのだろう。
 それでも、時折、思い出したように流れるそれは、普段光害に悩まされている都会の住人にとっては、なかなかに見応えのある光景で。
 それは矢張り、眼にするどれもこれもが、願い事など唱える間もないほど、酷く短い軌跡を描いていたけれど。
 「来年も、さ」
 見られたら良いよね。
 一緒に。
 流星の発生原因である彗星の周期の関係で、程度の差こそあれ、この大流星群が、一年後にももう一度見られるだろうという予測を聞き及んでいた夏実が、極自然に抱いてしまった小さな願い。
 口に出すつもりのなかったそれは、けれど、思わずといったように、ぽろりと外へ漏れ出でて。
 「そうね…」
 何の衒いもなく返ってきた相槌に、そっと口許に笑みが滲む。
 美幸は気付いているだろうか?
 それは、夏実が初めて口にした、未来の約束だったという事に。
 来年も二人でいられたら、という願いが、婉曲に込められた…。
 ――――先の事は誰にも判らないけど
 今この瞬間、何より大事なのが貴女だって事は、本当だよ、美幸。
 呟きに応じるように、また、星がひとつ流れていく。
 互いの息遣いだけが、酷く大きく聞こえて。
 空に瞬く巨大な獣が傾きを変えても、二つの影はじっと寄り添ったままだった。

END