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「はい、目立った外傷は、右手首の骨折と左肩の脱臼だけで…唯、念の為、MRIで検査をして頂いてます」 ええ、本人は大丈夫だと言っているそうなんですが、かなり飛ばされたらしいという事ですので。 ぱっ、と小さな音を立てて、病院の薄暗い廊下を照らす蛍光燈が、先刻から明滅を繰返している。 特に灯りを必要としてはいないながらも、不快げに眉を顰めつつ、緑色の受話器を握り締めていた美幸は、電話口から聞こえる徳野の声が、何時もと何等変わりない事に、強張っていた肩からほんの少し力が抜けるのを感じていた。 「はい、この後課長はタクシーで直接そちらへ戻るそうです」 夏実を部屋まで送り届けてから、私も署に戻ります。 はい、宜しくお願い致します。 先刻、医師の説明を聞いた時の、課長の指示を繰返し、気を付けてな、との気遣いに深く頷いてから、受話器を戻す。 がこん、と重さでフックが下りると同時に、ピーピーと甲高い音を立ててがなる電話を、カードを引き抜く事で黙らせた美幸は、ほう、と大きく息を吐き出すと、近くにあった長椅子に、とさりと身体を投げ出してしまっていた。 ――――…… 未だ検査中の、大切な相手を想いながら、闇に染まった窓外に視線を投げる。 現在の時間を示し、木々の間に見え隠れする、低い位置に浮かぶ紅い月が、完全な円を描くには、もう数日必要としているようだった。 『左肩の脱臼と、右手首の骨折の他は、生命に別状はありません』 先刻の、夏実を診察したという、年若い医師の言葉を思い出す。 医者がそう言うのならば、間違いはないのだろう。 だが、そう思いながらも、美幸の胸を駆け巡るのは不安ばかりだ。 バイクが危険だという事は、普段から、良く理解っている筈の事だった。 けれど、普段夏実のテクニックを見ている所為か、彼女は大丈夫という、根拠のない漠然とした確信が美幸の中にあった事も確かで。 彼女の無事な姿を自分の眼できちんと確かめなければ、この胸に纏いつく大きな不安は、何をしても、決して晴れそうにはなかった。 ――――夏実… その名を呟くだけで、鈍い痛みが駆け抜けていく。 誰より、何より、大切な人。 二人、一緒に進んでいくと心に決めた。 「…もう、行かなくちゃ」 そろそろ、検査、終るもの。 震える指先で、手にしていたテレホンカードを胸ポケットに押し込むと、自身に言い聞かせるように呟いて。 ゆるりと長椅子から立ち上がり、美幸は、人気のない廊下を、ゆっくりと治療室の方へと歩き出していた。
半ば近く下ろされたシャッターの外から、ばたばたと乱れた足音が聞こえてくる。 だんだんと近付いてきているそれに気を向けながらも、Todayの整備に意識を集中させていた美幸は、だから、一瞬、反応が遅れた。 『美幸っ、夏実が!!』 半ばシャッターにぶつかる様にして、こちらに飛び込んできた頼子の声に、一拍の間を置いて、え、と小さく呟いて。 次の瞬間、ぐるりと身体ごと振り返った美幸の瞳に映ったのは、ぜいぜいと肩を大きく上下させている頼子と、その頼子を追い掛けて来たらしい葵の姿。 頼子は兎も角、葵のらしくない酷く動転した様子に、美幸は何事か重大な出来事が、夏実の身に降り掛かったのだと悟っていた。 『夏実が、どうかしたの?頼子、葵ちゃん』 自然、鋭さを帯びた美幸の声に、説明しようと口を開き掛けた頼子を制して、葵が一歩前に出る。 『例の奴等がまた出ました』 今回の被害者は…夏実さんです。 詳しい状態はまだ不明。 『…っ』 ひゅっと息を呑む音が、やけに大きく辺りに響く。 手から滑り降りたレンチが、コンクリートの床とぶつかって、派手な音を立てて跳ねるのを、しかし美幸はまるで気付きもしなかった。 ――――え…? 脳が認識するのを拒否している所為か、告げられた言葉の意味が理解できない。 宙に浮いたそれは、単なる、意味を成さない記号として、ぐるぐると耳元を回っていて。 『美幸さんっ!』 認識してもいなかった褪せた視界が、ぐらり、と回転する。 工具等が散らばったその場所で、美幸が擦り傷一つ負う事がなかったのは、察した葵が咄嗟に腕を差し出してくれたからで。 『確りして下さい、美幸さん…っ』 繰返される葵の声に、自分の状態に今更のように気付く。 壁一枚を隔てたかのように、遠くで聞こえていた声が、漸く意味を持って脳に届けられる。 『これから、課長が病院へ行くそうです』 美幸さんに車を出して貰いたいとの事でしたが…辛いようでしたら私が行きますが。 どうします?と問い掛けられて、まるで別世界での出来事のように思えたそれが、突如、現実味を帯びて突き付けられる。 『私が、行く』 『大丈夫なの、美幸?』 『私は大丈夫よ』 心配なのだろう。 即座に答を返した美幸に、頼子が大きな眼鏡の下から、真剣な瞳で尋ねてくる。 とはいえ、事は、夏実の事だ。 例えどんなに具合が悪かろうと、反対を押し切って美幸が出ようとする事は眼に見えている。 だからこそ、頼子も、そして葵も、敢えてそれ以上、何も言おうとはしなかった。 『それより頼子』 課長に正面玄関で待っててくれるように、伝えて。 悪いんだけど、葵ちゃんは、ここの後始末、手伝ってくれる? 『ラジャ!』 『それくらい、お安い御用ですよ』 おどけて敬礼を一つすると、再び頼子が暗くなった外へと飛び出していく。 ――――夏実…どうか無事で… 胸を覆っていく、どす黒い不安。 葵がシャッターを上げる音を背中で聞きながら、美幸は取り敢えず動かす事が出来るようにする為に、放り出してあった工具の一つを手に取っていた。
扉が開く、がちゃりという音につられ、落ちつかなげに何度もプレートを見上げていた美幸が、腰を上げる。 「夏実…っ!」 暫しの間、見詰め合い、そして先に視線を逸らせたのは、夏実の方だった。 「面目ない」 ゆっくりとした足取りで姿を見せた夏実は、ライダースーツの上衣部分を腰に巻き付け、肩から右腕を吊るした状態で、全身、痣と擦り傷だらけだ。 けれど、痛々しいその姿にも、小さく浮かべられた、照れたような変わらぬ笑みに、不安に押し潰されそうになっていた心が、ふっと緩む。 同時に、視界がぼうっと歪むのを、美幸は抑える事が出来なかった。 そしてまた、安堵と入れ替わるように、別の苛立ちが、もやもやと広がっていくのを止める事も。 「うちまで送るわ」 Todayを廻してくるから、夜間通用口の前で待っててくれる? 潤んだ瞳を見られぬ為、なにより、湧き上がってきた黒い感情を抑え付ける為に、それ以上、夏実の言葉を聞こうとせずに、くるりと踵を返す。 だから、美幸は知らない。 自分がいない間に交わされた、夏実と課長の短い会話を。 けれど、何時もの定位置についた夏実が、酷く沈んだ表情をしている事だけは判って。 「夏実…痛むの?」 「え?ううん、そうでもないよ」 そうでもない、という事は、全く痛まない訳ではないのだろう。 それに、骨折したなら、今夜当り、熱が出るに違いない。 いや、この顔色からして、若しかしたら、もう出始めているのかもしれないが。 だが、現在の夏実には、そんな事よりも何か引っ掛かる事があるようで。 「兎に角、今夜は何も考えずに横になりなさい」 私は帰れないけど、今夜、熱が出るかもしれないから、安静にって先生が…。 って、聞いてるの、夏実? ぼんやりと、流れるテールランプを追っている夏実に、少しばかり声がきつくなる。 それは、此れ迄、必死に押し殺していた蟠る想いが、噴出してしまった瞬間だった。 そして、夏実もまた、敏感にそれを感じ取って。 「…本当に言いたいのは、そんな事じゃないんでしょ?」 当然だ。 出会ってから此れ迄、何年もの間、殆ど離れる事なく過ごしてきたのだ。 増して、心を預けた相手なら、判らない方がどうかしている。 けれど、的確な筈のその指摘は、今この時の美幸にとっては、かっとさせるものでしかなかった。 尤も、夏実の声にもまた、指摘以外のものが含まれていた事は否めなかったが。 「じゃあ、何だって言うの?」 声が尖ってしまうのは、致し方のない事だ。 売り言葉に買い言葉。 二人共が、喧嘩などしたいとは思っていない筈なのに、言葉だけが滑っていく。 美幸も気付けなかったのだ。 夏実もまた、何かを抱えているという事に。 「なら聞くけど」 美幸こそ、どうして責めないの? 命令無視して、何であんな事、したんだって。 何時もの美幸なら、言い返す隙のない位の、御説教の嵐の筈でしょう? なのに、病院で会ってから、ずっと優しいばっかりで…ちゃんと声に出して責めてくれた方が、まだ楽よ! 掠れた声が、血を吐く様な叫びを上げる。 けれど、それは、美幸にとっては、思っても見なかった事だった。 確かに、自分は、今回抑え役に回っていた。 解決の糸口が、碌にない状況では、頭を冷やせと何度も己に言い聞かせるしかなかったのだ。 だが、そうしながらも、何処かに、飛び出していきかねない自分がいた事も知っている。 夏実を抑えに回る事で、自分を抑えていたのかもしれない。 被害に遭ったのが夏実だったなら、間違いなく、心の箍が外れていただろう事は、自分が一番良く理解っていた。 「責められる訳ないじゃない!」 叩き付けるように叫び、ステアリングを握る両手に、力を込める。 酷く、腹が立った。 何より、夏実が、見当違いの事で苛ついているという事実が。 命令無視をしたのは確かに夏実だけだったが、あの時は間違いなく、美幸を含め、署内全員が同じ気持ちだったのだから。 「ああしたかったのは、私だって同じなんだから」 私が夏実に言いたかったのは、そんな事じゃない。 私が一番言いたいのは…何で、どうして一言、私に言ってくれなかったのかって事よ! 考えてもみなかったのだろう。 夏実の、赤味を帯びた、今は闇を受けて鈍色に見える大きな瞳が、更に大きく見開かれる。 「夏実が事故ったって聞いた時、頭が真っ白になったわ」 せめて、一言、言ってくれていれば、私だって…。 震える声は酷く静かで、けれど、だからこそ、却って美幸の気持ちを夏実に強く伝えていた。 そして、対する夏実の返答も、らしくもない、弱々しい声で。 「…言える訳ないじゃない」 失敗しても成功しても、単なる自己満足でしかない事が理解ってるのよ。 若しかしたら、義憤なんて、立派なものですらないかもしれない。 そんな私の勝手な感情に、美幸を付き合わせる訳には、いかないでしょうが。 始末書だけで済むなら兎も角、危険な事だって判ってるんだから。 告白に、泣きたい様な気持ちになりながら、ハンドルを捌く。 理解っていた。 それは、巻き込みたくない、危険な目には会わせたくないという、夏実の優しさなのだと。 だが、それで、本当に自分が、何とも思わないと思っているのだろうか。 何より、夏実を大切に思っている自分が。 「…理解ってないのは、夏実の方よ」 「え?」 「理解ってないのは、夏実の方よ!」 夏実を危険な目に合わせたくないのは、私だって、同じなんだから。 それを…バイクは車よりずっと危険なのに…っ。 感情が昂ぶって、それ以上言葉を紡ぐ事が出来ず、声を喉に詰まらせる。 「車とバイク2台を、一遍に一人で相手にしようだなんて、無謀以外の何ものでもないでしょう?」 夏実に、万が一の事でもあったりしたら。 夏実は、私の気持ち、全然理解ってないよ…。 「美幸…」 切り掛かるかのような、激しい感情のぶつけ合い。 膨らみ切った風船の空気が、一気に抜けてしまったかのように、虚脱感が二人を襲う。 軽の狭い車内を、暫しの間、ふわりと沈黙の帳が覆って。 「ごめん、美幸…」 「ううん、私こそ」 前方を見詰めた侭、互いに短く謝罪する。 相手を思いやった事から生まれた、擦れ違いだと、理解っているから。 闇に沈んだ、けれど見慣れた風景をTodayは滑り、やがて、二人の住むマンションの前で停止する。 「それじゃ、夏実」 「うん…また、連絡する」 「…判った」 ぱたんと扉が閉じ、滑らかにTodayを発進させる。 署に進路を向けながら、美幸は夏実の寄越した言葉の意味を噛み締めていた。
「なーつーみ、ほら、そこ、御飯粒付いてるわよ」 「え、どこどこ?」 「右じゃなくて左…御免、私からみて左」 不器用な手付きでたどたどしく箸を操っていた手が、見当違いの所をぎこちなく探っているのを、暫し、ナビゲートしていた美幸だったが、直ぐにもどかしくなり、すいと手を伸ばす。 「此処よ、此処…」 ひょいと摘んだ御飯粒は、面倒なので、その侭口に入れてしまう。 自分の勝手で負った怪我の為に、美幸が余計な手間を掛ける必要はない、という夏実の主張を汲んだ形で、何時も通りの食事の形態を取った訳だが、矢張り、御飯は御握りにでもしてあげた方が良かったかな、という思いが頭を掠めた。 「ありがと。うーん、元々左利きなんだから、それ程苦労しないと思ってたんだけどなあ」 漏れ聞こえる呟きに、苦笑する。 大抵の事は左でする夏実が鉛筆や箸だけ右で扱うのは、幼い内に、矯正されたからだ。 それは、世の中が右利きの人間を中心に出来ているから、という、育ててくれた祖父母の思い遣り。 確かに、元々右利きの人間が、初めて左手でものをする時以上には、かなりに巧く使えるようだったが、それでも、もう片方の手の補助があるなしでは大きく違う。 何しろ、いざ物を掴んだり書いたりしようとしても、目標物が移動してしまった場合、固定する為の手がないのだから。 「あー、もー、うっとーしー!」 「夏実!」 御飯を掬おうとした途端、横に逃げていく茶碗に焦れて、肩から腕を吊っているバンドを外してしまおうとした夏実に、ぴしゃりとした声が飛ぶ。 骨折を早く直したかったら、極力、右手は動かさない事。 夏実のような短気な人間には、なかなか出来ないそのお約束を遵守させる事を、今の美幸は第一としていた。 「理解ってるでしょう?」 子供じゃないんだから、何度も言わせないで。 大体、長引いて困るのは夏実なのよ? 「はーい」 取り敢えず、良い子の返事をしてはみせたものの、あの時は何にも言わなかった癖に、と懲りずに口の中で文句を言っている。 非常時という言葉が、欠落しているのだろうか、この娘には。 胸の内だけで呟きながら、しかし、思い出さずにはいられない。 『合流しよう』 そう中嶋に言われた時、直ぐに理解った。 だから夏実は、態々中嶋を探し出したのだと。 骨折した彼女が、足手纏いにならずに臨場出来る、唯一の方法。 美幸が敢えて止めなかったのは、止めても無駄だという事が、理解り切っていたからだ。 何故なら、若し自分が彼等の立場でも、同じ事をしただろうから。 勿論、怪我した現在でもそれだけの力が彼等にあると、美幸がはっきりと認めていた事もあるけれど。 そしてその予想は、間違っていなかった事が見事に証明されたのだが。 それでも。 ――――夏実! 首都高で二人を見付けた瞬間、心臓が軋む音を聞いたのは気の所為ではないだろう。 夏実がリア・ブレーキを操作し、中嶋がハンドルを操作する。 理屈では出来ない事はないが、しかし、細かいタイミング等を考えれば、非常に難しい筈の事を、いともあっさり遣って退けた二人は、しかし、自分達がこれから何をしようとしているのか、本当に理解っているのだろうか。 元々二人乗りは危険である上、二人共が怪我を負っているにも拘わらず、高速の世界で三人のベテラン交機を相手にしなければならないのだ。 二人の技術は信頼できるものであっても、絶対に事故らないとは言い切れない。 それは彼ら自身が、身を以って証明している。 だが、そうと理解っていても、彼等が警察官である以上、それはどうしても、やり遂げなければならない事だった。 『夏実、挟み撃ち!』 『えー、何―!?』 『は・さ・み・う・ち!!』 『理解った!』 その短い遣り取りだけで、美幸が何を意図しているのか即座に理解した夏実が、TodayがZを抑えている間に中嶋を急かし、あっという間に視界から消えて。 却って二人乗りしている事が幸いしたのだろう。 その意図通り、正面から向かってきた夏実が、運転から解放され自由な両手で放ったペイント弾が、絶妙のタイミングで避けたTodayの傍を擦り抜けた。 フロント硝子に散った、血のような朱を確かめる間も無く、咄嗟に急制動を掛けられたZが、無理な動きに耐えられず、耳障りな音を立てて吹っ飛んでいく。 止める事に全ての力を注ぎ込んだ三人には、暫しの間、停止した位置で息を吐く事しか出来ず、漸くまともな会話を交わす事が出来たのは、横転した車内から近藤が救け出された後の事だった。 『お疲れ、美幸、怪我はない?』 『私は何ともないわ。Todayの方はそうも行かなかったけど』 それより夏実は? あんな無茶な乗り方して、何処も何ともないの? 『だーい丈夫、大丈夫』 中嶋君が足を蹴られたんで、一寸痛むみたいだけど、後は二人共擦り傷一つ付いてないよ。 バイクを支えるのを取り敢えず中嶋に任せ、エアガンを片手に歩いてきた夏実に、急き込む様にして尋ねると、何ともない、という素振りでぱたぱたと固定してある右手を振ってみせて。 最も、その後、念の為に、と無理矢理引き摺っていった病院で、戻した筈の骨の位置がずれてしまっていた事が判明し、折った右手をその日の内に動かすとは何事か、と散々御説教を貰う羽目になったのだが。 「兎に角!」 あの時はあの時、今は今、よ。 何時また何が起きるとも限らないんだから、直せる時にきちんと直すの! 先生の許可が出るまで、一切右手の使用は禁止だからね。 言って、夏実が悪戦苦闘していた御飯茶碗を取り上げると、抗議の声を無視してカウンターに入る。 「あーん、美幸ぃ、解ったから返してよぉ」 情けない声を上げている夏実に、内心くすりと笑いながら、軽く両手を水で洗うと、塩を取り、広げた掌の上に茶碗の中身を空ける。 手近にあった鮭を崩して中心に置き、手早く握って御握りにしてしまうと、ついでとばかりに、炊飯器の中に残っていた御飯も次々と握って。 どちらにしろ、夏実が一膳の御飯で間に合う訳はないし、余れば余ったでお弁当にしても良い。 尤もその心配は、全くしなくて良さそうだったが。 「はい、夏実」 矢っ張り、暫くの間は御握りにしましょ。 その方が、私の精神衛生上も良いし。 「あ…ありがと!」 お預けを食わされた小犬のような表情で、上目遣いに見上げてくるのに苦笑してから、御握りののった中皿を差し出してやる。 瞬間、ぱっと表情が明るくなり、嬉しげな様子で手を出そうとするのに、ふと思い付いて、ひょいと皿を引いてみせると、再び、泣きそうな表情で見上げてきて。 「美幸ぃ?」 「一つだけ、約束して」 口調が改まったのを感じたのか、じゃれあいを中止して真面目な表情に戻る。 座っている夏実の隣に腰を下ろし、皿をテーブルに置いて、視線を合わせて。 見詰めてくる大きな瞳は、陽の光を受けて、酷く薄い色に見えた。 「もう…黙って行かないでね」 「――――」 突然の科白に、瞳を大きく見開いた夏実は、しかし、一拍の後全てを理解した表情で見詰め返す。 自分達には珍しい、一昨日の、互いに本音をぶつけ合った心に突き刺さるやりとり。 夏実も理解っているのだろう。 そして今、あの時の自分達を、越える為の約束をしようとしているのだと。 「聞いたからって、その時の私が、夏実と行動を共にするかは判らない」 若しかしたら、力ずくでも止めようとするかもしれないし、喧嘩になるかもしれない。 でも、後から結果だけを突き付けられる事になるよりは、ずっと良いから。 「…そう、だよね」 美幸と夏実は別々の人間だ。 幾ら仲が良くても、考え方に違いがあって当然だし、なければ逆におかしい。 それでも。 きちんと自分の言いたい事が伝わる様にと、慎重に言葉を選んでいる美幸に、神妙な顔で夏実が頷く。 「判った」 でもそれは、美幸も、なんだからね。 「ん」 悪戯っぽく片目を瞑ってみせた夏実に、素直に首肯する。 交錯しあう、穏やかな視線。 今なら、どんな気持ちも、まごう事無く伝わるような気がした。 「さーて、さっさと食べないと時間がなくなる」 そんじゃ、いっただっきまーす! 元気に挨拶をして、並んでいる御握りの一つに手を伸ばして。 今日から、また、新たな日々が始まる。
END
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