●未来へ向かって●  

 

 慣れた手付きでキイ、とリビングへの扉を開ければ、揚げ物を揚げる小気味のよい音が耳をつく。

 漂ってきた食欲を刺激する香ばしい香に、しかし、戸惑いを覚えながら、美幸はいぶかしげな様子も顕わに、その源であるカウンタの中を覗き込んでいた。

 見れば、広げられたホイルの上には、型良く握られたおむすびが並び、水分を飛ばしつつ、包み込まれるのを今か今かと待っている。

 隣に置かれたタッパーの中では、卵焼きやらベーコン巻やら、細々したお弁当の定番のおかずが、折り目正しく並んでいて。

 「夏実、一体、何してるの?」

 美幸と色違いで揃えた、チェックのエプロンを身に纏い、紅花油の海からきつね色になった唐揚げを、一心に救い出しているその背中に問い掛ける。

 いや、何をしているのかは一目瞭然ではあったのだが、場合が場合であった為、その行動に意味を求めずにはいられなかったのだ。

 それも当然。

 何しろ、これから二人で映画を観に行く予定なのだ。

 然も、此処でこうしている、当の本人のお誘いで。

 此処暫く、一緒に出掛ける機会が無く、美幸も少なからず楽しみにしていたのだが。

 「えー?勿論、お弁当の用意に決まってるじゃない」

 腹が減っては、戦は出来ぬってね。

 「別に、闘いに行く訳じゃないでしょう・・・?」

 思わず、呆れたような口調になってしまうのは、仕方の無い事だろう。

 通常、というか、極普通に考えて、親子連れでもない限り、映画に行くのに弁当持参で出掛ける人間はそう多くない。

 「あやだってば、言葉の」

 「映画に行くんじゃなかったの?」

 「行くよー」

 背中を向けたままの、間延びした肯定に、しかし、説得力はまるでない。

 行動が伴っていないのだから、当然と言えば当然だが。

 「よしよし、これで最後と」

 浮いてきた唐揚げを、菜箸で次々に取り上げ、油切り用の紙を二重に敷いた皿の上に移していく。

 やがて、最後の一つを取り上げた所でコンロの火を止め、漸くのように夏実は背後を振り返っていた。

 「んじゃ、美幸、一寸待ってて。今着替えてくるから」

 あ、その間に、その唐揚げと御握り、バスケットに詰めといてくれると有り難いんだけど。

 エプロンを外しながら、カウンターを出ると、ぱたぱたとリビングを横切っていく。

 扉のノブに手を掛けながら、肩越しに、よろしく、とおどけてみせると、賑やかな足音が廊下へと消えていく。

 ――――夏実ったら…

 相変わらずの様子に、ほっと息を吐く。

 此処最近、心の隅に凝り固まっていた不安が、溶けていくようで。

 「ま、良く理解らないけど、兎に角、お弁当、詰めてしまいましょうか」

 小さく肩を竦めると、美幸はのんびりとした足取りで、カウンターの中へと入っていった。

 

 

 『美幸ぃ、美幸の今度の非番って何時だっけ?』

 日付が変わるかどうかという頃になって、漸く帰宅してきた夏実が、遅い夕食、というより夜食を口にしながら尋ねたのは、一昨日の事だった。

 『んー、一応、明後日の予定』

 『そっか。んじゃ、映画に行かない?二人で』

 念の為にとスケジュール帳を開き、確認してから告げた美幸に、何気ない口調で投げられたのは、軽い調子での意外なお誘い。

 木下警部補の提唱する、他部署への研修制度の第一期生として、自分達が墨東署を離れてそろそろ十ヶ月になろうとしている。

 美幸は科学捜査研究所へ、夏実は本庁の捜査課へ。

 それは、本人の適性と、将来を見据えた上で決定された、研修先だ。

 今回の事は、当人達にとって、随分と実のある研修である事は間違い無い。

 交通課以外に配属された事が無かった二人には、これまで自分達が行なってきた仕事を外から見る事で、客観的な視点を得たという事に於いても、それは意味のある事だった。

 だが、充実した研修生活の中で、一つだけ、二人の間に大きな不満が持ち上がっていた。

 早い話が、同じ本庁勤め、同じ刑事部所属、そして同居までしているにも拘わらず、夏実と美幸の生活サイクルが余りにも合わないのである。

 尤も、殆ど活動時間帯が役所に近い科捜研と、一旦事件が起これば夜も昼も休日すらも関係ない捜査課では、サイクルが合う訳はない事は初めから判っていたのだが。

 それでも、此れ迄、一日の大半を一緒に過ごしてきた相手と、逢う事すら侭ならなくなる事はなかなかに辛い。

 ふとした折に、つい自分の隣に、相手を探している己に気づく。

 そして、其の度に求める気配が傍らにない事を実感し、喪失感が胸を苛んで。

 此れ迄の賑やかな日常を離れ、独りで考える時間がたっぷりと出来てしまった事も、次第に不穏な方向に行ってしまう思考に拍車を掛ける一因となっていた。

 だが、その、極めて不規則、且つ忙しい毎日を送っている筈の夏実からの、唐突な誘い。

 疲れているだろう彼女を気にしつつも、大切な人と一緒に過ごす事が出来る時間を想うと、自然、心が浮き立ってしまうのは詮無い事だった。

 『映画?』

 良いけど、夏実、本当に大丈夫なの?

 此処の所、碌にお休み取れなかったみたいじゃない。

 それでも、先走りそうになる心を押え、疑問を口に載せる。

 此処暫くの夏実の勤務状況を鑑みれば、それは当然の事だった。

 『大丈夫、大丈夫』 

 今日、送検終ったから、何も無ければ、うちの係は明日明後日はお休み。

 夏実の身体を心配しての問いだったのだが、彼女は休みが本当に確保できるのかを心配していると取ったようだ。

 此処二週間、まともに休みが無く、そもそも研修に入ってから、約束は悉くキャンセルになっていった状況を思い返せば、まあ、理解らなくもないが。

 『そう。…なら、行くわ。でも、無理はしないで』

 『だーい丈夫だって』

 行儀悪く、ぴっ、と箸を掲げてみせ、軽く片目を瞑ってみせる。

 向日葵のような笑顔は以前のまま。

 けれど、たったここ十ヶ月の間に、以前には決してなかった表情を、時折、眼にするようになった。

 ニュースや新聞で、事件を眼にした時。

 ぼんやりと思策に耽っている時――――。

 恐らく、人は、それを成長と呼ぶのだろう。

 だが、それが、自分が何等関与すら許されない場所で成されつつある事が、美幸には哀しく寂しかった。

 そして、今後、互いに己の道を歩み始めた時、距離を縮めるどころか、広がるばかりだと理解ってしまっていることも。 

 自分達は互いに違う人間で、適性もやりたい事も各々違う。

 四六時中、べったりと傍にいる事だけが、想いあう者達の取るべき行動ではないと理性では理解ってはいるものの、 それでも尚、我侭な感情は納得しない。

 いや、納得したくなかったのだ。

 夏実が墨東署を、美幸の元を離れるという事態を、此れ迄に二度も経験していて、尚も。

 彼女が現在もって、墨東署に席を置けている事自体が、極めて僥倖に近いというのに。

 夏実の成長を、そして彼女が認められた事を、素直に喜んでやれない自分が、酷く情けなく、醜く思えた。

 けれど、その気持ちは押し隠して、何でもない振りをして、軽い調子で頷いてみせて。

 『ん、判った。明後日、空けとくわね』

 『宜しく』

 茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる夏実が、そろそろ食事を終えようとしているのを見て取って、お茶でも煎れてあげようと席を立つ。

 けれどカウンターに行きつく前に、さらりと付け加えられた彼女の言葉に、美幸は慌てて背後を振り返っていた。

 『あ、そうそう、他行届、出しといてね』

 『え?』

 夏実?

 元々錦糸町と言う場所は千葉との境に位置し、少し動こうとする度に届が必要になる厄介な土地柄だが、たかが映画に行く程度で、届が必要になるとも思えない。

 首を傾げてみせた美幸に、しかし、夏実は悪戯な笑みを浮かべるばかりで。

 『んじゃ、宜しくね、美幸』

 あからさまに何かを企んでいる表情をしている夏実に、こんな時の彼女に何を言っても無駄だという事を、充分に熟知していた美幸は、ほう、と一つ息を吐き出し、疲れたような色を浮かべながら、了承の意を伝えていた。

 

 

 正面に据えられた巨大なスクリーン。

 規則正しく、ずらりと並んだ大小様々な車の群。

 「こういう事、だったのね…」

 周囲の様子をぐるりと見廻しながら、感心したように美幸が呟く。

 それら全てが、ある一定の方向を向いて、車高の低い順に行儀よく並んでいるのだ。

 何処が駐車場と違うんだ、との辛辣且つ尤もな意見もあるが、眼に見える規則性が、なかなかに壮観、という感想を引き出していた。

 「へへー、驚いた?」

 してやったり、と悪戯が成功したやんちゃ坊主そのままの口調で、夏実が笑う。

 「まあ、届出すのは面倒だけど、一回くらい行っておいても損はないかなって」

 美幸の口から聞いた事はなかったし、行った事ないと思ったから。

 車を止めて早々に、お弁当をパクつき出した夏実に苦笑しながら、相槌を打つ。

 「うん。ドライブシアターって、話には聞いてたけど、実際に来たのは始めて」

 物珍しげに辺りを見廻しながら告げた声は、少しばかり弾んでいる。

 近くに止まっていた車の一つに、なかなかに珍しい車種を見付けた事もある。

 けれど、彼女の心を沸き立たせていた何よりの理由は、矢張り、久し振りにナビゲーターシートに座った夏実の存在だった。

 同じ映画を観る為の施設であるのにこうも違うのか、と、一風変わった方式に興味を引かれながら、しかし、同時に、美幸はこの映画館の欠点も冷静に読み取っていた。

 車という狭い閉鎖された空間に何時間も閉じ込められる為、ある程度好意を抱いた人間以外とは来難い事、映画そのものが面白くなくとも、途中退出がし難い事。

 そして、もう一つ。

 ――――これじゃ確かに、お弁当が必要よね…

 自分もまた、夏実の勧めに従って、卵焼きを口に運びながら、改めて周囲の様子に視線を走らせる。

 何しろ、普通の映画館のように、扉を出てちょっと売店へ、という訳には行かないので、持ち込みをしない限り、何も口にする事が出来ないのだ。

 アメリカでは昔からあった方式だそうだが、狭い日本では殊の他珍しい。

 それは、最近開発の進んだ、つまりは都心に比べれは、段違いに地価が安いのだろう、この地域ならではの贅沢な土地の使い方だった。

 「チケット、貰ったからってのもあったんだけど」

 ま、この所、美幸とゆっくり顔をあわす暇も無かったしね。

 何気ない夏実の言葉に、ずくり、と胸の奥が疼く。

 今はまだ良い。

 後二月もすれば、研修期間も明ける。

 墨東署に戻れば、また一緒にいる事が出来るだろう。

 だが、自分と夏実を客観的に分析すればするほど、将来的に路が重なる事は有りそうになかった。

 ――――……

 此処最近の物思いの原因が、ぎゅうと胸を締め付ける。

 気になって調べてみた所、捜査課での夏実の評判は、美幸の予想通り、なかなかのものだった。

 当人に確かめてはいないものの、研修期間が明けても、この侭捜査課に残らないか、との誘いが、内々にあったらしいとも聞く。

 何より木下が、夏実をパートナーとして欲しがっているのだ。

 もう暫くは墨東署で、と今回は勧めを蹴ったそうだが、そう遠くない未来、夏実がそちらの道に足を踏み入れるだろう事は、想像に難くなかった。

 そして、夏実が、今はまだ迷ってはいても、何れは木下の隣に並び立つ事を決意するだろう事も理解っている。

 あの時、毅然とした態度で、美幸に宣言してみせたように。

 希望さえすれば、何時でも捜査課に行く事が出来るこの状況下で、それでも夏実が躊躇っている理由は、恐らく、墨東署という場所そのものと、そして、自分。

 よその署からは独立愚連隊呼ばわりされ、本庁からも疎ましがられる事の多い墨東署は、しかし、普段は兎も角、いざという時には、他のどんな優秀な署にも引けを取らぬほどの、爆発力を発揮した。

 そして、それを生み出す、単なる馴れ合いではない、一人一人の個性を生かし切る、チームワーク。

 少なくとも美幸にとっては、此れ迄配属されたどんな署よりも、居心地のよい場所だった。

 そして、それは先ず間違いなく、夏実にとっても同様で。

 希んでも、滅多に手にする事の出来ぬそれを、自ら手放すには、少なくない躊躇が生まれるのは当然の事。

 増して、其処がそれだけではない、重要な意味を持つ場所ならば。

 ――――後どの位の間、二人一緒に墨東署にいられるのだろう?

 過去現在を含め、墨東署で過ごせた時間は、美幸には、何時か終る事が判っている、楽しくも充実した子供の夏休みのように思える。

 それは、まるで青春の象徴のような、何度思い返しても尤も煌いている時間。

 そして、今、自分は、残り少なくなった夏休みを、必死に終らせまいとして足掻いているのだ。

 夏実が正式に捜査課に配属されるという事は、即ち、美幸とのパートナーを解消するという事でもある。

 仕事上のパートナーの解消が、プライベートでのパートナー解消に直結するとは思わないが、これまで長すぎる時間を一緒に過ごしてきた事を考えれば、なかなか踏ん切りを付けられないのも無理はない。

 加えて、二人にとって、此処は、居心地の良すぎる場所なのだから。

 だが、休みの明けた新学期には、それ以上に楽しい事があるかもしれないのだ。

 その事に眼を瞑り、今という時間を何としてでも続けようとしている自分。

 自覚が、あった。

 護っているつもりで護られていた自分。

 賢しくフォローし、時には小言を口にしてきた己は、しかし、現状に甘んじるばかりで、未来を見ようとはしなかった。

 そして、自身の為に、美幸の為に、辛さを振り切り動いてくれたのは夏実。

 彼女に比べれば、自分は何と、ちっぽけな存在なのだろう。

 『どんな名コンビでも、何れは解消しなければならない』

 自分達を見て、静かな口調でそう告げたのは、果して蟻塚だったか木下だったか。

 その言葉は、正しい。

 今回の長い研修は、もしかしてその予行演習ではないのかと、思わず邪推してしまいたくなるほどに。

 流れる時間の中で、警察社会の中では、常にコンビが生まれては消滅している。

 自分達もまた、そうしてきたからこそ、この署に配され、パートナーを組む事が出来たのだ。

 それを知りつつ、永遠を望んでしまう自分の弱さが、美幸は無性に哀しかった。

 「――――?」

 不意に流れてきたFMに、沈み込んでいた思索の海から引き戻される。

 「何、してるの?」

 見れば、夏実が手にしたパンフを見ながら、頻りにラジオのチャンネルを合わせている。

 「ん?見ての通り」

 チャンネル、合わせてんの。

 なかなか巧く、あってくれないんだもの。

 そう言えば、こういった施設では、音声はFMで流すものなのだと聞いた様な気がする。

 「ふうん、やろうか?」

 「んー、大丈夫」

 引張られそうになる思考を振り払い、夏実の手にしているパンフレットを覗き込む。

 その言葉通り、わざわざ美幸が手を出す迄もなく、程なくして微調整は終り、綺麗な音声が流れ始めて。

 「…少しは、元気出た?」

 「え?」

 「ここんとこ、元気、なかったみたいだから…」

 言い難そうに、窓の外に視線を彷徨わせながら紡がれた、消え入りそうな声に胸を衝かれる。

 あの忙しい最中、夏実はそれでも、滅多に顔を合わせていない、自分の落ち込みに気付いていたのだ。

 そして、だから、半ば強引にこんな所まで連れ出した。

 ――――夏実…

 衝撃は、時間と共に温かなものに変換され、やがて、じわじわと胸に広がっていく。

 真っ暗な深海に沈み込んでいると、信じて疑いもしなかった自分。

 だが、その瞬間、色のなかった世界に何時の間にか陽が射し込み、そこが、まるで南国の海のような、透明感に溢れた、美しい色彩を持っていた事に気付かされた。

 ――――ダイジョウブ

 唐突に、そんな想いが胸に湧き上がった。

 例え、仕事で一緒にいられなくとも、自分達の気持ちさえ確りしていれば、何の心配もないのだと。

 擦れ違いばかりで、殆ど顔も合わせられない忙しない毎日の中、それでも夏実は自分の変調に敏感に気付いてくれていた。

 明確なその事実が、浮かんだばかりの考えを裏付けてくれる。

 考えてみれば、プライベートのパートナーが仕事上のパートナーである人間の、如何に少ない事か。

 仮に同じ職場だったとしても、主体と補助などに別れ、殊に性別が違えば、それだけで立場が違っている事も珍しくない。

 勿論、世の多くの恋人同士がそうしていられる大きな理由に、彼等が何等世間に白い眼を向けられる理由がない、ということも挙げられる。

 簡単に言ってしまえば、世の習いに反している自分達は、そうであるが故に常に不安と同居せざるを得ず、つまりスタートラインからして彼等と大きく差がついているのである。

 故に、普通の人間が気にする必要もない場所で、躓く事も珍しくない。

 そういった意味で、確かに自分達の関係は彼等に比べれば、酷く脆弱だといえるだろう。

 そして、だからこそ、二人の中で、仕事の上での繋がりは大きな基盤となり、手放す事を怯えさせる事となったのだが。

 だが、若しかすると、自分達は、何時の間にか、その段階を越えていたのかもしれない。

 今、夏実が、知らず証明してくれたように。

 よくよく考えてみると、自分達は、同じ眼線の高さから仕事に臨むという、男と女では非常に難しい事を、ずっと行なってきたのだ。

 想いを貫く代償として、甘んじて受けねばならなかった、スタートラインのハンデを、気付かぬ内に克服する事を出来ていたとしても、決しておかしな事ではなかった。

 尤も、そういった此れ迄にない新しい考え方が脳裏に閃いたとはいえ、心に巣食った不安は消えてはいなかったけれど。

 それでも、唐突に浮かんだ、今迄に比べて段違いに前向きな思考は、それまで一方にのみ傾いていた天秤の、バランスを取る事に辛うじて成功してくれて。

 「…有り難う、夏実。心配してくれて」

 全てを裡に押し込み、にこりと微笑んでみせれば、夏実もまた、ふっと安心したような笑みを浮かべる。

 「大丈夫、だから」

 夏実への返答として、そして、自身の想いを確かめる術として、もう一度、今度は口に出して囁いた。

 「…そう。なら、いい」

 その言葉に納得してくれたのだろう。

 ゆっくりと、一つ頷くと、それ以上は何も尋ねようとはせず、夏実は黙って正面を向く。

 車の出入りも落ち着き、スクリーン上では、そろそろ、今後の上映予告が流れ始めていた。

 ――――夏実…

 大切な名前を、想いを込めて呟く。

 どんなに振り払ったと思っても、この心を貫こうとする以上、寄せては返す波のように、これからも不安は自分達の足元を濡らし続けるだろう。

 だが、それでも。

 自分達が想い続ける限り、この感情を大切にしようという意志を捨てぬ限り、心は寄り添い続ける事が出来る筈だ。

 それは、何れ、自分達が仕事上のパートナーを解消する時が来たとしても。

 「美幸、そろそろ始まるよ」

 「ん」

 表面的には知らぬ振りをしながらも、頻りに気遣い続けてくれている夏実に、小さく頷いてみせる。

 がさがさと広げていた弁当を、バスケットの中へと戻していく。

 近い将来、経験せねばならないだろう、胸の軋みは、僅かずつではあるが、既に自分を犯し始めているけれど。

 ――――まだ、私は、自分を巧く御する事が出来ない

 でも、何時か、この痛みの全てを正面から受け止めねばならなくなった時。

 ただ堪えるばかりではなく、新たな関係を築く力を得られるようになりたいから。

 敢然と貌を上げ、美幸の夜を孕んだ両の瞳が、真摯な色を浮かべて前を見据える。

 伸ばされた温かな掌が、放り出されていたままの左手を包み込むのを、感覚だけで捉えながら。

 

 硝子の向こうに見える、巨大なスクリーンの上では、重厚な音楽と共に、今しも物語の幕が上がろうとしていた。

 

END