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1. PROLOGUE
きい、と軋んだ音を立てて、簡易な造りの椅子が悲鳴をあげる。 コンピューター等で一杯の美幸の机の上に比べ、必要最小限のものしか置いていない正面の席の、広げっ放しにされた侭の書類の束に眼をやりながら、美幸は、ほう、と一つ息を吐き出していた。 『敵に勝つには、先ず敵を知らなくちゃ』 普段批判的な頼子の情報網からデータを引き出し、異常な程の対抗心に燃えている夏実に、美幸は、頑張ってね、と声を掛ける事しか出来なかった。 幾ら絶対の自信を持っていた腕力で負けたとはいっても、夏実があそこまで拘る以上、原因がそれだけだとは到底思えない。 他人から見て、それが不条理な事であるかないかは兎も角、あの東京タワーの救出劇の時に、彼女が引っ掛かりを覚える様な、何事かがあったに違いなかった。 比較的、過ぎた事は気にしない彼女が、少なくとも、彼の行動にいちいち反応する程度には気にしている。 そして、弁当を賭けた腕相撲にあっさりと敗北したあの瞬間、それ迄表には出ていなかった彼女の対抗心が、誰の眼にも明らかとなって。 東海林の方は兎も角、一見、酷く反発して見える夏実。 けれど、美幸は敏感に察していた。 夏実のその反応が、決して、反感だけから来ていた訳ではない事を。 『勝負!』 美幸の弁当を前にして、東海林を見詰める夏実の瞳が酷く楽しそうだった事を見逃す美幸ではない。 具体的な原因は兎も角、あの事件の時、夏実は、彼を自分と同等、若しくはそれ以上と認める事が出来ていたのだろう。 でなければ、此れ程迄に彼女が拘る筈もなく。 ――――……… 視線を戻し、再び画面に向き直ると、かたかたと音を立ててキイを叩く。 どちらにしても、夏実が嘗て無い程の興味を、彼に対して抱いている事には違いはない。 その事が、不安を呼び起こす。 過剰な興味が、何れは好意に変わってしまうかもしれない、と。 確かに此れ迄も、夏実は課長や徳野に好意を寄せてはいた。 けれど、それは、誰もが抱く憧れでしかなく、視線は常に自分に向いている事が理解っていたから。 けれど、今回は。 飽くまでも、美幸の勘でしかない。 だが、常に無い夏実の拘り方を鑑みると、それは、酷く的を射ている様に思えて。 ディスプレイに表示された、その人の経歴を睨みながら、美幸は、ほう、と深い息を吐き出していた。
2. TOKYO TOWER
「あの人、誰?」 「東海林将司」 真剣な眼差しで、作業する手元を見詰めたまま、そっけない口調で夏実が答える。 第二の対策として、夏実が階段から上る事になった、と葵から聞き機械室から飛んで来た美幸は、手早く準備を手伝いながら、サポートに入るという見知らぬ青年を、気に掛けていた。 「どんな人なの?」 「知らない」 「知らないって…」 殊更にトーンを落として耳元で小さく囁いた問いに返された、余りに無関心な解答に、思わず声が跳ね上がる。 下手をすれば、命を預けねばならないかもしれない相手に、それはないのではないか、と。 「徳野さんが一緒に行けって…」 一応、心配してくれる美幸に対して、悪いとは思ったのだろう。 解答になっていない解答を一言付け足すと、当の夏実自身はさして関心が無さそうな素振りで、すく、と立ち上がっていた。 「良い?」 「…っし、行こう!」 気を付けて、胸の内で呟いて、車体から一歩後退る。 キックペダルを踏み込むと同時に、ぶるん、と大きくエンジンが唸る。 真っ直ぐに行く手を見据えていた夏実が、す、と息を吸い込んだかと思うと、次の瞬間、ぐいと力強くアクセルを吹かして。 ――――東海林将司、か… 何処かで聞いた名だとは思いつつ、今はそれ処ではないとそれ以上は追求する事なく、角に消えていく夏実の背中を黙って見送る。 腕力だけなら並の男性以上とはいえ、体重は女性の標準である夏実だ。 強風に対した時、決して有利だとは言えないだろう。 それでも敢えて、他の男手を利用せずに徳野が夏実を起用したのは、こういった場面に遭遇する度に見せられる夏実の並桁外れた度胸と決断力、判断力を誰よりも買っていたからに他ならない。 美幸も、この人選には基本的には妥当だとは思うものの、同時に、夏実の身を案じずにはいられなかった。 自分にとって、何よりも大切な唯一人の人を、少しでも危険から遠ざけていたいと考えるのは、人間の極自然な感情だろう。 とはいうものの、彼女以上の適任がいない以上、簡単に異を唱えられる訳も無く。 データの無い東海林の存在も不安要素として残ってはいたが、一々調べている時間が無い以上、今は徳野の判断を信頼して二人を送り出すしかなかった。 ――――夏実、どうか無事で… 大の男でも軽々と吹き飛ばすだろうこの風では、幾ら体力の有る夏実といえど、苦労しない筈はない。 体力勝負のこの場面、傍らにいても自分が彼女の何の助けにもなれないと理解っている以上、己の出来る他の必要な分野で最大のバックアップをしてやるべきで。 一刻も早く、夏実の助けとなるべく、美幸は決然と貌を上げると、二度己の戦場へと駆け出して行った。
3. MACHINE ROOM
戸外から響いてくる甲高い風の音が、ささくれ立った神経を一層に昂ぶらせてくれる。 なかなかに思い通りに行ってはくれぬ眼前の機械を、苛立たしげに見つめながら、美幸はきつく唇を噛んでいた。 ――――夏実… こめかみに滲んだ汗をぐい、と拭う。 時間が、無い。 夏実が東海林と一緒にバイクで飛び出して行って、既に二十分が経過している。 本部とは離れた場所にはいても、状況が常に解る様に、と無線だけは置いてあるが、未だ、大展望台に到着したとの知らせはなく。 夏実が途中で無線を落としたらしい、という連絡だけは入っていたから、彼女からの直接の中途連絡が不可能なのは解ってはいたが、それでも、心配せずにはいられなかった。 ――――何処が、いけないの…? 大まかな構造を念頭に置きながら、ちっとも動いてくれない機械に向かって、胸の内でそっと囁く。 危険に身を晒している課長や、そして夏実達を思うと、気ばかりが焦って来る。 幾ら夏実でも、あの風の中をバイクを操りながら進むのは、容易な事ではないだろう。 出来れば、大展望台から特別展望台に進む前に、間に合わせたいとは思うものの、流石に、通常ならば有資格者以外は扱う事を許されぬ、エレベーターのシステムが相手では、そう簡単に行く筈も無くて。 「夏実、三番」 「えーと、此れで良いですか?」 焦燥感に身を焼きながらの作業の所為か、ついつい、何時もの調子で指示してしまい、返って来た声にはっとする。 「す、済みません…つい、何時もの癖で」 「いえ、良いんですよ」 職員である自分が見ているだけ、というのも心苦しいですし、何でも申し付けてやって下さい。 私には、その位しか出来る事がありませんから。 「そんな…」 思考を優先する余り、周囲に気が行かなくなっていた事に気付いて、慌てて頭を下げた美幸に好意的な笑みが返される。 実際、何も出来ない自分をもどかしく思っていたのだろう。 やけに力の篭ったそれに曖昧に応え、では御願い致します、と短く頼むと、美幸は再び手元に視線を戻していた。 ――――何処なの、原因は… 心の中で呟きながら、受け取ったドライバーの先端をボルトに掛ける。 此のエレベーターを、少しでも早く動かす事が、自分に課せられた唯一の使命。 それは、少しでも安全に救助活動を行う為には、どうしても必要不可欠な。 ――――必ず…必ず何とかしてみせるから だから夏実、それ迄、どうか無事で…。 原因として考えられる、あらゆる個所を一つ一つチェックしながら、美幸は、辛い闘いを繰り広げているであろう相棒を想い、そっと息を吐き出していた。
4. OBSERVATION
PLATFORM
篭ったような低いモーター音と共に、宙を往くとき瞬間特有の何とも言えぬ浮遊感が、全身を滑らかに包み込む。 天井近くに設えられた、階層を示す表示ランプが次々と変化していく事に、半ば感動を覚えながら、同時に、美幸は短い筈のその時間を、酷く長く感じていた。 『小早川、無事、救出完了したぞ』 登った寺の屋根の上から、状況を逐次連絡して来ていた中嶋から、弾んだ声で報告が入ったのが、つい、さっき先刻。 救助活動に間に合わなかった事に舌打ちしながら、それでも、全員の無事を確認した美幸は、ほっと胸を撫で下ろすと、こちらも、修理が完了した事を短く報せたのだけれど。 「課長っ、夏実っ!!」 漸くの様に到着したエレベーターの、扉が開くのももどかしい。 争うように全員が飛び出して、直脇に蹲っている数人の人影にぱっと駆け寄ると、怪我の具合を看ていたらしい東海林が、初めて笑みを小さく浮かべてみせて。 「大丈夫です」 捻挫もそれ程酷くはないし、後は軽い打撲と擦過傷位っすね。 淡々と現状を報告する東海林の確信に満ちた言葉と、全員の無事な姿を自分の目で確認した彼等の間から、誰ともなく、ほっと安堵の吐息が漏れる。 そして、少し離れた場所に、捜していた背中を見つけた美幸もまた、漸くの様に肩から力が抜けて行くのを感じていて。 「夏実…」 「美幸」 未だ息の整わぬ侭、疲れ切った様に床に手を付いて、ぐったりと全身の力を抜いて座り込んでいる人に、脅かさぬ様、そっと声を掛ける。 ゆるりとその貌を上げると、漸くの様に美幸の存在を認識したのか、小さく笑みを浮かべ、夏実はその侭軽く親指を立てて見せて。 「やった、よ」 「ん」 何処か誇らしげなその表情に、とくりと胸が高鳴って、どうして良いのか判らなくなる。 「御苦労様」 「美幸も、ね」 高鳴る胸の鼓動を抑え、すいと自分も膝を付いて、視線を合わせて囁いた美幸に、理解ってるよと夏実は軽く片目を瞑っていた。 「全身、油で真っ黒になって…頑張ったんでしょ」 美幸が此処にいる事自体が、その何よりの証拠だよね。 「ううん」 あの風の中、こんな処迄その身体一つで来て、救助活動までした貴女達に比べれば、全然、大した事じゃないわ。 それより、怪我は? 夏実の事だから、また、無茶したんじゃないの? 心配そうな瞳で見詰める美幸に、そんな事ないよ、と笑ってみせる。 「本当だってば」 そりゃ、打撲とか擦り傷程度なら幾つかあるけど、でも、その程度。 美幸ってば、本当、心配性なんだから。 「普段の貴女を見ていれば、誰だってこうなるわよ」 大した事ないと逃げる腕を掴まえて、傷口を覗き込み眉を寄せる。 コンクリに擦れて出来たらしいそれは、削られて粗く破れ、美幸は血の滲んでいるそこにそっとハンカチを巻き付けていた。 ――――此れは、跡が残るかもしれないわね… 一般に、何かに擦れて出来た傷は、切れ目が奇麗ではない所為か、跡となって残りやすい。 当人が幾ら嫌がろうとも、署に戻ったら、他にもあるだろう傷と併せて、きっちり手当てしなければ、と固く胸に誓いながら、美幸は端と端をきゅうと結んでいた。 「あの…美幸?」 けれど、その侭傷の辺りに掌を押し当て、一向に放そうとしない美幸に、気が付けば夏実が不審げに瞳を覗き込んでいる。 窺う様なその視線に、己の不自然な所作に気付いた美幸は、何でもないの、と首を横に振ると、漸くの様に、それでもゆるゆると腕を開放して。 「…さ、あちらもそろそろ良いみたいだし、私達も行こう」 「え?ああ、うん…」 すい、と立ち上がった美幸のころりと変化したその態度に、戸惑った様子で夏実が頷く。 まるで当然であるかの様に、すっと差し出されたほっそりとした手を取ると、引き起こしてくれるそれに逆らわず、よいしょ、と緩慢な動作で立ち上がって。 ――――無事で、良かった… 夏実も…そして、皆も。 未だ疲れが身体に重く残っているのか、ゆるゆると歩く夏実の歩調に合わせながら、美幸は心の中でひっそりと呟いていた。
5.EPILOGUE & CONTINUANCE
「あー、もう、腹の立つー!!」 何で勝てないのよ、あんな細っこい奴に。 どっかりと椅子に腰を下ろしながら、夏実が拳を握り締める。 物思いに耽けっている内に、何時の間にか予鈴が鳴っていたらしく、室を出て食事を摂っていた連中が、がやがやと賑やかな音を立てて戻って来て。 「好い加減諦めたら?」 別に、腕相撲で敗けたからって、何が困る訳でもないし。 大体、夏実だって外見は細い方だし、巡査長は一応男の人なんだから。 「あれより大きな人だって、これ迄私は簡単に捻じ伏せて来たの!」 「良かったじゃない。上には上がいるって事が分かって」 最近では、既に恒例となりつつある夏実と東海林の力比べが、今日も食堂で取り行われていたらしい。 埒の空かぬ自分の思考に気付かれまいと、小さく肩を竦めて殊更に呆れた様な素振りで声を掛けながら、けれど、美幸は同時に今日が訓練の日ではない事に気付いていた。 「此れで夏実の0勝5敗、と…」 食べ比べでも腕力でも、夏実、敗けっ放しだわね。 「くーっ、次は必ず勝つ!」 手帳に付けながらの頼子の突っ込みに、本気で悔しがっている夏実を視界の端に捉えつつ、美幸は擦れ違い様に囁かれた、あの時の彼の言葉を思い出していた。 『…凄いっすね』 『え?』 『凄いっすね、彼女』 それは、課長や子供、そして徳野達を乗せたエレベーターが、折り返してくるのを待ちながら、まるで独り言の様に囁かれた、短い賞賛。 口を噤み、それ以上は何も言おうとはしなかったが、美幸はその言葉の中に、彼の夏実への尊敬と、そして好意とを鋭く読み取っていた。 弱音を一切吐こうとしなかった、あの気の強さと、例え何があろうとも決して挫けぬ気迫に満ちたその行動。 そして、あの短い時間の間に、彼は気付いてしまったのだろう。 誤解されやすい彼女の、その陰に隠された優しさに。 『……』 『…彼女の死ねない理由ってのは、一体、何なんでしょうね』 傍らにいた美幸にだけしか聞こえぬ小さな囁きに、初めて美幸が、はっきりと東海林に視線を投げる。 『夏実が、何か…』 けれど、唇から出掛かった質問は、ごうん、という重い音と共に開いたエレベーターによって遮られてしまって。 ――――東海林巡査長、か… 後から聞いた話に拠れば、元々彼は、本庁の人間ではなかったらしい。 『ああ、東海林か』 用があって、富山から偶然本庁に出て来ていた所をとっ捕まって、現場に急行させられたと言ってたよ。 蟻塚さんから、聞いていたそうだ。 墨東署には、少々規格外だが、中々骨のある婦警コンビがいるって事を。 先ず間違いなく、そいつらと一緒に動く事になるだろうからってな。 半ば上の空で徳野の言葉を聞き流しながら、では、矢張りあれは、理解っていて言ったのだ、と改めて確信する。 恐らく、美幸と夏実との間を理解した上での、東海林のあの発言。 遠回しに、自分が判っているという事を美幸に伝え、そして彼は、一体何を望んでいるのか。 ――――夏実… それは解答の分かり切った、今更ながらの疑問だ。 余りに恐ろしくて、実際に口に出す事は、決して出来ないだろうけれど。 ――――彼の気持ちを知ったその時、貴女は如何するのかしら… 本鈴が鳴っているにも拘らず、相も変わらずじゃれあっている彼らの様子をぼんやりと見詰めながら、見咎められぬ様少しばかりぎこちない動作で、出しっ放しになっていたファイルのウィンドウを閉じる。 そして二年前の丁度今頃、矢張り同様に、自分のパートナー相棒となるべくしてやってくる人物に付いての情報を、こうやって集めていた事を思い出して。 夏に移行し掛けの、何処か鋭さを孕み出した陽の光が、今だけは柔らかく室内を包み込んでいた。
END
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