●砂の楼閣sideM●  

Scene 1


ヴォン、と低い唸りを上げて、一台のバイクが地下から地上へと飛び出して行く。
如何贔屓目に見ても晴天とはとても呼べぬ、曇り掛かった空の下、疾走するそのマシンは瞬く間に視界の中から消えていた。
――――夏実…
持ち上げていたカーテンから手を放すと、厚みのある布が重力の命ずる侭、ぱさりと床に落ちて来る。
低く垂れ込めた空は、彼女の心を映しているのか。
くるりと身体を反転させ、窓に背を向けると、その侭壁に背中を預け、瞼を閉じる。
現在(いま)の夏実には、恐らく、何を言っても聞こえはしまい。
そして、そんな彼女の為に今の自分が出来るのは、疲れ切って戻って来るだろう夏実が、心より寛げる場を用意して待っている事だけで。
何があったのか全てを知っている訳ではないが、どちらにしても、それが今自分のすべき事だと承知している。
夏実の帰る場所は、自分だけ。
自惚れでなく、そう確信している。
だから、美幸は待つ事が出来るのだ。
彼女が自ら帰る気になる時を。
それでも。
夜の気配を未だ残して、ひんやりと冷えたその場所から、けれど美幸は、暫しの間、動く事が出来なかった。


Scene 2


発端は、一本の電話だった。
三寒四温の繰り返しの中、少しずつ暖かくなり始めた、未だ春浅い宵の口。
職業上、何時でも直ぐに連絡が取れる様、2LDKの全ての部屋に備え付けてられている、けれど大して鳴る事の無い電話が、久し振りに甲高い電子音を立ててその存在を主張した。
「夏実―、悪いけど、出てくれるー?」
今一寸、手が放せないのー。
「ほいよー」
ポットに御湯を注ぎながら声を上げた美幸に軽く手を挙げて、頬張った煎餅を一生懸命に飲み込みながら、もごもごと応えた夏実が、姦しい音を立てている受話器に、ひょいと長い腕を伸ばす。
「はい、小早川&辻本…ああ、久し振り、それにしても良く此処が判ったわね」
続いて届いて来た夏実の声に、美幸は自分に掛かってきた訳ではないらしい事を悟り、改めて止めていた作業を再開していた。
フィルターに入れてあった挽いた豆に、少量の湯を落として膨らませ、手元の時計に素早く視線を走らせる。
はっきりと口に出した事はないが、最近親しくなったとある喫茶店のマスターに、特別に譲って貰ったこの特製ブレンドが、いま現在の夏実の一番のお気に入りらしい。
声には出さず、胸の内だけで小さく秒を数え、浮き出た泡が切れぬ様、その侭縁に沿って静かに湯を注ぎ込む。
水中を泳ぐ豆の粉が沈まない様留意しながら、耐熱硝子で造られた大振りのサーバーに、褐色の液体がとぱとぱと落ちる様をじっと見詰めて。
香ばしい香りが部屋一杯に広がっていくのを感覚だけで追いながら、美幸は既に温めてあった二つの白いカップへと、そっと手を伸ばしていた。
「うん…で…桜が!?」
聞くとも無しに聞いていた夏実の声が唐突に跳ね上がり、各々のカップに珈琲を注いでいた美幸の肩がびくりと震える。
真白なカウンターの上に散った濃い褐色の染みを、けれど、美幸は気にする事もなく夏実へと視線を戻していた。
「で…うん、そう、それで」
聞こえてくる夏実の声からだけでは、何が起きたのかは判らない。
けれど、注視されている事に一向に気付く様子も無く、受話器を握り締め、頻りに相槌を繰り返している彼女の様子からすれば、只事でない事だけははっきりと見て取れた。
「そう…解った」
…うん、じゃあ、詳しい事が決まったら、また御願い。
かしり、と乾いた音を立てて、やがて、受話器が静かにフックに戻される。
物問いたげな視線にも気付いていないのか、その侭、ぼんやりと動こうとはしない夏実の様子に、美幸は小さく眉を顰めていた。
「夏実…」
それが何かは判らないが、兎に角、夏実の様子からしても、『桜』と呼ばれる娘の身に、何らかの災厄が降り掛かったと見て先ず間違いないだろう。
きつく握られた両の手が、かたかたと小刻みに震えていて。
「………」
何と続けて良いか解らずに、二つのカップを手にすると、カウンターを廻り、無言の侭にテーブルへと運んで行く。
その動きに引き摺られる様にして、夏実もまたのろのろと元居たソファーへと戻っていた。
ミルクをたっぷりと入れた美幸のカップとは裏腹に、当然の様にブラックの侭、はい、と差し出されたカップを受け取り、ありがと、と呟く様に礼を言う。
けれど、何時もならば極上の笑みと共に、良い香りだね、と続ける筈の彼女は、一口啜った切り、揺れ動く濃い褐色の水面を、ぼんやりと見詰めるばかりで。
ラジオから流れる静かな音楽の中、陶器が触れ合う幽かな音だけが、暫し、二人を包み込む。
つい先刻までの、和やかな空気とは程遠い、重い沈黙を破ったのは、しかしながら、矢張り美幸の方だった。
聞いた方が良いのか、それとも、敢えて聞かないでいるべきか。
幾ら親しい、友人以上の間柄とはいえ、此れまで聞いた事の無い、夏実の過去やプライベートに関する事に、無遠慮に首を突っ込むのには躊躇いが有る。
とはいうものの、呆然としたこの様子では、緊急に動かねばならないだろう現在の状況において、十分な判断が下せないだろう事も間違いはなく。
「夏実…何処か出掛けなきゃならないなら、送るけど…」
「うん…」
掛けるべき言葉を捜して考えあぐねた挙げ句、当然、何処かへ飛び出して行かねばならないだろう事を予想して、それでもおずおずと告げる事が出来たのは、結局、当たり障りの無い一言。
しかしながら、湯気の立つカップから眼を逸らさぬ侭、何事かを考え込んでいるのだろう夏実からは、それ以上の反応を引き出す事が出来なくて。
――――夏実…
眼の前に存在るものも、碌に捉えてはいないのだろう。
ぼんやりとしている彼女からは、何の感情も読み取れない。
けれど、そうであればある程、美幸には、その存在がどれだけ夏実の心を捉えているかの、バロメーターの様にも思えて。
こんな時に、と自分の浅ましい感情に、嫌悪を感じる。
恋愛は、決して綺麗事だけではない。
誰が言った言葉なのかは知らないが、己で制御出来はしない、唾でも吐き掛けたくなる様な、どろどろとしたその心の動きを、美幸は夏実と出会う迄、経験した事が全く無かった。
理性を離れ、独り暴走し始めるそれが恐ろしくて、眠れぬ夜を過ごした事も一晩や二晩ではない。
どちらにしても、夏実に心を傾ける以上、この気持ちと付き合って行く他はないのだ、と、諦観出来る様になれたのは、一体、どれだけ経った頃だったか。
「美幸ぃ…」
思いに耽っていた美幸の意識が、か細い声に引き戻される。
普段の彼女からは考えも付かない、悄然としたその様子に、とくりと胸が痛んで。
「何、夏実」
正面に座る人の伏せがちな瞳を覗き込むようにしながら、努めて優しい口調で、応えを返す。
「明日、さ」
私、一寸出掛けて来るから。
「明日?今直ぐじゃなくて良いの?」
「うん」
良いんだ。
もう… 。
「夏実…」
消え入りそうな夏実の声に、けれど、それ以上問い詰める事も出来ず、そっと手の中のカップをソーサーへと戻す。
沈黙の降りた室内を、珈琲の独特の香りだけが満たしていて。
窓外では、近付いて来る低気圧の影響を受け、星の瞬いていた濃紺の空を、何時の間にか灰色の雲が覆い尽くそうとしていた。


Scene 3


雨が降っていた。
昼頃からぽつりぽつりと泣き出した空は、見る間にその勢いを増し、夕刻になる頃には既に土砂降りと言っても差し支えの無い程となっていた。
――――遅い…
玄関で物音がすれば直ぐに判る様、スイッチを切ってしまったステレオの、時刻を示すデジタル画面に走らせていた視線を、手元の雑誌へと引き戻す。
日の出と共に出掛けた筈が、時刻が夜半を指し示すこの時間になっても、未だ戻らぬ夏実に、どうにもこうにも落ち着かず、普段なら一度で理解できる筈の内容が、何度読んでも一向に頭に入って来はしない。
チッ…チッ…と一定の間隔で時を刻む目覚し時計の秒針の音にすら、一々神経が逆撫でられ、美幸はとうとう諦めて、手にしていた雑誌をぱたりと閉じると、その侭ベッドに身を投げ出してしまっていた。
「……」
数分毎に、ついつい時計に視線を投げてしまう自分に、苦笑する。
幾ら同居しているとはいっても、二十も半ばに近付いた社会人に、一々干渉する理由など有りはしない。
もとより、同居を始める折りの取り決めでは、相手に迷惑が掛からぬ限り、互いのプライベートに首を突っ込まないという事が、第一に挙げられた筈、だったのだ。
けれど、実際の所を言えば、自分の行き過ぎた心配のしようは、定められたそのラインを大幅に割ってしまっている様に思う。
そしてその事実が、夏実を縛ってしまっている様に思えて。
口には出さないものの、多分、夏実は知っているのだろう。
例えどんなに遅くなったとしても、美幸が必ず夏実の帰りを待ってから、床に就いているのだという事を。
それが証拠に、遅くなった時、彼女は大抵、何らかの御土産を抱えて来ては、一度は美幸の部屋をノックする。
何時からか習慣化されてしまったそれに、けれど美幸も申し訳ないとは思っているのだ。
夏実に負担を掛けてしまっている事を。
『負担って…どっちかといえば、夏実が美幸に掛けてるんじゃないの』
何時でも、騒動起こすのは夏実の方だし、美幸がいないと大抵解決出来ないし。
何時だったか、頼子がきょとんとしてそう言った様に、端から見れば美幸が夏実に振り回されているように見えるのだろう。
けれど、自分は知っている。
本当は、自分の方こそ、夏実に護られているのだという事を。
美幸は望んで、彼女の傍らに立っているのだ。
同じ空気を吸って、同じ物を見詰める事が出来るように。
――――でも…
夏実の方はどうなのだろう、と、ふと、疑問が思考を掠める。
どういう理由からかは理解らないが、夏実は余り過去の事を語りたがらない。
それが、自分とを隔てている壁の様にも感じて。
数時間前、掛かって来た一本の電話連絡。
『夜分申し訳有りません、夏実先輩は御在宅でしょうか?』
高校の後輩だという女性から、電話が有ったのは、八時を回った頃だった。
いないと告げた美幸に言伝てを託した彼女は、けれど、直ぐには切ろうとせずに、物言いたげな素振りを数度繰り返した挙げ句、結局は何も言わずに受話器を置いてしまったのだけれど。
あれは確かに、夏実にではなく、美幸に対して何事かを告げようとしていた。
会った事どころか、今の今迄存在すら知らなかった彼女が、一体自分に何の用があったのか。
疑問は残るが、けれど、兎に角今問題とすべき事は、彼女に託された伝言の方で。
『通夜と式の日程、なんですが…』
御通夜の方が明日六時からで、御式の方が明後日の十時から。
場所は何れも寛永寺です。
「寛永寺…か」
無意識の内に呟いて、大きく一つ息を吐く。
『明日で良いんだ…もう…』
昨夜の夏実の言葉の意味、あれはこういう事だったのだ。
今更慌てて出ても、もう、どうしようもない事なのだ、と。
けれど、今度は、それとは別の疑問が浮かんで来る。
こんな状況の中、当の夏実は一体何処へ出掛けたのか。
寛永寺といえば、上野周辺に幾つかある大きな寺の一つだ。
此処で式を執り行うという事は詰まり、その亡くなったという人間の住所が、都内に存在る可能性が強いという事で。
てっきり、遠方在住の関係者の処へでも出掛けたのだと思い込んでいたが為、それ迄何の不審も抱かなかったが、だとすれば、陽も昇るか昇らぬかの内に、バイクで飛び出して行った事からしておかしな事だ。
都内にいる相手ならば、そんな時間に出る筈はないし、大体、忙しさに取り紛れながらも間違いなく哀しんでいるだろう身内の者達に、今、相手にして貰えるとも思えない。
だが、昨夜の彼女の様子からしても、今日のこの外出が、この事態に全く関係ないとは思い難く。
「夏実…」
考えるべき事が多すぎて、次第に思考を回転させる事そのものが、億劫になって来る。
時間が時間だというのに、神経が高ぶっている所為か、眠気は全く感じられず、美幸は再びほう、と息を一つ吐いていた。
暫しの間、その侭の体勢でじっと天井を見詰め、不意にがばりと半身を起こす。
美幸の部屋は、壁を挟んで直ぐ、玄関とそしてリビングに続く廊下に面している為、起きてさえいれば、大抵は人の気配に気付く。
そして、それは、今この時も。
「夏実!」
勢いの侭廊下に飛び出し、けれど、遅かったじゃないの、の一言は声に出す前に呑み込まれる。
メットを靴箱の上に乗せ、脱ぎ難そうにブーツからすんなりとした足を引き抜いていた夏実は、雨の中を走り続けていた事を証明するかの様に、全身ずぶ濡れだったので。
ぽたぽたと床に滴を滴らせているその様を眼にして、物も言わずに部屋に取って返すと、バスタオルを抱えて再び廊下に飛び出して行く。
「今、何月だと思ってるの、こんなに濡れて!」
「御免、美幸…」
ばさりと頭からタオルを被せると、有無を言わせずにこしこしと擦る。
濡れて肌に張りついた髪を掃い、頬を伝う滴をぐいと拭って。
何時もなら空気が時化る、と落としてしまうバスタブの湯を、珍しくもその侭にしてあった事に感謝しながら、すっかり色の変わってしまっているライダースーツを脱がせにかかる。
雨を吸って酷く重くなったそれは、当然の如く夏実の体温を奪い取り、此の侭でいては幾ら丈夫な夏実といえど、風邪を引き込むのは時間の問題の様に思われた。
「私に謝ったって、仕方ないでしょう」
兎に角、先ずは御湯に浸かって来た方が良いわ。
その間に、何か温かいものでも用意しておくから。
「うん、御免」
「何をそんなに謝ってるの、夏実らしくないわね」
良いから早く行きなさい、と笑い掛けられて、落ちる滴を気にしながら、夏実がバスルームに向かって行く。
美幸もまた、ローブを取りに戻り掛け、ふと上がり口に出来た小さな水溜まりに気付いていた。
僅かな時間、立っていただけで出来てしまったそれが、如何に長い間、夏実が雨の中にいたのかを、正直に物語っている。
――――本当に、風邪なんかひかなければ良いんだけれど
心配げにそっと呟き、先ずは、くるりと踵を返す。
つい先刻まで胸を満たしていた、疑問や苛立ちは、目の前の現実にすっかりと押し流されてしまって。
放り出された侭のヘルメットの傍らに、小さな白い花を付けた桜の枝があった事を、その時、美幸は気付く事が出来なかった。


Scene 4


煙る街並み。
しとしとと降り頻る3月の冷たい雨が、不規則な音を立ててフロントガラスを叩いて行く。
重力に引かれ、周囲の水滴をも取り込みながら、少しずつ、大きく重くなって行く水の粒は、下る毎にその速度を増して行って。
『じゃ、一寸行ってくる』
美幸、送ってくれてありがと。
時間、掛かると思うし、先、帰っててくれる?
熱に潤んだ瞳をして、それでも気遣って見せる夏実に、気にしないで、と笑ってみせる。
『何の為に、態々送って来たと思ってるの』
熱でふらふらしている人が、余計な心配してないで、さっさと行ってらっしゃい。
私の事は気にしなくて良いから。
ね、と微笑み掛けられて、薄らと頬を染めると、こくりと一つ頷く。
エンジンを止め、小さくなって行く夏実の背中を見詰めていた美幸は、不意に、彼女が酷く大切そうに、何かを抱えている事に気付いていた。
――――桜…?
全てにベールを被せる闇の中、それでも、それが何かを確かめたくて、じっと眼を凝らす。
間違いない。
一体、何処から採って来たのか、あれは昨日、夏実が持ち帰って来た、小さな花を付けた一振りの枝。
昨夜は余りに慌ただしかったが為、実際に気付いたのは、朝になってからだったけれど。
一旦、取りに帰る暇が無いからと、携えて出署したその様に、昨日の夏実の外出が、これを取りに行く為だったのだろうと思い当たる。
関東の桜の開花時期は、例年、3月末から4月上旬。
未だ春浅いこの季節、かなり西に行かなければ、咲いている桜の枝等、手に入れる事は殆ど不可能な筈だったから。
――――一体、あの桜には、どういった意味があるの…?
あれ程無理をして入手したからには、何等かの意味がある筈だ。
けれど、そう見当はついたものの、面と向かって尋ねる事は憚られて。
――――夏実…
理解っている。
これは嫉妬だ。
過ぎた時間は決して取り戻す事は出来ない。
それでも、気持ちは止められなくて。
「………」
ほう、と息を一つ吐き、ゆるりとシートを後ろに倒す。
自然、上向きになる視線の先では、相も変わらず、降り頻る雨の粒が、飽く事無く硝子の上を踊り続けていて。
『事故?』
『…トラックと正面衝突してさ』
即死だったって。
幾らこっちが安全運転してたって、相手に突っ込んで来られたら如何しようも無いよね…。
カップを握り締めた、両の手が震えている。
波打つ水面を、じっと見詰めていた彼女の瞳には、遣り切れ無さが浮かんでいた。
『夏実…』
何と言って良いか解らなくて、そっとその肩を抱き締める。
手の内のカップをテーブルに移すと、夏実はその侭、美幸に体重を預けて来て。
『私が…さ、教えたんだよね、バイク』
声に出しはしなかったものの、こんな事なら、教えなければ良かった、という心の叫びが触れている部分を通して伝わってくる。
――――夏実…っ
頬に、目許に、宥める様な接吻けを贈る。
実際に涙を流してはいなくとも、傷付き引き裂かれた心が悲鳴を上げているのは、美幸にははっきりと聞こえていたので。
『美幸、御免…』
回された腕に力が篭る。
そしてその侭、押し寄せる熱に浮かされた様な夏実の希求に、けれど、美幸は決して逆らおうとはしなかった。
そして今日、午後のパトロールに行く段になって、様子のおかしな夏実を訝しんだ美幸が、その額に手を当てて、初めて熱がある事が判明して。
『一体、どうして黙ってたの!』
『だって、別に、大した事ないと思って…』
朝、起きた時から、何となく具合が悪かった事を白状させられて、ばつの悪そうな表情(かお)をしている夏実が、何を心配して黙っていたか位は理解っている。
それ以上、叱り付けるのも憚られて、結果、自分が送ると約束する事で決着がついたのだが。
――――一体、どういう娘、だったのかしら…
昨夜(ゆうべ)の縋る様な手の動きや、熱い息を思い起して、かあっと身が熱くなる。
ゆうるりと瞼を閉じて、フードを叩く、独特の雨音に耳を傾けながら、美幸はシートに深く背を預け、全身から力を抜いていた。
あの夏実に、バイクを教える気にさせた少女。
しかも、その微妙な口調からすれば、せがまれて、ではなく、自ら進んで手解きをしたらしい。
無益な事と理解っていても、思わずにはいられない。
美幸の知っている限り、ひと他人に教えるという行為を余りしたがらない彼女をその気にさせたのは、どんな人間だったのだろうか、と。
――――……っ
深く息を吸込んで、そして、吐き出し、ゆるりと瞼を閉じる。
どの位そうしていたのか。
やがて、雨の音に混じって、こつこつと硝子を叩く硬質な音が、耳に入って来て。
「済みません、あの、小早川さんでいらっしゃいますか?」
「そうですが、あの…?」
ふと見ると、運転席の扉の前に、車内を覗き込む様にして、喪服姿の女性が佇んでいる。
ウインドウを下ろし、戸惑い勝ちに尋ねると、少しばかり眼を細め、ぺこりと頭を下げてみせていた。
「申し訳有りません、私、夏実先輩の高校の後輩で…先輩から伝言、承って来たんです」
――――この娘だ
直感的に、そう思った。
じっと見詰めてくる、気の強そうなきつい瞳に、困惑する。
「あの、それで…?」
「あ、はい、実は…」
夏実先輩、御両親や他の皆に捕まってしまって、暫く抜けられそうに無いんですよ。
それで、人を待たせてるからって気にしてたんで、伝言、引受けて来たんです。
「そう…」
先を促した美幸に澱み無く応えると、その反応を確かめるかの様に、再びじっと見詰めてくる。
何を意図しての視線か気にする事も無く、その言葉に一つ頷くと、美幸はふわりと口元に笑みを浮かべてみせていた。
「では、申し訳ないんですが、夏実に伝えて貰えますか?」
頷いた彼女に、有り難う、と小さく囁く。
「最初から解っていた事だから、今更そんな事、気にしてないで、ゆっくりしてらっしゃい、って」
…ただ、体調を崩しているんで、何処かに寄ろうって話になったら、止めて下さると嬉しいんですけど。
あの娘、人が良いから、無理して付き合うだろうし、でも、明日の事もありますから。
後半は、夏実ではなく彼女自身に向けた御願いに、気を悪くした様子もなく、解りました、と軽く頷く。
不謹慎と言われようと、それは実際、良くある事だ。
場合が場合だけに、通常、同窓会をやっても集まらぬだろうメンバー迄が、無理矢理に都合を付けて駆けつけて来る。
久し振りに揃ったメンバーに懐かしさを感じるものの、まさか、その場で長々と話し込む訳にもいかず、大抵の場合、帰りに皆でちょっとお茶でも、という展開になりやすいのだ。
御通夜の場合、陽の落ちた時間に行われるのが通常であるから、夜の予定をキャンセルしている者が多く、断る者が少ないというのも一因かもしれないが。
どちらにしても、今日の夏実の体調では、それは、無謀としか言い様が無い。
明日の式も出る気なら、何がなんでも連れ帰らねばならないと、密かに心に決めていた美幸に、それが伝わったのだろうか、初めて相手が僅かに目許を緩めていた。
「…安心しました」
「え?」
唐突な言葉に、けれど、何を言われているのか理解らない。
戸惑いを隠せずにいる美幸に構い付ける事無く、にこりと微笑むと、手にしていた傘をくるりと一回転させてみせる。
その動きに従って、あちこちに滴が跳ねる様を、美幸は何処か別の世界でも見るかのような心地で見詰めていた。
「夏実先輩を…宜しくお願い致します」
私なんかが言う事ではないんでしょうけれど、と自嘲気味に付け足した彼女の中に、自分と同じ想いを読み取る。
とくり、と胸が大きく跳ねて。
「それは、どういう…?」
「多分、貴女が、思っている通りの意味です」
呆けなくても良いですよ、ときっぱりと言われて黙り込む。
「夏実先輩…気さくだし、確かに誰にでも優しいんですけど、誰か一人に拘った事って無かったから」
桜は…亡くなった娘は、確かに可愛がられてましたけど、乗り掛かった船、みたいな部分も多分にあったし。
だから、あの夏実が誰かと同居していると聞いた時、最初は信じられなかったのだと。
そう語る彼女に、以前、紹介された、夏実の父親の言葉を思い出す。
『あの娘が私に友人の話をしたのは、実は、貴女が初めてだったんですよ』
見上げる位置にある、ドライバーシートの横に立つ女性の綺麗な瞳には、彼と同じ安堵の色が伺えた。
「先輩、憧れだったんですよ、私達の」
達、というのは、彼女と、そして亡くなった娘の事か。
「だから、その話を聞いた時、二人で言ってたんです」
一度、会ってみたいね、って。
まさか、こんな形でそれが現実のものとなるとは、思いもしませんでしたけど。
「それで、私に…」
「ええ」
哀しげに瞼を伏せた彼女に、きりりと胸が軋むのが判る。
ふと、思った。
此れだけの人に想われている事を、夏実自身、認識っているのだろうか、と。
「でも、良かったです。貴女みたいな人で」
きっと、此れで、桜も…。
呑み込んだ言葉は、恐らく、彼女だけが解っていれば良いものなのだろう。
瞬間、遠くを見る様に視線を彷徨わせた彼女は、やがて、思い切る様に貌を上げると、ぺこりと小さく頭を下げて。
くるりと踵を返し、ぱしゃぱしゃと足元の水を跳ねさせながら、小走りに走って行く。
雨が吹き込むのも構わずに、ウインドウを下ろした侭、美幸は彼女が消えて行った街角を、何時までも見詰め続けていた。


Scene 5


空が高い。
抜ける様な青空に、一本の飛行機雲が何処迄も続いている。
ゆっくりとした速度で、広い広いキャンバスに壮大な絵を描こうとしている銀に輝くその機体を、美幸は酷く穏やかな瞳で見詰めていた。
「美幸ぃ、それ、頂戴」
見れば、離れた位置に立っていた美幸に迄、飛沫が飛んで来る程、景気良く水を墓石にかけていた夏実が、広げた手を差し出している。
自分が花や線香を預かっていた事を今更ながらに思い出して、美幸は両の手のものを、慌てて手渡していた。
花といっても、それは、一般に仏前に供える仏花ではなく、まるで当然であるかの様に、白い小さな花を付けた桜の枝だ。
後十日もしなければ、この関東では恐らく見られる事の無い。
『御墓参り?』
『うん、命日だからさ、今日』
誰の事を言っているかは、直ぐに解った。
その友人と共に、何年もの間、ずっと夏実を慕い続けていた女性。
恐らくは、誰よりも、夏実を理解していた。
昼休み、モトコンポで一寸ばかり行って来ると言うのを押し止め、パトロールの帰りに立ち寄った。
夏実だけでなく、美幸自身もまた、彼女に会いたいと思っていたので。
それが例え、御墓参りなのだとしても。
――――桜さん
すいと夏実の隣に並ぶと、手を合わせ、永遠の眠りについた人にそっと呼び掛ける。
火を付けた線香からは、独特の香りを含んだ煙が風に乗って、ゆうらりと立ち昇って。
自分が、彼女以上に夏実を理解しているとは言えないかもしれない。
それでも、そうありたいと思う気持ちと、夏実への想いは誰にも負けない自信があった。
――――ありがとう…
私の方こそ、もっと早く、貴女達に逢いたかった。
口には出さぬ呟きは、彼女に届いてくれるだろうか。
ゆうるりと瞼を開け、たった一人の為に用意された、小さな墓石をじっと見詰める。
傍らでは、疾うに祈りを終えていたらしい夏実が、酷く温かな瞳で、そんな美幸を包んでいて。
「さて、と」
んじゃ、美幸、そろそろ行こっか。
終わるのを待っていたのだろう。
俯けていた面を上げた途端に、夏実の晴れやかな声が飛んでくる。
「うん」
借りて来た水桶をひょいと下げ、くるりと踵を返した夏実を追って、入り口の方へと引き返す。
刹那、悠々とした足取りで前を行く夏実の背中に、思い切り抱き着きたい衝動に駆られ、けれど、こんな処でと、両の手を握り締める事で自制して。
風の方向が変わったのだろうか。
未だ煙を燻らせ続けている、残してきた線香の香りが、不意に二人を包み込む。
見上げる空は、何事も無かったかの様に、ひどく蒼かった。



END