●優しさの欠片●  

 からりと晴れ上がった真っ蒼な空を、群れを作った鳥達が断続的に横断して行く。
マンションの最上階にあるその位置から見ても、黒の固まりの様にしか見えぬ距離を、忙しなく舞って行く彼らは、間近に迫った次の季節に追い立てられているかの様に見えて。
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを手近のグラスに注ぎながら、くったりと全身をソファーに預け、季節の終わりを感じさせるその光景を、ぼんやりとした様子で見上げている夏実に視線を投げると、美幸はほう、と一つ溜息を吐いていた。
起き抜けである事を差し引いても、酷く緩慢なその所作が、普段の過ぎる程に元気な彼女を見慣れているだけに、やけに眼を引く。
『…やっぱり、少し、熱っぽいわね』
体調の変化に気付いたのは、当人ではなく、先に起きていた美幸の方だ。
人並み以上に寝起きの悪い彼女が、非番の日に自力で起きて来る事等、同居を始めて此の方、数える位にしか無かった事。
珍しくも、美幸が朝食の用意をし終える前に、覚束無い足取りでよたよたとリビングに入って来た夏実の、常に無いその様子に、首を傾げていた美幸は、普段ならば何よりも優先する筈の食事をやんわりと拒否した事で、一層に不審を募らせて。
何とも無い、と言い張る相手の額に強引に掌を当てた美幸は、そして直ぐに、自分の勘が見事に当たっている事を確信していた。
『取り敢えず』
今日は一日、大人しくしてなさい。
『ふぁーい』
大した事はないと、内心思っているのだろう。
生返事をした夏実に、一応、熱、計っておいた方が良いわね、とケースから取り出したデジタル式の体温計を差し出してやっても、小さく首を横に振るばかりで。
『良いわよ、そこ迄大袈裟にしなくても…』
それ程、大した事でもないんだし。
『それでも、よ』
風邪は万病の元。
用心に越した事はないでしょ。
それに、薬も。
今、お水を汲んでくる来るから、ちゃんと飲むのよ。
『薬ぃ―?』
基本的に、身体の造りが頑丈な夏実だ。
滅多に使わないが為、薬を飲む事には抵抗があるのだろう。
嫌そうに顔を顰め、抗議し掛けた夏実の鼻先に、すいと人差し指を突き付けると、けれど、美幸はにっこりと笑みを浮かべてみせていた。
『口移しで、無理矢理飲まされたくなかったら、大人しく言う事、聞きなさい』
『美幸ぃ』
冗談めかした美幸の科白に、瞬時に頬を真っ赤に染め、夏実が情けない声で悲鳴を上げる。
何時までも照れが抜けないのか、身体を重ねる様になってもう随分経つというのに、未だに夏実は、夜の褥以外でのそんな会話となると、まるで物慣れぬ人間であるかの様な、酷く幼い反応を見せた。
『別に私は、それでも全然構わないけど』
どうする?と瞳を覗き込まれ、拗ねたように口を尖らせる。
『…自分で、飲む』
『あら、残念』
じゃ、此れ、体温計。
お水を汲んでくる間に、きちんと計っておくのよ。
『へーい』
半ば無理矢理押し付けられた体温計を、しぶしぶ口腔に押し込むのを確認してから、きびきびとした足取りでカウンターの内側に回る。
口では大丈夫と言いながら、美幸の心配げな視線にも、全く気付く様子もなく、ぼうっと窓外を眺めている夏実の様子は、普段が普段なだけに、酷く辛そうに見えて。
「如何?、熱は」
「37度9分」
ま、微熱ってとこね。
だから言ったでしょ、大した事ないって。
軽い電子音と共に、規定時間が過ぎた事を知らされ、取り出した体温計のデジタル面にちらりと視線を走らせると、差し出された掌の上にひょいと載せる。
けれど、受け取った美幸の方は、夏実とは対照的に酷く重い息を吐いて。
「…大した事あるのは、夏実が一番良く理解ってるんじゃない?」
夏実の平熱、体温計に出ない程、低かった筈よね。
「…どうして」
含める様に、ゆっくりとした口調で告げられた言葉に、大きな瞳がますます大きく見開かれる。
全くと言って良い程噂に疎い夏実が知らないのも無理はないが、実はこの話、墨東署の者なら、大抵の人間が知っている事実である。
「有名だもの」
熱くなりやすい夏実には、似合わない体質してるって、頼子がかなり大
騒ぎしたから、一時は、墨東署中の噂になってたわよ。
「頼子の奴―っ」
幾ら此処で叫んでみても、事実を事実として知られてしまっている以上、
言い繕う事等出来はしない。
元々、理論を組み立てる事を苦手としている夏実に、どちらかといえば
理詰めで行動する美幸を言い負かす事等、不可能に近い事だ。
聞こえない事を承知で、それでも当たらずにはいられないらしい夏実に、
内心、苦笑しながらも、真面目な表情を作りながら、美幸は手にしていた
グラスをそっとテーブルへと置いていた。
「さ、こんな処で何時迄もぶらぶらしていると、身体を冷やすわ」
薬を飲んだら、部屋で、あったかくして寝てなさい。
「…やだ」
「夏実」
聞き分けの無い事、言ってないで。
仕方ないでしょ、病気なんだから。
「だから!そんな大袈裟なものじゃないって言って…」
「立派に病気よ、3度近くも熱が上がっていれば」
それとも夏実は、平熱36度の人間が、39度の熱を出しても、病気じゃ
ないって言うの?
「……っ」
どうしても、己の体調不良を認めようとはしない夏実に、凛とした声で
畳み掛ける。
咄嗟に何も言い返せず、くやしげに唸っている夏実ににっこりと笑い掛
け、見つけ出した風邪薬のアルミの小袋の封を切ると、はい、とその手に
握らせて。
「………」
小さな銀の包みと、テーブルの上のグラスとを、見比べていた夏実の
表情(かお)が酷く嫌そうに顰められる。
「矢っ張り、口移しの方が良い?」
「飲むわよ」
返って来る答を知りつつも、態と意地悪く言ってみせる美幸に、ぐっと
詰まると、観念したかの様に、ざっと袋を逆さにし、苦みが広がらぬ内に、
グラスの水で流し込む。
「はい、良く出来ました」
くしゃりと髪を撫でられて、苦い、と顰められていた表情(かお)が、益々歪む。
「子供じゃないわよ、私は」
「子供よ。薬を嫌がるなんて」
「だって…」
拗ねてそっぽを向いてしまったその人の幼い仕種に、自然、口元に笑み
が浮かぶ。
「夏実」
「何…っ…ん……」
すとんと傍らに腰を下ろしたかと思うと、行き成りに唇を塞がれる。
突然の美幸のその行動に面喰い、身動きも取れずにいた夏実は、触れて
は離れてを繰り返し、次第次第に深くなって行くその行為に、やがて、意
識を奪われて行って。
遅まきながら、押し返そうと、相手の肩に添えられた手は、けれど、結
局はその行為に至る事無く、逆にしがみ付く形となる。
漸く美幸がその腕を解放したのは、互いの唾液がたっぷりと絡まりあい、
口腔に残っていた薬の苦みが、完全に消えてしまった後だった。
「もう、何するのよ、行き成り…」
「口直し」
苦いって、顔を顰めてたの、夏実じゃない。
「だからって…」
甘かったでしょ、と軽く片目を瞑ってみせた美幸にそれ以上反論も出来ず、頬を染めた侭、口の中でぶつぶつと何事かを呟いている。
「それとも子供向けに、チョコレートか何かのほうが良かった?」
「う…」
つい先刻の会話を逆手に取る事で、完全に夏実の口を封じた美幸は、く
すりと笑みを洩らすと、ポケットに忍ばせてあったボンボンの包みをしゃ
らりと剥くと、今の行為でほんのりと濡れた唇に、ひょいと一つ押し込ん
でやって。
――――本当、夏実は変な処で含羞み屋なんだから
他に誰も居ないんだし、この位、何でもない事なのに。
付き合い始めた当初に比べれば、とんでもなく思考が柔らかくなってしまった己は、自覚していた。
元々、世間一般の基準から言っても、こういった方面には疎い部類に入
っただろう美幸だが、自分以上に、いやはっきりと言ってしまえば、全く
といって良い程興味を持っていなかった、夏実の意識を自身に向けさせた
くて、躍起になっているうちに、何時しか、頑強に根を張っていた筈の、
羞恥という名のそれは、驚く程に感じられない様になっていて。
時折、そんな己を眼の当たりにするにつれ、頬を赤らめはするものの、残念ながら後悔だけはした事が無く。
「ほら、部屋に戻って戻って」
後で何か、お腹の負担にならないもの、持って行ってあげるから。
「だから、お腹なんか、痛くないって言ってるのにー!」
「はいはい」
何だかんだと言い募る、夏実の文句を聞き流しながら、美幸は自身のカ
ーディガンに包まれた、通常よりも温かな身体を、廊下へと押し出してい
た。



「夏実、起きて、夏実」
「う…ん……」
耳元傍で囁かれる事を嫌がってか、意識の無いくったりとした身体が、
気怠げな様子で寝返りを打つ。
『夏実、入るわよ』
溜まっていた家事を一通りこなし終え、夏実の部屋を訪れたのは、昼を
回った頃だった。
食欲の無い夏実だが、少しは何か食べさせなければと考えて、取り敢え
ず、と様子を見に来た美幸は、けれど、扉を開けた途端、眠っている夏実
が酷く魘されている事に気付いていた。
「…みゆ…き……」
つっ、と光る透明なものが、閉ざされた侭の、瞼の端から零れて行く。
一緒に暮らし始めてほぼ二年。
けれど、初めて眼にするそれに、どうしたら良いのか判らなくて、美幸
は、然して厚みはないものの、しなやかな筋肉をつけた夏実の上半身を、
少しばかり乱暴に揺すっていた。
「夏実、夏実っ」
眼を醒ましなさい、夏実っ!
「みゆ…き…?」
それは、何時もの彼女であれば、到底、覚醒を促すには至らぬ程度のも
のであったが、しかし、この時ばかりはどうにかその効力を発揮してくれ
て。
漸くの様に眼を醒ました夏実は、しかし、半ば寝ぼけているのか、己の
頬を伝うものには気付かぬ様子で、肩を掴む美幸の腕に手を伸ばすと、ぎゅ、ときつく縋り付く。
「ちょ、ちょっと、夏実?」
唐突に抱き着かれた事に驚いて、寝ぼけているの、と思わず美幸の声が
跳ね上がる。
けれど、意識して制御している時でさえも、並みの男性以上のパワーを
発揮する夏実だ。
意識の箍が外れている今、縋り付いてくるその力は、並み大抵のもので
はなくて。
「夏実、起きて、夏実っ」
食い込んでくるその痛みに、眉を寄せる。
じゃれあっている時の、力加減の誤り等、比べ物にもならないそれに、
普段、何気ないちょっとした仕種にも、彼女がどれだけ気を付けているか
が良く解った。
「ん…あ……え?美幸!?」
唐突に、掴んでいた手の力が緩み、ほう、と全身から力が抜ける。
「ご、御免、美幸」
「大丈夫よ、そんなに長い時間じゃないから」
寝台の上からゆるゆると身体を起こしながら、安心させる様に微笑んで
みせる。
今はそんな事よりも、余りにもらしくなさ過ぎる夏実の様子の方が気に
なった。
「それより、何か悪い夢でも見たの?大分魘されていたみたいだけど」
「…ん、何でもない」
「そう…」
現在(いま)の夏実の態度からしても、そして、先刻の魘され様からしても、何でもない筈はない。
けれど、今は敢えてそれ以上追求せずに、美幸はすいと眦から伝う滴へ
とその指を伸ばしていた。
こういった時、どんなに言葉を引き出そうとしても、夏実は決して口を
割らない。
どうしても聞き出そうと思うのならば、後で気持ちが解れた頃を見計ら
い、じっくりと時間を掛けて聞き出さねばならぬ事を、美幸は良く理解っ
ていた。
「…え、何」
「涙」
頬を拭って行ったほっそりとした指先が、きらりと光るもので濡れてい
る。
自分が泣いていた事に気付かされ、眼が覚めた時から続く、このぼやけ
た視界の原因を今更ながらに自覚して、夏実はその頬を少しばかり紅らめ
ていた。
「あ、えと、これは…」
けれど、咄嗟に取り繕おうとした夏実の思考は、再び、今度は首筋に伸
ばされた優しい手にあっさりと遮られる。
自分を見詰める深い眼差しに、とくりと胸が高鳴るのを感じながら、夏
実は温かなその手に、全てを委ねてしまっていた。
「流石にまだ下がらないわね」
取り敢えず、何かお腹に入れてから、薬を飲んで…こら、そんな顔しな
い。
「だって…」
「我が侭言っても、聞く耳は持ちません」
病院に行けって言わないだけ、良いと思いなさい。
「美幸ぃ」
恨みがましく上目遣いに見詰められて、造っていた表情をふっと崩す。
その時になって、窓のカーテンが閉ざされた侭である事に不意に気付き、
せっかくの天気なのだから開けた方が、と何気なく、掛けていた寝台の端
から腰を上げ掛けて。
「美幸…っ」
瞬間、大切なその人が、何処かへ去って行ってしまうかの様な、そんな
予感が夏実の中を駆け抜ける。
それが、先刻の夢の影響を少なからず受けている事を、はっきりと自覚
する前に、反射的に伸ばされた掌が、確りと美幸の腕を捕らえていて。
「…え?」
唐突に、ぐいと引かれた腕に驚いた美幸が、上体を起こしていた夏実の、
きつい造作をした明るいいろ色彩の瞳を覗き込む。
あっと思う間もなく視界が反転し、気が付けば、寝台に押し倒されてい
て、美幸は酷く思い詰めた表情で自分を見詰めている人に、戸惑いの声を
上げていた。
「夏実?」
「……っ」
けれど、それに対する応えは無く、代わりに抱き締める腕に力が篭る。
「…やだ」
どこにも行かないでよ、美幸。
御願いだから…。
鼓動を感じ取ろうとするかの様に、健康的な色彩に焼けた貌がきつく胸
に押し付けられる。
哀願するくぐもった声は酷く掠れていて、美幸は、夏実が何か酷く混乱
している事を悟っていた。
「行かないわよ、何処にも」
「…本当に?」
「私の居場所は貴女の隣だって、教えてくれたのは夏実じゃないの」
でしょう?と優しく耳元で囁かれ、一定のリズムで緩やかにその背を叩
かれて、やがて、夏実がおずおずと面を上げる。
その瞳は、脅えの色彩を色濃く孕んでいて、美幸はそれが、夏実を苦し
めていた先刻の夢に起因している事に気付いていた。
「ね、夏実?」
安心させるかの様な柔らかな笑みに、夏実の貌が、くしゃ、と歪む。
次の瞬間、美幸の淡い唇は夏実のそれに塞がれていて。
「んっ…」
「美幸…っ」
熱に火照った想い人の体温が、薄い布越しに染み透って来る。
彼女にしては珍しい、陽の高い内からのその希求に、けれど、美幸は逆
らう事は出来なかった。
縋り付く、がむしゃらなその腕に、普段には見られない、何処か切羽詰
まったものを感じ取る。
何が彼女を駆り立ているのか、それは理解りはしなかったが、今、彼女
を振り解いてはいけない気がした。
「夏実…」
動揺が齎す酷い震えの所為か、襟元を止める小さな釦を巧く外せず、焦
れて強引に飛ばしてしまいかねない夏実の指に、そっと掌を重ね合せる。
ほわりとした笑みを浮かべると、美幸は、ひとつ、ふたつと、シャツを
留める釦を外し、やがて、自らその身を引き開いていた。



あれから、どの位刻が経ったのか。
汗を含んだ気怠い空気が、室内をしっとりと包み込んでいる。
この空気を身近に感じるようになって、もう、どの位になるのだろう。
カーテンの隙間から漏れ出でる陽の光に眼を眇めながら、美幸は、マン
ションにしては高い位置にある天井を、ぼんやりとその瞳に映していた。
「美幸ぃ…」
未だ熱の冷めやらぬすんなりとした白い肩に、ゆるゆると頬を寄せた侭、
極々小さな声で夏実がそっと呼び掛ける。
「…謝ったら、許さないからね、夏実」
ゆるりと瞼を閉じ、まるで睦言でも囁くかの様な、優しげなトーンで続
く言葉を遮った美幸は、その唇を緩やかに華奢な造りの手で塞ぐと、艶や
かに微笑い掛けていた。
「でも…」
感情の侭、しかも、こんな昼の最中に、風邪を移す事を考えもせず、事
に至ってしまった事に、少なからず、罪悪感を持っているらしい。
彼女の激情を受け止められる人間は、自分以外には存在しないのだと、
改めて認識する事の出来た美幸にしてみれば、そんな事は、些細な問題で
しかなかったのだけれど。
「当人が構わないって言ってるんだから、夏実が気にする事、無いの」
息を吐くかのような、それは、酷く茫洋とした口調。
気怠さを多分に残した緩慢な仕種で、傍らに横たわっている人に、ゆう
るりと手を伸ばす。
彼女の口から、謝罪など、聞きたくなかった。
これは、自分も納得して、自分も希んで、自ら行っている行為なのだか
ら。
「美幸…」
耳元で囁かれている筈の声が、酷く遠い。
触れている部分から流れ込んで来る、想いを分かち合った人の温かな体
温と、もう馴染んで随分になるだろう居心地の良いベッド。
この侭、ふわふわとしたこの感覚に身を委ねられたら、どれだけ心地良
いだろうか。
けれど、美幸は理解っていた。
自分が今しなければならない事を。
つい今し方の激しい行為の疲れと相俟って、眠りの縁に引き込まれそう
になるのを、どうにかこうにかやり過ごす。
無理に眠気を抑えているが為、未だ痺れた様な状態の頭の中に比例して、
声のトーンはどこか、ふあん、と浮いている。
しかしながら、口に出された内容は、茫洋とした口調に合わぬ、酷く鋭
いものだった。
「…で」
そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?
貴女を捉えている、その何かを。
行為の初めにリボンを解(と)いて解(ほど)いてしまった、長い艶やかな黒髪を、弄んでいた悪戯な指がぴたりと止まる。
既に諦めの表情(かお)で、その明晰な頭脳の持ち主を見上げた夏実は、声には出さなかったものの、やっぱり来たか、と小さく口許に苦く笑みを浮かべ
ていた。
勿論、それが目的の行為であった筈もなかったが、自分ならば、行為の
激しさに取り紛れてすっかりと忘れてしまいそうなその疑問について、鋭
すぎるこの人は、矢張りというか、こんな状況下にあっても、誤魔化され
てくれはしなかったらしい。
ゆるりと閉じた瞼の下、触れている夏実の動きを感覚だけで追っていた
美幸が、気配を感じ取ったのか、未だ潤みを残した瞳を開く。
至近距離で見詰めてくる、無意識であろうその表情の余りの艶やかさに、
夏実の胸がとくりと大きく高鳴った。
「…別に、夢としては何の変哲もない、極々普通の夢、なんだけど」
「良いから、聞かせて」
柔らかな口調で、けれど譲ってくれそうもない美幸に、小さく一つ息を
吐く。
取り繕っている訳ではなく、本当に、何でもない夢だったのだ。
何故自分が、あそこ迄取り乱してしまったのか、自身でも良く理解らぬ
程に。
「…並走してる道があってね」
私と美幸が、夫々その道を走ってるの。
「それで…?」
「それだけ」
「それだけって…それが一体、どうかしたの?」
案の定、良く理解らない、といった様子で眉を顰めた美幸に、だから言
いたくなかったのよ、と少しばかり口篭もる。
自分でも理解できぬ感情を、他人に巧く伝える事は、例えどんなに弁が
立つ人間でも、中々に骨が折れる作業だ。
増して、夏実はどちらかといえば口下手な方で。
「だから、どうもしないんだってば」
唯、私達の道が、ずっと交わる事が無いのかもしれないんだって思った
ら、さ…。
そっと胸元に額を擦り付けると、ゆるゆると瞼を閉じて、伝わってくる
心臓の音に、耳を澄ます。
あの時走った衝動を、巧く言葉で説明する事なんか、出来やしない。
寂しかったのか、それとも、哀しかったのか。
どちらにしても、恐怖にも似たあの感覚が走り抜けたその瞬間、傍らの
温もりに手を伸ばさずにはいられなくて。
――――夏実…
未だその時の感情が、何処かに残っているのだろう。
珍しくも、何時迄も自分を放そうとはしない夏実に、悟られぬ様、ひっ
そりと苦笑すると、滑らかなその背にするりと腕を回す。
互いを行き来する体温が、少しずつ全身に広がって行くその感覚を、安
堵にも似た気持ちで感じながら、美幸は静かに唇を開いていた。
「…二つの道が交わらない事は、決して不幸な事じゃないわ」
「美幸…?」
戸惑いを隠さず、伏せられていた貌が、つられた様についと上がる。
何故、と訴え掛けて来る大きな瞳に、ほわりと笑い掛けてやりながら、
美幸は抱き締めるその腕に、きゅう、と力を込めていた。
「考えても見て」
ある一点で交わる線は、確かに交わる迄は近付き続けているのかもしれ
ないけど、でも、一瞬交わってしまったら、後は只管離れて行くだけでし
ょう?
でも、平行である限り、何時か終わりが来る時迄、二つの線はずっと並
んでいられるわ。
並んで走っている以上、声を掛ければ聞こえるし、手を伸ばせば届くか
もしれない。
だったらそれは、一本の道を二人で走っているのと、全く同じとは言わないまでも、そう変わらないんじゃないかしら。
「美幸…」
宥める様な、諭す様な。
淡々と紡がれたそれは、動揺等欠片も見られない、理路整然とした論理
だった。
それは、意外にも自説に頑固な夏実を、すとんと納得させられる程の。
「勿論、これは一つの考え方だけど…」
でも、覚えて置いて。
真実は、決して一つではないという事を。
自分で信じたものこそが、真実になるという事を。
…少なくとも、私はそう、思ってるわ。
「…ん」
ありがと、美幸…。
その侭、暫しの間、沈黙が室を満たす。
「…眠っちゃったの、夏実?」
「………」
一層に腕に込められた力が、問いへの無言の返答だった。
「…私、本当は、こんな事をしに来たんじゃなかったんだけど」
もう暫くの間は、巻き締めているその腕を解いてくれそうもない夏実の
様子に、小さく苦笑する。
永く祖父母に育てられた所為か、どちらかと言えば和食好みの夏実の為
に、実を言うと、葛湯を作る準備をしていたのだ。
嘗て、何かの折りに、病気の時に作って貰った葛湯が何よりも好きだっ
た、と言っていた事をふと思い出したので。
所謂、家庭の味、というものには適わなくとも、夏実が少しでも喜んで
くれれば、と。
「今は、いい。まだ…」
だから。
もう少しだけ、こうしていて。
「………」
判ったわ。
背に回された腕に力が篭ったのを感じながら、美幸は、薄い色彩の、汗
を含んで普段よりもしっとりとした髪を、ゆうるりとした仕種で梳いてや
る。
――――ありがと、美幸…
とろとろとした空気の中、時計だけが静かに時を刻んでいる。
「…夏実?」
やがて、身動ぎもしない夏実の胸元にある貌をそろそろと覗き込むと、
腕の中のその人は、何時の間にか、穏やかな寝息を立てていて。
確りと、しがみ付かれたこの状況では、起き上がる事は先ず不可能だ。
諦めて、自分も一眠りしてしまおう、と乱れていたケットの端に手を伸
ばす。
多少の苦労を伴いながらも、どうにか肩まで引き上げると、美幸はゆる
ゆると瞼を閉じていた。
窓外では、忍び寄る冬の影が少しずつちらつき始めていたが、太陽の恩
恵だけを享受しているこの部屋は、酷く暖くて。
本格的な冬の到来には、未だ、少しばかりの猶予があった。


END