●夜の無い町●
明かりがついているにも拘らず、やけに薄暗く見えるガレージの片隅か ら、穏やかな寝息が聞こえて来る。 一定のペースを保っている緩やかなそれに、口元に小さな笑みを浮かべ ると美幸は、作業着の侭壁に寄り掛かって眠っているその人物に、手にし ていた毛布をそっと広げ掛けていた。 「全く、此の娘ったら…」 幾ら疲れているとはいっても、こんな処で良く眠れるわね。 呆れた様な呟きの、その内容とは裏腹に、口調は酷く愛しげな響きを孕 んでいる。 もし、眠っているのが美幸の方だったならば、居住部分に自分達の為に 用意されている寝具に迄移動させる事は、恐らく、造作も無い事だっただ ろう。 だが、生憎、今、此の場にいる者は、足を悪くしている管野と美幸の二人 だけだ。 一度眠りについてしまった以上、数時間の睡眠を取らぬ内に、夏実を再 び覚醒させる事は不可能に近い。 寝起きの悪い彼女の事、何れ程の手間と時間を掛けさせてくれるか解ら ぬ上に、周囲には壊されては不味いものが沢山あるのだ。 毛布を確り掛けておけば一晩位は大丈夫だろうと、半ば自分を納得させ て、だから、美幸は、結局その侭そこで寝かしておく事にする。 勿論、自分もまたそれに付き合うつもりでいる事は、言う迄も無い事だっ たけれど。 「んー……」 椅子代わりの木箱の上に腰を下ろし、冷たく硬いコンクリートの壁に寄り 掛かっているその体勢では流石に寝心地が悪いのか、喉の奥で何やら小 さく唸りながら、夏実がころりと寝返りを打つ。 ずり落ちた毛布を再度肩迄引き上げてやりながら、美幸は此処に日参す るきっかけとなったあの日の光景を思い出していた。 『ほーんと、なっちゃあいないわね』 『そいつに触るなっ!!』 美幸の止める間も無くさっとバイクに跨がった夏実が、どんな人間をもた じろがせて来たのだろう管野の一喝を、此の場にそぐわぬ明るい表情で平 然と受け流し、まるで挑発するかの様に、更にアクセルをふかして見せて。 一体、彼女は何を言おうとしているのか。 力強い輝きを宿した瞳で、真っ直に自分を見詰めて来る夏実を、管野は 唖然とした様に見詰めていた。 『ねえ、おじいちゃん』 ごちゃごちゃ言ってないでさ。やろうよ、皆でさ。 最終コーナーからフィニッシュ迄。 ね?やろうよ! 面子、揃ってんじゃない!! 過去に縛られ、過去を振り返る事しか出来なかった管野にとって、それ は、思い付きもしなかった事に違いなかった。 呆然と夏実を見詰める彼に、ふっと口元に笑みを浮かべて見せる。 無言で事の成り行きを見守っていた大丸が、込みあげて来るものを堪え て鼻をすすり、そして、傍らに佇んでいた美幸はそれを気配で感じながら、 けれど夏実から視線を外す事が出来なかった。 恐らく、それは、前進する事を常に念頭に置いている、夏実だからこそ言 えた言葉なのだろう。 美幸が思い付けたのは、慰めとしか聞こえぬだろうちっぽけな言葉位で、 当然、それには、彼を再び未来に向かわせる事が出来るだけの力強さが ある筈も無く。 だが、夏実は。 過去を変える事は出来なくても、もう一度そこからスタートを切る事は可 能なのだと、そう教えてくれたのだ。 後ろを振り返っていては始まらない、前を見て歩き出せ、と。 「夏実……」 寝起きの良く無い夏実を、それでも、起こさぬ様に気遣いながらそっと小 さく呼び掛けてみる。 何度、そんな彼女に、自分は救われた事だろう。 そして、それは、恐らく管野も同様で。 慰め等、彼は必要としてはいなかった。 彼が必要としていたのは、再び未来を見据える為の、過去と現在を繋ぐ 架け橋。 『この娘ったら…』 あの時、極自然に口をついた、既に口癖の様になってしまっている言葉 は、けれど、何時もとは正反対の意味で。 「………」 未だ姿勢が定まらないのか、身動ぎを繰り返している夏実に小さく微笑 み掛けてから、すいと身軽に立ち上がる。 サーキットの使用日は週末だ。 眼前に迫ったその日迄に、やる事はまだまだ沢山ある。 夏実に合わせて設計し直してはいるものの、基本的には嘗ての仕様を堅 持しているそのバイクは、所謂、怪物マシンと称されるべきものだ。 パワーが大きくなればなる程、マシンは扱いにくくなるのが常識だが、美 幸の所持する夏実のデータを見た管野が、大丈夫だろうと判断した為で。 ――――走ろうね、一緒に… 声には出されぬひっそりとした囁きに、静かな呼吸だけが返される。 実際に走るのは夏実一人でも、そこに込められた想いは彼女一人のも のではない。 増して、管野の気持ちを鑑みれば、失敗は許される筈も無く。 「みゆ…き…」 小さく呟いて、再び夏実が寝返りを打つ。 誰よりも大好きで何よりも大切な人間の、穏やかな呼吸に楽しげに微笑 みながら、美幸はマシンの傍らに片膝を付くと、放り出された侭のレンチに そっと手を伸ばしていた。 最終コーナーからゴールに掛け込んで来ると同時に、管野の掌の中でス トップウォッチが刻んでいた時をかちりと止める。 バイクを止めてメットを脱ぎ、振り返った夏実が、まるで自分の叩き出した ラップタイムを知っているかの様に、ぱっと明るく微笑んで。 「夏実――――っ!!」 一瞬の間を置いて、先ず、美幸がコースに飛び出し、続いて中嶋が、瀬 奈が駆け出して行く。 「美幸…っ!」 真っ先に抱きついて来た美幸を、バイクに跨がった侭の不安定な体勢に も拘らず危なげなく抱き留め、とんとんと軽くその背を叩いてやっていた夏 実は、やがて追い付いて来た二人からも、手荒く労をねぎらわれていた。 「やった、やったな、辻本っ」 「夏実さんっ」 「痛いってば、もう」 力一杯肩を叩かれ、文句を言いながらも嬉しげに微笑む。 そして、賑やかな若者達をじっと見詰めていた管野は、つい先刻耳にした ばかりの美幸の言葉に思いを馳せていた。 『大丈夫。夏実なら、あのマシンを抑え切れるわ』 乗り手を信頼し切った美幸の瞳。 それは、あの頃の自分と大丸の間にあった、絶対的なそれと同様の。 『今日は私の相棒を連れて来たの。私のRZをチューンした』 今から考えれば、夏実の言葉は、実に的確に事実を表現していた様に思 う。 初めまして、と小さく頭を下げた美幸の、如何にも女の子らしい優しげな 容貌を見た瞬間は、その言葉に酷く違和感を覚えたものだが、今では、二 人の間に流れる空気の余りの自然さに、逆にそう考えてしまった事こそが おかしな事である様に思えて。 ――――信頼、か… 二人の間にあるのは、将にそれだ。 彼女達を見ていると、嘗ての自分達を思い出す。 二人でなら、どんな事でも出来ると思っていたあの頃。 自分の技量と相手の腕に、絶対的な信頼を寄せて。 それは永の間、自分はもう、疾うに失ってしまったものなのだと、思い込 んでいた。 『あんた、俺と一緒にやらんかね』 初めて大丸と出会ったのは、請け負ったバイクの最終調整に訪れた、東 京に程近いとある峠の休憩所。 初対面の、未だ名も知らぬ相手にそう言って、にやりと口端を上げて見 せたその人間は、自分よりは幾分若いだろう、サングラスをかけた壮年の がっしりとした身体付きの男で。 後に耳にした話に拠ると、全日本GPにおいても中々の成績を収めてい るレーサーであるとの事だったが、此の時の彼はそんな事は一言も口にせ ず。 唯、一言、ワークスを上回る走りをしたい、と。 初めは冗談だと思った。 それも当然だ。 唯一度、チューンしたマシンの音を聞いただけの、一介の町の修理屋を 相手に、本気でそんな事を言う人間が何処の世界にいるだろう。 けれど、マシンの調整の為に再びその場所を訪れたその時、再会したそ の人物は既に所属していたチームを離れていて。 勿論、彼はそんな素振りすら見せなかったけれど。 『捜したぞ』 走り屋連中に聞いても、皆、知らないと言うしな。 だが、諦めずに、遇えるのを待っていた甲斐はあった。 にやりと笑って見せた彼が、唖然としてしまっている管野の、その呆けた 様子を気にするでも無く、ずいと一歩前に出る。 『この間の返事を聞かせて貰えんかな』 力量の方は、先刻あんたに見せた通り。 ま、一度や二度断られた位じゃ、諦める気は更々無いが。 真っ直に視線を合わせて来るその人間の真摯な瞳が、彼がこの上なく本 気である事を告げている。 そして、その未来を見据える煌きに吸い込まれる様に、自分は、何時の 間にか、彼の手を取っていて。 「…ふん、なっちゃいねえな」 未だ興奮醒めやらぬ、瀬奈達のはしゃぐ明るい声を、此迄聞いた事の無 い程の温かな口調で言葉だけはきつく評すると、ふいと彼等に背中を向け る。 硬く握り締めていた拳をそっと広げてみると、体温ですっかり温かくなった ストップウォッチは、嘗て、求めて求めて、けれどついに届く事のなかったタ イムを、紛れも無く表示していた。 「………っ」 堪え切れず、零れ落ちてしまった涙が、はた、と小さな硝子の上に跳ねる。 続いて、一つ、二つと落ちた透明な滴が盤面に浮かぶ、デジタルの無機 質な文字をじんわりと滲ませて。 サーキットあそこにいるのは大丸ではない。 自分一人で組み上げたマシンである訳でもない。 けれど。 ――――もう、拘らなくて良いのだ 今、此の瞬間なら、素直にそう思う事が出来る。 勿論、永の間巣食っていた傷が、そう簡単に癒えた筈は無いけれど。 「おじーちゃーん!!」 肩越しに振り返れば、バイクを固定し、輪から抜け出した夏実が大きく手 を振っている。 太陽を思わせる、鮮やかな笑顔。 止まっていた時間が、再び、回り出すのが感じられる。 モノトーンだった世界に、鮮やかな色彩いろを添えながら。 「…なっちゃいねえな」 小さな呟きは、一体、誰に向けたものなのか。 硝子盤の上に滞っていた透明なものが、傾けた拍子に夕陽を受けてきら りと光る。 重力に従って、つっとそこを離れたそれは、コンクリートの地面に小さな 染みをひとつ造り、やがて、消えていった。 「それにしても、たった一回の走行で、良くあんなタイムを出せたわね」 全てのデータを入力し終えたコンピューターの内部から、フロッピーにデ ータを落とし込む籠った様な機械音が、途切れ途切れに響いて来る。 くるりと椅子ごと身体の向きを変えて、寝台の方へと視線を送ると、入浴 を済ませて冷たいビールを軽く呷り、上機嫌で美幸のベッドに大の字になっ ていた夏実が、半分落ち掛けていた瞼はその侭に、ほんの少しばかり貌を こちらに傾けて。 「別に…あのマシンでは初めてだけど、あそこのコース自体は、以前、何 度か走ってるから」 流石に疲れているのだろう。 酷く眠そうな声でぼんやりと応えると、再び天井に面を戻し、ゆるりと重い 瞼が閉じ掛ける。 けれど、彼女には珍しく、眠りの姫の手は取ろうとはせずに、その侭視線 をゆうるりと宙に彷徨わせて。 ――――夏実… らしからぬ、ぼうっとしたその様子に、小さく口元に笑みが浮かぶ。 けれど、美幸には良く理解っていた。 まるで何でも無い事の様な口調で言ってみせたそれが、如何に難しい事 であるのかを。 幾ら走った経験があるとはいっても、少なくとも自分と出会ってからそんな 話を聞いた事は無く、つまりは、かなりのブランクがある筈だ。 更に、天候や季節、時間帯、体調、そして何より駆るマシンに拠ってタイ ムは大きく変わって来る。 そんな不利な条件を全て吹き飛ばし、あれだけの走りを、通常ならば小 手調べの筈の第一周目でやって見せた夏実は、矢張り、並桁外れて優れ たセンスを持っているのだろう。 そして、だから、自分の役目は此処迄、とそれ以上は決してマシンに跨が ろうとはしなかった彼女に、理性の上では賛同しながらも、同時に、もう一 周させてみたいという、メカニックとしての気持ちも拭えなくて。 「美幸ぃ…」 入力したばかりのデータを前に、ぼんやりと考え込んでいた美幸の思考 が、か細い声に引き戻される。 そっと視線を巡らせて見れば、相変わらずの姿勢の侭ベッドにひっくり返 っている夏実が、矢張り、先刻と変わらぬ様子であらぬ何かを見詰めてい て。 「何?如何したの、夏実」 「…おじーちゃん、さ」 あれで少しは吹っ切ってくれたかな。 らしからぬ、自信無げなその声に、余計な事をまた自分はしてしまったの ではないかと、何時もの自縄自縛に陥り掛けているらしい事を察する。 実を言うと、良くある事なのだ、こういう事は。 案ずるより産むが易し、と言えば聞こえは良いが、要するに、即断実行、 猪突猛進、一度走り始めてしまえば、何かにぶつかって停止する迄、周囲 が全く見えなくなる夏実の性格は、巧く行っている時は兎も角、そうでない 時は、当人に意図とは裏腹に、面倒な事態を引き起こしがちだ。 この性格が起因となって、苦い思いをした事が幾度となくある所為か、何 かの折にふと立ち止まると、己の行動に自信が持てなくなるらしく、こうして 問い掛けて来る事が、此迄にも何度かあって。 「大丈夫よ」 夏実があれだけの走りをして見せたんだもの。 一つの夢を終らせて、そして、次の夢に繋げる事の出来るだけの、ね。 「ん……」 でしょう?と綺麗に微笑み掛けられて、曖昧に頷くその様子に、推測が確 信に変化する。 こういった時の夏実は、多少強引な手段を採ってでも、さっさと浮上させ てやった方が良い。 永い付き合いではないが、決して浅からぬ自分達の関係上、知り得た彼 女の性格では、普段やり慣れない所為もあってか、一旦考え込み出すと泥 沼に陥る可能性が高かったので。 「夏実、心配しなくても大丈夫よ」 管野さんも、本当は、ずっとああしたかったんだと思うの。 唯、そのきっかけが掴めなかっただけで。 でなければ、最初から、夏実の言葉に従ったりしないわよ。 「…かな……」 「そうよ」 何時も以上にきっぱりと言い切り、その肩にそっと手を伸ばす。 薄い布地を通して伝わる美幸の体温に安堵したのか、心地良さそうに眼 を細めると、その侭、夏実はゆるりと瞼を閉じてしまっていた。 気安さを多分に含んだその様子に、思わず笑みを誘われる。 ともすれば単なる励ましにしか聞こえぬ言葉は、けれど、ストレートな美幸 の想いだ。 誰も何も言いはしなかったが、それは、夕陽に照らされた管野の震える 両肩が、はっきりと物語っていて。 あの屈折した頑固な人間は、恐らく、一生、その本心を口にしたりはしな いだろうけれど。 『あんた…少し、彼奴を甘やかし過ぎだぞ』 まあ、あんた程の腕を持ったチューナーを専属に持ってりゃ、あれが無理 に手を出そうとしないのは、理解る気もするがね。 だが、マシンは乗り手と一体となるもんだ。 簡単なメンテ位は、自分でする様にさせなくちゃあいかん。 涙を見せてしまった事への照れ隠しだろう。 厳しい表情を無理に作って、尤もらしい説教をしてはみても、何時もの迫 力は何処にも無い。 あの時の管野の表情を思い出すと、自然、笑みが浮かんで来る。 自分達の、そして、大丸の想いが、きちんと伝わってくれた事が、酷く嬉し い。 例え何れ程ゆっくりだとしても、彼は再び、未来を見て歩く事が出来るだ ろうから。 ――――けれど… 思い描いて仕舞った未来の一つに、明るかった表情が不意に曇る。 同時に気付いて仕舞った己の現実。 何時か、自分達の間にも、端然と横たわるかも知れないのだ。 現在、彼が乗り越え様としている、将にその問題が。 ――――夏実… ふと上げた視線の先では、何時の間にか切り変わっていた、スクリーン セイバー上の可愛らしい車とバイクが、元気に画面の中を走り回っている。 頭の中では理解していた筈の事、だった。 夏実が美幸のチューンしたバイクに乗っている以上、そして、危険と隣合 わせのああいった仕事に就いている以上、常にそれらが自分達には酷く身 近な問題である事は。 けれど、いざ、目の当たりにしてしまうと、認識わかっていると思っていた それらが、真実の意味では理解っていなかった事に改めて気付かされて。 ――――………っ きゅう、ときつく瞼を閉じて、嫌な想像を降り切るかの様に、ふる、と一つ 首を振る。 何より大切な人の人生を、自分のチューンしたマシンが原因で、狂わせ てしまったとしたら、恐らく自分は、自身を決して許す事が出来ないに違い ない。 それは、ずっと傍らに在り続ける事を、心より願った人であるからこそ。 けれど、そこで立ち止まってしまう事は、取りも直さず、自分達の共に過 ごしてきた時間の全てを否定する事にも繋って…。 「………」 夏実の肩に触れた侭だった右の手に、そっと何かが触れるのを感じる。 何時の間にか、過ぎる程に力を入れてしまっていた事に気付き、慌てて 離そうとした美幸は、包み込んでくれていた酷く温かなそれが、夏実のもの である事を漸くの様に悟っていた。 「夏実…?」 「…駄目だよ、美幸……」 可能性は、可能性でしか…ないん…から…。 どうかしたの、と言い掛けて、眠りに落ち掛けている者特有の、ふあん、と した物言いに遮られる。 まるで朝霧にでも包まれているかの様に、白く霞掛かって見えるその瞳 は、酷く眠たげな様子でゆるりとした瞬きを繰り返していて。 芒洋と開かれた明るい色彩いろの大きな瞳が、そこに自分を映してはい ても、認識してくれてはいない事は傍目にも明らかだった。 恐らく、話している内容どころか、自分が会話をしているという事すら、夏 実自身、判然としていないに違いない。 過去の経験からすると、こういった状態に置ける記憶は、一切残っていな いのが彼女の常、だったので。 にも拘らず、こういった夢と現との境を彷徨っている間の夏実の言葉は、 大抵、酷く的確に美幸の胸を突いて来るのだ。 ポーカーフェイスを作り慣れた美幸さえもが、思わず、はっと息を呑んでし まう程に。 残念ながら、衝撃を与えた当の本人の方は全く記憶に留めてはいないが 為、その一瞬に走った衝動も、思考も、全ては美幸一人の胸に仕舞われ てしまうのだが。 「夏実…」 そして、それは、今此の瞬間も同様だった。 咄嗟に引っ込め掛けてしまった手をその侭に、動揺を押し隠し、そっと貌 を覗き込む。 けれど、伺う様な美幸の問い掛けへの返答は、酷く穏やかな寝息だった。 言いたい事を口の端に乗せた次の瞬間、眠りを司る姫君の誘いに今度 こそ逆らう事無く、すうっと夢の世界に引き込まれてしまったその人が、例 え何をし掛けても、最早、朝迄眼を醒ます事は無いだろう事は、恐らく、美 幸自身が一番良く分かっている事で。 ――――適わないわね、夏実には くすりと小さく苦笑すると、その眠りを妨げぬ様気遣いながら、何時の間 にか確りと握り締められていた夏実の指を解きに掛かる。 表面上は兎も角として、その深層では誰よりも美幸を理解してくれている のだ。 時に、それは、美幸以上に。 『ったく、美幸ってば、すーぐ最悪の事にばっか頭が行っちゃうんだもの』 いつかの夏実の言葉が胸に浮かぶ。 『それって美幸の悪い癖よ』 別に、考え込むな、とは言わないけどね。 でも、幾らシュミレートしてみても、いざその時になってみなけりゃ、自分 が如何行動するかなんて自身でも分からないものだし、あたしとしては、そ んな起こるかどーかも分からない将来さきの問題なんかより、もっと此の現 状についてでも考えた方が、余程建設的だと思うけど。 現在が無ければ、未来なんて、どーしたって存在し様が無いんだから。 先へ先へと考え過ぎて、身動きすら取れなくなっていた美幸にとって、大 雑把とも的確ともつかない夏実の言葉は、けれど、その時、酷く新鮮な響 きを以て届いたのだ。 可能性ばかりを考えていたら、何も出来なくなってしまう、と。 「ん……」 無理に外されるのを嫌がってか、喉の奥で何やら小さく呟くと、手首を握 る指の力に尚一層に力が籠る。 そう、あの時に、自分は学習した筈だ。 未だ起こってもいない事柄に対して、どれだれ深刻に考え込んでみても、 所詮は無駄である事を。 「本当、此の娘ったら…」 ひっそりと愛しげに呟くと、己と夏実の腕力の差に、囚われた侭の手を取 り返す事をあっさりと諦め、空いている方の手をすいと伸ばす。 乾いた音と共に、既にデータを収め終えたフロッピーを本体から抜き取る とその侭、ひとつ、ふたつと開いていたウィンドゥを閉じ、最後に本体そのも のの電源を落とす。 規則正しい静かな寝息のみが支配するその空間の中、やけに大きく響い たその音に、ひやりと首を竦めたものの、けれど、懸念の対象の当の人物 は、ほんの少しばかり身動いだだけで。 今や完全に夢の世界に囚われているだろう傍らにある人の薄い唇が、美 幸、と小さく音をなぞる。 声には出されぬその呟きにほわりと胸が温かくなり、極自然に、美幸は 酷く柔らかな笑みを浮かべていた。 それは、心の動きを表に出す事を苦手としている彼女が、常に、夏実の 意識の無い時にのみ見せる…。 ――――御休みなさい、夏実… 身体の下に敷き込んでしまっていた毛布はその侭に、自分も空いた空間 に滑り込むと、ベッドの下方に畳んであったケットだけを軽く引き寄せる。 やがて、ふつりと闇に沈んだ室内は、ほっそりとカーテンの隙間から差し 込む月明かりのみに照らされて。 二つの寝息が次第次第に重なりあい、その小さな空間は、いつしか、しっ とりとした夜の世界へと包み込まれていった。 END |