●夢見るように抱きしめて●

 聞いて、先ず、耳を疑った。
目的そのものは、警察官としては極当然の事だ。
即ち、逃走中の犯人を追跡し、その身柄を確保する事。
だが、今、捕物を一つやってのけ、未だ船上にいるにも拘らず、離れた場所で進んでいるカーチェイスに即座に加わろう等と、通常、考えられるものだろうか。
大抵のものなら、先ず、陸地に上がる方法を考え、そこからの距離の計算に入るだろう。
だが、二人は、唖然としている自分等見向きもせずに、要請に応じてここまでやって来てくれた海上保安庁の巡視船、「やしま」の幹部に渡りをつけると、瞬く間にヘリの出動をもぎ取って。
「新木場まで約20キロ。このヘリが最高速度の半分で飛んだとして、
およそ11分といった所ね」
頼み込んで同乗させてもらったTodayの中、美幸の説明に耳を傾けながらも、夏実から視線を放せない。
呆れたように溜息を吐いた美幸に、直ぐに本題へ戻るよう、促しはしたけれど。
だが、一体これから、どうしようというのだろうか。
これから数分後、巧く現場に急行できたとして、しかし、この侭の体勢では、それ以上の事は出来ないだろう。
とはいえ、何処か広い所を捜して一度停止し、切り離してもらってから発進・追跡したのでは、間に合わない事位、専門外の東海林にもはっきりと理解る。
一分一秒を争う現在、二人が何をしようと考えているかを悟れる程には、東海林は二人を理解出来てはいなかった。
「あっ、美幸、あそこ!」
下方を睨んでいた夏実が、やがて、見えて来たカーチェイスの現場に、鋭く反応する。
警察無線を聞きながら、ヘリに指示を与えていた美幸の表情が、俄かに厳しく引き締まった。
遠目だが、間違いない。
夏実に差し出された無線機に向かって、美幸は、そのカーチェイスの最中、広めに空いている車と車の間に降下するように依頼する。
高速で移動を続けるそんな危険な場所に、何の為に降りねばならないのかという、引き攣ったような抗議の声を有無を言わさず強引にねじ伏せると、不承不承ながら、犯人達の車を追う2台のパトカーの直ぐ後ろに、すいと降下しつけてくれる。
みるみる低くなる視界に、上空を飛んでいた時はそうでもないように感じていたこの飛行が、実際はかなりの速度で移動している事を実感する。
この後は一体どうするんだ、と半ば投げやりな調子で寄越して来た乗員の通信に、けれど、美幸は、更なる爆弾を投付けていた。
「もっと降下して下さい。地上1メートルで切り離して」
唖然としている東海林とは正反対に、助手席に座る夏実は平然としている。
「無茶言うな。60ノット、時速にして約120キロで飛んでるんだ
ぞ。しかもこんな処で切り離すなんて、気でも狂ったのか?」
当然と言えば当然の返答に、小さく舌打ちして、叩き付けるように夏実が無線を戻す。
だが、それは、当り前の事だろう。
こんな街中で、これだけ低くヘリが飛んでくれている事だけでも、充分に異常な事なのだ。
それを、広場を見付けて静かに下ろす所か、時速120キロのスピードを出した侭、公道の、然もカーチェイスをしているど真ん中で、フックを外せ等という無茶苦茶な要求に、応じると思う方がどうかしている。
けれど、その要求を突き付けた張本人達は、どうやってもこちらの要請を聞き入れて貰えそうにないと判断すると、それ以上時間を無駄にする事なく、即座に次の行動へと移っていた。
「美幸」
「ええ、お願い」
短い応答に、東海林が二人の意図を尋ねる間も読み取る間も無く、夏実がサイドウインドを引き降ろす。
その侭、すいと上半身、いや膝から上を全て窓から出した夏実は、振動の中、固定している金具へと、その手を差し伸ばしていた。
「夏実さん、一体何をするんですかっ!?」
「自分達で切り離すのよ!!」
「ええっ!?」
「美幸、準備OK」
「巡査長、シートベルトをして下さい」
「は、はいっ」
平然と返した夏実に、そんな無茶な、と言い掛けた東海林を、美幸の強い声が遮る。
無茶を無茶とも思わぬ様子で、その侭、互いのやるべき事へと戻ってしまった二人を、東海林は慌ててベルトを締めながらも、呆然としたように眺めていた。
今眼の前にいるこの二人は、自分が知っていた二人とは、まるで別人のようだった。
明るくて負けず嫌いで意地っ張りの猪突猛進型の夏実に、冷静沈着でどちらかといえば慎重派の、普段は寧ろおっとりしている美幸。
この二人が、何故、一癖も二癖もある墨東署のメンバーの中にあって、最大の名物コンビ、いや、上層部にとっては問題児コンビとして扱われているのか、此れ迄、どうしても理解できなかった。
だが、今なら理解る。
彼女達は、一見、全くの正反対でありながら、実は誰よりも近しい魂を持っているのだろう。
考えてみれば、自分は、夏実と二人で作戦をした事はあったものの、このコンビがこうして本来の仕事をしている所を、此れ迄間近で見た事はなかった様に思う。
自分が夏実と過ごしたよりも、長い時間を過ごしてきたのだろう二人を想って、ちくりと胸か痛んだ。
勿論、恋は過した時間の長さで決まる訳ではない。
だが、時にそれが大きな要因の一つとなる事も、東海林は知っていた。
現在の誰が見ても無謀なこの行動においても、間違いなく成功するという確信が、二人の間には流れている。
それは、互いへの絶対的な信頼から、生まれて来ているのだろうものだ。
更に全身を伸ばして、夏実が留め金に手を掛ける。
「止めろーっ!!」
上空で何やら叫んでいる、ヘリの乗員達の制止の声など、最早、何の力も持たなかった。
「ニトロ、オン!」
スイッチが入ると同時に、エンジンの唸りが大きくなる。
酷い振動の最中、左手で己の体を支え、残った右手で車体を支えるベルトを次第に緩ませていた夏実の体が、不意に大きく揺れた。
「……っ!」
四方を吊っているバンドの一つが緩められたが為、台座ごと車体が大きく傾いだのだ。
瞬間。
ハンドブレーキを下ろし、クラッチと入れ替わりにアクセルペタルを踏み込まれたTodayが、地上1メートルの高さをものともせずに、台座から飛び出した。
バランスを崩して、路上に投げ出されそうになった夏実が、慌てて車体にしがみ付く。
その呼称の通り、軽は軽い。
人一人分の重量で、充分に方向を左右される。
勢い良く宙へ飛び出した事と、重石となった夏実の所為で、見事にバランスを失ったTodayを、けれど、美幸が必死に立て直す。
――――夏実さん…っ
狭い車内の中、シートベルトに固定された不自由な身体を限界まで伸ばし、東海林は未だ半ば外にある夏実の腕を掴むと、地面に擦れるその寸前、漸くに車内へと引き戻していた。
勢い余って、前に乗り出していた東海林にぶつかる様にして、夏実が中に飛び込んでくる。
何やらわめく声と共に、ヘリの音が遠ざかっていって。
「一寸無茶だったかも」
「そんなぁ」
「なんちゃって」
狭い車内に勢い良く転がり込んだ為、美幸に凭れるような体勢になっていた夏実が、額に汗を滲ませた美幸の笑いを含んだ囁きに、情けない声を上げる。
けれど美幸は、そんな夏実の反応に、前方を見据えた侭、口許に不敵な笑みを浮かべてみせて。
彼女達のその会話に、東海林は悟っていた。
二人は決して、自分達が出来ないと判断した事を、行なっている訳ではないのだという事に。
他人が如何判断しようと、自分達には可能だと思ったからこそのその行動は、だから、彼女達にとっては、決して無謀でも何でもないのだ。
だがその範囲が少しばかり標準より広かったが為に、恐らく、無茶だの、やり過ぎだのという評価を受けているのだろう。
ひたと見詰めたその視線の先で、軋んだ音を立てて、前方の車が勢い良く左折する。
建物に突っ込んだその車は、ノンストップで入口を突き破ると、その侭内へと通じるドアを吹き飛ばしてポートへと飛び出して行った。
「…っ…」
躊躇っている暇も、回り道する時間もありはしない。
同様にタイヤを軋ませながら、先行する車を追って、建物の中へと踊り込む。
正に惨状としか言いようのないそこを、気に留める間も無く走り抜け、明るい外へと出た彼等が見たものは、今しも降りてこようとしている一機のヘリコプターだった。
「あのヘリに乗るつもりだわ」
ばらばらと耳を劈くような騒音と共に、降下してきたそれの扉が、未だ着地してもいない内からがらりと開く。
同時に、サングラスを掛けた男が、手にしていたマシンガンを連射し始めて。
「…っ!!」
右に左に。
弾を避けながら、頻りに犯人の妨害をしようとするが、この状況では流石にそれもままならない。
「うちの航空隊は?」
「皆出払ってるわ」
それはつまり、万が一にでも此処で犯人を取り押さえる事が出来なければ、逃げられる公算が高いと言う事だ。
ちっ、と舌打ちの音と共に、夏実が己のシートを後ろ一杯に押し倒す。
「一寸端に寄って」
「え?って、夏実さん?」
意図の掴めないでいる東海林に構い付ける様子もなく、強引に押し退けて後ろへと乗り移ると、ラゲッジルームへと首を突っ込み、モトコンポを固定しているゴムフックを取り外し始めた。
キイを回してパトライトごとカバーを開け、シートを引き上げる。
夏実が後ろに移った時点で意図を察して開かれていた後部扉を、東海林が持ち上げてやると、素早くハンドルを固定し、取り外してあったカバーを元に戻す。
それだけの作業を、ほんの数秒でやってのけた夏実は、狭い空間から無理矢理にラゲッジルームへと乗り移って。
視界の端では、車を止めた犯人達が、丁度外へと飛び出してくる所だった。
瞬間、モトコンポに跨った夏実もまた、疾走するTodayの中から、外へと飛び出して。
然して長くもない滞空時間に、畳まれていたステップを蹴り出し、キックペダルを踏むと同時に、スロットルグリップを力一杯手前へと回す。
正に神業と言って良いような夏実の技術に、けれど見惚れている余裕はない。
その間、Todayは一秒たりとも止っておらず、強引に方向転換した彼等は、再びヘリへと向かっていたので。
一方、彼等が抜けて来た建物からは、何処から調達したのか、二人乗り用のスクーターに跨り、後部シートに蟻塚警視正を乗せた中嶋が、飛び込んでくる。
「辻本――――っ、小早川――――っ!!」
真っ直ぐにヘリへと向かう中嶋とは逆に、飛び出した時のTodayの位置の所為で、大きく回り込む羽目に陥った夏実は、けれど、その瞬間、中嶋の意図を悟っていた。
何時ものGSX−Rなら兎も角、スクーター、然も後ろに蟻塚を乗せているその状況では、宙に浮いた侭のヘリに追い付き、止める事は難しい。
だが、モトコンポの、それも操っているのが夏実ならば、ワンクッションあれば、充分にそれが可能だと読んだのだろう。
今しも乗り込もうとしている男達の直手前で、ぐいとブレーキを掛けると、後部シートの蟻塚には一切構わず、大きく前輪を持ち上げて。
「貰った!」
警視正は頭を下げて!!
間に合うかどうかも判らぬ夏実の忠告は、矢張り間に合わなかったらしく、後部シートではなく、半分滑り落ち掛けていた警視正を踏み台にして、モトコンポが宙を舞う。
「――――――――っ」
全ては、一瞬だった。
上昇し掛けたヘリにしがみ付いていた男達は、思っても見なかった夏実の暴挙に、慌てて左右に避け、その侭宙に投げ出される。
乗り手の手を離れ、そのまま奥まで突っ込んだモトコンポの勢いに負けて、衝撃に弱いヘリはぐらりとバランスを崩した。
横倒しになったヘリが、フェンス目掛けて突っ込んでいく。
バイクから手を放したが為、宙に浮く形となった夏実の身体が、ヘリから外へと放り出されて。
「夏実――――っ!!」
悲鳴のような声で、大切な人を呼びながら、美幸がヘリを追ってTodayを走らせている。
そして。
東海林は。
――――夏実さん――――っ!
夢中だった。
危ない、と思った瞬間には、身体が勝手に動いていた。
手動でロックを開け、扉を開くと、弧を描いて落下してくる夏実目掛けて車体を蹴る。
意外に華奢な造りの身体が地面に叩き付けられるその寸前、全身で彼女を受け止めた東海林は、咄嗟に確り懐へと抱き込む。
その侭夏実の代わりに地面に叩き付けられた東海林は、勢いのままに下生えの上を数メートルも転がっていた。
「夏実―――――っ!!」
Todayを止めて飛び出してきたらしい美幸の声は、けれど、耳を素通りしていく。
荒く息を吐く二人は、暫しの間、身動ぐ事すら出来なかった。
安堵も何もない。
頭の中が真白で、何を考える余裕もなかった。
唯、全身の震えが止らなくて。
残る犯人を捕らえる為、横転したまま白い腹を見せているヘリに向かって、追い付いて来たらしい警官達が駆け寄っていく。
やがて。
烈しい動悸が漸くに治まった頃、そろそろと腕を解くと、緩慢な動作で身を起こし、ほんの少しばかり見詰め合って。
「…ありがと、助けてくれて」
「いえ…無事で、良かったっす」
綺麗に微笑み掛けられて、かっと頬が熱くなる。
けれどその時、言葉を捜してしどろもどろになりかけていた東海林を、まるで助けるかのようなタイミングで、芝を踏む軽い足音が近付いてきて。
首を巡らせてみれば、落ち着くまで待ってくれていたのだろう美幸が、酷く優しい笑みを浮かべて傍らに佇んでいた。
自分と同じ感情を抱いている筈の、彼女のその包み込むような温かな眼差しに、戸惑いを覚えずにはいられない。
けれど、夏実はまるで頓着した様子を見せずに、すっくとその場に立ち上がって。
「美幸」
「怪我はない?二人とも」
「まーかせて」
この通り、ぴんぴんしてるわよ。
「そう。良かった」
ガッツポーズを作ってみせている夏実に、ふわりと美幸が笑みを造る。
その様子を見詰めながら、立ち上がった東海林は、ぱたぱたとそこ此処に付いた芝を叩き落としていた。
酷く、不思議に思った。
夏実も美幸も、それぞれにとんでもない無茶を立続けに行ない、東京じゅうを騒がせた犯人達を逮捕に持ち込んだというのにも拘らず、それがまるで嘘であるかのように、落ち着き払っている事が。
ふと思った。
この二人はきっと、出会ってからずっと、こういった時間を過して来たに違いないと。
犯罪の大小には一切関係なく、常に持てる力を一杯に尽くして。
「そろそろ行くわよ」
まだ、最後の大仕事が残っているわ。
「そうね」
美幸の言葉に、夏実の表情が再び厳しさを取り戻す。
小さく頷き合うと、三人は既に次の指示へと掛っている木下の元へと、急ぎ、走り出していた。



夜を徹した大騒ぎも、ひとりふたりと沈没するに連れ、漸くに終りが見えてきた。
驚かせてやりたいと、帰宅しようとする夏実と美幸を何だかんだと足止めし、大急ぎで二人のマンションへと向かった頼子達の計画は見事に当たり、歓迎会と言う名の宴会はかなりの盛り上がりを見せて。
結局、最後迄起きていられたのは、それなりにペース配分していた美幸と、枠といって差支えない程度にはアルコールに強い、東海林の二人だけだった。
眠ってしまった連中に、夫々ケットを掛けてやり、二人は、隅に寄せられていたソファーへと場を移すと、酔い覚ましを兼ねてゆったりと御茶を啜っていた。
「改めて、お帰りなさい、巡査長」
それから、今日は有り難うございました。
寝息だけに満たされた、不快ではない沈黙を破り、改まった口調で美幸が礼を言う。
マグカップを包み込んだ美幸の両の手が、ゆるりと膝の上からテーブルの上へと戻された。
「え?一体、何の…」
言い掛けて、ふと、思い当たる。
彼女の謝礼の対象は、彼女自身に関してではなく、夏実を助けた事にあるのだという事に。
「別に俺は…」
ただ、夏実さんに、怪我させたくなかっただけっす。
礼を言われるような事じゃ…。
「理解ってます。でも、私は、それでも御礼を言いたかったんです」
口許に柔らかな笑みを浮かべてみせた美幸の気持ちが、素直に伝わってくる。
その笑みに誘われて、東海林は、つと抱いていた疑問をぶつけてみたくなっていた。
即ち、彼女に対して、東海林が常に抱き続けて来た問いを。
「正直言って、俺は美幸さんには余り歓迎されないかもしれないと思
ってました」
「……」
性別についての問題はさて置くとすれば、東海林と美幸は所謂恋敵の関係にある。
昼間のチェイス中において、二人の繋がりを眼の当りにした東海林は、少なくとも自分が、夏実にとっての美幸のような存在には、決してなれない事を実感していた。
それは、図らずも、美幸を想う中嶋が、夏実に対して抱いた気持ちと同様のもので。
「東海林さんと知り合ってからの夏実は…」
沈黙していた美幸が、不意に唇を開く。
階級ではなく、敢えて名字を呼ぶ事で始まったその言葉は、酷く大切なものだと直感して、東海林は真剣な面持ちで耳を傾けた。
「私と一緒にいる間には、見せた事のなかった表情を見せるようにな
りました」
嘘みたいに聞こえるかもしれませんが、それが私は悔しいと同時にとても嬉しいんです。
囁きのような静かな声が、胸に染み透っていく。
だが、その気持ちは東海林にも良く理解った。
彼もまた、独占欲とは裏腹に、美幸と一緒にいる時の、生き生きとした夏実を見る事が好きだったから。
ふと顔を上げれば、何時の間にか、揺れる水面を見詰めていた筈の美幸の瞳が、真っ直ぐに東海林を見詰めていた。
「奇麗事は言いません」
私だって人間ですから、独占欲もありますし、正直言って、悔しくて哀しくて嫉妬した事もあります。
でもそれでも、貴方達が一緒にいる事を、嬉しく思っているのも事実なんです。
見詰めてくる澄んだ瞳に、嘘はなかった。
少なくとも美幸が本気でそう言っているのだろう事は、容易に想像がつく。
彼女は、既に受け入れているのだ。
東海林と夏実の関係を。
その上で彼女自身と夏実の関係を、成り立たせようとしている。
そして、東海林にも理解っていた。
自分もまた、その美幸の選択に、異議を申し立てるつもりが全くない事に。
「…理解ります」
俺だって、同じっす。
…多分、俺の一番好きな夏実さんは、美幸さんといる時の夏実さんですから。
恐らくそれが、此れ迄自身でも良く理解っていなかった、東海林の真実。
それを自分が与えられないと言う事実は、酷く悔しくもあったけれど。
「厄介ですね、御互いに」
「それだけのものが、あるんすよ。あの人には」
「どちらかと言えば、奇特なんだと思いますけど。私達の方が」
軽く肩を竦めてみせた美幸に、東海林が苦笑してみせる。
二人、自然に沈没している人の群れに視線を向け、同じ処に眼を留めた。
互いに誰を見詰めているのかに気付いて、思わず顔を見合わせて笑いあって。
此れ程迄に深く、二人もの人間の想いが寄せられているとは、当の本人は恐らく判っていないに違いない。
何時の間にか、隣りで眠っていた中嶋のケットを奪い、丸くなってしまっている夏実に、自然、笑みを誘われる。
何時迄かは判らない。
だが、少なくとも自分が夏実との、若しくは夏実が自分との関わりを断つまでは、この関係は続くのだろう。
それは、美幸の言葉通り非常に厄介で、けれど、決して不快には思っていない自分がいる。
自室に戻って眠ると言う美幸に、御休みなさいと手を振って。
ぐいとカップの中身を飲み干すと、自分もまた雑魚寝をしている皆の仲間となる為に、ゆっくりと立ち上がる。
闇に沈んだ室内の、カウンターに並べられた二つのカップだけが、二人のひっそりとした会話の証だった。

END