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Scene18
さくり、と草を踏む音がする。 近付いてきている人の気配が誰のものかは判っていた。 カトル以外、現在この地に住む人間は、ただ一人しかいない。 そして、ゆっくりと時間を掛けて、カトルが座り込んでいるすぐ後ろ迄やって来た人間は、その確信通りの酷く優しげな声で話し掛けて来た。 「また、此処に居たのか」 そろそろ空気が冷えてきた。 それに、そんな薄着で…風邪を引くぞ。 カーディガンで背中からくるみ込まれて、ふわりと微笑む。 長い潜伏生活の所為で、すっかり壊してしまっていた身体を直す為に、トロワがカトルを連れて来たのは、人の住まない無人のコロニー。 開発途中で連合の圧政が厳しくなり、戦争が終った今も建設に着手できるだけの予算もない事から、長く放り出される侭になっているそこには、現在ではただ草原だけが広がっている。 時折、食料等を届けてくれる、デュオ達が顔を見せる他は、何もない、淡々とした穏やかな日が続いていた。 此れ迄、常に何かを気にし続けねばならない生活を、ずっと強いられて来たカトルにとって、それは生まれて初めての心休まる生活だった。 「カトル…?」 傍らに膝をついたトロワの肩に、甘え掛るように、額を摺り寄せる。 珍しいカトルの仕種に、僅かに眉を動かしたトロワは、けれど、何も言わずにその背に腕を回しただけだった。 「トロワ、聞いてくれる?」 「ああ…」 耳元で囁いた言葉に応えてくれる、柔らかなバリトン中低音が心地良い。 あの戦争の間、そして、今回の騒動の間、ずっとこの存在が傍にあった。 振り返れば手の届く、そんな優しい位置に。 そしてくれた、甘い告白。 けれどだからこそ、彼には真実を知らせておかねばならないのだ。 例えそれが原因で、トロワが自分から離れて行ってしまったとしても。 伝わってくる温もりに瞼を閉じながら、呼吸を整え、そして、その決意を伝える為に身体を離して視線を合わせる。 至近距離にある新緑色の瞳は、何もかもを見透かすように澄みきっていて。 「僕は、あの人が大好きで…そして、同時にとても嫌いだった」 ゆっくりと静かに語り始めたのは、此れ迄、どんな人間にも告げた事のない、十六年間カトルが胸に仕舞い込み続けていた心だった。 『あの人』という表現が誰を指し示しているのか、理解したのだろう。 急かそうともせず、黙って聞いてくれているその物静かな態度が、酷くカトルを落ち着かせる。 正式な跡取りとみなされてはいたものの、その一生の間、ベッドから出る事の殆どなかった唯一人の兄。 けれど、カトルにとって、彼は自分にはなる事の出来なかった、もう一人の己自身でもあった。 若しかしたら、あそこにいたのは、自分だったかもしれない。 彼さえいなければ、いや、双子でさえなければ、自分はこんな思いをしなくて済んだかもしれないのに、と。 跡取りとして扱って欲しかった訳では決してない。 ただ、一人の人間として扱ってもらいたかっただけだ。 けれど、そういった思いを彼は全て知っていて、その上でカトルを愛していたのだろう。 だからこそ、オペレーションメテオの当日、身代わりとしての役目を放棄して地球へと降りたカトルの為に、命を削ってパーティへと出席したのだ。 カトルに自由を与える為に。 「ずるいよね…」 静かな口調で語り続けたカトルの声が、この時になって初めて掠れる。 「あの人は、僕に何も言わせない侭、逝ってしまった」 彼の所為ではない事を知っていて、それでも彼を恨まざるを得なかった、僕の気持ちも総て承知した上で、貸しだけを作って手の届かない所へ行ってしまったんだ。 まるで、それ以上言わせまいとするかのように、トロワが再びカトルを引き寄せる。 けれど、その腕に縋りながら、それでもカトルは言葉を紡ぐのを止めようとはしなかった。 「でも、本当にずるいのは僕の方だ」 あの人の気持ちを知った上で、それでも僕は、あの家に戻ろうとはしなかったんだから…っ。 「もう、いい。それ以上は言うな」 それ以上は、自分を傷付けるだけだ…。 静かな声に柔らかく遮られ、堅い指がその唇をそっと塞ぐ。 昂ったカトルの精神を、落ち着かせようとでもいうのだろうか。 包み込む腕に、一層、力が篭って。 ――――トロワ…? 「カトル」 やがて、撓るほどに強く巻き締めていた腕がそろそろと緩む。 頤に手を掛けられ、ゆるりと上向かされて、その侭降りて来た唇に己のそれを塞がれたカトルは、戸惑いに、大きく目を見開いていた。 そんな莫迦な。 こんな事がありえる訳はない。 だって、自分は…。 「そんなに驚くな。前にも言っただろう?」 俺は御前が好きなのだと。 信じられないと瞬きを繰返すカトルに、滅多に表情の変わらぬトロワの瞳がほんの少し細められる。 「君は、こんな僕でも、未だ…」 震える声に、もう一度今度は深く、唇が重ねられる。 幾度も繰返し、やがてカトルの身体から完全に力が抜けた頃、名残惜しげにその身を離して。 「何度でも言おう」 御前が好きだ。 愛している。 空っぽの俺の心を、温かい気持ちで満たしてくれたのは御前だけだ。 耳元で囁かれる言葉が、じわじわと胸に広がっていく。 こんな人がいて、本当に良いのだろうか? 何もかもを肯定し、受け入れてくれるその存在。 自身ですらも何者であるか判断できず、長い間、闇を彷徨い続けていた。 そして、その悪夢の中で、出口を指し示してくれたのは、以前にも自分を闇から引き上げてくれた、この人で。 「僕も、だよ…」 潤んだ瞳をそれでも確りと見開いて、吐息のように囁くと、その唇に掠めるような口付けを贈る。 それは、カトルが自ら行なった、初めての接吻。 その生い立ち故、人に触れる事さえ、快く思う事のなかったカトルからの。 「僕は、君に出会って初めて、人に触れたい、触れられたいって気持ちが理解できたよ」 その侭、表情を隠すように、温かな胸に貌を伏せる。 助けられてばかりの自分が、トロワが主張しているように、逆に彼を救ったとは、到底思えはしなかったけれど。 とくとくと脈打つ鼓動が、薄い布地を通して伝わってくる事が、酷く嬉しくて。 漸く得る事の出来た、自分の為だけに生きられる生。 これまで、唯それを得る事のみに必死で、その後の事等何一つ考えてもみなかったけれど。 ――――この人と共に生きていきたい… 今この時、カトルは心よりそう思った。
暮れて行く人工の空の下、一つになった人影は、やがて離れると、彼方にみゆる小さな家へと、ゆるゆると歩き出していた。
END
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