OLD NUMBER
「・・そなたの母のことを聞いても良いか・・」
隣で眠っているはずのジュリアスのふと呟くように言った言葉に、クラヴィスはさっきまでの体の熱が、急に冷えていくのを感じた。
「・・いきなり・・どうしたというのだ・・」
クラヴィスは苦笑いを浮かべながら、顔をジュリアスの方に向けて頬杖をついた。小さく明かりの灯された闇の邸、主の寝室、天蓋の中。胸の鼓動が聞こえるほどにふたりの距離は近い。
「・・大意はないのだ・・ただ・・」
ジュリアスもまたクラヴィスの方に蒼い瞳を向けながら、「・・それは、どんな思い出なのだろうと思って・・」と、続けた。ジュリアスがこれほどクラヴィスに躊躇しつつ何か聞くと言うことは珍しい。
「・・話すような思い出もこれと言ってないのだが・・」
クラヴィスは片手でシーツの上に波打つ金の髪を指ですくってそう言う。ジュリアスは、「そうか」と独り言のように呟いて、クラヴィスに背を向けた。一瞬見せた蒼い瞳が、寂しげに翳ったのをクラヴィスは見逃さない。
――――そうやって、おまえはまた諦めるのか。
クラヴィスは上掛けの陰から覗く、男にしては華奢なジュリアスの肩に息をついた。
――――ジュリアスのこんな姿、あの瞳に弱い、幼い頃からずっとそうだった。
何もかも心の中にしまい込んで、自ら鍵をかけるその瞬間を、クラヴィスはもう何度も目にしてきた。それは優しさだったり、我儘であったりしたのだけれど。
聞きたいことも言いたかった言葉もたくさんあったはずなのに、そのたび呑みこんだ言葉。おそらく、ジュリアスは幼い頃から無意識のうちに自分を抑える術(すべ)を身に付けていた。
――――どうしても、聞きたいのであろう?聞かねばならないのだろう?
クラヴィスは、聖地へ来てすぐの頃を思い出していた。突然、日常から引き離されて連れて来られ、母を思い、泣いてばかりだった日々。ある日、ジュリアスの言ったひとことが今も忘れられずにいる。『そんなに・・下界は楽しかったのか・・』と。あの日から、クラヴィスは下界でのことを思い、愁うのをやめた。幼心にも、自分よりもジュリアスの方が悲しく寂しい思いをしてきたのだと気づいてしまったから。
聖地に来る前の話をジュリアスがクラヴィスに聞くのは初めてだった。ジュリアスの生家が主星の大貴族で、ジュリアスは、守護聖になるべく育てられたということは、ずっと後になって噂で聞いた。そのことに、クラヴィスは一度も触れなかったし、ジュリアスもそれを口にしたことはない。無論、クラヴィスの出自をジュリアスが訊ねることもなかった。
ふたりは、生まれてから聖地で過ごしたことの方が遥かに長すぎて、誰よりもふたりでいる時間の方が長かったから、それが生きてきた大半を占めてしまった今、親よりも兄弟よりも、もっと深いもので繋がっているとふたりは信じている。しかし、だからといって、自分の出生に疑問を持たない日があるわけでもない。「私は愛されて、望まれて生まれたのか・・」とりわけ、クラヴィスよりも早い時期に聖地に召還されたジュリアスは、時折そんな思いに駆られることがある。彼はそれを口にしたことはなかったが、時折、守護聖間の会話にあがる親兄弟の話に微笑む彼の姿が、自分では気づかないうちに、哀しげになるのをクラヴィスは知っていた。
――――遠い昔に失いし物を、探してみるか?ジュリアス・・
クラヴィスは、ジュリアスを背中から抱きしめると、もう遥か昔に封印していた思いを、手繰り寄せるように話始めた。
「・・母は、優しい人だった・・と思う。すまぬ・・私ももう記憶が定かではないのだ・・」
クラヴィスの頬を柔らかな金色の髪がくすぐる、彼の本質の屈託のなさに良く似合っているオレンジの花の香りに、思わず瞳を細めた。
「黒髪の美しい人だった・・瞳の色は・・髪と同じ色だった。そういえば、手を引かれて祭りを観に行ったことを覚えている。」
「祭り?」
ジュリアスが思わず振り向く。クラヴィスは、笑みを浮かべながら、続ける。
「ああ、どこの星だったか・・町中に花びらを撒いて・・今思えば、女王への感謝と五穀豊穣の祭りだったかも知れぬ・・聖地へ来て神鳥の像を見た時、初めてではない気がしたのだ。あれは、たしか、あの祭りの折に見たものだ・・」
ジュリアスは、興味深そうに頷いた。
「・・まあ、下界の思い出がないのはおまえとそう変わりはせぬ・・」
クラヴィスの全てを赦し、すべてを包み込むようなその微笑は、ジュリアスのどこか頼りない心を見透かしているような気がして、ジュリアスは、ふいに自分がとても良くないことをしてしまったかのような気になる。
「・・そうだったな、つらいことを思い出させた・・すまない・・」
真摯に謝って、瞳を閉じるジュリアスをクラヴィスは見つめながら、眉を寄せた。
何故に、神はジュリアスを誰よりも美しく、誰よりも心清らかに造りながら、誰よりも苛酷で哀しい運命の手に抱かせたのだろう。
年端もいかぬ子供を母親の手から引き剥がされたのは私も同じことだけれど、母のぬくもりは心の奥底に埋めた記憶、おそらくジュリアスにはそれさえもない。記憶に残らぬほどの幼い日、愛されたことが彼にはあるのだろうか?
―――寂しさも悲しさも・・それは私の比ではないか。
クラヴィスが、抱く手を強めたのを感じたジュリアスは、呟くように言った。
「・・最近、ふと折について思い出す曲がある。微かにしか思いだせないのが口惜しい・・」
「・・どんな曲だ?」
「そなたに言っても始まらぬ。」
ジュリアスは、クラヴィスの手に自分の手を重ねて、小さく笑う。
「・・それならリュミエールかオリヴィエ辺りにでも聞くがいい・・」
ジュリアスの首筋に唇を添わせながら、少し拗ねたような口調で、クラヴィスは言う。
「・・そうだな、リュミエールならあるいは・・」
その言葉にクラヴィスは唇を離す。自分の心の奥に、小さく灯った嫉妬の炎にまるで気づいていないようなジュリアスの意識は、すでにリュミエールへ飛んでいるかのように見え、蒼い瞳はこれほどに傍にいるクラヴィスを映さない。
――――こんな夜に私の腕の中で、おまえは他のことを思い、他の男の名前を口にする・・
そんな自分の昏い思いを自嘲的な笑みで打ち消しながら、クラヴィスはぽつりと呟く。
「・・私も口惜しいな・・おまえの役に立てぬ・・」
その言葉にジュリアスは、驚いたように蒼い瞳を見開いて、次の瞬間、楽しそうに瞳を細めた。
「・・馬鹿だな・・そなたは・・」
クラヴィスの頬を両手で包み、ジュリアスはその冷たくなった唇に自分の柔らかな唇を重ねた。
それから、何日か経ったある日、クラヴィスは、ふと思い出したようにリュミエールに言った。
「・・ジュリアスは・・お前の所へ・・行ったか?」
クラヴィスの瞳が、柔らかな光を帯びて紡がれるたった一人の名前に、リュミエールもまた瞳に優しい色を湛えて、答える。
「ええ・・昨日・・」
「曲は分ったのか・・」
「はい、辺境の惑星の古い三拍子の舞踊曲でした。優雅で美しい曲です。」
そう言って、リュミエールはその旋律を口ずさんでみせた。ひと通り、聴き終わったクラヴィスは、「良い曲だな」と呟いてから、彼には珍しく真摯な表情をリュミエールに向けた。
「リュミエール、頼みがあるのだが・・。」
その日は、聖地から遠くはなれた水の惑星帯で祝われるクリスマスの夜。
「・・これは・・?」
クラヴィスから手渡された美しい花細工のオルゴールに、ジュリアスは驚いた顔を見せた。クラヴィスは、小さな笑みを浮かべたまま、ジュリアスの手の中にあるその蓋を開けた。
瞬間、部屋の中に流れる優しい旋律、懐かしくてどこか切ない曲。そして、ずっと探していたひとの姿。白いピアノを弾く金色の髪の女性は、自分に似ているけれど、もっとずっと優しい蒼い瞳の美しい横顔、隣に寄り添う金色の髪の子供。
『・・ジュリアス・・ずっと、愛してるわ・・』
ずっと欲しかったぬくもり、たしかに覚えている、抱き締められたことも・・
目の前に浮かぶ場面に、ジュリアスの頬を涙がひとすじ落ちた。
「・・クラヴィス・・?」
「・・クリスマスの夜は、奇跡がおこるというからな・・」
クラヴィスは、優しくそう言った。
「・・私を・・甘やかすな・・」
そうクラヴィスに微笑んだジュリアスは、小さく笑うクラヴィスの頬に、まるで子供がするような口づけをした。