第2章 エゴイスト
――5年前
こんな夜はあの頃のあなたの優しさが
泣きたくなるくらい愛しい
「・・リアス。」
自分を呼ぶ声に、ふと我に返って顔を上げたジュリアスを見下ろすのは、紫の、どこまでも吸い込まれてしまいそうな瞳。
「後ろに立って気づかぬとはおまえらしくない・・」
クラヴィスは、そう言ってジュリアスの背中から彼を抱きすくめた。
「クラヴィス!!」
「気づかないおまえが悪い・・」
クラヴィスの言葉に、ジュリアスは小さく息をついて、諦めたようにそうだなと小さく笑った。
クラヴィスは、気づいているのだろうか。幼い頃から、近くにいればすぐにわかった、名前を呼ばれる前にいつも振り向いていた、誰のものでもない、優しくてどこか懐かしい闇のサクリア。いつからか、それは近くにあるのがあたりまえになって、最近では、気にしなければクラヴィスが傍に立っても気づかないほどにクラヴィスの存在は自分と近いものになったと、クラヴィスは、分かっているのだろうか。貴族の家で生まれ、父母とさえも距離をおかれた自分にとって、初めて心から許せる寄り添うことのできる存在が、彼なのだと。
出会ってから何度も傷つけて、そのたび自分も傷ついたけれど、私達はやっとここまで来たのだと、ジュリアスは回された手のひらにそっと自分の手を重ねた。
「・・今夜は来るのだろう?」
クラヴィスが耳元で囁くように言った。週末ごとに交わされる約束、とりとめのない話をして、酒を飲む、闇の帳の中でどちらからともなく重ねる唇、囁かれる愛の言葉と何度も呼ばれる名前。何時間後かには、訪れるであろうその幸せな時間をジュリアスは思い描いた。
答えを待つ紫の瞳に、ジュリアスは、高鳴る胸の鼓動を押さえるように言った。
「そなたの書類の整理が今日中に済めばだ。」
ジュリアスは机上に置かれた書類を指差した。
クラヴィスは肩をすくめて、そう言われるとやらねばなるまいなどと言って、書類を手にとると、部屋の中央に置かれたソファへ腰を降ろした。端正な横顔が真剣なまなざしに変わっていくのをジュリアスは呆れたように見つめる。
「まったく・・やる気さえおこせば、そのようにできるというのに・・」
ジュリアスの蒼い瞳が言葉とは裏腹にそっと細められた。
コン、コン・・ノックの音に、途端にジュリアスの顔は、首座のそれに変わる。入っていいという声に、静かに入ってきたのは、王立研究院の主任研究員。
「ジュリアス様、研究院のデータにこのようなものが・・」
彼の差し出した書類に、ジュリアスは一瞬眉をひそめ、ちらりとソファのクラヴィスを見た。彼は何も聞こえない風で、書類に目を落としている。
ジュリアスは、研究員に目配せをしてから、小声で問う。
「これは、いつのことか?」
「先程からです。機器の故障ではないかと思ったのですが、そうではないようなので。」
「他の者には・・」
「まだ、どなたにも。」
「そうか、この件に携わった者は?」
「私を含めて3人です。」
研究員の言葉にジュリアスは小さく頷くと、彼には似つかわしくないほどの小声で、けれど厳しさを含んだ声で言った。
「くれぐれも他言無用だ。指示があるまで戻っててよい。」
その研究員は、深々と礼をして、重い扉を開けて出て行く。その扉が確実に閉まるのを見送った後、ジュリアスはその白い手に残された書類に目をやった。
辺境の惑星帯、その惑星のひとつが軌道を外れて、同じ惑星帯のある星に衝突する可能性があるという。手段はひとつ、軌道から外れた惑星を消滅させればいい。そう、もう何度もしたケースだ、人命さえ守れればいい、簡単なことだった――その惑星が、クラヴィスの生まれた星でなければ。
自分の指が白くなるほど握り締められていくのをジュリアスは気づいていない。
「どうした?何かあったのか?」
傍から顔を覗き込んできたクラヴィスと瞳のあったジュリアスは、いや、と首を振ってから手にした書類をぱたりと閉じた。
「・・そうか」
自分でも分かるほど震える指先、高鳴る鼓動。クラヴィスの視線が自分の指に絡むのを感じたジュリアスは、そっとその手を隠すと、すっと立ち上がった。
「・・クラヴィス、すまない。今夜は無理だ。」
ジュリアスの言葉に、クラヴィスの瞳の色が翳る。でもそれはほんの一瞬のことで、紫の瞳はまた柔らかな色を湛えて、ジュリアスを見つめた。
「・・そうか、それなら仕方あるまい。」
あっさりと承諾してくれたクラヴィスの言葉に、ジュリアスは一瞬、ほっとした。ここで、何故かとクラヴィスに問われたら、返す理由をこの時のジュリアスは見つけることができなかったから。けれど、その一瞬を逃さなかったクラヴィスの手は、ジュリアスの握り締めていた書類をすばやく抜き取った。
「よせ、クラヴィス!」
ジュリアスが手を伸ばしたのをクラヴィスは身を引いてから、書類を開く。頁のめくられていくその音にジュリアスは、きつく唇を噛んだ。
「・・また宇宙の気まぐれか・・」
クラヴィスは眉をよせて、呟くように言った。
もう誰にも止められない宇宙の崩壊の流れの中で、幾つもの星が消えていく。それは自然に消滅するものもあれば、自らの手で葬ったものもある。それが、自分と関わりをもった星でないことのほうが不思議だった。いつか、こんな日が来ることをクラヴィスは心のどこかで予感をしていた。
自分の生まれた星が消えるのを見るのはどんな心地だろうか――クラヴィスは他人事のように思っている自分が変に可笑しかった。薄い笑みを浮かべたままで、傍らのジュリアスに顔を向けた。
「ジュリアス?」
顔色を失い、唇を震わすジュリアスに驚いたクラヴィスは眉を寄せた。
「・・今はじめて、私は、守護聖であることを後悔した。守護聖で、そして、そなたと出会ったことを・・」
紡ぐジュリアスの言葉が震えるのをクラヴィスは怪訝そうに見つめた。
「愚かな・・何度もなして来たことではないか。どの星だとて変わりはない。そう思って来たはずであろう?」
「だが・・その星はそなたの!」
ジュリアスが、珍しく声を荒げた。
「ジュリアス・・そのようなことを気にしておまえはひとりで何をしようとしていたのだ・・」
クラヴィスは、柔らかに言いながら、ジュリアスの肩に触れた。
何をしようとしていたのかと問うのは、ジュリアスにとって酷なことなのだろう。分かっている――ジュリアスは公平無私で、仕事にかつて私情を挟んだことなどついぞない。また、私のせいなのだなとクラヴィスは苦笑いを浮かべた。
「どのような星にも我々の知らぬ歴史がある、それをないがしろにはできぬ、星に優劣などないと言ったのはおまえではないか?」
「・・そうだ。だから、私は後悔している。私は、一瞬、守護聖としての心を忘れてしまった、他の星と同じには考えることなどできなかった。できうるならば、そなたの星を残しておきたかったのだ、たとえ・・他の星を犠牲にしても!」
「ジュリアス・・」
クラヴィスは、その名前と共に、息を吐いた。
ジュリアスは情が薄いと言う者がいる、けれどジュリアスは決して情が薄いのではない、彼の本質はむしろ情が深すぎるのだ。だから、愛せなかったのではなく、愛さなかったのだ、ジュリアスは自分を守る自浄作用を本能で感じとっていたのかも知れない。愛せば、執着すれば、ジュリアスの思い描く守護聖にはなれない、冷静で厳格で、宇宙を、女王を守るためだけに生を全うする守護聖には。
それゆえ、彼はずっと固い鎧を身に着けていた。それを剥ぎ取り、ジュリアスの本質を呼び覚ましたのは他ならぬ自分であった。泣いて縋った、あの幼い日に・・。
いつも、私はおまえを苦しめるのだなと、クラヴィスは、自分にも聞き取れぬような声で呟いた。
「そなたとこのようになる時に、私は守護聖としての自覚は忘れぬようにと自らに戒めた。どんなにそなたを求めても、私は守護聖だと。ところがどうだ、私は思ってはならぬことを思う、してはならぬことをしようとしてしまうのだ。」
ジュリアスは、白い手のひらを見つめてから、哀しげに笑った。
いつも自信に満ち溢れて前を見つめる光の守護聖の片鱗は今はどこにも見えない。美麗で、心優しい最愛の恋人の姿だけ。
「もういい、ジュリアス。」
クラヴィスは、ジュリアスを引き寄せると、強くその腕の中に抱きしめた。
神はやはり、赦されないのか・・ジュリアスが私を愛することを、私がジュリアスを愛することを。誰もが願うささやかな幸せを私達は望んではならないのかと、クラヴィスは、天窓から見える空を仰いだ。
「・・私にはやはり無理だ・・守護聖であることとそなたを愛することを共になすことは。」
ジュリアスは、そう小さく告げた。それがふたりにとって何を意味するのかまるで知らないかのように。
「ジュリアス!」
「もう、許して欲しい・・」
クラヴィスの胸を両手で押しのけた。
「・・ジュリアス・・」
ジュリアスは首を振った。
何度自分の名前を呼んだとしても、クラヴィスが、続く言葉を見つけられないように、私達は暗闇の中を手探りで歩くような恋をしてきたのかもしれない。いつかは、クラヴィスか、守護聖としての職務かを迫られることが来ることを私はどこかで知っていたかもしれない。と、ジュリアスは蒼い瞳を伏せた。
捨てることなどできない――どちらも。でも択べと言われるなら、守護聖としての職務を択ぶことしかできない。目の前で崩壊していく宇宙を見捨てることなどジュリアスにはできない。けれど、どうして、こんなにも切ないのだろう。
答えがひとつしかないのなら、せめて、この手でクラヴィスの生まれた星を葬るしかない。これ以上、クラヴィスに守護聖となったことを後悔させたくはない。けれど、それをこの手でしてしまえば、もう、私はクラヴィスの腕には2度と戻れない。クラヴィスは自分の星を葬った私でも許すだろう、けれど、それはふたりで抱き合うたびにふたりの心を苛んでいくだろう。同じようには愛し合うことなどもうできない。
茨の褥で抱き合うしかないのなら、共にこの思いも葬るしかない。
長い抱擁の後に、顔を上げたジュリアスは、いつもの首座の顔に戻っていた。
「惑星C−4は、周囲の星への状況を鑑みて消滅させることが望ましい。明日、光のサクリアによって消滅させる。」
そうクラヴィスに告げたジュリアスは、クラヴィスを見ようともせずに執務室を出て行こうと、扉を開けた。
そのようなことをジュリアスにさせられるわけがない、これ以上おまえに苦しみを重ねさせるわけにはいかない。クラヴィスは、弾かれたようにジュリアスの腕を掴んだ。
「ジュリアス・」
クラヴィスの視線が、ジュリアスの背中に痛いほど突き刺さる。掴まれた腕が痛い。けれど、ジュリアスはけして振り向こうとはしなかった。
それが、答え――振り向いてしまえばまた行く先の分からない迷路に迷ってしまうから、そして今度こそ、クラヴィスを択んでしまうから。
ジュリアスは、奥歯を噛み締めた。
そして、割って入ったのは、年上の友人。
「ジュリアス?」
その陽気な人柄を彷彿させるその声に、ジュリアスもクラヴィスも足を止めた。クラヴィスの腕がそっと放された。
ジュリアスは、その緑の守護聖を見つめ、クラヴィスはジュリアスの傍をすりぬけて、長い廊下へと出て行った。
もう二度と振り向くこともなく・・遠ざかるクラヴィスの衣擦れの音をジュリアスは、耳奥で聞いていた。
クラヴィス・・すまない・・
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あの後、カテイスは、少年のような屈託のない笑顔で、「おまえは何でもできるけれど、自分の気持ちだけは思い通りにはならないものだぞ。」と言った。そして、人とはそもそもエゴイストな生き物だ、それでいいのだとも。
途切れてしまった物語――思い通りにできるなんてただの一度も思ったことなどなかった。特に、クラヴィスと出会ってからは切なくて、哀しい想いを何度も持て余した。ひとりでいる寂しさを初めて経験した。
人はエゴイストだと言ったカテイスの言葉も今なら分かる気がする。守ることも愛することもそれは、エゴの裏返しかもしれないのだから。でもあの時の私は許せなかった。
あの時、私は、自分の一番大切なものと引き換えに、守護聖として生きることを何かと契約してしまったのかもしれない。
そして、クラヴィスは次の日を待たず、自らの手で自らの生まれた星を葬ってしまったのだ。私は結局クラヴィスを追い詰め、取り返しのつかないことをクラヴィスに強いてしまった。
「許されるわけなどないだろう・・」
ジュリアスは、誰に聞かせる風でもなく、そう呟いた。