クレッシェンド

冷たい大理石の机を白い指が滑っていく。それは何かを捜し求めているかのようでも、愛しい何かを愛撫するかのようでもあった。

「…ジュリアス・・」

勤勉な主の姿もさすがにこの時間にはない、深夜の光の執務室に、その名前だけが小さく呟かれる。

微かに残る光のサクリア、瞳を閉じて闇に問えば、その声さえ聞こえてきそうだ。

「・・滑稽だな・・闇の守護聖が夜な夜な光の執務室に安らぎを求めに来るなどと・・」

クラヴィスは呟くように言ってから、その冷たく光る机上に、半身を滑らせた。

 

 

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翌朝、まただ・・とジュリアスは思った。いつからか、部屋に残る闇のサクリア。机の上に無造作に置かれた書類。

「何故、私のいる時間に来ない。」

苛立ちを隠せずにそんな言葉を口にしながら、ジュリアスは、書類を手にとった。そして、ふと何か思い立ったかのように顔を上げて、小さく唇を噛んだ。

「・・顔も合わせたくない・・か。」

いつものジュリアスを知る者が聞けば、驚くほど小さな声は、開け放たれた窓の外からの風にかき消されてしまった。

そんなにも嫌われてしまった理由にジュリアスは、心当たりはない。理由などない、もしかしたら、自分の存在そのものをクラヴィスは忌んでいるのかもしれぬ。そう思うと胸奥が締付けられるように痛んだ。

「・・まさか・・気づいて・・」

冷たく光る指輪に唇を寄せた。こんなジュリアスの小さな癖に、気づく者はこの場所にはいない。ましてやジュリアスの心の奥底を知るものなど誰一人いようはずがない。

ジュリアスは、完璧なまでの光の守護聖ジュリアスを演じていたから。

愛していると自覚したのはいつだったろう、あの紫の瞳が私に縋ることを好ましく思ったことはあるにせよ、疎んじたことなど一度もなかった。「そなたは、仕方ないな。」口ではそう言いながら、クラヴィスの助けとなれる自分が嬉しかった。それだけが、自分のここでの存在意味だと思っていたから。

あの時は、まだこんな思いなど知らずにいたものを・・。

ジュリアスは、もう一度指輪を口元に寄せた。

 

「クラヴィスはどうした?」

ジュリアスは、朝議の席で、隣の空白の席をちらりと見てからそう言った。

「ただ今、リュミエールがお迎えにあがっておりますが。」

オスカーの言葉に、向かいのルヴァが、穏やかに微笑む。

「始めておきましょうか、ジュリアス。」

それは、もう何度も繰り返された場面で、そこにいた全ての者も当然、いつものように、ジュリアスがそれに頷き、会議が始まるものと思っていた。そして、まもなく、リュミエールだけが立ち戻り、「クラヴィス様はご気分がお悪いようで・・」と歯切れの悪いいいわけで、クラヴィス抜きの会議が進むはずであった。そう、いつもであれば・・だが、今日のジュリアスは明かにいつもと違った。

「だめだ・・今日の案件は陛下にも決済を仰ぐ重要なもの。筆頭守護聖である闇の守護聖抜きで議題を進めることはできぬ。いい、私がクラヴィスを連れて来よう。」

「・・お待ち下さい、それなら私が。」

立ち上がりかけるオスカーをジュリアスは白い手で制し、「よい、私が行く。」と誰にも否を言わせぬような瞳で、議場である大広間を出て行った。

 

 

闇の執務室の前まで来て、ジュリアスはひとつ息をついた。何故、私は今日に限ってここへ来ようなどと思ったのだろう。脳裏に微かによぎった疑問を打ち消すように、ジュリアスはその重く閉ざされた扉をたたいた。

「・・ジュリアス様・・何故・・」

驚くリュミエールの傍を何も答えずジュリアスは通りすぎる。部屋の奥へと入れば、むせ返るほどのサンダルウッドの香り、朝だというのに夜のように暗い部屋、微かな灯りだけを頼りに部屋の主を探す。足元に流れる黒髪を見つけて、ジュリアスは声を上げた。

「・・クラヴィス!」

その名の主は、長椅子に、まるで寝乱れたようにその体を横たえていた。その姿に思いかけず高鳴る胸の鼓動を鎮めようと、ジュリアスは言葉を捜した。

「クラヴィス!そなたは、朝議にも出ず、そのような姿で・・闇の守護聖ともあろう者が・・」

ジュリアスの途切れた言葉に、クラヴィスは頬杖をついたまま、くっと笑った。

「久方ぶりに会ったというのに、おまえの言葉はやはりそれか。」

そう言って、ゆっくりと起き上がったクラヴィスは、長い髪をかきあげた。濡れたように輝く、その黒髪は漆黒の闇の中でさえ眩しい。思わず見とれそうになるその気持ちをジュリアスは、寸前で押さえた。

「っ・・早く、支度をせよ。皆が待っている。」

そう早口で言ってから、その瞳をそらした。

「いつものように私抜きでやれば良かろう?わざわざ首座殿が、お迎えに来ることもあるまい。」

クラヴィスは、そう言って聞こえてくるはずのジュリアスの怒声を待った。しかし、ジュリアスは、驚くほど静かに口を開いた。

「今日の議題はそなた抜きでは進まぬ。」

「そのような重大事が起こっているとは、初耳だ・・リュミエール、何か聞いているか?」

いつのまにかジュリアスの後に立っていたリュミエールに、クラヴィスは瞳を向けた。

「・・いえ・・ですが・・今朝の案件は陛下にもご決済を仰ぐ大切な議題だと・・」

「そうだ。たまには守護聖としての義務を果たしたらどうだ?」

「そうして、おまえは相変わらず・・守護聖の義務を私に説くのか・・」

クラヴィスは一瞬その瞳を翳らせ、ゆっくりと長椅子から立ち上がった。彼の体が動くたびに香る官能的な香りにジュリアスは眉を寄せた。一瞬でも気を抜けば、闇の淵に引きずり込まれそうな恐ろしさがこの部屋にはある。

「まあよい・・今日はおまえがわざわざ迎えに来てくれたのだ・・それに免じて行くとしよう・・」

そう言ってクラヴィスはジュリアスに背を向けて、夜着の腰ひもをぱさりと落とした。

「クラヴィス!何を・・」

「着替える・・リュミエール、執務服を・・」

「・・は、はい・・」

リュミエールは勝手を知っているかのように、クローゼットがあるのであろう奥の部屋へと、入っていった。

「そなた・・いつも、このように・・リュミエールに着替えを手伝わせているのか?」

「フッ・・水の守護聖を側用人のように使うとは・・とでも言いたげな様子だな。それともおまえが手伝ってくれるとでも・・」

クラヴィスはさも可笑しそうに言って振り向き、薄絹の夜着を、ジュリアスの目の前に滑り落とした。

「…!」

ジュリアスは、すぐさま踵を返して部屋を飛び出すように出て行った。遠ざかる足音を感じながら、クラヴィスは足元に落ちた夜着を拾い、再び手を通す。

「・・リュミエール・・もうよい・・」

「クラヴィス様・・よろしいのですか・・」

リュミエールの問いにクラヴィスは何も答えずに頷いた。

 

 

「ジュリアス、顔色が優れませんが、大丈夫ですか?」

朝議の後に、ルヴァがジュリアスにそう声をかけてきた。人に見止められるほど尋常ではない自分の姿に心の中で失笑しながら、首を小さく振った。

「何でもない。心配をかけてすまない。」

「いいえ、それならいいのです。それにしても、クラヴィスはまた来ませんでしたね〜」

そう言い残して離れて行ったルヴァの言葉に、一瞬自分の心の奥を見透かされたかのかとジュリアスは思った。白く滑らかな肌に流れるような黒髪、クラヴィスの裸身を目にしたあの瞬間、封じきれているはずの想いが再び湧き上がったのを感じた。体が熱い、血が逆流するようだ。こんなにもクラヴィスを欲している自分をいつまで止めることができるだろう。嫌われている、憎まれていると思うことによって今まで沈めてきた感情を、ジュリアスはもう一度唇を噛んで、必死で堪えた。リュミエールはいつもあのようなクラヴィスと共にいるのか、そう思えば、胸が掴まれるように痛む。幼い時とは明かに違う、すらりと伸びた手足、白く長い指先。もう二度とあの指先に求められることはないというのに。

もう、二度と会うまい・・とジュリアスは思った。今度あのようなクラヴィスを見たら、自分は何をするかわからない。クラヴィスを引き裂いて、今度こそ闇の淵に落ちるかもしれない。

男が体を繋げることなど普通のことではない、きっと大きなリスクとなるだろう。そして、負わずにすむはずの重荷をクラヴィスにまた強いることにもなるのだ。

闇の守護聖という長い間の十字架さえ、まだ受け入れられずにいるクラヴィスに、これ以上、何を求めるというのだ。

「クラヴィス・・」

冷たく触れた指輪は、幼い頃クラヴィスが気に入っていたものだ。そんなに気に入っているのなら、やろうと何度も言ったが、私の指にあるから好きなのだと言って笑った。会う度に、小さな指先が指輪に触れた。子供の指には大きかった指輪は、いつのまにか抜けなくなった頃には私達の関係は変わってしまい、温かで優しい日々はもう記憶の底に押しやられてしまった。

「・・ジュリアス様・・」

ふと、呼ばれる声に振り向く。そこには、リュミエールがいつもの美しい顔で、微笑んでいた。

「用か?」

眉が自然に寄せられる。ジュリアスは、決してこの美しい水の守護聖が嫌いではない。職務にも忠実で、年若い守護聖からも信頼が厚い。優しすぎるきらいはあるが、守護聖のひとりくらいがそうであっても良いとジュリアスは思っている。クラヴィスが、彼を気に入り傍に置くのも、クラヴィスの心が少しでも和むのであれば良い。闇の守護聖である自分が幼い頃から許せずにいるクラヴィスの、どこか閉ざされた心を少しでも和らげるその役割を、幼い頃はジュリアスが、大人になってからはリュミエールが担うことも、寂しいと思うことはあっても、許せないと思ったことは一度もない。

「・・あの、先ほどのことですが・・」

「よい、私も悪かったのだ。幸いなことに、宇宙は平穏。陛下のおかげでこの平和も長く続くことであろう。私達が守護聖である時間ももう残り少ないのかも知れぬ。あの者は、もう充分過ぎるほどその職を全うし、充分なほど苦しんだのだ。今更、守護聖の義務など説くのは酷であろう。この後は、好きなように過ごせばよい、もう私は邪魔はせぬ。リュミエール、クラヴィスの助けになって欲しい・・頼む。」

私ができぬことをして欲しいとジュリアスは、心の中で付け加えた。そして、自分はずるいと心の中の顔を覆った。自分の浅ましい欲求を隠すために、さも物分りのよい理由を探した自分。本当はクラヴィスを欲して堪らない自分を押さえ、隠すためだ。

リュミエールは、息をついて首を振った。

「できません。私ではだめなのです。ジュリアス様はご存じでしょうか?深夜、光の執務室に赴くあの方の本意を。」

「本意?私に会いたくないからであろう。」

ジュリアスは、不思議なことを聞くものだというような顔を一瞬して、至極当然のように答えた。

「ええ、たしかに・・ジュリアス様とお会いしたくなかったからです。でも、その理由はきっとジュリアス様が思っていらっしゃることとは違います。クラヴィス様は、ジュリアス様、あなたを愛していらっしゃるのです。」

「なっ・・何を・・?あれはそなたを・・」

「私とクラヴィス様の間には、何もありません。過去にも・・そして、これからも何も起こりうるはずがないのです。あの方の心の中にはジュリアス様しかいないのですから。」

それでも信じられないという顔を見せるジュリアスにリュミエールは続けた。

「もう、残り少ない時間というなら、どうか、おふたりでお過ごし下さい。ジュリアス様の想いも同じだと私には思えるのです。このままではあまりにも哀しすぎます。」

残り少ない時間だからこそふたりで過ごせと言ったリュミエールの言葉、これ以上クラヴィスに重荷を背負わせるのは嫌だからもう会わないと決めた自分。

「その癖、気づいていらっしゃいますか?クラヴィス様はおっしゃっていました。『ジュリアスは、小さい頃から大事なことを決める時に指輪に聞く。』と。」

リュミエールが微笑みと共に言ったその言葉に、ジュリアスは目を見開いた。自分でも気づかずに、幼い頃の思い出を引きずっている自分がいた。

「全部・・見透かされているということか・・」

ジュリアスは小さく笑ってから諦めたように言った。その言葉にリュミエールもまた微笑んだ。

「そうですね、きっと・・でも、いちばん大切なことは口で言わないと分からぬこともあるのではないでしょうか。」

「ルヴァと同じ事を言う。」

「申し訳ありません。」とリュミエールは言ってから、頭を下げて部屋を出ていった。

その後姿を見送りながら、ジュリアスは自分の心が晴れていくように感じた。

残り少ない時間なら、共にいたい。幼い頃のような砂糖菓子のような時間は、もう戻らなくても、違う優しい時を過ごすことができるかもしれない。

 

「今日はよく会うな・・今度は何だ?」

深夜の闇の執務室、サークレットを外したジュリアスが、カードを弄ぶクラヴィスの前に立った。

「そなたを・・抱きに来た。」

ジュリアスの言葉にクラヴィスの指が止まる。

「リュミエールが何を言ったか知らぬが・・同情ならやめよ。」

「同情で同性を抱くことなど、私にはできぬ。」

ジュリアスはそう言った。

「言っている意味が分っているのか?私はおまえとは違う・・」

クラヴィスはゆらりと立ちあがり、ソファに座った。「今更同情などで抱かれたくなどない。」と吐き棄てるようにクラヴィスは言った。

「愛している・・クラヴィス。そなただけをずっと。」

ジュリアスの唇がそう言ったが、クラヴィスは聞こえないような顔をした。

「ジュリアス?」

「そなただけが苦しんでいたと思うな。詰(なじ)ることだけで、そなたと接点を保とうとしていたその理由は・・」

ジュリアスは、クラヴィスの腕をひいて、立ちあがらせ、自分の胸に引き寄せた。

「どうやって伝えればよかったと言うのか?愛していると・・そなたを抱きたいと。」

どうして早く気づかなかったのだろう、ただ抱き合えさえすれば、想いは通じるということを。

FIN