最終章 瞬き
――いつか来る未来――
もう会えないのなら
記憶さえなくしてしまいたい
「本当に何も望みはないのですか?」
数え切れないほど足を運んだ謁見の間で、緑の瞳を潤ませながら、そう切り出したのはジュリアスが永遠の忠誠を誓った女王。
もう何度か聞かれたその問いに、彼は珍しく柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「陛下やロザリア、他の守護聖達が健やかにその職を全うし、宇宙を運営していかれることが、私の望みです。」
ジュリアスの答えを聞いた女王とロザリアは、顔を見合わせてから、小さなため息をついた。
「長い間の守護聖首座の任、どんなにあなたが大変であったか、わかっているつもりです。あなたがいてくれたから、今のこの宇宙があるのだと私は思っています。感謝します、宇宙を統べる女王として、アンジェリークとして。だからこそ、あなたに報いたい。」
自分を久しぶりにアンジェリークと呼んだその年若い女王は、玉座を駆け降り、ジュリアスの前に立った。
「ありがたきお言葉をお聞きしました。しかし、私の力がお役に立てたとしたら、それは歴代の女王陛下、補佐官、守護聖の力あってのこと。私こそ、新宇宙誕生という歴史的瞬間に立ち会えたことに感謝しております。光の守護聖ジュリアス、その任を降りても、守護聖であった誇りを忘れずに生きていきたいと思っています。」
「ジュリアス・・」
大きな瞳から今にも零れ落ちそうな涙に、ジュリアスが慌てかけた時、傍に控えていたロザリアがアンジェリークに駆け寄った。
「陛下、思い出しますわね、私達が女王候補だった時のこと。陛下はよくおっしゃっていましたわ、『ジュリアスさまにまた小言を言われちゃった。』と。あの頃が懐かしいですわね。」
そう微笑む親友の顔に、アンジェリークも思わず微笑む。
「そうね、私はジュリアス様が怖かった。あっ、今はそんなことないけど。」
ジュリアスは女王の言葉に小さく笑う。
「でも、あなたのような方が下界で生活されたら、巷の女の子は大騒ぎでしょうね。」
「陛下!また、そんな・・」
ジュリアスは、そんな二人の様子に瞳を細めてから、ゆっくりと膝を落とした。
「それでは、これにて。陛下、ロザリア、お元気で。ロザリア、陛下をお支えしてくれ、頼む。」
「ジュリアス、元気で。」
その言葉を聞いてから、もう二度と踏み入ることのないその部屋を後にする。命と引き換えてでも守ろうとした宇宙が、女王が、ジュリアスの肩から滑り落ちていった。
真夜中の聖殿、闇の執務室。ジュリアスはそっと扉を開けて、中へと入る。手にした燭台の小さな炎が揺れる。
ここに何度足を踏み入れただろう。微かに残る白檀の香りが、ジュリアスを切なくさせる。
「結局・・別れの言葉も言えないらしい・・」
守護聖ひとりずつに宛てた別れの言葉、今までの感謝と、そしてこれからも陛下を、宇宙を守って欲しいと告げた。
クラヴィスには、まだ何も言っていない。ジュリアスが残務処理や引継ぎに忙殺されたことで、通常業務がクラヴィスに廻ったのか、さすがのクラヴィスも忙しくなったらしい、聖殿でもすれ違いが重なって、顔を合わせることさえままならなかった。
「今さら・・何を言うというのだ・・私も。」
ジュリアスは、そう呟いて息をついた。クラヴィスと面と向かっても、言葉が見つからないジュリアスは、会えないことを心のどこかでほっとしている自分にも、もう気づいている。手紙でもと思っていたが、いざ書くとなると途切れてしまう言葉。今さら、元気でと書くつもりか、それとも職務に励めと書くか・・ジュリアスにはどちらも自分の言葉ではない気がした。もう二度と会えないのなら、せめて本当の気持ちを伝えたい。
最後に伝えたい言葉はたぶんたった一言・・ずっと昔に呑みこんだ言葉。
他の誰の部屋よりも暗くて広い空間。何ひとつ置かれていない執務机。ジュリアスはその滑らかで冷たい材質を指先でなぞった。
『ジュリアス・・どうして私にだけ見えるものがあるのだろう・・』
クラヴィスにだけ教える未来のゆくえ、水晶球に映る暗い影。それゆえ、苦しんだのを私は知っている。
『私は前世で余ほど業が深かったらしい・・』
そんな辛辣な言葉でしか自分の為していることを受け入れられなかったクラヴィス。そんなクラヴィスを独りにさせたくなくてその手を取った。選んだのは私なのに、結局クラヴィスを守りきることも、傍にいることもできなかった。
私には、守護聖としてしか生きる道を思い浮かべることはできないけれど、クラヴィスには幾つもの道があったのかもしれないと思う。
『おまえがいてくれてよかった・・』
聖地の夜はひとりでは暗すぎると、クラヴィスは言った。長すぎる夜は独りでは寒いと言った。そのように情けないことでは困ると叱責しながら、この腕に抱きしめた夜があった。
「・・昔のことだ・・」
ジュリアスは、クラヴィスの寂しげな横顔を思いながら、首を振った。
そうだ、昔のことだ――『愛している』と告げられたことも。
『このような所でうたた寝をするなど・・』
眉を顰めながら長椅子で眠るクラヴィスにブランケットをかけた。
『よせ・・このような場所で・・』
引き寄せられて、口づけを交わした、カーテンの陰。
闇の執務室は、多すぎる思い出をジュリアスに突きつけてくる。
「クラヴィス・・私は・・」
ジュリアスは、湧き上がる思いを呑みこもうと口を押さえた。
見送りは誰もしてくれるなと告げたジュリアスは、ひとりで聖地の外れ、今日は開かれるはずの門へと向かう。
馬車を出すと言ってくれた執事に丁寧に礼を言って、「今日は歩いていきたい。」と邸を後にした。
白い花の降る木々、優しい風がそよぐ丘。見慣れたはずの風景が、今日出て行くと決めた途端に、木の葉の一枚も愛しくなるのはどうしてなのだろう。
二度と見ることのない風景、いつか懐かしく思う日も来るのだろうか。
やがて、ジュリアスは、聖地の門に立つ、記憶の片隅にあったそれよりも、ずっと小さなものがそこにあった。
「そうか、あの時は、まだ子供だったからな。」
ジュリアスは、不思議にこみ上げてくる笑みを押さえずに呟いた。
ジュリアスの思い出す聖地のどの風景にも、クラヴィスがいる。それだけ自分達は長い時を共有してきたのだと今さらながら思い知る。
ジュリアスは、門の前に立つと、ゆっくりと振り返った。
ここで育ち、ここで愛も知った、そしてまだ愛する人の住むこの美しい楽園を目に焼き付けようと。
ジュリアスは、その美しい空の青さより明るい瞳を、ゆっくりと伏せた。そして瞳を開き、踵を返そうとした瞬間、自分を見つめる視線を感じる。
「遅かったな・・」
「ク、クラヴィス?どうして?」
門に身を預けている人影に、ジュリアスは驚きの声を上げた。
「おまえを独りで行かせることはできぬからな。」
「見送りは不要だと言った・・」
震える唇をジュリアスは強く噛んだ。今さら、未練を残すことはしたくないとジュリアスはクラヴィスから視線をそらした。
「フッ、まだ・・気づかぬのか?」
クラヴィスはその白い手を上げて、小さく笑った。その言葉にジュリアスは、はっと顔を上げた。
「クラヴィス!そなた、サクリアが・・」
ジュリアスの言葉に、クラヴィスはもう一度笑った。長い黒髪を束ね、平服を着ているクラヴィスからは、感じるはずのサクリアの気配がない。
「・・そなた、引継ぎは?どうするのだ、私とそなたまで降りては・・」
「相変わらず無粋な奴だな・・私がこの数ヶ月、どれだけ執務に励んだと思う・・すべてはそなたと降りるためだ。」
ジュリアスは、信じられぬといった顔でクラヴィスを見据えた。
「おまえのサクリアの衰えが始まって、しばらく経った頃、私にもサクリアの衰えが見えた。私は生まれて初めて天に感謝した。・・まあ、もとより、私はその座を捨ててもおまえを追おうとしていたが・・」
「クラヴィス!」
ジュリアスの大声に、クラヴィスは声を立てて笑った。クラヴィスが声を立てて笑うなど、初めてのことだ。眉を寄せるジュリアスに、クラヴィスはまだ笑みを残したまま告げる。
「しかし、それでは、きっとおまえに追い帰されるからな。私のサクリアの衰えを感知された陛下は私に問われた。何か望みはないかと。私は心に秘めていたただひとつの願いを口にした・・願わくは、おまえと共に降りたいと。」
「クラヴィス・・」
ジュリアスは握り締めた指を口元に持っていく。ジュリアスは、幼い頃から、こうやって次の言葉を捜す癖があった。クラヴィスは、その仕草に、「おまえは変わっていないな。」と小さく言った。
一度は手放した大切な物を再び望むことは許されるのか、そなたは私を許してくれると言うのか。どうしても、ジュリアスは聞かなければならないと思った。
「・・私を、許してくれるのか。」
「許すなど・・・」
すべて、分かっていたからと、クラヴィスは続けた。
自分から離れたことで、ジュリアスがどんなに苦しんだか、どんなに嘆いたか、自分をどんなに愛していたか、クラヴィスはずっと知っていた。水晶球が気まぐれに映し出すジュリアスはいつも哀しげだった。昼間のジュリアスが堂々と首座の任をこなせばこなすほど、クラヴィスはその姿が痛々しくて瞳がそらせなかった。眠れぬ夜を過ごす遠くの恋人ために、せめてつかの間の安らぎをと人知れず送ったサクリア。
ただ、この日のためだけに、過ごしてきた時間。
「私とそなたの未来は、重なっても良いのか。」
ジュリアスは、微かに震える声でそう言った。クラヴィスは、ジュリアスの腕を引いて、きつく抱きしめた。
「昔、ここで約束をした。ずっと共にいてくれると。」
「・・そうだったな。」
小さく頷いたジュリアスは、触れるほど近くにあるクラヴィスの紫の瞳を見つめた。
「もう二度と・・約束を違(たが)えることはしない・・」
ジュリアスの言葉は、クラヴィスの唇に絡めとられていった。
もう振り向かなくていい
もう嘆かずともいい
ずっと傍にいる
瞬きの見える場所で――