第4章     迷宮の扉

           ――20年前――

ひとつわからなかった
涙の理由も抱き合う理由も――
あの頃の私達は何ひとつ


「ジュリアス、聞きましたか?今度の闇の守護聖はあなたと同じ年だとか。良かったですね、お友達ができて。」

水の守護聖の言葉に、ジュリアスはふいと顔をそむけた。

「友など・・私には必要ありません。私には守護聖として学ばなければならないことがたくさんあるのだから。」

大人びた口調でそういうジュリアスに、水の守護聖は「これはすみません。」と苦笑した。

闇の守護聖が交代する――大好きだった、優しく、厳しいひと。誰より近くにいて、守護聖になり立てのジュリアスを導いてくれた。あの人がいなくなってしまう、ジュリアスにはまだそれが受け入れられずにいる。

もっと、色んなことを教えて欲しいのに・・サクリアのことや守護聖のこと、宇宙のこと、そしてもっともっと大切なことも。ジュリアスは、小さく唇を噛んだ。

 

「これで、ジュリアスももう少し、子供らしくなってくれると私達としてもやりやすいのですが。」

「そうだな。」

風と地の守護聖が聖殿の廊下で話しているのを聞いたジュリアスは、思わず駆け出し、聖殿から飛び出した。やっと慣れてきた長衣の裾を足に絡ませ、転んでしまう。

「痛いっ。」

ジュリアスは思わず口を突いて出た言葉を呑み込むように、その小さな手で口を押さえた。

誰に教えられたのか忘れてしまった、痛さや悲しみを我慢すること。泣いたり、叫んだりすることは恥ずかしいことだとジュリアスは信じている。

子供らしいって何?誰も教えてはくれなかった。
膝の痛さではない胸の痛みが、ちくりとジュリアスの胸にとげを刺した。

あなたがいなくなるから、皆あんなことを言うのだ、新しい闇の守護聖なんかが来るから、こんなに痛い思いをするのだ・・ジュリアスは、小さな怒りの持って行き場を見失っていた。

立ち上がりながら、長衣についた土を払う。どこへ、行くこともできない、帰る場所など、この聖地にはない。ジュリアスは、聖地(ここ)へきて初めて孤独感を覚えた。

 

「ちょうど良かった、ジュリアス。」

大好きで大嫌いなひとの声。彼は、ジュリアスと同じ位の背の男の子を連れてジュリアスの前に現れた。

一目見て、彼が新しい闇の守護聖だとわかる。黒い髪、紫の瞳、怯えるように闇の守護聖の背中に隠れるその少年は、潤んだ瞳をジュリアスに向けた。

綺麗・・思わず口をついて出てきそうな言葉をジュリアスはごくりと呑み込んだ。

「ジュリアス、クラヴィスだ。仲良くするのだぞ。」

闇の守護聖の続いた言葉に、ジュリアスは眉を寄せた。仲良くって何?どうしてそんな知らない言葉を使うの。

そしてジュリアスの蒼い視線はある一点に注がれた。闇の守護聖の大きな手にしっかりと握られた小さな手。

そんなこと一度だってされたことなかった。どうして私の知らないことをするの?ジュリアスは首を振った。

「嫌です。私は仲良くなどできません。」

ジュリアスはそう言って駆け出した。背中に何度か自分の名前を聞いたけれど、ジュリアスは振り返らなかった。

いつのまにか気にならなくなった白い長衣の裾が、今日はとても邪魔だった。走ることなど聖地へ来てから幾度もなかった、今日は何だか走ってばかりいるような気がする。ジュリアスは、もどかしさと寂しさと言いようのない思いにかられる。

「もう、逃げたい・・」

足は自然に光の邸に向くけれど、今は誰にも会いたくなかった。邸の近く、白い花の咲く大樹の元にジュリアスは腰をおろした。

白い花びらが、ジュリアスの瞳の前にひらひらと舞い落ちてきた。思わず差し伸ばした手のひらに花びらが触れた。透き通るほど白いその花びらは、ジュリアスが握り締めれば消えてなくなるほどに軽く、とても頼りなく見えた。ふいに、あの今にも泣きだしそうな紫の瞳を思い出す。

「クラ、ヴィス・・」

ジュリアスは、先程の少年の名前を口にしてみる。

「まるで、宝石のようだった。」

きらきら光る紫の色、あんなに綺麗なものをジュリアスは初めて見た気がした。

「クラヴィス・・」

もう一度、その名前をよんでみる。

ずっと前から知っていたような、そんな不思議な気持ちになった。

 

 

「ジュ・・ジュリアス・・」

遠くで自分の名前を呼ばれて、ジュリアスはゆっくりと青い瞳を開いた。白い花びらが降りしきる中に、自分を覗き込んでいるのはどこまでも深い紫の瞳。ジュリアスは思わずたじろぎ、身を引いた。

「ジュリアス、心配したぞ。」

声は、闇の守護聖だった。クラヴィスの顔よりずっと遠くにあって、気づかなかった。

「・・ごめんなさい。」

こんな所で眠っていた自分が気恥ずかしくて、ジュリアスは小さく俯いた。

「ほら、風が出てきた。邸へ戻ろう。」

闇の守護聖の声に立ち上がろうとしたジュリアスの前に、そっと、差し出された小さな手。

「クラ・・ヴィス?」

驚いた顔をあげたジュリアスに、クラヴィスは手のひらを出したままで、小さく「ジュリアス」と言った。

「あ、ありがとう」

ジュリアスがそう言って、手のひらを恐る恐る重ねた瞬間、クラヴィスは小さく笑った。

立ち上がったジュリアスの同じ瞳の高さにいるクラヴィスは、とても近くて、ジュリアスの胸はとくんと鳴った。

彼となら、同じ速さで歩ける、彼となら、同じ高さで物を見ることができる。生まれて初めて、こんなにも近い心を知った。握り締められた手のひらが、とても心地よかった。

 

闇の守護聖が、聖地を出る時に、ジュリアスを呼んだ。

「おまえの寂しさを救えるのは私ではなかったのだよ。」

優しい声はそうジュリアスに言った。

「クラヴィスは、おまえの良い友になれるだろ?」

続いたその言葉に小さく頷いたジュリアスを見て、彼は笑顔を見せた。その顔はジュリアスが、覚えている彼の笑顔の中で一番優しいものだった。


白い花びらがまるで彼の大きな背中を包み込むように舞い散って、彼の姿は聖地から見えなくなった。

 

                  

 


ずいぶん後になって、クラヴィスが言った。

「あれで、恋をしない者などいない・・」と。あの時は、クラヴィスの言葉に笑ったけれど、私こそ、あの瞬間、恋をした。白い花びらの中で、鴉羽色の髪、紫水晶の瞳、私とは何もかも違うクラヴィスに、私はひと目で引き込まれたのだ。差し出された手のひら、あの温もりを私は決して忘れないだろう。あれから、私達は幾度も季節を送り、同じ歩幅で同じ高さで歩き、同じ場所を見つめてきた。

 この広い宇宙の中に、私の幼い頃を知っている者はクラヴィスだけだ。そして、クラヴィスの幼い頃を知っている者も私だけ。それは、幸せなことなのかもしれない。

「愛さずにはいられなかった・・私も・・きっとそなたも・・」

いつからか、幼い頃の話をすることは少なくなっていたけれど、大切な思い出。幼いあの日のままでいられたなら、こんな思いはしなかったのだろうか?それとも、私達は、あの瞬間、迷宮の扉を開けてしまったのだろうか、甘美で優しい、けれど長く、決して抜けることのできない迷宮。

「それなら、私は、あの日からずっと迷ったままだ・・」

ジュリアスの視線の先には、夜の中にもほのかに輝くように見えるあの白い花があった。

 の頃から何ひとつ変わってはいない――