Rainy blue
☆
私は知っている
誰が忘れても
覚えている
あなたがどんなに美しかったか
あなたがどんなに優しかったか
私があなたをどんなに愛していたか
☆
それは、遥かに遠い日の出来事だった。今となってはそんなことが本当にあったかどうかさえも定かではない。あれは夢だったかもしれないとさえ思うことさえある。けれど、時を経て、なお色鮮やかに脳裏に浮かぶあの声、あの瞳、あの時の空の色。
「…・・クラヴィスさま、降ってまいりました。」
落ちる雨の音の大きさに、ハープを奏でていた水の守護聖の手が止まる。
「…・クラヴィスさま?」
長椅子に体を横たえているこの部屋の主は、その紫の瞳を深く閉じ、微動だにしない。眠ってしまわれましたかと水の守護聖は小さく息を吐いて、ゆるりと立ち上がった。衣擦れの音、小さく扉の閉まる音が遠くで聞こえ、その足音が聞こえなくなると、地を叩く雨の音だけが、やけに大きくクラヴィスの耳に届いた。
「・・こんな雨の日は・・眠ってしまうに限る・・」
言い聞かせるように呟き、冷たい手の甲を額にあてる。もう1度深く瞳を閉じる。
忘れてしまえない記憶が、クラヴィスにはあった。
★★★
ある朝目覚めると、守護聖様などと呼ばれ、見知らぬ人に傅かれ、豪華な衣装に着替えさせられた。昨日まで母と呼んでいた女性が、自分と離れた場所で、青ざめた顔でひれ伏しているのが視界に入る。
「母さん・・?」
僕はどうなってしまうの?声をだそうにも喉に異物が詰まったように、言葉にならない。ただ言い知れぬ不安と恐怖が幼いクラヴィスを襲う。
「さあ、最後のご挨拶を。」
そんな声に促されて、母はよろよろと立ち上がり、クラヴィスの方に足を進めた。手さえ届かないその距離で、母は頭を下げて呟いた。
「女王陛下のご加護のもとに、いつまでもお健やかならんことを。」
それは、母と通った町外れの教会で、幾度も捧げた祈りの言葉であった。
何が起こるの?僕はこれからどうなるの?6歳の子供に何を理解し、何を言えと言うのだろうか?
2度と帰れない家、2度と会えない母などと言われて、理解できるはずもない。ただ、日常から自分の存在だけを剥ぎ取られ、そのまま連れて来られた場所は、想像もできない光り輝く美しい場所であった。
「ここが今日から、守護聖様のお過ごしあそばす聖地にございます。」
重い門扉がゆっくりと口を開け、またゆっくりとクラヴィスを呑みこんだ。
聖地と呼ばれるその場所で、宮殿というひときわ大きな建物に連れてこられたクラヴィスは、その長い廊下を歩く時にふいに背中から声をかけられた。
「そなたがクラヴィスか?」
自分の名前を呼ばれたのは、あの朝以来であった。あの朝から、周りの人々は自分のことを、「守護聖様」とか「闇様」と呼んでいたから、こんな場所で自分の名前を呼ばれるのは酷く意外だった。自分の名前を呼んだ明るくよく通るその声は、静かな美しい宮殿には似つかわしくないように思えた。
「眩し・・っ!」
振り向いたクラヴィスは、瞳を射る鋭い光に思わず顔を背けてしまった。目を細め、手をかざして、もう一度声のした方を見る。
「どっちを見ているのだ。私はここだ。」
くすくすと笑う声、クラヴィスがそこに見つけたのは、自分とそう変わらない背丈をした少年の姿だった。肩までの金色の髪、そして晴れた空より蒼く澄んだ瞳、白い服がとても似合っていた。綺麗と思わず口をついて出そうになる。
「これは、光の守護聖様。」
クラヴィスについていた者のひとりが、慌ててひざまずく。光の守護聖と呼ばれた少年は、それをちらりと見ると、またクラヴィスに瞳を向けた。
「私はジュリアス、闇の守護聖のそなたとは対になる者だ。女王陛下、宇宙のために我らは、我らのサクリアを持って働かねばならぬ。これから頼むぞ。」
子供の声とは思えない威厳と自信に満ちた声に告げられた彼の言葉のほとんどは、クラヴィスには理解出来ないものであったが、恐ろしいほどの存在感に思わず大きく頷いてしまう。
クラヴィスのその様子にジュリアスは、満足そうに笑った。
聖地に来て、初めて覚えたのは、ジュリアスという名前。
時はゆっくりと流れて行った。守護聖という意味も、女王という言葉も知った。サクリアという力の使い方を知った。けれど、何か大切なものを失った記憶が、クラヴィスをいつも不安にさせた。育った家や育てられた母の記憶が時折甦ってくる。寂しくて悲しくて泣きじゃくった、邸を抜け出し、無理やり連れかえられた日もあった。しかし、そんなことを何度か続けるうちに、クラヴィスはもうあの日には帰れないことを思い知る。それは諦めだったのかもしれない。
泣きじゃくって眠れない夜、邸を抜け出し連れかえられた夜、いつも側にいてくれたのは、ジュリアスだった。その日もクラヴィスは邸を飛び出し、聖地の外れの森で迷っている所を連れ帰られた。誰が呼んだのか今日もジュリアスがいた。クラヴィスはジュリアスがいれば落ち着くことを皆知っていたから。
「そなたはいつも私を困らせる。」
ジュリアスは言葉ではそう綴りながら、クラヴィスの手を握り締めた。まだ潤んだ瞳を見せるクラヴィスと瞳があうと、ジュリアスは頬を少し赤らめて小さく言った。
「寂しいのなら私がいるではないか。」
ジュリアスの言葉にクラヴィスは、意外そうな顔をした。ジュリアスがそんなことを言ったのは初めてだった。
「寂しいのであれば、私がずっと一緒にいると言っているのだ。」
さっきより、顔を赤く染めて言うジュリアスが、その物言いよりずっと子供のように思えてクラヴィスはふいに可笑しくなった。その様子を見たジュリアスは、クラヴィスの手を離すと、急にすくっと立ちあがった。
「何が可笑しいのだ?私は、私はそなたが心配で・・・・もういい、私は帰る!」
ジュリアスの声がいつしか涙声になる。踵を返して扉に向かうジュリアスの腕をクラヴィスが慌てて掴んだ。
「ごめんなさい・・ジュリアス・・僕、僕、あの・・帰らないで!!」
クラヴィスの慌てた様子にジュリアスは小さくため息をついた。
「…分かった。分かったからその手を離せ、少し痛い。」
「あっ、ごめんなさい。」
クラヴィスが急にその手を離したので、ジュリアスがつんのめってしまい、長衣に躓き、床に座りこんでしまう。
「ああ、ジュリアス。ごめんなさい・・僕。」
クラヴィスが慌ててジュリアスに駆け寄る。ジュリアスは、もう一度大きなため息をついた。
「・・そなたは・・全く仕方ないな。」
だから一人にさせられないのだがと独り言のように小さく呟いて、床に目を落としているクラヴィスを見上げるとくすくすと笑った。
「ジュリアス、僕はジュリアスがずっと一緒にいてくれれば嬉しい。」
クラヴィスはジュリアスの手を取って立ち上がらせると、そう言った。立ち上がったジュリアスがその言葉に満足げに頷く。
「仕方ないな。私がずっとそばにいよう。」
「ほんと?ほんとにジュリアスがずっとそばにいるんだね。」
「あ、ああ。光の守護聖ジュリアス、女王陛下の御許で嘘はつかぬ。」
頬を高潮させたジュリアスが、クラヴィスの視線を外して大人のように言った。
「そのかわり、もう2度と私に心配をかけるな。」
こうして、約束の意味さえ知らない子供達は初めて小さな約束を交わした。
それからふたりは、来る日も来る夜もずっと一緒だった。共に食事をして、共に眠ることで、この幼い首座の守護聖達が一日を穏やかに過ごしてくれるならば・・それは他の守護聖達の願いであり、同時に女王の願いでもあった。そう遠くない未来に、自分達より遥かに年若いこのふたりが女王の両翼となり、宇宙を背負うことになる。それは時に苛酷な運命を彼らに課すことになるだろう。他の守護聖達は、ジュリアスにクラヴィス、クラヴィスにジュリアスという存在があったことを女王に感謝して、ふたりを暖かく見守った。
聖地には珍しい雨の日、水かさの増えた湖で泳ぎ、皆を心配させたこと、珍しい花を咲かせたという緑の守護聖の庭に忍び込んで花冠を作ったこと。流星雨の夜、ふたりで邸のバルコニーで夜を明かし、風邪をひいたこと。
「・・こんなにも覚えている・・私だけが・・」
眠れないクラヴィスの頬を涙が伝う。
外はまだ冷たい雨の音。