消失
ある朝、ジュリアスがクラヴィスに言った。
「そなた、馬に乗ったことがあるか?」
「ううん、馬車にはあるけど・・」
クラヴィスの小さな返事にジュリアスはくすりと笑った。
「ならば、私と乗馬の練習をせぬか?楽しいらしいぞ。」
ジュリアスは、その蒼い瞳の色をいっそう輝かせて言った。それは我ながら素晴らしいことを思いついたとばかりに、白く小さな手を合わせてどこか得意げだった。
クラヴィスはジュリアスの笑顔が好きだった。晴れた空の色を綺麗に写し取った蒼い瞳、笑うとその輝きがいっそう増してクラヴィスを魅了した。その笑顔を見るためなら、クラヴィスはどんなことでもしようと子供心に思っていた。
ふたりに小馬が用意された。クラヴィスにはその黒い髪と同じ黒い子馬、ジュリアスには金色の髪に似合う白い子馬。教えるのは軍人の家に育った炎の守護聖だった。ふたりは、促されるままそれぞれの馬に跨った。
「さっ、まずは姿勢からだな。こら、クラヴィス。背中を伸ばせ。うん、ジュリアスはなかなかいいぞ。」
ふたりは必死の形相で、手綱を握り、なんとか姿勢を保とうとする。しかし、子馬はじっとはしてくれない。そわそわと右左に顔を向けようとする。
「ほらほら、馬達は分かってるんだぞ。おまえ達が怖がっているといつまでも馬はおとなしくしてくれない。そら、クラヴィス震えるんじゃあない。」
炎の守護聖の最後の言葉に、ジュリアスから思わず笑みが零れた。
「クラヴィス、ほらこうするのだ。」
手綱を握り、背中を反らせるほど反らした。
「こら、ジュリアス!それじゃあ、反らしすぎだ。」
今度はその言葉にクラヴィスが笑う。そんなムードで、ふたりの緊張も解け、馬たちもそれを知ってか知らぬかおとなしく生まれたばかりの騎手に従っている。
「この者たちを邸に連れ帰ってもよいか?」
ジュリアスがふいに言った。守護聖は邸に馬を飼うのは珍しいことではない。聖地では馬はなくてはならない交通手段であるから。ただ、通常は馬車を使うのがほとんどで、乗馬をする守護聖は少ない。このふたりに、馬を飼わせることは、まだ少し早いのではないかという不安も脳裏を掠めたが、結局ジュリアスとそれに味方するクラヴィスに押しきられる形で炎の守護聖は渋々頷いた。
「だから、けっして、ふたりではまだ乗馬をしてはならぬ。それだけが約束だ。いいな。」
「はい。」
ふたりは、それぞれの馬のために馬小屋を用意させ、草も手ずから食べさせた。日に日に、心が通い合うのを感じる。乗馬も日毎に上達していった。
「よおし、ふたりともよく上達したな。今日は湖まで行ってみようと思うのだが・・?」
ある日、炎の守護聖が悪戯っぽい瞳を二人に向けた。
「乗馬で、湖まで?」
ジュリアスが蒼い瞳で聞いた。今までは乗馬の練習は邸の庭で行われ、ふたりはまだ遠乗りをしたことがなかったのである。
「なんだ?ジュリアス、怖いのか?」
炎の守護聖が意外そうに聞く。
「そ、そんなことあるわけない。行くぞクラヴィス。」
ジュリアスが大きく言った。その大きすぎる声に、クラヴィスと炎の守護聖は目を合わせて笑った。
そして・・
クラヴィスは、ああとその冷たい掌を自分の額にあて、首を振った。これ以上は思い出したくない。しかし、そんな思いと裏腹に、記憶の糸はするすると解かれていく。雨の音がクラヴィスに思い出したくない過去をつきつける。
そうだ、あの日、湖に行った帰り、俄かに雨が降り始めた。聖地にはめったに雨が降らない、月に何度か降る雨の日時はあらかじめ王立研究院より予告がなされている。この日は、ちょうどその雨の日にあたっていたのだ。それを忘れていたのか、知っていて大丈夫だとたかを括ってしまったのかもう忘れてしまった。ただあの後の、炎の守護聖が厳しく罰せられたのは紛れもない事実。
そう、突然の雨に驚いた聖地育ちの子馬達は驚き、慄いた。子馬たちは、前に後に足を高く上げ、主たちを振り落とそうとする。
「ふたりとも、手綱を放すな、落ちつけ!!」
炎の守護聖の怒声が森に響く。そして、突如灰色の空に雷鳴がとどろき、閃光が走った。子馬たちは錯乱した。その時、クラヴィスの黒馬がぬかるみに足をとられ、クラヴィスが手綱から両手を離してしまった。ほうり投げ出された形になったクラヴィスの姿を視界に捉えたジュリアスが両手で抱きとめようとした。
「ジュリアス―――!」
炎の守護聖の叫び声と何かが大樹にぶつかる鈍い音。
消失 ――Clavis Side
私が目覚めたのは、それから4日目の夕方だったという。ほっとした顔の水の守護聖と目があった。私はきょろきょろと周りを見まわし、心にどうしようもない不安がよぎった。
「ジュリアスは・・?」
1番聞きたいことを聞こうと、起き上がろうとして、足の激痛に顔をしかめた。
「ほらほら、無理をしないように。足の骨が折れているのですから。」
水の守護聖が肩に手を添えた。
「ジュリアスは?」
もう一度聞いた。
「え、ええ、大丈夫ですよ。肩を少し切って・・」
「けがしたの?」
「・・でもあなたの方が重傷ですよ。」
そう言う水の守護聖の様子がどこかよそよそしく私を不安にさせた。
「ジュリアスに会いたいんだけど・・。」
水の守護聖が一瞬悲しい顔をしたのを私は見逃さなかった。
「い、今は無理です。もう少ししたら呼びましょうね。」
不安な気持ちがどんどん膨らむ。
「いやだ!今すぐ会いたいんだ。」
自分でも驚くほどの大声を上げた。体を動かす度にくる激痛の波もジュリアスへの会いたさへの前では無力であった。私を押し留めようとする水の守護聖と泣き喚く私。
その時扉が開いた。
「クラヴィス!お静まりなさい。」
その声は、女王補佐官だった。彼女は美しく聡明で、母の面影さえおぼろげになる私達の母であり、姉のような存在であった。彼女の顔からはいつもの明るさはすっかり消えて、白い顔に疲労の影が濃く映し出されていた。
「・・あなたのジュリアスへの気持ちはわかります。私もあなたにジュリアスを会わせてあげたい。でも、その前に、あなたにお話しなければならないことがあります。」
「…・・!!」
水の守護聖が女王補佐官の名前を呼んだ。
「いいのです。クラヴィスは知らなければならないのですから。」
「・・ですが・・」
言いよどむ水の守護聖を補佐官はその白い手で制した。
「ジュリアスがどうかしたの?」
鼓動が早まる。悪い予感が頭によぎる。
補佐官は、寝台に起きあがっている私の側に跪くように座り、私の手を両手で包み、小さく息を吸った。
「よく聞いて、クラヴィス。ジュリアスは、もうあなたの知っているジュリアスではないの。」
「え?」
意味がよくわからない。
「ジュリアスは、馬から落ちて頭を強く打ったの。今までのことは全部忘れてしまったの。私のことも、そしてあなたのことも・・」
意味が分からないまま、補佐官と水の守護聖の顔を交互に見つめた。眉が哀しげに寄せられている。ジュリアスが全部忘れたっていったいどういうことなの?もしかして僕のことを?一緒に遊んだことも?自然に涙が溢れてくる。そんな恐ろしい疑問を私は大声で否定した。
「う、嘘だ!ジュリアスは僕を忘れてなんかない!いつも一緒にいるって約束したもの。朝も昼も夜もずっと一緒にいようって約束したんだから。・・ジュリアス!・・ねえ、お願いジュリアスに会わせて!会わせてよ!」
補佐官は、水の守護聖を見上げた。補佐官は私から少し離れて、水の守護聖と何か言葉を交わした。そして、泣きじゃくる私に補佐官が諦めたような顔をして言ったのだ。
「・・わかりました。ジュリアスを連れてきましょう。・・手配をお願いいたします。」
水の守護聖は頷くと踵を返して、部屋を出て行った。
嘘だと思った。嘘だと思いたかった、あの扉が開けば、ジュリアスはいつものようにあの笑顔で笑いかけてくれるはずだ。「そなたは、全く仕方ないな。」とわざと大人ぶった様子を見せるのだ。
どれだけ時間が経ったろうか、小さなノックの音に扉がゆっくりと開いた。
「ジュリアス!!」
地の守護聖に連れられて入ってきたジュリアスの姿に私は愕然とした。金色の髪、蒼い瞳。外見は何ひとつ変わっていないのに、あきらかに違うこと。ジュリアスの蒼い瞳は私を映さない、その色は青く澄み、輝きも失われていないのに、そうジュリアスは、まるで美しい人形のようだった。
「ジュリアス?」
思いきり笑顔で呼びかけてみる。答はない。瞬き一つしない瞳も私の方に向いているだけだ。何も見えないのか、何も聞こえていないのか?
「クラヴィス、ジュリアスには記憶の注入を行うことになりました。」
補佐官が青い顔をして告げた。
「記憶の注入?」
「そうです。宇宙のこと、女王陛下のこと、サクリアのこと、守護聖のこと。知っておかなければならないことをジュリアスに戻してやるのです。」
私は、遠い目をしているジュリアスを見つめる。
「じゃあ、僕のことも思い出すの?」
ジュリアスの両肩に手を乗せている地の守護聖は首をふった。
「判るのは、闇の守護聖だということだけ・・」
「・・!!・・どうして!?僕との思い出も戻してよ。星を見たり、泳いだり、一緒に眠ったことを思い出させてよ。」
「無理なのですよ、クラヴィス。記憶の注入は知識だけしか行えないのですよ。」
水の守護聖が私をなだめた。
「いやだ、僕だけが覚えているの?ジュリアスと遊んだこと。それなら、僕も忘れさせてよ。ねえ、そうして!それならもう一度始められる。ねえ、お願いだから。」
「クラヴィス!あなたはこの宇宙でたったひとりの闇の守護聖です。勝手は女王陛下への冒涜となります。耐えるのです、ジュリアスのためにも・・」
補佐官は涙声になっていた。
「大丈夫、あなた達がとても仲が良かったことは、私達がいつまでも覚えていますよ。ジュリアスはその思い出を宝の箱に閉じ込めたのです。鍵は無くしてしまったけれど、いつまでもその箱を胸に抱いていることでしょう。」
地の守護聖の声にも、私を抱きしめた補佐官の細い腕も、このときの私には何の慰めにもなりはしなかった。
翌日、ジュリアスに記憶の注入が行われたと聞いた。
ジュリアスは私との想い出も約束も永遠に忘れてしまったのだ。
私はあの日から乗馬はしない・・