花恋

ふ〜と大きなため息をついて、自分の執務室の扉を開けたルヴァは、部屋の中のその乱雑さに顔をしかめた。

「ああ、これは大変なことになりましたね〜。」

造り付とばかりに思っていた壁面の大きな本棚が倒れてしまい、ほとんどの本は床に散らばっていたり、本棚の下敷きになっていたり。ルヴァが再び大きな溜息をついて、いったいどこから手をつけようかと思案している所へ、ゼフェルが顔を覗ける。

「ひでえ〜どうすんだよ、これ?」

「ああ、ゼフェル。あなたの所は大丈夫でしたか?」

「俺はほとんど物置いていないからな。おっさんとこだけだぜ、こんな大きな本棚が執務室に置いてあるのはよ。」

「ああ、そうでしたかねえ〜」

「何、呑気に言ってんだ?おまえあの時ここにいたら死んでたぜ。」

ゼフェルの言葉にルヴァは部屋の中を見渡す。そういえば、執務机の上に覆い被さるように本棚が倒れている。ルヴァは下敷きになった自分を想像してぞっとした。

「それよかさ、早く片してしまおうぜ。ランデイとマルセルも呼んで来てやっからよ。」

ゼフェルはそう言うと再び部屋を出て、廊下へ走り出してしまった。

こういう事態には結構強い鋼の守護聖である。

ルヴァは、その温和な顔に微笑を浮かべると床に散らばる本を幾つか拾い上げた。その中にずっと探していた本を見つけてクスリと笑う。こんなもんですよね〜と言いながら。そして、ふと茶色の革表紙に金糸で縁取りのある本を見つける。上質で品のいいそのデザインにルヴァの手が思わず伸びる。それは、タイトルのない日記のようであった。パラパラとめくるルヴァの指が突然止まる。

「これは…」

その時、ばたばたと廊下を走る音が聞こえて、少年達の声が近くなった。ルヴァは慌ててそれを手近にあった自分のかばんに押しこめた。

「ルヴァ様!!お手伝いに来ました。」

風の守護聖の明るい声に、

「ええ、お願いしますよ。」

と答えたルヴァの声は、微かに震えていた。

☆☆☆☆

リュミエールはその美麗な深夜の訪問者に驚いた。

「クラヴィスの具合は?」

「ええ、今は薬で眠っていらっしゃいます。」

「会えるか?」

「その奥の部屋です。」

頷いたジュリアスは、リュミエールにその夜には似つかわしくないほど輝く瞳をむけて、少し咎めるような口調で言った。

「リュミエール、そなたはもう邸に戻れ。顔色が悪い。」

「ですが・・」

戸惑うリュミエールにジュリアスが小さく顔を振る。

「よい、あとは私が・・外に待たしてある私の馬車を使うといい」

そう言い放って、後姿を見せたジュリアスの白いローブに今朝のクラヴィスの血がついたままなのをリュミエールは見とめる。

執務の帰りにお越しになったのか、しかもこんな時間まで・・。

リュミエールはため息をついてその端正な顔に、哀しげに眉を寄せた。

灯りが小さく灯されたその部屋は、調度品のない殺風景な部屋。それでもその主の司る力に似るのか、安らかで落ちつける空間である。

「花のひとつも持って来れば良かったか・・」

そんなことを呟いて、ジュリアスは部屋の隅に置かれた天蓋の寝台に近づくと、そこに横たわるこの部屋の主を覗きこむ。

肩に巻かれた白い包帯が痛々しい。青白い頬、固く閉じられた瞳を縁取る睫毛も形のよい唇もこんなに見つめるのは初めてな気がする。

「なぜ、私を庇った・・」

ジュリアスは寝台の側に跪くとクラヴィスを覗きこんで言った。

「痛むか・・?」

と呟いて、自分の胸が締付けられるように痛むのを感じる。今、紫色をまとう麗人は微動だにしない。

「そなたは、愚かだ。いつもは呼び出しにも応じぬくせに、こんな時に限って出席などするから。」

そっとその頬に手を伸ばして、その肌のぬくもりにため息をつく。

「・・私も愚かか、こんな時でさえ、そなたに礼のひとつも言えぬのだから。」

すまないとジュリアスの唇が動く。こうしていると、今朝の出来事が甦ってくる。

あの時、名前を呼ばれて、抱きしめられた。

あのぬくもりを私は知っているような気がした。

あの時、一瞬微笑んだクラヴィス。

あの笑顔を私はずっと昔から知っていたような気がした。

そんなはずあるはずないのに。

「どうして、私達はこんなにも、離れてしまったのだろうな・・」

ジュリアスは側にあった長椅子に、床に座りこんだままもたれかかると、瞳を閉じた。疲労したジュリアスに、その部屋に残る闇のサクリアは優しく、ジュリアスは、久しぶりに安らかな眠りを手に入れた。

☆☆☆☆

深く暗い森の入り口で、いつまでも泣いている少年がいる。

黒い髪の後姿。

近づいてみると、その少年は嗚咽をくり返し、うわごとのように人の名前を呼び続けていた。

たったひとりの名、ジュリアスと。

『どうした?』

尋ねてみると、ジュリアスを見失ったと言う。

『この森の中ではないのか?』

私は意地悪く、その暗い森を指差す。

少年は、分かってはいるが、怖くてその森には入れないと言う。私は尚も冷たく言い放つ。

『本当に大切な者なら、探しに行けるはずではないのか?もし、行けないと言うなら、その者はおまえにとってそれだけの者だったのだ。』

私の言葉にその少年はまだ濡れた紫の瞳をきっと吊り上げて、ずんずんと森の中へ入っていく。

私も後を追いかける。そこは魑魅魍魎が巣くう森、魔物達はあの手この手で少年を引きとめる。

どれだけ歩いたろう?

森の中に一筋の光が差し込む場所、そこに輝く小さな後姿を見つける。

「ジュリアス。」

名前を呼ぶと、振り向いた金色の髪をした少年が駆け寄ってくる。思わずこの腕に抱きとめた。

「クラヴィス、きっと迎えに来てくれると思ってた。」

金色の少年は、嬉しそうに微笑む。

背中に回されたその手のぬくもりを確かに感じながら、あの少年は私だと確信する。

どこからか懐かしい花の香りがする、甘くてせつない遠い記憶の中の香り。

 

 

「クラ、クラヴィス様、お目覚めですか?」

リュミエールの心配そうな声で、クラヴィスは夢から現実へ引き戻された。

「あ、ああ。」

答えながら、カーテンの隙間から差し込んでくる光の眩しさに思わず目をそむける。ふと、近くにあるテイーテーブルに置かれた、零れるほどの白い花に目が止まった。

「あれは?」

「先ほど、ジュリアス様が届けられたのですよ。ご自分のお屋敷に咲いていたからとおっしゃって。」

「ジュリアスが?」

クラヴィスの驚いた顔を見たリュミエールが、微笑みを見せた。

「そうです、それに昨夜は一晩中あの方が付いていらっしゃったのですよ。自分が代わるからと言われて。」

「それで、ジュリアスは・・?」

少しかすれた声でクラヴィスは聞いた。

「今朝、執務に戻られましたが・・」

リュミエールの答えに、クラヴィスはホッとしたような、それでいて残念であるかのような複雑で苦い思いを感じる。息を吸い込むと甘い香りが胸に広がり、クラヴィスを包み込む。

「傷が、痛みますか?」

リュミエールの気遣う言葉にクラヴィスは小さく顔をふった。

「・・リュミエール、おまえはこの花の名を知っているのか?」

クラヴィスの意外な問いに、リュミエールは戸惑いながら答えた。

「え、ええ。リラと言います。花言葉は青春の喜び。」

リラ・・クラヴィスは小さく呟いて、やがて、リュミエールに言った。

「おまえももうよい。執務に戻るがいい。」

「クラヴィス様・・?」

クラヴィスは、戸惑いの隠せないリュミエールに静かに続けた。

「あれが・・忙しなくしているだろうから・・」

頼むとクラヴィスの紫の瞳が言っているように、リュミエールは感じて、立ち上がった。

リュミエールが部屋を出て行くと、クラヴィスは、手を伸ばして、甘い香りを放つその白い花房にそっと触れた。ほろほろと小さな花が零れた。

「・・リラか・・」

美しくて薫り高く、そしてはたで見るよりずっと脆い、それはまるでジュリアスのようだとクラヴィスは思う。

大理石の塑像の砕け散る音、血の海に倒れるジュリアス、それは水晶球が告げた近い未来。話したところでジュリアスが聞き入れるはずはない、クラヴィスに選択肢はなかった。私が守ろう・・クラヴィスは決意した。

「おまえを二度も失うわけにはいかなかった。」

クラヴィスはその白い花の香りをもう一度大きく吸った。