奥城
「・・嘘だ・・」
ジュリアスは呆然としてその日記帳を閉じると机の上に静かに置いた。指の震えが止まらない。
「知らない、私は知らない、クラヴィスとの思い出など、私は知らない・・」
ジュリアスは、大きく首を振り、自分を落ちつかせるために、息を吸いこんだ。けれど、早まった胸の鼓動は収まるどころかますます早まっていく。
ルヴァから渡された1冊の古いけれど装丁の美しい、一目でそれと分かる日記帳。右上がりの癖のある文字は前の地の守護聖のもの。首座として何度も目を通した書類上の彼の文字をジュリアスが見誤るわけがない。ルヴァとはまた違う柔和な物腰、時折寂しげな笑顔をジュリアスに向ける年上のその人は、かなり長い間ジュリアスと守護聖の任を共にしていた。
思わず食い入るように読み進めた。
ある日、突然始まった宇宙の崩壊、衰えて行く女王の力、次々と聖地を追われるように去っていく仲間の守護聖たち。己の力が持つ限界を知ってする苦悩。
緩やかな崩壊と新しい力を待つ現在よりも、急激な崩壊を迎えたその当時の聖地は今よりもっと深刻な事態を迎えていた。
ある日、首座である光の守護聖のサクリアが、衰えの兆しを見せた。新しい光の守護聖が聖地に赴任した、目の覚めるような金色の髪と青空の瞳を持つ美しい少年。持って生まれたその力が為せる業なのか、彼は既に首座としての威厳と強大な力を手にしていた。この宇宙が誰もが待ち望んでいた完璧な光の守護聖であった。ただ、彼が守護聖として年齢的に幼すぎるという点を除いて。闇の守護聖の庇護のもと、その光の守護聖は守護聖として、人として生きる術を学んだ。殺伐として美しいだけの聖地に時折笑い声が聞こえるようになった。
やがて、彼がひとりでそのサクリアを操れるようになった頃、闇の守護聖が交代した。夜空の色をした髪、黒曜石の瞳、闇のサクリアの申し子ともいうべき彼は、その年頃までも光の守護聖と対であった。長年その座にあって、守護聖を束ねてきた闇の守護聖が聖地を去ったことは痛手ではあったが、新しい闇の守護聖は光の守護聖と共に聖地に、宇宙に新しい風を運んできた。ふたりの幼い筆頭守護聖はその体に似合わない強大な力で宇宙の崩壊を留め、絶望に沈んでいた聖地に一陣の風を運んできたのだ。
それを守護聖達は「希望」と呼んだ。
幼い光と闇の守護聖は、女王の願いで、下界の子供と同じような日常生活を送れるようにと配慮された。
大声で笑い、時には泣き、けんかもした。幼いふたりは、片方の手で宇宙を支えながら、もう一方の手でお互いの手を握り締めていた。
そう、あの雨の日までは……・
「どうして、気付かなかった・・」
ジュリアスは唇をきつく噛んだ。
どうしても思い出せなかった幼い頃の記憶、子供の頃の出来事。まさか、自分に記憶処理が施されているなど考えたこともなかった。自分は幼い頃から、聖地で守護聖の任についていたから、人並みの少年時代など存在していないと思っていた。それは、クラヴィスも同じことで、クラヴィスの口から昔話などついぞ出たことはない。
「クラヴィス・・」
ジュリアスは、思わず瞳を閉じた。
ジュリアスのために、自分の思い出さえ口にすることはなかった、できなかったクラヴィスをジュリアスは想う。
私のためにそなたも過去を捨てたのか・・
忘れてしまった自分よりも、忘れなければならなかったクラヴィスの方が何倍も辛かったと思う。
「すまない・・クラヴィス・・。」
ジュリアスは、思わず冷たい床に膝を落とした。
「けれど・・私は・・そなたとこのような日々を送っていたのだな・・星を共に見て、湖で共に過ごし、共に眠り・・ああ・・どうしてか、たまらなく嬉しい・・私にはこんな思い出があった・・」
ジュリアスは頬を伝う暖かいものが涙であるとようやく気付く。
泣けない夜を何度もジュリアスは過ごしてきた。私は光の守護聖だから、首座なのだからと歯を食いしばって涙をこらえた夜もあった。
「私は・・泣けるのか・・」
ジュリアスは零れ落ちる涙を両手で受けながら、そう呟いた。
思い出したというのは、嘘かもしれない。けれど、日記に書かれた場面を、どれもジュリアスは色鮮やかに思い浮かべることができた。幼い自分がクラヴィスと共に過ごしていた季節、ジュリアスがずっと欲しくて、ずっと諦めて来たもの。
あの紫の瞳が他の誰かに優しく向けられるのを見ると、いつも胸が小さく痛んだ。あの声で名前を呼ばれ、心が引き摺られていくそのわけが知りたかった。微かに香る白檀の香りに、翻弄されそうになるそんな自分を認めたくなかった。
他の誰よりも気になって、他の誰よりも苦手だった。自分をこんな気持ちにさせる者はいつもクラヴィスだけだったから。叱咤したこともある、傷つけたこともある、それゆえ、自ら傷ついたこともある。
そのわけをジュリアスはようやく気づいた。
「ずっと、そばにいて欲しかっただけだった・・」
ジュリアスは、クラヴィスがたとえ自分を嫌っていても、これだけは言っておかなければならないと思った。感謝と謝罪と自分の本当の気持ち。
「早く帰って来い・・」
そう言ったジュリアスの蒼い瞳は、穏やかで優しい色を湛えていた。
惑星ガーデイアンに降りたクラヴィスの行方は容易に割り出せた。彼が使った緊急脱出ボートには、発信装置がついており、遠くはなれた聖地まではさすがに届かないが、ガーデイアンの惑星圏内に入ればその位置を割り出すことは難しくない。
クラヴィスがいた場所は、大都市から遥かに離れた美しい海岸であった。オスカーとリュミエールによって窮地を救われ、クラヴィスによって安らぎを得たこの惑星は、目に見えて再生への道を辿ろうとしていた。
ルヴァは波打ち際に、クラヴィスを見つけた。いつか読んだ遠い星の神話の挿絵から、抜け出たような神々しい姿にルヴァは感嘆のため息をついた。
「遅くなりましたね・・クラヴィス。」
名前を呼ばれたクラヴィスは、ちらりとルヴァに目をやった後、また海の彼方を見つめた。
「ルヴァ・・ここは、美しいであろう?」
聖地では決して見ることの出来ないクラヴィスの穏やかな横顔、光の祝福を受けると紫に輝く瞳は彼の持つ本来の優しさを醸し出している。
「そうですね、砂漠の星で生まれ育った私には、信じられないほどに・・」
ルヴァがクラヴィスに近づきながら言う。
「人は生まれる星を選べぬ、誰もが海のある星で生まれるわけではない・・」
海の風がクラヴィスの黒髪をさらっていく。優しい風は時にひとを、こんなにも美しく見せるものかとルヴァは思う。小さな波のさざめく音だけが聞こえる。
「ここは、私の思いの奥城にふさわしい場所とは思わぬか・・」
「クラヴィス?」
薄く笑ったクラヴィスは、足元にかかる波しぶきを気に留めるふうでもなく、海へ一歩踏み入る。
「そのような、哀しいことを・・」
ルヴァが眉をひそめて首を小さく振った。
「私は長い間の物思いをこの場所でなら捨ててしまえる気がするのだ・・」
クラヴィスは屈んで、両手で海水をすくった。細い指先から流れ落ちていくのは、ジュリアスへの言えない想いなのか、ルヴァは光っては消え、海面に呑まれて行くその水のしずくに目を奪われていた。
「ルヴァ、笑ってもいい・・私は・・私の心はあの日のままだ。あれを救えなかった幼い私と聖地。憎んでも憎みきれぬ。」
クラヴィスの言葉を聞きながら、ルヴァは以前読んだ書物の言葉を思い出していた。憎むのには理由がある、けれど愛するのに理由はない、と。きっと、クラヴィスは聖地を憎みながら、ジュリアスの存在する聖地をまた愛してもいるのだろう。自分では気づかぬうちに。
ルヴァは、クラヴィスとジュリアスを救いたいと思った。そして救えるのは、自分ではなく、おのおの互いしかいないのだ。
ジュリアスを傷つけるのを覚悟で置いてきたあの日記。ルヴァは、クラヴィスに言った。
「それなら、もう1度救えばいいのですよ。」
怪訝な顔を向けたクラヴィスに、ルヴァは優しく微笑んだ。
「すみません、私はあなたとの約束を破ってしまったんですよ。あの日記をジュリアスに渡して来てしまったのです。」
「ルヴァ!」
クラヴィスの紫水晶の瞳が鋭く光る。
「あなたはもう充分苦しんだはずです、もう楽になってもよいのですよ。」
「馬鹿な・・ジュリアスは・・あれは何も知らぬのだ。知れば、どのように苦しむか・・」
クラヴィスは奥歯を噛んで、首を小さく振った。
「そう思われるならば、あなたが、ジュリアスの力になって差し上げればよろしいのです。そして、それはあなたしかできないことなのですよ。」
「・・あれが私の救いの手など受けるものか。」
「クラヴィス、ジュリアスはあなたを待っていますよ。睡眠も食事も摂らず、あなたの帰りをね。帰りましょう、ジュリアスの元へ。」
海のさざめきの中、ルヴァの穏やかな声がクラヴィスの耳に届く。
瞳を落として見つめた海の青さが、かの人の沈んだ瞳の色に見えて、クラヴィスは拳を握った。