星の雫

「・・ジュリアス様、馬車をご用意いたしましょうか?」

書類を受け取った文官は、一向にペンを下ろさぬ様子の光の守護聖にそう言った。

「ああ、もうそのような時間か・・」

ジュリアスは、ガラス窓へと目を向けた。執務室にある広いガラス窓の外はすっかり暗くなっていて、中庭を照らす灯りが微かに見えるほどだ。

「今夜は、雨だったな・・」

「あと、2時間ほどでかなりの雨になるようです。」

呟くように言ったジュリアスの言葉に、文官は答えた。

「そうか、では今夜は早めに帰るとしよう。だが、馬車はよい。」

早めというジュリアスの言葉に文官は、もうどなたも執務室にはいらっしゃらないという言葉を呑み込んだ。

 

聖殿を出てジュリアスの見上げた空は、雲に覆われて、星ひとつ見えない。雨を見越してか人気も少なく、煙るような闇の深い夜、聖殿から邸までの僅かな距離をひとり歩けば、いつも熱を帯びているような体が冷えていく気がした。雨が降るこんな夜、ひとり聖地を歩くのがジュリアスは好きだった。いつも眩しいほどの聖地の輝きが、時折ジュリアスを苛むことをきっと誰一人知らない。誇りを与え、ひとの行く道を照らす光の守護聖が、こんな思いに捕らわれていることなどきっと誰も知らないでいる。

それから幾度目かの雨の夜、同じように暗い空を見上げるジュリアスの姿が聖地にあった。

「・・心地よい・・」

まるで闇の中に抱かれているようだとジュリアスは思った。記憶の奥に沈めた夜、たった一度だけ闇の化身に抱かれた。何も言わず、何も問わず、そしてあれからふたりはお互いを見なくなった。まるで、何かを紛らわすためだけに体を重ねた行きずりの者達のようだったと、ジュリアスは、あの夜を思い出す。

「今更だな・・」

あの夜のことを忘れたことはない、けれど変わってしまった。この宇宙も、私達も。思いを告げれば、続いていたのだろうか、ジュリアスは自分に問いかけて、小さく首を振る。崩壊直前の宇宙の中で、持って行き場のない気持ちをお互いぶつけ合っただけだ。クラヴィスにとっては私でなくても、私にとってクラヴィスでなくても良かったのだ。
今まで幾度もそうしてきたように、今夜も、ジュリアスはそう自分に言って聞かせた。

「そう・・今更だ・・」

光の邸の灯りが微かに見え始めた頃、前を横切る者の姿にジュリアスは目を見張った。漆黒の中に溶け込んでしまいそうなその姿を見間違えるはずはない。

「クラヴィス・・?」

こんな夜更けに何処へ行こうとしているのか、ジュリアスはその後を追った。

「湖か・・」

闇の中できらめく波の飛沫を見つめるクラヴィスの背中を見つけた。僅かに届く何処からかの光が、風で波立つ湖面に光の雫をつくる。浮かび上がる自分より僅かに大きい後姿。

「クラヴィス・・」

唇だけがそう言った。聞こえないはずの声がまるで届いたかのように、クラヴィスはゆっくりと振り向いた。

「・・ジュリアス・・おまえか?」

いきなり名前を呼ばれて、ジュリアスは息をのんだ。自分を見つめる視線から逃れるように、目を逸らし、僅かに早口で言った。

「・・どうしたのだ、このような夜更けに、供も連れぬとは危ないではないか。」

「フッ・・おまえこそどうだ、光の守護聖どのには似合わぬ闇夜だが・・」

クラヴィスは小さく笑い、そう言いながら、ゆっくりとジュリアスに近づいてくる。

「私は・・聖殿から邸への帰り道だ。」

早まる鼓動を押さえるように、ジュリアスは息を吸った。思えば、ふたりでたわいない会話を最後にしたのはいつだったろう。頭の片隅でそんなことを思いながら、ジュリアスは続く言葉を探した。

「そなた、何をしていたのだ?」

「私か・・目を閉じてここに立てば、静寂の中、微かな波音だけが聞こえる・・その時だけは何もかも忘れてしまえる気がするのだ・・」

そう言ってクラヴィスは瞳を閉じた。僅かな光を頼りに見つめたクラヴィスの姿は、深紫の瞳も漆黒の髪も白い指先もすべて湖の神に魅入られてしまうのではないかと思うほど美しかった。このまま目をそらしてしまえば、もう二度と会えなくなってしまいそうな不安がジュリアスを襲った。

「・・クラヴィス!」

不安を打ち消すように、ジュリアスは叫んで、クラヴィスの手首を掴んだ。瞬間クラヴィスの瞳が開き、それはやるせなさを宿してジュリアスを見た。

「ジュリアス?」

クラヴィスの唇がそう動いた時、急に雨が激しい音を立ててふたりに降り注いだ。
ジュリアスは、咄嗟にクラヴィスの手首を引き、大樹の蔭へと急いだ。

「こんなに濡れて・・風邪をひいたら何とする?」

ジュリアスは、クラヴィスの黒髪を自分の着ていた外套で拭きながら言った。

「・・ジュリアス、おまえは変わらぬな・・」

クラヴィスの視線と言葉に我にかえったジュリアスの手がふいに止まった。

「・・クラヴィス」

ジュリアスが名前を呼んだその唇は、その名の主の濡れた唇に塞がれた。
あの夜と同じだ、触れてしまえば戻れなくなってしまう。

「・・やっ・・やめっ・・」

胸を押しのけて、ジュリアスはようやくそれだけを言った。視線が絡まる、ジュリアスの視線がクラヴィスにどういうつもりかと問いかけていた。
それに答えるかわりに、クラヴィスは諦めたように、息をついた。

「・・もう私に構うな」

そう小さく言ってから、雨の中、踵を返し、ジュリアスからゆっくりと離れていった。その背中をジュリアスは、あの夜と重ねた。体の熱がまだ冷めぬやらぬあの夜、クラヴィスは何も言わず、背中を向けて部屋を出ていった。何も言わないクラヴィスに、ジュリアスもまた何も言えなかった、あの頃の私達には未来といえるものは何一つなかったから。だけど、今なら、今はあの時と違う。新しい女王を戴いた新宇宙、平和な毎日、私達は初めからやり直せるかもしれない。

「そなたはいつも、そうやってひとりで完結してしまうのだな。何も言わないで、またあの時と同じことを繰り返すのか。」

ジュリアスは、クラヴィスの背中にそう問いかけた。

「そなただけが、絶望の淵にいると思うな。私がどれだけ悩んだと思う、そなたと共に夜を過ごしたのは私の部屋だ。夜が来る度、そなたをどれだけ想ったか、どれほど恋しいと思ったか。」

そうだ、いつまでも残り香の香る部屋で、眠るたびにクラヴィスの姿を探す夢を見た。それでも何も言えず、何も聞かなかった。怖かったのだ、何かを聞いてしまうのが。「あれはなぐさめだ。」と言われてしまいそうで、たった一度のあの夜に執着しているのは自分だけのような気がして。

「・・ジュリアス・・」

クラヴィスは足を止めて、振り返った。雨の雫が髪の先から肩へと落ちた。

「そなたは、私を愛しているのか?」

ジュリアスは、そう言って唇を噛んだ。

明日が見えないあの頃の私達は、まるで何かから逃れるかのように、体を重ねてしまった。けれど、ふたりの心の奥にある想いが、今、同じだとしたら。ジュリアスは、賭けたいと思った。遠い夜に埋めた想いはクラヴィスも自分と同じだったと。同じであって欲しいと。

クラヴィスは、ジュリアスの瞳を長い間見つめた。そして、クラヴィスはゆっくりと告げた。

「・・そうだ・・あの夜も・・今宵も・・おまえだけを愛している・・」と。

雨はふたりの上に降り続く。悲しみも寂しさもすべてを流し去るように。
ジュリアスは、思った。これで、もう二度と哀しい夢を見ずにすむ、ひとりで雨の夜を越えずにすむと。

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昔、ふたりで見た星空がもうないように、
私達も変わってしまったけれど

あなたの心があの夜と同じ場所にあるならば

私の心はいつもあなたのためにあるだろう


FIN