SOREKARA

「・・美しいな。」

とジュリアスの唇が、小さく動いたような気がした。

微かな潮の香りを運ぶ風が、頬にかかる金糸の髪を攫って、隙のない美しい横顔を際立たせる。時に人を射るような鋭い光を見せる蒼い瞳も、今日は長い睫毛が優しい翳をつくっている。

ジュリアスは、もう何時間もこうして、初めて目にしたこの海を見ていた。

美しい風景は見慣れている。ふたりがその過ごしてきた時間のほとんどを送ってきた聖地という場所は、この宇宙の何千、何万の星のどこより美しい場所であったから。けれど、あの永遠に常春の続く楽園にたったひとつだけ存在しないもの――海。

白い砂浜に腰を降ろしたクラヴィスは、ジュリアスの横顔を、少し離れたところで見つめていた。

海を見つめるジュリアスが、見慣れている自分でさえも、息を呑むほど美しかったので、このまま海神に魅入られて、連れ去られてしまうのではないかとさえ思ってしまう。そんな自分に、クラヴィスは小さく苦笑いを浮かべた。

 

「・・どこを見ている?」

見上げると、ジュリアスが、微かに眉を寄せて見下ろしている。

「・・もう良いのか。」

と言ったクラヴィスの言葉がどこか呆れたような言い方を含んでいたので、ジュリアスは悪戯を見つけられたような子供のような無防備な顔を一瞬見せて、クラヴィスの隣に腰を降ろした。

「・・何故だろうか、海の前に立つと、私というものがとても小さく見える。それがとても心地よい。潮の香りも何故か懐かしい、生まれて初めて海を訪れたはずだというのに・・可笑しなものだな。」

ジュリアスは、そう言って小さく笑った。

「人は・・海から生まれたと聞いている。海に還りたいと願う心がおまえにあっても、可笑しいことなどなかろう。」

「・・海に還りたいと願う心・・か。」

そう言ったジュリアスの横顔が、どこか海よりもっと遠くを見ているような気がして、クラヴィスは小さく息をついた。

いつの頃からだったろう――ジュリアスが、こんなに淋しい表情(かお)をするようになったのは。きっと自分では気づいてさえいない、一番近くにいるクラヴィスでさえ、数えるほどしか見ていないのだから、それもいつもほんの一瞬。幼い頃からジュリアスは、凛とした強さを感じさせる子供だった。声を立てて笑うことも泣くこともあまりなかった私達は、ある意味、可愛げのない子供だったのかもしれない。それでも、いつもジュリアスは、私よりずっと強かった。いつまでも只人に縛られ、守護聖になりきれない私をかばい続け、励まし、手を差し伸べてくれたのは幼い頃から、ジュリアスだった。思えば、私は奪うだけで、おまえに何か与えたことができたのだろうか・・

「・・は、そなたに似ている。」

と言ったジュリアスの声にふと我に返ったクラヴィスが、怪訝そうな顔をして、ジュリアスを見つめた。

「二度は言わぬ。」

ジュリアスは、ふいとまたクラヴィスに横顔を見せて、波の飛沫の輝きに瞳を細めた。

「何と私が似ていると言ったのだ?」

「もう言わぬ。聞かなかったそなたが悪いのだ。」

ジュリアスは、「いつもそなたは大事な話を聞かぬ。」と口で言いながら、唇の端をあげて可笑しそうにしている。

「それならよい、おまえが言いたくなるまでここにいるとする。」

クラヴィスは、知らないものが聞くと凍りつきそうなほどの抑揚のない声でそう言って、砂の上に長身を横たえて、瞳を伏せた。

クラヴィスの顔を覗き込んだジュリアスは、眉をよせて、小さく息をついた。

「本気か、風も出てきたし、戻ろう。風邪を引くぞ。」

ジュリアスの声にもクラヴィスはぴくりとも動かない。

「まったく・・そなたは・・」

ジュリアスは呆れたように言って、立ち上がろうとした。それを察したクラヴィスは、ジュリアスの長衣の裾を引き、身動きの取れないようにしてしまう。瞳を閉じたまま、自分の裾を握り締めているクラヴィスに、ジュリアスは寄せた眉を解き、大きくため息をついた。

「仕方ないな・・」

諦めたように呟いて、座りなおしながらジュリアスは思う。

いつもなら、このようなこと、許す私ではないのに、何故であろう、幼い頃からクラヴィスには勝てない。雨で、かさの増した湖で泳ごうと誘われた時も、聖地の門をこじあけて抜け出そうと誘われた時もそして初めて体を重ねた時も。今日、ここへ来たのも。いつもクラヴィスが言い出したこと。

けれど、今分かったことがある。クラヴィスの我儘を聞いてやっていたのではない、口に出せない私の代わりに、クラヴィスが代弁してきたのだ。私は、雨の中、湖で泳いでみたかったし、聖地を出て外界を見たかった、クラヴィスを愛して夜を共にしたかったし、海が見たかった。すべて、私の言えぬ願いだった。
クラヴィスの顔をそっとなぞる。伏せられた瞼、この下に私を魅了する紫の瞳がある。形の良い唇、ここから発せられた言葉で私は何度救われたのだろう。
ジュリアスは、もう一度息をつく。

「・・今日、ここに来てよかった。共にいるのがそなたで良かった。美しくて懐かしくて、見つめると胸が痛む。冷たいかと思うと優しくて、海は、そなたに似ている。」

ジュリアスは、満ち始めた波が足先に寄せ来るのを見ながら、呟いた。

波音にかき消されることのないその言葉を、クラヴィスは、瞳を閉じて聞いていた。

二人でいる時のジュリアスは、決して口数の多い方ではない。些細な言葉を聞くために、クラヴィスがどれほど苦労しているかなどジュリアスは思いもよらないだろう。そんなジュリアスが、口にしてくれた言葉。

クラヴィスは、起き上がると自分に顔を向けたジュリアスを抱き寄せた。柔らかな金色の髪に顔を埋めると微かな潮の香りがする。

「また、ここに来たいな・・」

「・・そうだな。」

ジュリアスはクラヴィスの耳に囁くように言った。ジュリアスの吐息が耳朶をくすぐって、クラヴィスは甘い刺激に眉を寄せた。

強さを増してきた風がふたりの髪を絡めて、砂浜にひとつだけの影をつくる。ジュリアスもクラヴィスもその影をしばらく見つめて、そしてどちらからともなく唇が重ねられた。

もう、二度はないかもしれない――それでもいい、誰も見ていないこの海で、ふたりで過ごせた時間はこれからの私の心の中の一番大切な場所にあるだろう。これで、私はまた強くなれると、ジュリアスは、甘い痺れに流されかけていく手前でそう思った。
まわされた腕に、力がこめられるのを感じながら、クラヴィスもまた熱くなる体を持て余し始めていた。

「おまえは、私が海に似ていると言った。だが、おまえは夜の海の怖さを知らぬ。・・私が今、おまえに教えてやろう―――」

クラヴィスはそう言うと、アメジストの瞳を細め、ジュリアスの顔を手で包んだ。蒼天に負けないほどの煌きを見せる瞳、輝く波の飛沫さえかすんでしまうほどのその輝きを、クラヴィスは、言葉には似つかわしくないほど優しく見つめた。

「ここで・・か・・」

とジュリアスの瞳が抗議の色を見せる。それに微笑を返してクラヴィスはジュリアスを砂浜にゆっくりと倒した。白い砂に広がる金色の髪、見上げる蒼い瞳が微かに濡れたように光る。

「誘ったのはおまえの方だ・・」

そう言ったクラヴィスの言葉に、ジュリアスは薄く微笑んでクラヴィスの顔を引き寄せて口づけた。

 

このままふたりで波に流されてもいい――

もう戻りたくない――

夢から覚めれば、口に出せない想いを幾度も繰り返す、それは波音がかき消してくれるから。絡めあう指先も重ねた肌も、いつか離れる時がくるなら。

愛している――

この一瞬だけでいい、すべてを忘れて海に呑まれて欲しい。


聖地――永遠に常春の続く、造られた美しい楽園、そこがジュリアスとクラヴィスのあるべき場所。だから、波が引けば帰らねばならない、たとえ、そこが海のない哀しい楽園であっても。

愛している、その言葉だけを信じて――。

FIN