True Night

 

「・・美しいな・・」

形の良い唇から思わず声が零れた。雨露に濡れた緑は一層色鮮やかで、仄かに甘く香る方へと目をやれば、その重さで枝がしなるほどの白い花の房がいくつも見える。零れ落ちるほどという表現は、このような時に使うのだろう。

花が好きだ、それこそ幼い頃からずっと。何者にも媚びることなく何者にも捕らわれることなく、花のように生きることができるならば・・どんなに良いか・・ふと胸の内をかすめた思いをジュリアスは小さく首を振って打ち消した。

「私らしくもない、このような感傷にひたるとは・・。」

これではまるで、あれのようではないか・・と紫の瞳を思い浮かべてふっと笑みを零した。心の内にただひとり住まう者とは、ここしばらく、言葉を交わすどころか、姿も見ていない。どこか心もとないその訳は、きっとあの声で名前を呼ばれていないせいだ。

知らなかった――自分の中にこんな思いがあることなど。

遠い記憶の中の幼友達は、いつも寂しげな瞳をしていた。だから、笑った顔が見たいと思った、誰とも違う紫色の瞳をもつ彼はどんな顔でどんな風に笑うのだろう。幼い頃の私は、その術を知らず、顔を合わせては小さな喧嘩を繰り返していた。あの頃の私の気持ちを知れば、あれはどんな顔をするだろう。いつのまにかその姿を目で追ってしまう、いつも心の片隅に思ってしまうのは、あの頃と変わらず、そのくせ素直になれずに言い合ってしまうのもあの頃と大差はない。

ただひとつ、気付いてしまった心を分かち合う夜が、ふたりにあること以外は。

ふいに風が変わり、金糸の髪を攫っていく。風が届けるのは花の甘い香りではない、神秘的でたおやかな、媚薬にも似たその香りを纏うたった一人の者の名をジュリアスは心の中で口にする。

クラヴィス・・・ジュリアスは、瞳を閉じてその瞬間を待った。

「・・珍しいな・・おまえにも花を愛でる時間があるとはな・・それとも待ち人でも・・」

からかうように告げるクラヴィスの瞳は、その言葉とは裏腹に、どこまでも優しい。その瞳に見つめられると胸の鼓動が早まる。そのわけをもう気付いているけれど、それを今はまだ口にしたくない。ジュリアスは自分を見つめるそのまなざしから逃れるように、白い花へと手を伸ばした。

「私とて、美しいものに足を止める時間くらいはある・・それより、そなたこそ、今朝回した書類に目は通したのか。」

クラヴィスを相手にするととたんに、ムキになってしまう自分がくやしい。ジュリアスが口にしない思いも嘘も、きっと見透かされているはずだと思う。それでも、待っていた、会いたかったと、口に出来ない自分の堅くなさにジュリアスはそっと唇を噛んだ。

その様子をクラヴィスは見つめて、小さく笑った。

「・・それならば・・私も美しいものに足を止めても誰も咎めはせぬのだな・・」

クラヴィスは、そう言うと、ジュリアスの顎を長い指先ですくった。

「――!このような場所でそなたは何をするのだ。」

ジュリアスは、反射的にその手を振りほどいた。

「・・戯言だ。」

さらりと言って、それでも名残惜しそうにその手を見つめるクラヴィスに、ジュリアスの胸に小さな痛みが走る。それは切なくて甘い。こんな場所で抱き合うわけにはいかないけれど、こんな思いを抱えてしまうことを思えば、自分は恋をしているのだと認めざるを得ない。

「・・ジュリアス?」

心配そうに覗き込んでくる瞳は昔のままで、思わず笑みが零れそうになるのをジュリアスはため息で隠した。

「・・全く・・そなたという者は・・」

まるで自分自身に言って聞かせるようにそう言ったジュリアスは、踵を返した。感情を持て余しているその顔をクラヴィスには見せたくない。
ジュリアスの足が、聖殿へと向けられるのを、クラヴィスは呼び止めた。


「・・邸に寄っては行かぬのか・・?」

その言葉にジュリアスは、ゆっくりと振り向いてクラヴィスを見つめた。紺碧の空色の瞳を怯まずにまっすぐに受け止められるのは、この聖地でもクラヴィスただひとりであることをジュリアスはまだ知らない。

「・・いや、ニ、三仕事が残っている・・」

その顔に隠し切れない微笑が浮かべられているのを確認してから、クラヴィスは頷く。

「そうか、だが、あまりこんを詰めるな。」

ああと返事をして立ち去るジュリアスの後姿を、クラヴィスはその影が見えなくなるまで見つめ、そして空を仰ぐ。眩しさに手をかざし、雲の間から差し込む光にジュリアスを思った。ジュリアスが、人を愛したからといって、今までの生き方を捨ててしまえるほど器用ではないことを彼は知っている。その堅くなさもまた彼は愛している。

「それは・・まだ言わぬ・・。」

優しい風に乗った白い花の香りに、クラヴィスはいつまでも身を委ねていた。

 

今夜は鍵をかけずに小さな灯りを灯しておこう。
そなたが迷わずに来れるように。

時計の針が真夜中を過ぎる頃、そなたはきっと「待たせたな・・」などと言って、訪れてくるのだろう。私は、少し怒った顔をして、「何の用だ。」と告げてやろう。待ってなどいなかったふりをして。

そして、抱き寄せられたら、私から口づけをしよう。そなたはどんな顔をするだろう。

いつのまにか見慣れてしまった、けれど愛しいあの微笑みを私に見せてくれるだろうか。

 

Fin