水面の月(梓編)
序
梓の誕生日は夏休み最後の日だった。宿題を残してしまった友達たちを誘いにくい困った日だ。
そのことを差し引いても、十八回目の誕生日は祝福とは程遠い心境で迎えられた。
これからも梓は自分の誕生日を素直に喜んで迎えることができないだろう。
実の父のように慕い、梓たちを支えてくれていた叔父が数日前に亡くなったのだ。
その日の夕食には小さなショートケーキが皆にひとつずつ渡った。初音がそのうちのひとつを叔父の位牌の前に供え、楓は一番茶の入った湯のみをその隣のに置いた。
千鶴は新しく線香に火をともし、梓は線香立ての周りに散らばった灰をふき取った。
「このお線香、煙が少ないって書いてあるけど灰が飛び散っちゃうんだね」
「そうだね」
口を開いたのは初音と梓だけだった。
骨壷の入った袋が少しゆがんでいるようだったので、梓はそれを直した。皆はその手元をぼんやりと見ていた。深い水底にいるような沈黙が降りる。
「さ、私たちもケーキを食べましょう」
無理に明るく言った千鶴の言葉に皆は立ちあがった。
「梓への誕生プレゼントという訳ではないんだけど…」
皆がまずいケーキをフォークで突っついている中で千鶴が話を切り出した。
「今日、耕一さんに電話をしたんだけど、大学が夏休みですし、一度こっちに来てくれるらしいの。
急な話だけど今度の土曜日にこっちに来るそうよ」
「本当!
お兄ちゃんが来るの!?」
持っていたフォークを落としたのにも気づかずに初音が身を乗り出した。
「あっ…」
思わず声が出てしまったのが恥ずかしかったのか初音は真っ赤になっている。
「こら、こら、落ち着きなさいって」
そうは言ったものの梓だって思わずフォークを落としていたのだ。初音が大声を出さなければみんなに気づかれていただろう。初音をからかいながらも梓はちょっぴり感謝していた。
落ち着いているのは、話をした千鶴本人と楓ぐらいのものだ。楓はいつのまにかケーキを食べ終わったらしく静かにお茶を飲んでいる。相変わらず、楓は食べるのが早い。
「ったく来るのが遅いんだよ、あいつは」
実の息子でありながら耕一は通夜も告別式もすっぽかしている。そのせいで周囲の人間がうるさく文句を言っていた。
「まあ、耕一さんにも都合があるのでしょうし…」
「お気楽な大学生になんの都合があるって言うんだか」
そう言いながらケーキを口に運んだ。柔らかいクリームの甘味と苺の香りが口に広がる。なんだか、久しぶりに甘いものを食べたような気がした。
先にケーキを食べてしまった楓が少し物ほしそうに梓のケーキを見ている。
「楓、あんたはもうちょっと味わって食べたほうがいいよ。早食いは太るって言うしね」
そう言って、梓はチラっと千鶴のほうを見る。
千鶴もペロリとケーキを平らげたところだ。
「千鶴姉、朝飯抜いたからって夜そんなに食ったら逆効果だぞ」
「もう、うるさいわね」
千鶴は今朝になって急にダイエットをすると言い出し、朝食を食べなかった。
「それに、その髪型」
「えっ?」
「お姉ちゃんシャギーいれたんだ。似合っているよ、とっても」
「ああ、これね」
そして、家に帰ってきてみると美容院に行ったらしく髪をビシっと決めてきていた。まるで女のフェロモンを全開で飛ばしているようだ。
「耕一が来るから、急にめかしこんだ上にダイエット?
千鶴姉は本当に表面だけごまかそうとするというのか、偽善者というか…」
「あ・ず・さ・ちゃん……。今、なんて、言ったの?」
内に篭もった殺気を笑顔にこめて、優しく千鶴は微笑んだ。
他の人間ならともかく、家族の間ではこの笑顔がどれだけ恐ろしいか知らないものはいない最凶の笑顔だ。
「な、なんでも、ありませんっっ!」
特に梓はその恐ろしさを体で知っていた。
普段は食器洗いは順番で行っているのだが、今日はみんなで食器洗いをした。
飛び跳ねる水と泡に手を包まれながら、梓はぼんやりと叔父の事を考えた。
叔父は事故で亡くなった事になっている。
だが、叔父の部屋が妙に片付いていたことや、梓の誕生日の前祝をしようと叔父が言ったことなど、今になって思うと不自然なことがいくつもあった。
本当は、その不自然さに気がついていたのだと思う。
ただ、訪れる不幸を考えたくなかったから、梓は無意識に気がつかないふりをしていたのだ。
大切なものは失ってから、はじめてその価値に気がつく。この事を梓が知ったのは九歳の夏だった。
一
「へぇ、あんたが耕一なんだ」
初対面の耕一に対して梓はいきなりタメ口をたたいた。自分より二つ年下に呼び捨てにされた耕一は眉をしかめた。
「こらっ、梓。そういう呼び方はないだろう。『耕一くん』とか『耕一さん』とかそういう風に呼びなさい」
梓の父がそう言って梓を軽くこづいた。
「痛ったいなぁ。いいじゃん、別にどう呼んだって」
梓はこづかれた頭を押さえて抗議する。親にいつも怒られている、いたずら好きなガキの表情だ。
目が合った梓と耕一は二人だけにわかる笑いを浮かべた。
いたずら好きのガキ同士は一瞬でお互いを同類と見破り心を通じあわせたのだ。
一人っ子である耕一は兄弟の存在にあこがれていた。
小学五年になって初めて父の兄一家の家に遊びに行き、そこで四人のいとこに出会った。耕一にとって、その四人のいとこは欲しくても手に入らなかった兄弟だった。
そして女ばかりの兄弟に囲まれていた梓にとっては、待ち望んでいた男の兄弟だ。
二人が仲良くならない訳が無かった。
「なぁ、耕一。オレがこの辺の案内してやるよ」
荷物を下ろしたばかりでまだ玄関にいる耕一を梓は外に誘った。
「なんか偉そうだぞ、お前」
冗談で耕一が梓に軽い蹴りを入れた。心が弾んでいるのだ。
「なにすんだよ」
倍ぐらいの強さで梓が蹴り返す。梓も心が弾んでいる。
「いてっ。お前、俺より強く蹴っただろ」
「へー、あれが、あんたには強いキックなのかよ」
「ちげーよ。何なら、俺が本当のキックを見せてやる」
耕一は体を半身にし、右足を軽く後ろに引た。
それを受けて、梓も身構える。変にテンションが上がっているので、二人とも暴れたい気分なのだ。
「やめてよぉ、二人ともけんかしないで…」
泣きそうな声が横から入った。一番年下の初音だ。
「ふたりとも、やめてよぉ」
耕一の袖をぎゅっと握って懇願する。
「ちょっと初音、別にオレたちけんかしていた訳じゃないんだから。そんなことで泣くなよ」
「そうそう、ちょっとふざけただけだから。ねえ、泣かないでよ」
耕一は慌ててかがみ込み、初音の頭をなでた。
「ん……」
初音は涙をいっぱいに溜めた瞳でうなずく。
女の子に泣かれるという経験があまり無い耕一は、こんな時に戸惑ってしまう。女の子のちょっとした仕種などもとても新鮮に感じる。
「何ニヤニヤしてんだよ。気持ち悪い」
なんとなく面白くなさそうに梓は言った。
「ほら、行くぞ、初音」
梓は急き立てられるように初音の背を押した。
「楓も来る?」
一人騒ぎに乗り遅れていたもう一人の妹に梓は声をかけた。
楓はうなずくと、梓たちの方へ慌てて駆けよった。
「それで、どこへ行くんだ?」
耕一が焦れたように、先に立って歩き出した。初音が慌ててその後をついていく。
「まって、お兄ちゃん」
「えっ?」
思わず耕一は足を止めた。
「なに?」
「だって、こういちお兄ちゃんなんでしょ?」
「うん、まあ…そうだけど」
「手つないでいい?」
そう言いながら初音は耕一の手を取った。
耕一は照れくさそうに初音と手をつなぐ。
「そう言えば、初音って『お兄ちゃんが欲しい』って言ってたっけ」
ぼそりと梓は言った。
「姉さんは、女だもんね」
やはりぼそりと楓。
「楓、オレの事『姉さん』って呼ぶのやめろって言ってるだろ」
「……ごめんなさい」
強く言われたせいか楓は暗い顔をして謝った。
「ま、いいけどね」
そう言うと梓は走り出した。くやしいけど、それは本当の事だ。
「こぉぅらぁっ、耕一!
お前ぇ、どこへ行くのかわかってんのかぁ?」
梓の見事な飛び蹴りが耕一にヒットした。
女の子と言われるのがイヤだった最後の夏はこうして始まった。
二
「あら、まぁ。四人とも泥んこになっちゃって」
家に帰ると、梓たちの母と耕一の母の二人が出迎えてくれた。
「楓ちゃんや初音ちゃんの服まで泥んこに…。もう、耕一あなたが一番年上なんだからちゃんと面倒見ないと…」
「いいんですよ。子供はこれくらい元気に遊んでいる方がいいんですから」
梓と耕一はいつもこの手の事でしかられ慣れているが、下の二人は服を泥だらけにした事が初めてだったので半分泣きそうな困った顔をしている。
「ご飯までに、みんなでお風呂に入りなさいね」
「あら、よろしいのですか?
耕一は、これでも男ですけど」
そう言われて皆の視線が耕一に集まった。
「初音、お兄ちゃんといっしょに入る」
初音が耕一の袖をつかむ。
「わたしもいっしょがいい」
「もちろん、オレも入るよ」
「……そう言う事みたいです」
梓の母は微笑んだ。
「耕一、いたずらしたら駄目よ」
「しないよ。大体、梓だっているだろ」
「えっ?」
驚く母は置いといて耕一は梓たちと先に行ってしまった。
「あの子なんか勘違いしているんじゃないかしら?」
「そうみたいですね…。耕一君どんな顔して出てくるのか楽しみですね」
二人は顔を見合わせて笑った。
その勘違いがこの後で惨劇を巻き起こす事を誰も予想していなかった。
三
いくらなんでも風呂に四人同時に入るのは狭いという事で、楓は後から入る事になった。
それでも、三人も詰め込まれた脱衣所はかなり手狭になっている。
「ほら、初音。ボタン外さないと」
こういう時の梓は以外と面倒見がよく、初音の服を脱がすのを手伝っている。
「はい、ばんざーいして」
梓は初音の両手を挙げさせて服を引っ張りあげた。
一人で服を脱いだ耕一はすでに裸になり、風呂場へ入っている。
「お兄ちゃんっ」
裸になった初音が飛び込んで来る。
「初音がね、お背中ながしてあげる」
「う、うん」
自分の母親以外の女性と風呂に入った事の無い耕一は、相手が小学一年生とは言え、どこか照れくさそうだった。
「初音、いきなり湯船に入ったら駄目だからな」
妙にまじめな事を言いながら梓も入ってきた。
耕一は何気なく視線を梓の股間に向けた。相手の力量を見極める、男同士風呂に入った時はついやってしまう習慣だ。
「へっ………………?」
その声は衝撃のあまり逆に気の抜けたような物になった。
「なにジロジロ見てんだよ、エッチ」
梓にそう言われ、耕一は慌てて顔をそむけた。
脳裏に先ほどの映像が焼き付いている。
つるりとしてなにもなかった。なにもついていなかった。
(こいつ女だったんだ…)
まったく気がついていなかった。
遊んでいた時も梓は男みたいだったし、言葉も男の言葉だ。自分の事を「オレ」と言っている。
しかし、声はちょっと高めだし、よく見れば、整った顔立ちはかわいいとさえ言える。
真っ黒に日焼けしているのは肌の露出している部分だけで、ランニングシャツと短パンに隠されている部分の肌は白くすべすべしている。まるで、パンダのようにくっきりした日焼けだ。
服を着ていた時にはわからなかった浮き出た鎖骨や腰のラインは未成熟ながらも女性のラインを描いていて、それを見ている耕一の鼓動は不思議と上がっていった。
梓が女だと意識してしまうと、妙に気になってしまいぎこちなくなってしまう。
それは梓も同じだった。
男と同じような格好をして、同じように遊んではいても、父親以外の男と風呂に入った事は無い。おまけに父親といっしょに風呂に入った事すらあまり無かった。
つい、チラチラっと耕一の股間へ目が行ってしまう。
男のそこを蹴り上げてうずくまらせた事なら何度もある。だが、生で見たのは初めてだ。父親のそれの記憶はおぼろげなので、気になってしまう。
「なっ、なに見てんだよ、エッチ」
さっき梓に言われた事をそのまま耕一は言い返す。
梓の頬に血がのぼった。
「べ、別に見てたわけじゃねぇよ。ただ、ちょっと、小せえなぁって思っただけだ」
「なにィ、俺のは小さくないぞ!」
「うっ、うるさいっ。お前のは小さいんだって」
「誰と比べて小さいって言うんだ、よく見ろ!
なんなら、握ってみろッ!」
立ち上がり腰を突き出す耕一。傷つけられた男のプライドを取り戻すため必死の抗議だ。
「ばっ、馬鹿野郎っ。なっ、なに小汚いもん突き出してんだよ」
手で目を覆い見ないようにするが、しっかりと指の間から見てしまった。
「こら、しっかり見ろ!
そして訂正しろ。俺のは最悪でも標準サイズだぞッ!」
「そんな事言われたって、わかんないよ。お父さんのしか見た事無いんだからッ!」
ほとんど逆ギレで梓はわめいた。
「なんだとっ!
じゃあ、てめェは他の男の物を見た事も無いのに、俺のが小さいとかぬかしやがったんだな!」
「うぅっ、うるさいっ。お父さんの方がお前なんかより百倍はでっかいんだよぉっ!」
「ず、ずるいぞ。大人と比べるなぁぁ!」
もう、二人ともなりふり構わず立ち上がり、鼻先が触れあうほどに近づき睨み合っている。
「あのぉ?、みんな、いいかしら」
風呂場のすりガラス越しに千鶴ののんびりした声が聞こえた。
「えっ、うわっ千鶴さん?」
急に慌てて前を隠そうとする耕一。
だが、それよりも早く千鶴はドアを開けた。
「狭いでしょうけど、楓もいっしょに入れてあげてね。ほら、楓」
千鶴に背中を押されて、おずおずと楓が風呂場に入ってくる。
「じゃあ、お願いね、耕ちゃん」
優しく暖かい微笑みを残して千鶴は出ていった。だが、出て行く時にちらっと耕一の下半身を見て別種類の微笑みがこぼれたのを耕一は見てしまった。
柏木耕一十一歳。この世に生を受けてから最大最強の恥辱を受けた瞬間であった。
「ううっ、ちくしょう梓の馬鹿野郎……」
「なんで、オレが馬鹿なんだよっ!」
「千鶴さんに見られたじゃないか、お前のせいだ!」
「なっ、なんでオレに見られても平気なのに千鶴に見られるのは駄目なんだよっ!?」
「お、お前には関係ないだろっ」
「ぅう、耕一の馬鹿野郎っ!」
梓は躍り掛かり耕一の頬をつかんだ。
「ほぁにすんだひょう(何をするんだ)、ほのおとこおんな(この男女)」
「あっ、最後のはわかったぞ!
今、男女って言っただろっ!」
その一言は梓にとっての禁句だ。梓の中の暴力抑制回路はその言葉を聞くと自動的に解除される。
「死ねっ!
死んでしまえ!」
鬼の形相で梓はぐいぐいと耕一の首を絞めた。
「こ、こらっ。本当に苦しいじゃないか」
「当たり前だっ、苦しくしてんだよっ」
もがく耕一の手は梓の手を首からはがそうとする。が、どこでどう間違ったのか、その手は梓の胸をわしづかみにした。
むにゅにゅっ。
「うっわあァ、つッ」
小学三年生の梓にはまだ揉まれるだけの胸はないのだが、そんな行為をされた事は今までに一度も無く、梓は胸を腕で隠して飛びのいた。
「ったく。なんて野郎だ」
首を押さえて耕一は咳き込んだ。
「大丈夫?」
楓と初音が心配そうに耕一をのぞき込む。
「楓、初音!
そいつに近づくな。変な事されるぞ」
「何で俺が変な事するんだよ、勝手な事言うな」
「今、ここで、あたしに、しただろっ!」
「へっ?
………オレなんかした?」
「うっ…」
さすがに胸を揉まれたなんて言えなかった。
「なぁ、何かしたのか俺?」
「うぅっ…」
更に追求されて梓は真っ赤になってうつむいた。
「ん、どうした梓?」
「ばっ、馬鹿野郎っーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
梓の渾身の一撃が耕一へ炸裂した。
四
「ごめんなさいね、乱暴な妹で」
「うるせぇ千鶴。好きで女に産まれた訳じゃねぇんだよ」
耕一の頬にできた痣に千鶴は薬を擦り込む。普段は落ち着きの無い耕一だったが今はおとなしく薬を塗られている。
「あのね、お兄ちゃん。初音、本をよんでほしいの」
お気に入りの絵本を持ってきて耕一の背中に抱きつく初音。楓もちょこんと座り耕一の側を離れない。すっかり四姉妹に気に入られ嬉しいやら恥ずかしいやらの状態だ。
「せっかく、みんないるんだし何かゲームでもしようよ」
先ほどの風呂場でのやり取りが多少気に入らなかったのだが、元々さっぱりした性格の梓はその事にあまりこだわらず、みんなで遊ぶ事を提案した。
普段はほこりをかぶっているボードゲームを囲んでいる五人の子供たちを見て、それぞれの両親は目を細めた。
「やっぱり、子供同士は打ち解けるのが早いですね」
「ええ、本当に。うちの娘は人見知りしやすいんですけど、耕ちゃんは平気みたいですね」
見ろよ、耕一のあのデレッとした顔、我が子ながら情けないなぁ」
「本当に賢治の小さい頃にそっくりだな」
「兄貴、そりゃないだろ」
父親二人は早くもビールを飲んで我が子を見ている。
「親父も俺達をこんな風に見ていたのかな」
互いにしか聞こえない声でぼそりと言う。
「賢治………、一人で良かったな」
「兄貴は大勢いて良かったな…」
同じ血を引き継ぐ二人にしかわからない会話は、他の人の耳に入らない静かな物だった。
その夜誰がどこでどう寝るか、ちょっとした騒ぎになった。みんなが耕一と一緒に寝たがったのだ。
「お兄ちゃん、いっしょに寝てもいい?」
ぬいぐるみを抱えて初音がやってくる。
「わたしも…」
楓も部屋にやって来た。
「おまえら暑くなるから来るなよ」
「じゃあ、梓が出ていったら」
「ぐっ。ち、千鶴こそ出て行けよ」
「もう、梓。いいかげんにしなさいよ」
「うるせぇなぁ、なんで千鶴までここにいるんだよ」
千鶴は耕一の隣にちゃっかりと布団を敷いている。
「耕ちゃんと梓が隣で寝るとけんかになるから私が真ん中で寝るわ。嫌だったら自分の部屋で寝なさい」
「ちぇっ」
文句を言いながらも梓は布団に入った。
その夜はみんななかなか寝付け無かった。
ごちゃごちゃと話をしたり、こっそり布団にもぐりこんだりしながら最初の夜はふけて行った。
五
「みんな気をつけて行くんですよ」
数日後、千鶴とそれぞれの両親に見送られ皆は釣りに出かけた。
先頭は梓。続いて耕一。耕一に手を引かれて初音が続き、最後に楓がついてくる。
ごく近所の水門に行くだけだが子供にはちょっとした冒険のような気分だ。
夏の強い日差しの中で四人は元気一杯に歩いていった。
最初の魚を釣り上げるより早く、事件は起きた。
水面をのぞいていた梓が足を滑らし水の中に落ちたのだ。
体温が奪われる。
夏でも水は冷たい。容赦なく熱を奪っていく。
水の中で梓はもがいた。もがく右足から靴が脱げ落ちた。その右足がつった。
痛みと水の冷気の中で梓はパニックに陥った。
叫ぼうと開けた口から空気が漏れて水が流れ込む。
吐き出す事もできない大量の水が肺に進入しようとする。
背後で水音がした。
誰かの手が伸びて梓をつかむ。
梓はその手に夢中でしがみついた。温かなたくましい腕だった。
水上に顔が出る。梓は激しく咳き込み酸素を取り入れた。
そのまま、誰かに岸まで引きずられる。
膝が地面をこすり梓は地面に投げ出された。
乾いた大地が熱かい。
体を支えられずそのままうずくまった梓はもう一度水を吐いて呼吸を再開した。
「お姉ちゃんっ、お姉ちゃんっ!」
妹たちの声が聞こえる。
耳に水が入ったのか声が歪んで聞こえる。
「大丈夫か? 梓」
心配そうにのぞき込む耕一の顔がすぐ側にあった。全身水浸しで唇の色が悪くなっている。
「おにいちゃんが助けてくれたんだよ」
座ったまま体を起こし、梓は耕一を見上げた。
「ったく、意外とどじだなお前も」
照れくさいのか鼻をかきながら耕一は言った。
「耕一だったのか…」
思った以上にたくましい腕だった。力強く助けあげてくれた腕だった。
梓はぶるりと震えた。急にセミの鳴き声が聞こえてきた。今は夏なのだ。
「寒いのか?」
心配そうに耕一が顔を近づける。
とたんに顔に血が上るのを梓は感じた。
「これくらい平気だよ…」
ふらつきながらも立ち上がる。
(なんで、耕一の顔が近づいただけで心臓がドキドキするんだろう?)
本当は耕一への感謝の気持ちでいっぱいだった。でも、梓の口から出た言葉は違った。
「なんだよ、靴が脱げちゃったじゃないか」
「いいじゃねえか、靴ぐらい」
「あれ、このあいだ買ったばかりなんだぞ」
「また、買ってもらえばいいじゃないか」
「やだ、あれがいいんだ」
素直に感謝できない反動から、ひねくれた言葉ばかりが飛び出す。
「何だよ、せっかく助けてやったのに」
ありがとう耕一。本当に嬉しかったよ。
「別に助けてくれなんていってないだろ」
耕一って結構力あるんだ、見直したよ。
「そうかよ、お前なんて助けるんじゃなかった」
こんな時なんて言えばいいのかな。
「こっちだってお前になんて助けて欲しくなかったよ」
もう一回、あたしのこと、ぐいって持ち上げて欲しい…
「お前って、ホントむかつく奴だな」
耕一は何気なく言ったのかもしれなかったが、その言葉は梓に突き刺さった。
ありがとう。
簡単な、その一言が言えない。
「待ってろ、靴とって来てやるから」
背を向けたまま耕一は言った。
「待って、靴なんて」
梓は手を伸ばした。泣きそうな声が聞こえた。
「行かないで、耕一さんっ!」
梓が近づくよりも早く耕一は水の中に飛び込んだ。
「靴なんてどうでもいいのに……」
耕一がいなくなった事で急に不安感が沸き上がる。ぶるりと梓の体がまた震えた。
セミの声だけが水面を揺らす。
小さな泡がひとつ浮かび上がった。
「遅いよ、耕一なにやっているんだよ。早く上がってこいよ」
水面にまた泡が浮かんだ。今度は数が多かった。
不安はやがて焦りとなっていく。水面をのぞこうと梓は水際に近づいた。
梓が水面に近づいていくのが不安なのか楓が梓の手を引いた。
ごぼり。
自分の肺に残された空気が泡となって上っていくのが見えた。
再び水中に投げ込まれたのかと梓は思った。
だが、自分は太陽に焼かれた熱い土の上に立っている。周りにはセミの声が渦巻き、二人の妹が側にいる。
ごぼり。
再び泡がうまれる。
足が抜けない。
足が鉄線に絡まって抜けない。息が苦しい。肺が破裂しそうだ。足を乱暴に抜こうと引っ張る。水の抵抗で素早く動けない。もどかしい。ゆっくりとした死が迫っている。足を抜かないと。足を引っ張る抜けない早く抜かないと。また息が泡となる。血だ鉄線にこすられて出血した血は靄のように水の中を広がっていく目の前が真っ赤になっていく息が苦しい頭の中の小さな血管がプチプチと破裂する音が聞こえるようだ息が苦しい俺はこのまま死ぬのか見上げると水の上に太陽が見える普段は眩しい太陽が月みたいに弱く見える暖かな光なのにここはとても冷たい寒いあそこまで行きたい暖まりたい独りぼっちで冷たくて苦しい死ぬと言うことはこういう事なのか足が抜けない苦しい寒い死ぬ恐い血が広がる苦しい死にたくない誰か助けて苦しい寒い助けて死ぬ苦しい恐い死にたくない血が流れる苦しい死ぬ…
「うわぁっ!」
声を張り上げ梓は両手を振りまわした。
自分が地面に立っているのに気がつく。
今のは幻だったのだろうか。ほんの一瞬だけ梓はそう思う。
だが、今、感じた事は、現実に、今、耕一が体験している事だと本能的に理解した。
それは、同時に耕一が死にかけていると言うことを意味している。
「こういちィー!」
梓は絶叫して水に飛び込もうとする。
だが、体が動かない。水でおぼれた時につった足がまだそのままなのだ。
それでも走ろうとした梓は、部屋の片隅に脱ぎ捨てられた服のような無様な格好で転んだ。
自分の足を体の下にしくように崩れ落ちてしまい、足に激痛が走った。
だが、その痛みは気にならなかった。捻挫して動かない足を引きずりそれでも水辺へ近づく。
耕一が死んでしまう。その思いが梓を突き動かした。
その時、水面に波紋が起こった。
何かが水中から飛び出す。
それは梓の頭上より高く飛びあがり地に音も無く着地した。
体を起こすと、水滴を滴らせながら真っ直ぐに梓たちを見る。一見無関心な感情のこもっていない目だ。
「耕一?」
それの外見は確かに柏木耕一だった。
だが、どこかに違和感がある。中身が別の物に入れ替わってしまったような違和感だ。
立ち上がりよろける梓を二人の妹が支える。
「耕一さん!」
「お兄ちゃん」
ぼんやりとしていた耕一の目に光が宿り始めた。
狂おしくギラギラと輝やく目で耕一は梓たちを見た。
「オッ」
耕一の口が開く。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!」
周囲の獣が身をすくめるような壮絶な叫び声だった。
飢えた犬のように軽く首を振る。水滴が跳ね飛んだ。
耕一が、一歩踏み出した。
別に何事も無いような歩みだ。
軽い身のこなしとは裏腹に重量感ある足取り。地に足跡がくっきりと浮かぶ。
「お兄ちゃん?」
不思議そうな顔をして初音が耕一に近づこうとする。
「耕一さん…」
何もできずに楓は立ち尽くしている。
「耕一……」
嬉しかった。耕一が無事でいてくれた事が嬉しかった。
(ごめん……、耕一。さっきは助けてくれて、ありがとう)
「こういちぃ……」
梓たちは耕一の方へ歩み寄った。
急に耕一の目の光が弱まる。そのまま、ゆっくりと膝をついて耕一はうずくまった。
「耕一!」
梓たちがいっせいに駆け寄る。
「耕一、大丈夫か?」
耕一の肩に手をかけて梓は激しくゆすった。
「もう、平気だ。何とかなった………」
心底ぐったりしたように耕一は言った。
「ほら、梓。靴」
耕一は水の中で脱げた梓の靴を差し出した。
「……………」
「探すの苦労したよ」
「………………ばか」
本当にこいつはバカだ。あたしがどれだけ心配したと思っているんだ。
そんな靴なんてどうでもよかったのに。
耕一さえ無事でいてくれたら、それでよかったのに。
「……梓、おまえ泣いてんのか?」
「耕一、ごめんね。あたしのせいで…」
素直に言えなかった言葉が涙といっしょに出てきた。
「足、怪我しちゃったんだろ…」
「平気だよ、この程度」
「ごめんね、耕一」
普段めったに泣かない反動だろうか流れる涙は一向に止まらない。
「うぅ、こういちぃっ……」
そのまま耕一にしがみつく。
男には絶対に負けたくないとか、妹たちの前でみっともないとか、そういった感情は湧いてこなかった。
ただ、耕一がこうして側にいる事が嬉しかった。
耕一の体温を感じていられるのがとても幸せだった。
六
「捻挫したのか?」
耕一が梓の足を見ている。
さっきはそれほど感じなかった痛みが骨の内側からジンジンと突き上げてくる。
「ちょっと脹れているな」
捻挫していない方の足と比べると明らかに脹れ上がっている。
「これは歩かない方がいいよ。俺がおんぶしてやるからさ」
そう言って耕一は梓を背負った。
いつもなら意地を張って自分で歩くと言い出すのだろうが、梓は素直に耕一の背に体を預けた。
耕一に触れていたかったのだ。
「じゃあ、二人ともついてきてね」
耕一はそう言って楓たちを引き連れて家を目指す。
「ごめん……耕一、重くない?」
「軽い、軽い。平気さ」
明るく耕一は言い返し、背中の梓をゆすって見せる。実際に不思議と力が溢れて梓を背負っているのがまるで苦にならないのだ。
梓はしっかりと耕一の背にしがみついた。
耕一の短い髪の毛が肌にチクチクささる。それは少しくすぐったくて、少し心地よい感触だった。
意外と広い耕一の背中、力強い耕一の背中、父親を連想させる耕一の背中。その背中の感触がとても心地いい。
しがみつくと耕一の体温と鼓動が感じられる。
暖かくて力強い、とても優しい耕一の体温。
「あのさ、梓」
「なに…?」
「首が絞まって苦しい」
「ご、ごめん」
慌てて手をゆるめる。
耕一との間に少し隙間が空く。そこに空気が入りたちまち冷えてしまう。
自分の中の耕一が消えてしまったようで何かさびしかった。
「首さえ絞めなければ、つかまっていてもいいからさ」
首だけを後ろに向けて笑いながら耕一が言った。
耕一の肩にあごを乗せていた梓のすぐ前に耕一の顔がある。頬と頬が触れあう様な近さだ。
「う、うん」
自分の鼓動が早くなったのを少し意識しながら梓はうなずいた。
「耕一………」
「なに?」
「ううん、なんでもない………」
自分でも何をしたかったのか分からなかった。
ただ、耕一の声が聴きたかっただけなのかもしれない。
「梓ってさ」
「なに……?」
「なんか柔らかいな」
「………ばか」
耕一の後頭部に軽く頭突きをする。
自分でも顔が真っ赤になっているのが分かった。
「そう言えば、いっしょに風呂に入った時もなんか柔らかかったような気がするんだけど…」
「…バカっ」
さっきより強く梓は頭突きをかました。
七
「ただいま…」
耕一に背負われたまま梓は家に入った。
「あら、梓どうしたの?」
出迎えた梓の母はその姿を見て驚いている。母が不自然なぐらいに顔色を悪くしている事に梓は気がつかなかった。
「ちょっと、足をひねっちゃって…。
なあ、こういち、もうここでいいよ。おろして」
「ああ、そう」
そう言われて耕一は後ろを向き、梓を下ろした。
「耕ちゃん、重かったでしょう。体は平気?」
妙によそよそしく母が耕一に話し掛ける。
「うん、まあ」
「帰ってきたのか…」
声を聞いたのか、残りの親たちが玄関にやってきた。
「な、なんだよみんなそろっちゃって」
大人四人に囲まれて、なんとなくばつが悪そうに梓は言った。
「耕一、体は何とも無いのか?」
「ああ、うん。平気…」
何か変に距離を置いたような会話だ。
「耕一さん……」
楓が不安そうに耕一を見上げる。
「汗が…」
そう言われて耕一が額をぬぐう。ぬぐった腕がぬれている。まるで水の中から出てきたばかりのように髪がぬれている。
「髪が乾いてないだけだろ」
梓がそう言って自分の髪に触れた。まだ湿っていたが、ほとんど髪は乾いている。
「あれ?
あたしはもう乾いているのに何で?」
そう言って梓は耕一の髪に触れようとした。その手を耕一は面倒くさそうに払う。
「あっ…」
耕一に拒否されたことが、信じられないくらいに強く梓の心をえぐった。
「なんか、体が、熱い……」
梓の手を払うことでバランスを崩し、ゆっくりと耕一の体が傾いていく。
「耕ちゃん!」
千鶴が耕一の体をささえる。
耕一の体に触れたとたん千鶴の表情が曇った。
「すごい熱…」
「そんな、そんなさっきまで普通だったのに」
また拒否されるのを少し恐れながら、梓は耕一の額に手を当てた。
熱い。人間の体温とは思えないような熱がする。
梓は思わず手を引っ込めた。ヌルリとした生温かい汗に手がぬれている。
「こういち?」
返事はなかった。喉からは苦しそうな呼吸音しか聞こえてこない。
「あたしのせい?
あたしが、耕一に素直に謝らなかったから、あたしのせい?」
「梓、自分を責めるのはよしなさい」
「ねぇ、耕一。ごめんね、謝るから、ごめんね、耕一。ねぇってば……。返事してよ、悪口でも何でもいいからさ、声を聞かせてよ。ねぇ……。こういち……」
だが、耕一はうめき声も立てずにそのまま動こうとしなかった。
「部屋に布団が敷いてあるから、そこに耕ちゃんを寝かせましょう」
母にそう言われても梓は動こうとしない耕一をゆすりつづけるだけだった。
そのまま、額に濡れたタオルを置いてもすぐに乾きパリパリになるほどの高熱を耕一は出した。
「あたしのせいだ…」
梓は一晩中耕一の額に絞ったタオルを置きつづけた。
「別にあなたが悪い訳じゃないんだから。ねっ、少し休みなさい」
千鶴はそう言ったが梓にこの場を離れるつもりはなかった。
「そう、じゃあ、毛布を持ってくるから疲れたら横になりなさい」
そう言って千鶴は毛布を持ってきてくれた。
こう言うときの千鶴は細やかな思いやりを見せる。
五歳年上の姉・千鶴。
五歳も年が離れていると姉には何をやっても勝てない。勉強だって、運動だって、千鶴はいつも自分より優れた姉として存在し続けた。
それが悔しかった。
どんなに可愛い格好をしても千鶴の横に立つと自分が着飾っただけのピエロに思えてしまう。それとも、ステーキの横のパセリだろうか。
皆が千鶴をほめる。そしてほめられた千鶴がほめられていない梓に気を使うたびに、今度は美人なだけでなく妹思いの優しい姉と言う。
だから、梓は別の道を選んだ。
女らしい美人ではない、おしとやかで優しくもない、元気が取り柄のボーイッシュな女の子。
男みたいだと言われるたびに、自分だって男として生まれてきたかったと思ったものだ。男だったら、千鶴と比べられて劣等感に打ちのめされることなんて無かったはずだ。
梓はそう思ってきた。少なくとも、耕一に出会う前までは。
本物の男の子と同じ時間を過ごすうちに、梓の中に不思議な感情が生まれてきた。
最初のうちは、その感情は男の子に対するあこがれだと思っていた。
でも、耕一に助けられ、その背に背負われているうちに梓はその感情がなんなのかを理解できてきた。
耕一を失いかけて初めて分かった、あたしは耕一のことが好きなのだ、と。
初めて自分の中に生まれた感情はとても優しく温かな感情だった。
耕一の手を梓はそっと握った。
自分を助けてくれた力強い手。
布団からはみ出している耕一の足。そこには鉄線にこすられできた痕(きずあと)がある。
梓のせいでできた痕だ。梓の証の痕。
「起きてよ、耕一……」
耕一の手を握り梓は祈った。
この日、梓は初めて自分が女でよかったと思った。
八
カーテンの隙間から朝の日差しが入ってきている。その眩しさで梓は目覚めた。
「そうだっ、耕一」
いつのまに眠ってしまったのだろう、梓は慌てて耕一の額に手を当てた。
熱が下がっている。
冷たい訳でもない。
ちゃんと生きているのだ。
「耕一……」
思わず涙ぐんでしまう。
「ったく、この馬鹿野郎」
軽くデコピンで耕一の鼻先をはじく。
「んっ痛ぇぇなぁ…」
耕一が抗議の声を出した。
「耕一!」
「ん、なぁ?」
寝ぼけた声で耕一が答える。
「耕一!
よかった目が覚めたんだ!」
梓は思わず耕一を抱きしめた。
「うぇっ、なんだよ梓!
何なんだよ!?」
耕一のうろたえる声が聞こえる。その声が梓にはたまらなく嬉しかった。
九
「じゃあな耕一」
「あばよ梓」
二人は肩を叩き合った。
みんなに見送られて耕一たちは帰って行く。
耕一たち一家を乗せた電車が遠ざかっていくのを梓たちは寂しげに眺めていた。
短い間だったけど、耕一の存在は梓たち姉妹に大きく残っている。誰もが黙って寂しさに耐えていた。
「さあ、行こうか」
両親にうながされて梓たちはのろのろと歩き出した。
「せっかく、みんなそろって外に出たんだ、何か食べていくか?」
重い空気を払うように父が言った。
「私、あっさりした物がいいなぁ」
調子を合わせるように千鶴が言う。
「へっ、耕一は居なくなったんだから、無理におしとやかにしなくたっていいんだぜ。本当は熊の生け作りとかが喰いたいんだろ、千鶴」
重い空気を払うつもりで梓も調子を合わせる。
「あ・ず・さ・ちゃん」
千鶴が梓の背後に忍び寄り頭をそっと抱える。
「耕ちゃんが居る間は黙っていったけど、あなた夏休みの間に二十六回も私のことを呼び捨てにしたでしょ。私はお姉ちゃんなんだから、呼び捨てにしないで欲しいなぁ。ね、お願い」
千鶴に抱えられ梓の頭蓋骨はみしみしと悲鳴を上げている。
「ち、ちょっと痛いよ千鶴…」
「お・ね・え・ちゃん」
「千鶴姉ちゃん…」
「丁寧語の『お』」
「千鶴……お姉…ちゃん」
「今までごめんなさい、これからは呼び捨てにしません」
「今まで……ごめん。…これからは……呼び捨てにしません」
「できれば自分で考えた言葉で言って欲しいなぁ」
ぎりぎりぎり。
「痛テテテテテテテッ」
「ねっ、あ・ず・さ…」
「お姉ちゃんのこと、今まで呼び捨てにしていて、ごめんなさい。もう、これからは呼び捨てにしませんっ、だから、ゆるして」
「うーん、ちょっとオリジナリティが足りないけど、とりあえず合格ね」
やっと頭を開放され梓は千鶴から素早く離れた。
くそっ、この偽善者めッ。お前なんか可愛く「ちゃん」なんてつけないぞ。「お姉」で十分だ。そのうち「お」もとってやる。
そう固く決意する梓であった。
ちなみにこの決意は長き流血の闘争の後に見事成就されるのだった。
十
一年後に耕一はまた来る事になった。今回は梓たちがわざわざ駅まで出迎えに行った。
正直な話、耕一に会うのが待ちきれなくて、少しでも早く会いたくて、それで駅まで行くことになったのだ。
「……………」
珍しく緊張して梓は無口になっている。
「耕一おにいちゃんまだ来ないの?」
初音が何度目かの質問を口にした。
「次の次の電車に乗っているはずよ」
答えながら千鶴が初音の頭をなでる。
「だから、もうちょっと我慢してね」
両親は仕事があるので今日は子供たちだけだ。そのせいもあって妙に心細い。
近くで電車を待っている若い男がちらちらとこちらを見ている。子供ばかり四人もそろって騒いでいるので目立っているのだろうか。
そうでなくても、さっきから妙に周囲の視線が気になる。やっぱり慣れないものをはくもんではないと梓は思った。
遠い昔ははいたことが有ったのかもしれない。でも記憶に残る限りではこれが初めてだった。
今日は梓が初めてスカートをはいた日なのだ。
太股の内側にいつも触れている布の感触が無くて、自分が裸で歩いているような気分がする。
そんなに短いスカートではないのだが不安感から、つい手で押さえてしまう。
「梓、そんなにソワソワしているとかえって変よ」
笑いながら千鶴は言った。
「別にソワソワなんてしてねェよ」
顔を真っ赤にして梓は言い返す。
「今のうちにスカートに慣れておかないと中学校の制服でスカートをはかないといけないから大変よ」
「制服なんて嫌だよ…」
「だからスカートに慣れておかないと」
そんなことに慣れたいとは思わなかった。
どうせ、女装しているみたいだとか、男女だとか、オカマだとか、そんな風に言われるに決まっているんだ。
そして、また千鶴と比較される。
梓はスカートをはいてきたことを後悔し始めた。
くいっと、スカートの裾が引っ張られた。
「なに、初音?」
「あのね。初音ね、梓おねえちゃんがスカートはいているのかわいいと思うよ。ホントだよ」
一生懸命にそう言ってくれる妹の姿に梓は感動した。
「初音、あんたって本当に善い子だね。どっかの偽善者とは大違いだよ」
メキャッ。
言った瞬間、梓の頭に衝撃が走った。
「ぎぇええええええっ!」
「あら梓、どうしたの踏み潰されたカエルみたいな下品な声を出しちゃって?」
「い、今、殴っただろッ!」
「もうっ、私がそんな事する訳ないでしょ」
「今、殴ったよな?」
「初音、見てなかった…」
「くそぅ、初音の死角から殴るなんてなんてインシツな…。
そうだ、楓!
おまえは見ていただろ?」
急に名指しにされ楓は身を震わした。
「お姉ちゃんはそんな乱暴なことをしないわよね、か・え・で」
「千鶴姉は黙ってろ。なっ、見たよな楓?」
うなずく事も首を振る事もできずに楓は真っ青になって震えている。
「もう、梓ったら。あなたの方がお姉ちゃんなんだし楓をいじめちゃ駄目でしょ」
今にも泡を吹いて気絶しそうな楓を見かねて千鶴が梓をたしなめる。
「なっ、何だよそれ。なんかあたしが悪いみたいじゃないか?」
「みたいじゃなくて梓が悪いの」
そう言って千鶴は梓の頭をぐりぐりと拳で挟んだ。
「や、止めろっ。頭が割れるって、痛てててててててて」
「姉さん、もう許してあげて」
「梓おねえちゃん、もう泣いてるよ」
「なっ、泣いてなんていねぇぞ」
グリグリグリグリグリ……
「ぃい、痛てててててててててててててて!」
「あ、あの電車に耕一さんが乗っているんじゃない?」
「あら、ホント?
もう、そんな時間なの?」
千鶴は
ぽいっと梓を放り出し慌ててハンドバックから鏡を取り出した。急いで髪型に乱れが無いかをチェックする。そこで妹たちの冷たい視線に気がついた。
「あら、初音、ちょっと襟が乱れているわよ」
ぺろっと舌を出してごまかす姉を梓は心の中で思いっきり罵った。
(この偽善者がッ!)
十一
「悪いわね、千鶴ちゃん。わざわざ来てもらって」
「いえー、そんな事ありませんよ」
千鶴と耕一の母はほがらかに笑いあった。
「久しぶり」
千鶴の攻撃のせいでまだ頭がずきずきしている。自然と梓の態度はぶっきらぼうな物になった。
すでに耕一の足にしがみついている初音とは対照的だ。
「疲れてんだろ、リュック持つよ」
登山にでも行くような大きな耕一のリュックを持とうとする。
「いいよ、重いし」
そう言う耕一から無理にリュックを奪い取るとあまりの重さに梓はよろけた。
「重いでしょ?
耕一ったらみんなに渡すお土産をたくさん買っちゃってね」
「ちょっと、母さんっ!」
「それで、お土産も自分で運ぶんだって聞かないのよ」
「まぁ、そうなの、耕ちゃん?」
耕一本人にとっては結構恥ずかしい事なのだろう。ムスッとした表情でそっぽを向いている。
「ありがとね、耕ちゃん」
千鶴が頭をなでる間も耕一はそっぽを向いたままだった。
水の中から自分を引き上げてくれた耕一の力強い腕を梓は思い出した。
今も耕一の足に傷痕は残っているのだろうか。
その事を思うと梓の胸は巨大な手に握り潰されたように痛んだ。
死の縁を覗き込んだ経験は耕一にとって熱を出して寝込むほど恐ろしいものだったと千鶴に説明された。その一部を梓も感じた。救い様の無い逼塞感と水の冷たさ、孤独で冷たい死の感触だった。
少し重そうにしながらもリュックを背負う耕一はたくましく見える。
でも、その耕一だって力の及ばない時が有るかもしれない。もし、そんな時がきたら誰よりも早く駆けつけて耕一の力になりたい。慣れないスカートの裾を気にしながら梓はそう思った。
「梓でもスカートはくんだ」
みんなで歩く帰り道で耕一は唐突に言った。
「なっ」
たちまち頬に血が上って真っ赤になる。
「あっ、あたしだって、たまにはスカートぐらいはくよ」
「へぇ〜、割と似合っているんじゃない?」
「そ、そうかな…」
ものすごく嬉しい一言だった。心臓がドキドキしている。
なんか恥ずかしくて耕一の顔をまともに見る事ができない。ちらりと耕一の手を見る。初音のように耕一と手をつないで歩いてみたい、少しだけそう思った。
「知らない奴が見たら、女と勘違いするかもよ」
地面に落ちた時の衝撃は高さに比例する。
天国の一歩手前ぐらいまでに舞い上がった梓の心が地に叩き付けられた衝撃がどれほどの物か簡単に想像がつくだろう。
「ばっ、馬鹿野郎ッッ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
怒りと共に拳が飛び出す。
「耕一の馬鹿野郎ッ!
誰が男女だァッ!」
「そんな事言ってねぇだろ。あっ、痛てッ」
凄まじい梓の攻撃が耕一に次々と炸裂する。
「ちょっと梓、止めなさいっ!」
慌てて、千鶴たちが止めに入る。
肩で息をして、少し涙目になって、それでも梓は暴れるのを止めなかった。
「へへ、やっぱ、その方が梓らしいよ。なんか元気なくて心配したけどさ」
殴られた頬をさすりながら耕一が笑いかける。
無防備であけっぴろげな笑顔だった。
千鶴も妹たちも見る事のできない、本当に仲のいいイタズラ好きの兄弟の間だけに存在する笑顔だ。
妹と言うよりは弟と言う存在。それだけに、妹や姉よりもずっと近い存在。
耕一にとってなんの気兼ねも無く気楽な付き合いのできる弟みたいな存在が梓だった。
そして、耕一は梓に弟のような存在でありつづけて欲しいと思っている。
耕一と会って初めて自分が女である事が嬉しいと思い、耕一のために女の子らしく振る舞いたいと思ったのに、耕一との距離を縮めたいから、また男の子みたいな女の子に戻らなくてはならない。
心というのは、なぜこんなにも、どうしようもなくすれ違ってしまうものなのだろう。
でも、耕一のこの笑顔は千鶴だって初音だって見る事ができないのだ。
「ん、どうした梓?」
「何でもねーよ、クソ耕一」
悲しみは全部飲み込んで精一杯の笑顔で答える。
「誰がクソだよ、こらっ」
「そうよ、下品よ梓」
「そうだぞ、もっと上品に言えよ、うんこ梓」
「あっ、そんな事言うといい事教えてやらないぞ」
「何だよいい事って?」
「山にカブトムシとかクワガタがいっぱい集まる所を見つけたんだ」
「うそっ!
マジかよそれ!」
「ふっふっふ、教えて欲しければ土下座して『教えて下さい梓様』って言いな」
「くっ、お前って奴はぁ」
「は、初音も行く…」
「クモとかヘビかいるけど、平気?」
そう聞いたとたん千鶴たちは真っ青になった。そう、この辺が自分と千鶴たちの差なんだ。
耕一の方はそんな事を気にせず心はもう山の中に飛んでいるようだ。
梓と目が合い、にぃ、と笑う。
この笑顔はあたしだけの物だ。
家に帰ったら、すぐにスカートを脱ごう。少しのため息と共に梓はそう思った。
十二
けむる花火の火薬の匂いは夏の終わりを感じさせる。
明日帰ってしまう耕一を誘って庭先で花火をしている。
色とりどりの花火に照らされている耕一の横顔は昼間見ているときと感じが違って見えて新鮮だった。
「なに?
梓?」
しばらくじっと見ていたせいか耕一が決まり悪そうにしている。
「なっ、なんでもねェよ」
耕一の事を見ていたのがばれて梓も気まずい。
何かする事を探すように梓は新しい花火を取り出して火をつけた。
あたりに青い光が満ちる。花火を見る耕一の目にもその光が映っている。
光に引かれ小さな甲虫が飛んできた。千鶴たちは慌てて虫から逃げだし、花火から離れる。
花火の小さな明かりの中に梓と耕一は二人っきりになった。
「あっ、痛っ」
甲虫が梓の腕に止また。尖った足が皮膚を引っかく。
「取ってやるから動くなよ」
そう言って耕一が顔を寄せる。
梓の腕にしがみつく虫はなかなか取れない。
「っ、あんまりムチャに引っ張んないでよ」
「悪りぃ。痛かった?」
「少し…」
耕一は虫を取る事に夢中になっている。
梓は花火を持っていない方の手を耕一の肩に、そっと置いた。
梓の手の下で耕一の筋肉が動くのが感じられる。あたたかで力強い耕一の腕。去年の夏に梓を助けてくれた腕だ。
視線を下に向けると、耕一の足に残る痕が見える。
胸が甘く苦しい思いでいっぱいになる。
「梓」
「えっ、なに?」
耕一の声で、梓は現実に引き戻された。
「ほら取れたぞ、虫。カナブンだな、これ。カブトムシだったらよかったのに」
そう言って指でつまんだ虫を梓の顔に近づける。
「うわっ、バカっ。やめろ!」
だが、耕一はさらに手を梓に近づけてくる。
「虫の腹って、見た目が気持ち悪いと思わない?」
「止めねぇか、このバカこうい…」
とそこまで言ったところで花火が消え、あたりは闇に包まれた。
「うわったぁ」
急に暗くなったせいで二人はバランスを崩し、もつれて倒れた。
「痛てててて」
もにゅ。
たまたま、耕一の手が置かれた場所は、梓の胸だった。
「っ…………………」
「あれ?
今の?」
「ばっ、馬鹿野郎ぅッッ!」
ドグジャぁ〜ッッ!
梓は耕一の股間を蹴り上げた。
「ひギャェヤぁあッッ!」
自分の遺伝子が残せなくなるのではないかと恐怖したDNAからほとばしる原始の叫びが隆山温泉街に響いた。
「耕ちゃんどうしたの!?」
「駄目、耕一さん力を押さえてっ!」
「おにいちゃん?」
口々に叫びながら千鶴たちが駆け寄ってくる。
「ち、ちくしょう、去年に続いて二度も触りやがって」
白目をむいて痙攣している耕一から離れながら梓は激しく鼓動する胸を押さえた。
最近、ちょっとだけ膨らんできたような気がする。
そのせいか痛いような疼くような感覚がして刺激に敏感になっているのだ。だから、思わず蹴り飛ばしてしまった。
さすがに、やり過ぎたと思っている。本当は謝りたかったのだけど…。
「どこをやられたの?
おなか?」
「ええ、まあ、その辺」
「だいじょうぶ?」
「あぁ、ちょっと千鶴さんっ…、そこは」
千鶴に腹をさすられ酔っ払った助平親爺のような顔をした耕一を見て、謝る気が失せた。
「梓、ちゃんと謝りなさい」
「ふん、やなこった」
梓は走って逃げた。
「ごめんね、耕ちゃん。後でちゃんと謝らせるから…」
「別に、いいよ」
千鶴に腹をさすられている耕一にとって、他の事はどうでも良くなっていたのだ。
「ったく、耕一の奴でれでれしやがって…」
なぜだかいつもより耕一の態度に腹が立った。
十三
「今度はお正月にも遊びにきたら?」
「そうだな……」
耕一と一緒に寝るのも今日で最後だ。妹たちはもう寝ていて静かな寝息が聞こえる。
闇の中で梓と耕一だけが起きている。
「父さんの都合が良くなったら来るよ」
「うん、そうしろよ」
夜になっても暑さが残る中で、どちらからとも無く手を握り合った。
視線を合わせず二人は天井を見ている。
「こういち…」
梓は頭を横に向け耕一の横顔を見た。
「うん?」
耕一は天井を見たままだ。
「約束だからな」
「うん…」
眠そうに耕一は答えた。
梓は、ちょっとドキドキしていて眠れそうも無かった。
この約束は守られなかった。
耕一はそれから梓たちの所へ訪れようとしなくなったのだ。
耕一に会えないまま、梓の気持ちは宙に浮いたままだった。
いつか耕一に会った時のために、少しだけ女らしくなり、少しだけボーイッシュな部分を残し、時が過ぎた。
そして、八年ぶりに耕一はやって来る。
きっと耕一は驚くだろう。
梓が料理が上手くなった事に。梓が家事をしっかりこなしている事に。梓が、耕一の妹というよりは弟という存在でありつづけている事に…。
耕一の足の痕はまだ残っているのだろうか?
さすがに、一緒に風呂に入って確かめる訳にはいかないよな。そう思って一人ニヤニヤと笑いながら梓は耕一のために料理の下ごしらえを始めた。
<完>
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