水面の月(楓編)
序
「そうか、やっぱり耕一くんが…」
「ああ…………。あいつは、まだ十歳なのに………。まったく早熟だな」
「そうすると俺たちは老成型か…」
二人の男ががお互いの乾いたジョークに苦笑しあった。
「今は落ち着いているようだが…」
「いや、朝になって目を覚ますまで分からん」
「もし、駄目だったらどうする?」
「分かっているだろ、兄貴。俺たちが止めなくてはならない」
「……………」
「耕一はまだ子供だ。だから、理性が育ちきっていない。もし、目覚めてしまったら、本能のままに殺戮を繰り返すだろう」
「たしかに、親父でさえ力を制御できる様になったのは成人してからだと言っていたな」
「しかも、耕一の力は強い。けた違いだ。俺たちとは比べものにならない」
「………彼が何者か誰にも分からない。ただ一つ分かっている事は彼が怪物と言う事だ。
それは俺たちも同じだ……程度の差はあるがな」
「まさか、俺より早くこんな事になるとはな」
そう言いながら男がゆっくりと立ち上がった。
「賢治?」
「あいつが怪物なら、父親としてケリをつけなくてはならない」
「お前、まさか?」
「命まで取る気はないよ。そうだな……片足…ぐらい。それならたとえ目覚めてしまっても、何とかする事ができる」
「待て!」
もう一方の男が立ち上がり腕をつかんだ。
「お前正気か?」
「今しかないんだ!
俺がほんの少しでも力を制御できる、今!
耕一の力が目覚めたてで弱い、今!
今を逃せば、俺には耕一を止める事はできなくなる」
血を分け合い、呪いを受け合った兄と弟は互いの目を見た。
弟は静かな光を放つ目で、兄は枯れた光を放つ目で。
やがて、兄が折れた。
「俺も……手伝う」
「いや。
これだけは誰の手にもさせたくない。俺の手でやってやりたいんだ。
それに、兄貴はもう無理なんだろ。
だから、俺を呼んだんだろ」
それは質問ではなく確認だった。
「オリンピック……もう一度ぐらいは見たかったんだがな」
窓の外には月が浮かんでいた。
一
「ほら、楓も挨拶して」
両親にうながされて楓はおそるおそる挨拶をした。
「あ…、かしわぎかえでです。しょうがくにねんせいです」
人見知りする方なので初めての挨拶は苦手だ。すでに打ち溶け合っているように見える姉の梓や妹の初音がうらやましい。
「よろしくね、楓ちゃん」
そんな、ぎこちない楓の挨拶にも耕一は笑いかえしてくれた。
明るい、光を放っているような笑顔だった。その光はまっすぐに楓の胸に届いた。
頬に血があがる。心臓の鼓動が激しくなる。
最初は自分の体に何が起こったのか分からなかった。ただ、言えたことは…。
「なぁ、耕一。オレがこの辺の案内してやるよ」
梓がそう言って耕一を外にさそった。
「まって、わたしも行く」
慌てて楓もついて行く。
……ただ、言えたことは、とにかく、耕一の側にいたいという、不思議な思いがあると言うことだけだった。
「あら、楓が外で遊びたがるなんて珍しいわね」
楓の母は驚いたように言った。
外に出ると耕一と手をつないだ初音が嬉しそうに歩いている。
「そう言えば、初音って『お兄ちゃんが欲しい』って言ってたっけ」
ぼそりと梓は言った。
「姉さんは、女だもんね」
やはりぼそりと楓。
「楓、オレの事『姉さん』って呼ぶのやめろって言ってるだろ」
「……ごめんなさい」
梓が女として見られるのを嫌っていることを楓は知っている。でも、なぜか刺のある言葉が出てしまった。
「ま、いいけどね」
そう言うと梓は走り出した。こういう梓のさっぱりした所が楓は好きだった。
「こぉぅらぁっ、耕一! お前ぇ、どこへ行くのかわかってんのかぁ?」
梓の見事な飛び蹴りが耕一にヒットした。
初音とつないでいた手がはずれ耕一はよろける。
それを見てなぜか楓の心は少し軽くなった。
『ああっ……この人だわ……。
……………………やっと…………やっと、会えた…』
「ほらー、楓も早くこいよー」
梓が呼んでいる。それとは別にすぐそばで誰かの声が聞こえた気がした。
楓は辺りを見回した。だが、耕一たちの姿しか見えない。
「楓ちゃんもおいでよー」
耕一が声をかけてくれた。
耕一と離れたくなかったので、その事は深く気にとめずに楓は走った。
本当は初音のように耕一と手をつなぎたかったのだが、どういうきっかけで手をつなげばいいのか分からない。
無邪気な初音がうらやましかった。
男の兄弟のいない楓たちは耕一と言う年の近い男の子の存在に浮かれていた。
耕一も初めて持った兄弟に浮かれていた。
おかげでみんな変にテンションが上がりちょっとした事で大はしゃぎをしてしまう。普段はおとなしい楓や初音も耕一と梓につられて転げまわって遊んだ。
生まれてからこんなに楽しい日を楓は経験した事が無かった。
けらけらと大笑いする楓を梓は不思議そうに見た。
「楓って、そんなに笑い上戸だっけ?」
「なーに、『わらいじょうろ』って? ジョウロが笑っているの?」
初音の言葉に楓は大笑いして、笑いすぎて楓は咳き込んだ。咳き込む自分がおかしくて、また笑った。
「楓ちゃんってよく笑う子なんだね」
可愛いいとこの笑い転げる姿を見て、耕一は目を細めて言った。
「うーん、普段は……、…まあ、いいんだけどね…」
梓の苦笑の意味を耕一が理解できるようになるのは、ずっと後のことになる。
二
「はじめまして耕一くん。私が長女の千鶴です」
学校から帰ってきた千鶴は嬉しそうに耕一に挨拶をした。
姉が弟を欲しがっていたのを楓は知っていた。だから、千鶴が耕一の頭をなでているのを違和感なく見る事が出来た。
頭をなでられている耕一は顔を真っ赤にしている。
楓は二人から目を背けた。
胸のうちがモヤモヤとして気分が落ち着かない。
「そう、みんなでお風呂に入るんだ。私もいっしょに入ろうかな」
千鶴の発言に耕一は再び顔を赤くする。
「なに言ってんだよ。四人でさえ狭いってのに、千鶴が入ってきたら座る所も無くなるって」
梓がうるさそうに言う。
「そうねぇ……。ざんねん」
まだ顔を赤くしている耕一に千鶴は笑いかける。
耕一は照れくさいので無理矢理に表情を消そうとしている。それで歪んだ変な笑顔になっている。
胸のモヤモヤが痛みに変わった。
「わたし後ではいる」
ほとんど無意識に楓は言っていた。
「四人だと狭いんでしょ」
「どうしたの楓? いっしょに入ったら?」
楓のこんな態度をはじめて見た千鶴は戸惑いながら言う。
だが、千鶴の声が楓には不快な声に聞こえた。初めて経験する負の感情に楓はただうつむいている。
「あっ、さてはみんなと入るのが恥ずかしいんだ」
からかうように梓が言う。
「そうなの楓?」
心配そうに千鶴が顔をのぞき込んでくる。
胸が焼け付くような感覚に声が出せず、返事の替わりに楓はうなずいた。
「そう…。じゃあ、後でお姉ちゃんといっしょに入ろうか」
もし楓が声を出す事が出来たら「嫌」と言っただろう。だが、即答できなかったおかげで楓は少し落ち着きを取り戻し、こくん、と小さくうなずく事ができた。
「じゃあ、耕ちゃんみんなをお願いね」
千鶴にそう言われぎこちなく耕一はうなずいた。
去っていく耕一の背中が妙に遠くに見えた。
『いやっ、行かないで!』
「楓、どうしたの?」
それは楓にもわからなかった。
何で自分が泣いているのか。何でいつもは大好きな千鶴の顔を見たくないと思ってしまうのか。何でこんなにも胸が苦しいのか。
理由も分からず楓はただ涙を流した。
「楓も本当はみんなといっしょに入りたいんでしょ?」
泣きながらうなずく。
「恥ずかしいのなら、途中までお姉ちゃんがついていってあげるから、ねっ」
姉に優しく頭をなでられながら楓は涙をぬぐった。手を引かれるのが何か気恥ずかしくて千鶴の袖をつかんでついていく。
「お姉ちゃん」
「んっ?」
「ごめんなさい……」
「もう、謝ることないわよ」
ごめんなさい。だいすきなお姉ちゃん。
もう絶対に嫌いになんかならないから。
『ごめんなさい姉さん。それでも私はあの人と一緒にいたいの…』
「ほら、楓」
千鶴にうながされて服を脱ぐ。
「はい、ばんざーい」
楓に両手を挙げさせて千鶴は服を引っ張りあげた。
「あっ、ちょっと擦りむいているわね。転んだの?」
「平気…」
「楓は強い子ね」
そう言って千鶴は楓の頭をなでた。
千鶴は妹の楓から見てもとても奇麗でちょっとした自慢の種だった。だから、なんとなく納得できてしまうのだ。なんとなく諦めがつくのだ。
そう思いながらも自分が何を諦めたのか楓は分かっていなかった。
「あのぉ〜、みんな、いいかしら」
風呂場のすりガラス越しに千鶴が声をかけた。
『あの人は何と言う名前なんだろう? また会えるのかな? あの人のことを考えると、なんでこんなに胸が苦しくなるの?』
三
「くひゃんっ」
楓は小さなくしゃみをした。
冷え性の楓はクーラーが苦手だ。普段はクーラーのついている部屋には入らない。
だが、今この部屋には耕一がいる。それで楓も我慢して耕一の側に座りつづけているのだ。
「ほら、楓。湯上がりなんだから風邪を引くわよ」
母親にそう言われて長袖の服とズボンをはいた。
「何で楓ちゃんは服を着るの?」
不思議そうに耕一はたずねる。
「楓は寒がりだから服を着ないと風邪を引いちゃうのよ」
服を着た楓は自分の定位置である耕一の隣に座った。
最初よりもちょっとだけ耕一に近い位置に。
「おばさんも寒がりなの?」
やはり長袖の服を着ている楓の母に耕一は質問した。
「そうなの。親子だから似たのね」
ほがらかに楓の母は答える。
この時、なぜ楓たちの母が長袖を着ているかを知っているのは、姉妹の中では千鶴だけだった。
「ほらっ、耕一の番だぞ」
みんなでボードゲームをやっている所なのだ。耕一は力いっぱいルーレットを回した。
(いい数が出ますように。いい数が出ますように。いい数が出ますように)
「おっ、やったぁ。ラッキー」
いい目を出した耕一は大喜びをしている。
表情には出していなかったが楓も喜んでいた。
(良かったお願いが通じたんだ)
耕一がうまく行っているのを見るのは、自分がうまく行く事よりも嬉しかった。
「じゃあ次ぎは楓の番ね」
「うん」
楓は無造作にルーレットを回した。
四
数日後、楓たち小学生組はそろって釣りに行くことにした。
水面の照り返しで日差しが倍になると言うので楓と初音は母に日焼け止めクリームを塗ってもらった。
「梓ちゃんもつける?」
「オレはいいよ。そんなもん」
そう言いながらも、自分の母や耕一の母に日焼け止めを塗ってもらっている妹たちをうらやましそうに見ている。
「わたしが塗ってあげる」
楓はそう言って梓の腕にクリームを塗りつけた。
「ひゃ、楓くすぐったいよっ」
身をよじりながら恥ずかしそうに梓は言った。
「ほら梓、じっとして」
不器用に塗る楓に替わって楓の母がクリームを塗る。
「あんたは本当におてんばなんだから」
そう言いながら梓に笑いかける。
本当は梓お姉ちゃんもお母さんにふれたかったんだよね。素直になれない梓の心が楓には分かっていたのだ。
そして、
「耕一さんも塗る?」
精一杯の勇気を出して言った。
「別に、いいよ。俺は」
心底面度くさそうな耕一の態度に楓の勇気はあっさりと折れてしまった。
「そう……………」
なるべく気持ちを表情に出さないようにため息を吐いた。これからはなるべく、よけいな事を喋りすぎないように気をつけよう。
「よしっ、じゃあ行こうか」
「遅せぇんだよ、梓ぁ」
「うっ、うるさいなぁ。みんなさっさと行くぞ」
梓は先頭になって歩き出した。
ごく近所の水門に行くだけだが子供にはちょっとした冒険のような気分だ。
夏の強い日差しの中で四人は元気一杯に歩いていった。
最初の魚を釣り上げるより早く、事件は起きた。
水面をのぞいていた梓が足を滑らし水の中に落ちたのだ。
耕一はためらわずに水の中へ飛び込んだ。
泡だけが浮き上がり二人とも浮き上がってこない。
「梓おねえちゃん、耕一おにいちゃん」
初音が声を張り上げる。
目の前から現実感が失われていく。生ぬるい悪夢のように風景に靄がかかって見える。
『いやぁッ! せっかく、また会えたのに…』
「耕一さん!」
叫んで走り出す。
水面に波が起こり梓を抱え上げた耕一が浮かびあがった。
「耕一さん!」
「耕一おにいちゃん! 梓おねえちゃん!」
耕一は半ば引きずるようにして地面に梓を運んだ。
倒れ込んだ梓は激しく咳き込み水を吐いた。
耕一の方はちょっと緊張をして顔色が悪くなっているが、まだまだ元気と言った感じだ。
「ったく、意外とどじだなお前も」
余裕を感じさせるからかうような話し振りだ。
「寒いのか?」
まだかすかに震えている梓を見て耕一が心配そうに顔を近づける。
「これくらい平気だよ…」
強がりを言って梓はふらつきながらも立ち上がった。
日焼けしているはずの顔色が真っ白に見えた。
「なんだよ、靴が脱げちゃったじゃないか」
声も震えていて聞こえにくい。
梓はぼそぼそと耕一に何かを言っている。耕一は梓を支えながらそれを聞いている。
そうしていると二人はふざけあっている男同士の兄弟のように見えた。
仲のいい二人を見ているとまた胸の奥が痛んだ。
だが、この痛みは千鶴が耕一の頭をなでている時に感じた痛みとは違っていた。なにか落ち着かない気分がする。空気が足りない気がして呼吸数が上がった。かすかな吐き気がする。
「お前って、ホントむかつく奴だな」
からかうように耕一は梓にそう言った。それくらい元気があれば大丈夫だな、そんな表情だ。
昨日まではそんな耕一の表情を見ると苦しい気持ちは消えて無くなったのに、今は違う。
楓がもう少し人生の経験を積んでいればこの感情を理解できただろう。
「待ってろ、靴とって来てやるから」
耕一が背を向け、また水の中に入ろうとする。
その感情とは「不安」だった。
「行かないで、耕一さんっ!」
『あなたを失えば私はきっと後悔をする。だから私は…』
ここで耕一を止めないと二度と会えなくなる。そんな思いにかられ楓は耕一を止めようとした。だが楓が耕一へ一歩踏み出すよりも早く、耕一の姿は水中へと消えていった。
『エルクゥは心をシグナルに変えて伝えることが出来る…』
楓の全身が水に包まれた。
『あなたの思いが私のものに…』
それは耕一の感覚が流れ込んできているのだ。理屈ではなく実感で楓は理解した。
耕一の目が梓の靴を捕らえた。古い鉄線が湖底に埋まっている。体が浮きあがるのを防ぐために耕一はそれにつかまった。
(ダメ)
両手を空けるために鉄線を足に絡ませ………
(ダメっ、ダメっやめてお願い耕一さんそこから離れて早く上がってきてダメっダメなの危ないやめてお願い耕一さん!)
自分自身が水中に閉じ込められているような閉塞間が沸き上がる。息が、呼吸ができない。
足から力が抜けていく。よろめいた楓は目の前にいた梓の手をつかんで体を支えた。
自分を通じ耕一の感覚が梓に流れていくのを感じる。
水中で赤い花が咲いた。耕一の血だ。
「うわぁっ!」
声を張り上げ梓は両手を振りまわした。
弾き飛ばされ楓は尻餅をついた。
自分の死にも似た絶望の中でいつかの声が体の内から聞こえてくる。
『あなたを死なせはしない』
耕一の肺に水が流れ込んだ。替わりに肺から空気が泡となって昇っていく。
肺呼吸の停止は脳への酸素供給が断たれることでもある。脳細胞は酸素供給が止まったその時点から損傷を始める。
昇っていく泡を見上げる。水面から太陽が見えた。水に遮られその光は月のように弱々しかった。
闇が深くなった。影が差したわけではない。酸欠で意識が遠のこうとしているのだ。
『あなたに私の力を与えれば…』
意識が遠のくと同時に、何かが耕一の体内からせり上がってきた。原始の意識、生存本能の荒々しい意識だ。
押えようも無い強力な力が体内から溢れ出てくる。それは一度動き出したら決して止まることのない狂った永久機関だ。
全身の熱量が増して行く。
『さあ、目を覚まして、私の次郎衛門…』
束縛されている。
体を縛るものがある。
足に絡む鉄線をつかみ引っ張る。皮膚がこすられ出血がひどくなる。だがその痛みすら心地よい。
手の中で鉄線が引き千切れる。
束縛する鎖は断ち切った。
自由だ!
もはや、俺を阻むものはない!
『姿を見せて、お願い…』
跳躍する。水中だと言うのに軽々とした跳躍だ。一気に水上へ飛び上がった。
耕一の目を通し楓は自分の姿を見た。
いつも鏡で見ている自分はそこには居なかった。耕一の目に映っているのは脆弱な肉体しか持たない獲物の姿だった。
好意や愛情は欠片も無い。絶望的な飢餓感にも似た殺傷欲のみが耕一を支配している。
柔らかで暖かな肉を持った三匹の生き物を見て歓喜(よろこび)と共に殺傷欲が沸き上がった。
(獲物…ダ)
『バケモノ……………。私が………? お願い、そんなひどいいこと言わないで………』
(こういちさんはわたしのことすきじゃないんだ……)
場違いでぼやけた感覚が楓をつつんだ。同時に強烈にリンクしていた耕一の感覚から楓の意識は剥がれ落ちた。
耕一の目が三人の少女を見据える。
うずくまっていた梓がよろけながらも立ち上がる。その梓を楓と初音が支える。三人はお互い抱き合うようにして耕一を見上げた。
「耕一?」
「耕一さん!」
「お兄ちゃん…」
耕一の喉が鳴った。
「オッ」
耕一の口がゆっくりと開いていく。白い歯をむき出しにし口がどんどん開いていく。
口の端が切れるほどに、耳まで裂けるほどに、顎が開かれる。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!」
聞いた者の魂を凍らせる雄叫びだ。
開放された愉悦(よろこび)の叫び。
もう、彼を止めることは誰にもできないのだ。
楓は耕一の犬歯が牙に変化しているのに気がついた。
声を静めると耕一は再び楓たちに目をむけた。
耕一は表情を消し静かに歩を進める。
動物が唸り声を上げるのは威嚇のためであり、自分が受けるダメージを少なくするためだ。獲物を狩る時は気配を消し声も足音も立てない。
今の耕一には表情や感情が欠けているようにさえ感じられる。だが、強烈な殺意を隠しているのが楓にはぼんやりと感じられた。
「お兄ちゃん?」
不思議そうな顔をして初音が耕一に近づこうとする。
「耕一……」
びっくりしたような表情で梓は立ち尽くしている。
「耕一さん…」
何か大切なものが欠けてしまったように楓の思考は止まっている。
もう、どうなってもいい。そんな投げやりな気分が心を支配していく。
ぼんやりとした楓の視線が耕一の視線とぶつかった。
殺意と狂気の渦巻く瞳のその奥に小さな光が見えた。昼に見える月のように頼りないその光は、かすかに残った耕一の人間の心だった。
(あなたに耕一さんは渡さないっ!)
楓に強い意志がよみがえった。
「耕一さん!」
楓はありったけの思いを込めて呼びかけた。
耕一に残された人間の心は野獣の本能に飲み込まれようとしている。
自分の声だけでは耕一に届かない。それに気がついた楓は梓と初音の手を力いっぱい握った。
(みんなの思いを合わせれば)
梓たちを引きずるように耕一の方へ楓は歩み寄る。
「耕一さん!」
耕一を失うことを恐れ楓の声は恐怖でかすれ始めている。
「こういちぃ……」
梓の声は涙声だった。
「こういちお兄ちゃん?」
初音の声は純粋な好意でできている天使の声だ。
三人の純粋な思いは楓の中で膨れ上がり、楓はそれを耕一の心へ向けて放った。
その思いは消えかけていた耕一の人の心を揺さぶった。
「オオオッ」
苦しそうなうめき声。獣の本能と人の心が主導権を争っているのだ。
「お願いです、帰ってきてください。耕一さん……」
耕一の目の光が弱まる。
ゆっくりと膝をついて耕一はうずくまった。
「耕一さん!」
皆がいっせいに耕一のもとへ駆け寄った。
五
足にしたケガを問題にもせずに耕一は梓を背負っている。家に帰るまでの道を一度も休むこと無く、手ぶらの楓や初音と同じペースで歩いている。
耕一の体は明らかに異常だった。あれだけ出血していた足の怪我はほとんど治っている。それも、かさぶたが取れかけているほどの回復量だ。
楓は初音の手を引いて無言で歩いている。耕一が梓を励まし、からかっているのをじっと見ていた。
「楓おねえちゃん、おにいちゃんカッコよかったね」
楓は口を開かず、うなずいた。
「梓、耕ちゃん、みんな、そろっているのね?」
家の近く間で来た時に千鶴と会った。
「何だよ千鶴こんな所まで迎えに来たのか?」
「梓、あなたどうかしたの」
「あっ、ちょっと梓が足をくじいちゃったんで…」
耕一が決まりが悪そうに言う。
「あたしが勝手に転んだんだからな。別に、耕一は悪くないんだからな」
梓にしては珍しく妙に気弱な言い方だった。
「何が、あったの?」
「梓が池に落ちちゃってね」
「う、うるさいなぁ」
「それで、どうかしたの?」
「それでね、おにいちゃんがね」
楓は初音の前に割り込み千鶴の手を取った。
「何でもないわ、姉さん」
「何でもないことはないでしょ。梓、何があったの?」
「あたしのことを耕一が助けてくれて…」
自分でも情けないと思っているので、梓も話しにくい。
「姉さん。なんでもないの。何も誰も変わっていないわ」
「……楓?」
「姉さん」
真っ直ぐに目を千鶴の見ながら楓は手を握り締めた。
「そう、ね」
千鶴は楓から目をそらした。
「早く帰りましょう。お父さんたちが心配しているわ」
「うん」
楓と千鶴の不可解なやり取りが気になったが皆は家に向かって歩き出した。
「ね、みんな、お姉ちゃんと一緒にお風呂に入ろっか?」
家に着くなり倒れ込んだ耕一の側から妹たちが離れようとしないので千鶴は声をかけた。
「あたしはもう少し、耕一のこと看てるよ」
「初音もおにいちゃんを見てる」
「楓は?」
楓は小さなくしゃみをした。
「お風呂、入る」
真っ直ぐに千鶴を見ながら、言った。
六
「楓、本当は何があったの?」
湯船につかって向かい合ったところで千鶴は話を切り出した。
耕一が熱を出して寝込んでいる原因を聞いているのか、もっと別の事を聞いているのか。
本当は全部喋ってしまいたかった。だが、話してはいけない気がする。だから、楓は黙ったままだった。
「お姉ちゃんにも言えないこと?」
うなずくだけでもボロが出そうな気がしたのでじっと固まっている。
「耕ちゃんを助けたいのなら、ちゃんと話してくれなくちゃ、手伝えないわ」
優しい言葉に、思わず崩れそうになった気持ちを必死で立て直す。
「本当はね…大体のことは分かっているの。耕一さんが…あなたたちを……」
千鶴は言いにくそうに言葉を切り、目をそらした。
「…………………殺そうとしたのね」
「違うッ!」
自分でも思いがけず口調が激しくなる。二人がつかっている浴槽が波だち、お湯がこぼれた。
「………違うもん」
説得力が無いのは自覚している。でも、水門で起こった事を大人に言うのは耕一を危険にさらす気がして、楓はただ首を振るばかりだった。
「楓は優しいのね」
そう言って千鶴は楓をなでる。優しく丁寧に。
優しくして欲しくなかった。
優しくされるのは、きつく問い詰められるより心がゆれてしまう。
絵本で見た「北風と太陽」では無いけれど、温かい言葉は冷たい言葉よりも心の壁をはぎ取って行く。
楓が泣き出すまでにさほど時間はかからなかった。六歳にしては、よく耐えた方だろう。
それでも楓が全てを話し終えるまでに、二人とも湯につかり過ぎてクラゲみたいにふやけてタコみたいにのぼせていた。
後のことになるが、千鶴と楓が誰にも聞かれたくない話をする時は、お互いの部屋か浴室でするようになった。これが記念すべき、その第一回目だった。
七
高熱を出した耕一は寝込んでいる。側には毛布にくるまった梓が寝転がっている。
寝込んでいる耕一を見下ろす自分の姿が妙に懐かしい気がする。昔、どこかで同じような経験をしたような、そんな不思議な気分だ。
窓から青い月明かりが差し込む。
虫の声が打ち寄せる波のように大きさを変えて聞こえてくる。
『あなたに私の血を、命を分け与えます。これであなたは助かるはずです。異生の民であるあなたに私の、エルクゥの血がどんな副作用を及ぼすか分かりません。
でも、あなたを失いたくない。
もう一度、あなたの声を聞かせて下さい。あなたたちの言葉も覚えました、あなたの名前を私に教えて下さい。
私の名前は…………』
耕一の中の「何か」は静かに眠っている。楓にはそれが分かる。そしてその眠りがきわめて不安定なのも分かる。耕一はそれを完全に眠らせるために自身が深い眠りについているのだ。
『早く目を覚まして、私の…………』
「このままずっと眠っていてくれたら…」
無防備に寝ている耕一の顔を見る。
電灯をつけていない暗い部屋で耕一の顔は月に照らされほのかに光っている。
はじめてみる耕一の寝顔なのになぜか懐かしい。一族のもとを離れ一人で心細い夜もこの顔を見ているだけで安心して寝る事ができた。
一族のもとを離れ?
一瞬浮かんだ不可解な記憶に楓は首をかたむけた。かたむけた首にあわせて、おかっぱの髪がサラサラと揺れる。その姿だけは六歳の子供らしいあどけない仕草だった。
廊下の板がかすかに鳴った。
忍んだ足音がする。
頭に残った疑問はすて、楓は傾けた首をまっすぐに戻した。
楓が耕一の所へ来たのは嫌な予感がしたからだ。
「『私が守る、絶対に』」
つぶやいたその声は二重に聞こえた。
だが、楓はそれには気を止めず部屋のふすまを睨んだ。
八
「もう一度聞くが、考え直す気にはならないのか?」
「ああ……」
「後で後悔しても取り返しつかないぞ」
「分かっている」
二人は耕一の寝ている部屋のふすまの前に立った。
「引き換えすなら…」
「兄貴、俺はもう決めたんだ」
無言で互いの目を見返す。
「……………そうか」
ふすまを開ける。
中に入ろうとした時に闇の中に小さな人影が浮かび上がった。
ほっそりとした小柄な少女、楓だった。
「楓ちゃん?」
「どうしたんだ楓。もう寝なさい」
楓は首を振り、まるで通せんぼをしているように手を広げた。闇の中で瞳だけが輝いている。
「耕一さんをしからないで…」
二人は息を呑んだ。
「そんなことはしないよ。さあ、楓、部屋に戻りなさい」
楓は無言で首を振る。
「楓、いいかげんにしなさい!」
きつく言われ、楓は一瞬体を震わせたがひるまなかった。
「耕一さんを許してあげて下さい。お願いします。
もう、わがままも言いません。言う事を何でも聞きます。勉強もちゃんとします。いい子になります。
だから、耕一さんの事を許してあげて下さい。
お願いします。
耕一さんにひどい事をしないで下さい」
楓の瞳をおおっていた涙の膜がやぶれ、雫となってあふれ出した。
崩れるように楓は膝をついた。
「これからは何も欲しがりません。
だから、こういちさんを……」
楓は手をついた。土下座と言う言葉も行動も知らなかった楓だが必死に許しを得ようとするうちに自然と土下座になっていた。
「おねがいします…」
涙で濡れた畳に楓の額がふれた。
「楓ちゃん、もういいよ」
賢治が楓の肩に手をかける。
「子供を傷つけようとする親はいないよ。おじさんはいつも耕一の事を心配しているんだ」
その言葉に楓は顔を上げる。
「ありがとう、耕一の事を心配してくれたんだね」
楓はそれには答えず賢治の目を見た。そこに全ての答え、全ての真実が書かれているかのようにじっと見詰める。
やがて、納得したように小さくうなずいた。
賢治は楓に笑いかけて頭をなでてやった。
だが、楓は表情を変えないまま静かに体を傾けていった。
「おい、おい」
慌てて体を支える。賢治の腕の中に楓の小さな体が倒れ込んだ。
「楓ちゃん?」
「大丈夫、気を失っただけだ」
賢治の腕の中にいる楓をのぞき込むように見ながら楓の父は言った。
「よっぽど緊張していたんだろうな」
そう言いながらまだ乾いていない涙をぬぐってやる。
ぐったりと脱力した楓の体は賢治の腕の中でかすかに震えていた。
「しかし、女の子は可愛いものだな」
腕の中で眠る姪の顔を見ながら賢治は言う。
「華奢で軽くて、耕一とは大違いだ」
「女ばっかりの家だと時々居場所が無くなるがな」
二人は小さく笑った。
「さて兄貴、楓ちゃんをちゃんと寝かせてあげないとな」
「………耕一君の事はどうするんだ?」
賢治はもう一度腕の中の少女を見た。
「この子がこんなに耕一の事を信じているんだ。親の俺が信じないでどうする」
「……そうか」
「それにしても大丈夫なのか、この子は?
まだ小学二年生だろ。もう、力の兆候があったぞ」
「千鶴にしても、もう少し遅かったんだが、耕一君の力に触発されたのかもしれないな」
「だとしたら、この先…」
「平坦な人生は望めない…」
その予想は半ば当たり半ば外れていた。柏木楓の平坦な人生はこの瞬間に終わっていたのだ。
だが、この二人はそのことを生涯知ることはなかった。
『私は忘れない………』
八
朝になり目を覚ました耕一は以前と変わらない耕一だった。
ただし耕一は前日の記憶を失っていた。耕一は記憶ごと鬼の力を封じ込めたのだ。
千鶴が耕一は溺れかけたショックで記憶を失ったと説明し、皆はその事に触れないようにした。
皆は何事もなかったように振る舞い、やがて耕一たちが帰る日が来た。
「耕一お兄ちゃん、行っちゃうの?」
耕一の袖をつかんで初音は泣きそうな顔をした。
そんな初音を抱き上げて耕一は慰める。
「そのうちにまた来るから。ね、待っててよ」
「………うん。初音、お兄ちゃんのこと待っている」
涙を溜めて初音はうなずいた。
そんな風に耕一に抱きかかえられている初音がうらやましかった。そう思いながら耕一の事をじっと見ていたので気づかれてしまった。
「なに? 楓ちゃん」
「あ、あのぉ」
「ん?」
心臓が壊れそうなくらいドキドキしている。でも、勇気を出さなくちゃ。
耕一の服の裾をつかむ。
「?」
「だっこ…」
全身が心臓になったみたいにふるえている。
「だっこ?」
もし、嫌だと言われたらどうしよう。泣くのをがまんできるかな。耕一の沈黙が楓を不安にさせる。
「なんだ。いいよ、そんくらい」
耕一は笑って楓を抱え上げた。
耕一の手はまだ子供の物だったが小柄な楓には大きな手だった。
『私は忘れない…。この力強い手を、このあたたかな腕を、たとえ千年経っても私は忘れない…』
それは永遠で一瞬の出来事だった。
楓は夢中で耕一にしがみついた。耕一が自分を抱きしめる体温と感触が体に染みわたっていく。
もし、楓がこの時に死んだとしても彼女はその死を満足に受け入れただろう。それほど一瞬で永遠の幸せだった。
『また、会えた………』
九
耕一を見送り姿が見えなくなるまで、楓は泣くのをがまんできた。駅のトイレに行って静かに泣いた。
それでも楓の体には耕一の感触がまだ残っている。耕一と繋がっている気がした。どんなに離れていても、二人の間に同じ血が流れている、決して独りではない。そう思うと少しだけ元気が出てきた。
もう自分の運命からは逃げられない。でも、目をそらさずに歩いて行こう。
最初の試練はその日の夜に訪れた。
十
「もう熱も下がったみたいね」
耕一が帰った翌日の朝から楓は熱を出して寝込み、そのまま一週間が過ぎた。
急激に覚醒した力をコントロールできていなかったのだ。夜は眠ることで夢に怯え、朝は目覚めることで現実に怯えた。ほとんど食事も睡眠もとれずに楓は痩せた。
「何か食べる?」
「おかゆがいい………」
「お肉とかも食べないと元気が出ないわよ」
「……………………お肉はイヤ」
肉と効いただけで吐きそうな表情をする。
「そう。じゃあ、おかゆ作ってくるわね」
「…………お母さん」
「ん?」
「手のケガ平気?」
楓の母は呼吸を忘れたように楓を見つめた。
「楓……あなた………?」
「ドアを閉めても耳をふさいでも聞こえるの。頭の中に響いてくるの」
痩せこけ頬骨の浮きあがった頬に涙の雫が零れる。
「お母さん………………。
お父さん死んじゃうの?」
夜になるともう一人の自分が目覚める。血を、肉を、闘争を求め狂ったように暴れる。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
唾液と絶叫をほとばしらせ、メキメキと筋肉が音を立て蠕動する、体が人間の状態を維持できない。筋肉の変化に骨が耐えられずきしみ曲がり砕ける。砕けた側から再生されていき人外の骨格を形作る。
肉体の変化に伴いどす黒い殺意が沸き上がり全身が熱く終え上がる。
「はぁぁぁぁっっ…………」
耐え難い殺戮本能に耐え胸をかきむしる。
固く鋭く変化した爪によって胸の肉が切り裂かれる。もどかしい痛みと血の匂いがより殺意を刺激する。肉を切り裂く喜びは自分の肉であっても例外ではない。痛みを上回る喜びが沸き上がる。
「あなた……」
先ほどから部屋の隅で震えていた妻が近づいてくる。
「あたな………」
そのまま首に手を回し抱きしめてくる。そんな妻を抱き返えす。背中を抱けば背中の皮膚が破れた。肩を抱けば肩の肉が裂けた。
柔らかな女の体に爪を突き立てたいと言う思いと罪悪感が心で渦巻く。
「ぐっはぁっっ」
かろうじて妻を突き飛ばし理性を保つ。
「あなた、お薬を……」
牙が生えそろう口を無理矢理こじ開け薬を押し込む。口中に入った薬の量も確かめず噛み砕き飲み込む。妻の指が切れ血の味がする。甘い、命の味だ。
「薬が効いてくるまで、こうしています」
そう言って妻は異形から回復しつつある頭を抱え胸に押し当てた。服は破け手にも胸にも血が滲んでいる。
「すまない………」
薬が効いてきたのか気分が落ち着いていく。
「何を言っているの。私たちは夫婦なんだから」
「すまない………」
もう一度言って眠りに落ちた。
一時期は収まった発作がまた悪化している。以前よりも、はるかに悪く。
二人とも口には出さなかったが、それは耕一が力の片鱗を見せたあの日から始まっているのに気が付いていた。
「楓、あなたもこれを毎晩見ていたの?」
血の生臭い匂いの立ち込める部屋の中で狂える夫を抱きながら呟いた。
楓の胸や腹に赤いみみず腫れができている。両親の傷と痛みを楓は共有しているのだ。
その姿を見ただけで楓の悪夢がいまだに続いている事が分かる。
服で隠れない部分の腫れは幸いにもひどくなく、服さえ着ていれば特に変わりなく見えた。
服から出ている楓の手足の皮膚は空気が抜けた風船のように少したるんでいる。やせると筋肉や脂肪はすぐに無くなるが、皮膚自体はすぐには無くならないので、余ってたるむのだ。
母と千鶴だけは楓の事を知っている。父も、梓も、初音もこの事は知らない。みんなに余計な心配をかけさせないためだ。
だが、風呂に入ったり着替えたりすると体にできたみみず腫れを見られて不審に思われてしまう。だから、このごろの楓は千鶴としか風呂に入っていない。
楓は一言もしゃべらずに一心不乱に食事をしている。
少しでも物を考えると、夢の内容を思い出してしまうのだ。豚肉の脂身は傷口からのぞく脂肪の粒を思い出させた。父の傷口、母の傷口。口中に残る薬の苦さと血の臭い。それらを頭から追い出すために楓は何も考えず、できるだけ早くそして行儀良く食べる事に集中した。
「あれ、楓もうメシ食っちゃったの?」
梓が驚いたように言う。
口を開くと胃の中の物が逆流しそうな気がするので静かにうなずく。
「楓、お茶も飲まずに食べたから喉が渇いたでしょ」
そう言われて母にお茶をもらう。
食事が拷問なら、お茶は休憩だ。
先に食べ終わってやる事が無いので楓はゆっくりとお茶を飲む。みんなの話に耳を傾け、少し笑う。一日で一番しあわせな時間だ。
このまま、眠らず朝が来ればいいのに。そう思っても、眠りの時間はやってくる。
今夜も静かに月が輝いていた。
十一
「おはよう、お姉ちゃん」
「あら、今日は早いわね」
いつも楓はなかなか起きられない。家族には低血圧だからと言ってある。
一晩中両親の苦しみを感じ、眠る事もできずにうなされて、父の発作がおさまった時に、やっと力尽きるように眠る事ができるのだ。朝には疲れ果てている。
そんな状態で寝起きがいい訳が無かった。
「今日は良く眠れたの?」
ときどき一緒に寝ていた千鶴にはその苦しみが良く分かる。
いつも一緒に寝ていないのは、側に人が居ると楓が我慢してしまうからだ。声も出さずに脂汗を流しながら丸くなって苦痛に耐える。千鶴はそんな楓しか見た事が無かった。
防音がしっかりとなされた部屋なので普段は声が聞こえない。
ある夜に楓の部屋の扉に耳をつけた千鶴は獣のようなうめき声を聞いた。楓の部屋には物がほとんど無い、それは暴れる楓が壊したり、ぶつかって体を傷つけるので捨ててしまったためだ。
苦痛を我慢して堪えるのと、暴れて発散させるのと、どちらが楽なのだろうか。
それは千鶴には分からない事だった。だから、楓が一人で寝たがる時は無理に一緒に寝ないようにしているのだ。
千鶴はしゃがんで七つ年下の妹の顔を見た。
いつもと違って消耗し切った表情ではない。
「今日は良く眠れたの?」
はにかんだ様に楓はちょっとうなずいた。
「そう良かったわね」
そう言って楓の頭をなでた。
「あの、お姉ちゃん…」
「なに?」
「お正月に、耕一さん遊びに来るかな?」
「どうかな? でも、来て欲しいね」
楓はだまってうなずいた。
昨日、耕一から手紙が届いたのだ。前に遊びに来た時にみんなでとったいくつかの写真が同封されていた。梓は手紙を出すのが遅すぎると口では怒っていたが、みんな耕一の手紙を喜んだ。
(耕ちゃんのおかげかしら?)
まぶしそうに朝日を受けている楓を見て千鶴はそう思った。
十二
「楓、お姉ちゃんと一緒に寝ない?」
千鶴にそう言われ少しためらってから楓は首を振った。
「そう。廊下の電気は点けておくから、辛かったら遠慮しないで来なさい」
楓の頭をなでながら千鶴は言った。
楓は小さくうなずく。
これが楓と千鶴のいつもの儀式だった。
扉を閉め楓は部屋でひとりきりになった。
机の引き出しから音を立てないように一枚の写真を取り出す。
それは耕一の写真だった。
昨日届いた手紙に同封されていた写真をこっそり一枚抜き取っておいたのだ。
写真の中で耕一は微笑んでいる。楓は耕一のこの表情が一番好きだった。
写真を胸に押し当ててそのまま布団に潜り込む。
こうしているだけで昨日は怖い夢を見なかった。耕一が守ってくれたと楓は思っている。
できれば、耕一の夢が見たいと思いながら楓は眠りについた。これほど穏やかな状態で眠りに入るのは本当にひさしぶりの事だった。
十三
怖い夢を見た。
それだけは憶えている。内容は起きたとたんに忘れてしまった。それでも怖い夢だった事だけは憶えている。
「どうした、目が覚めたのか?」
隣で少し眠そうで、心配そうな声が聞こえた。
「ごめんなさい、私あなたを起こした?」
「いや、いいよ。少しうなされていたみたいだけど怖い夢でも見たのか?」
「わからない、起きたら夢を忘れたの」
「そうか」
そう言ってぎゅっと抱きしめてくれた。
「俺がついている。安心しろ」
「ア・ン・シ・ン?
少しだけ似ているみたい安全に」
そう言うと、少し困ったように笑われた。
「そう言えば、安心は教えていなかったな。
そうだな、安心と言うのは、怖い思いをしないでいいと言うか、心が休まると言うか……」
ちょっと説明に困っている。そんな困り顔はちょっと子供っぽく見えて微笑ましい。一族のもとを離れ一人で心細い夜も、この顔を見ているだけで安らかに寝る事ができる。
ぎゅっと抱きしめ返す。
「安心がわかったみたいなんとなく。
こうすると心がとてもあたたまる」
「まあ、それでいいか」
そう言って、さらに強く抱きしめ返してくれた。
力強い腕だ。私はこの腕を忘れない。
「もう少し金が溜まったら暖かい所に引っ越そう。そうすれば寒がりなお前もつらくないだろ」
「平気です次郎衛門と一緒なら」
「エディフェル……」
もう一度、強く次郎衛門は抱きしめてくる。
口には出せないお互いの不安を抱えたまま。
禁忌を犯した二人には追手がかけられている。襲って来た刺客の数も一人や二人ではない。エディフェルを抱きしめる次郎衛門の腕にも刺客との死闘によって生じた傷が残っている。
いつまで続くかわからない幸せだった。だからこそ二人はこの幸せをしっかりと心に刻み込んだ。今は会えないけれどもいつか会うその時まで、この幸せと力強いこの腕を忘れない様に、心の奥に大切に鍵をかけてしまっておこう。
もう少し大きくなったら、私の方から会いに行ってもいい。
そこまで考えて、心臓が縮み上がった。
今、自分は何を考えていたのだろう?
急に不安になった。今抱きしめてくれている腕が急に消えてしまったような感じだ。
「どうした?」
「私たちもっと体が小さくて、子供だったの、そんな気がする」
「何だそりゃ。まだ寝ぼけているんじゃないのか? 俺も――――ももう子供じゃないだろ。
もっとも、まあ、―――――はまだ発育途中みたいな感じだけどな」
いつもの彼のからかいだ。でも、どこか声が遠い気がする。
「あのね、いい? 私の名前呼んでみて」
「何を言っているんだ――――? どうかしたのか?」
自分の名前が呼ばれているのはわかる。だが、呼ばれた名前がなぜか聴き取れない。
もう一度、名前を呼んでもらおうとして愕然とした。
彼の名前が思い出せないのだ。
この人が自分の愛しい人だと言う事はわかっている。この腕にもこの指にも憶えがあり、触れているだけで心が安らぐのを感じる。
なのに名前が出てこない。
ついさっき名前を呼んだばかりだと言うのに、だ。
顔を見れば名前を思い出せるだろうと、首を上げる。
だがあたりが暗く顔が見えない。
「心配するな、朝までずっとこうしててやるよ」
名前も顔も思い出せない不安。それでも抱きしめられ温かさに包まれると不安は消えた。
「うん、私、何だかとても眠たいの…」
「怖い夢からも俺が守る、だから待っててくれ」
「あなたの事を目を覚ましても待ってます。また会える、そうですよね耕一さん」
闇が訪れた。
十四
楓は泣きながら目覚めた。
どこかが壊れてしまったかのように涙が次から次へと流れていく。体の水分が全部涙になって流れ出て、このままミイラになるのではないかと不安になるほど涙は流れた。すぐに枕はぐしょぐしょに濡れてしまった。
体の一部がもぎ取られたような喪失感がある。体の部品が足りなくて、どこかに穴が空いている。
ひょっとしたら足りない部品はまぶたの裏にあったのかも知れない。だからそこから涙がこんなに漏れているのだ。
耕一に会いたかった。最後に会った日のように抱きしめて欲しかった。
楓は涙を流したまま耕一の写真を見た。写真の中で耕一は変わり無く微笑んでいる。楓は写真を胸に押し当てた。
そして耕一の手の感触を思い出した。
この腕の感触を私は忘れない。もう一度会うその日のために…。
楓は涙をぬぐった。
大丈夫、私はがんばれる。
どんなに遠く離れていてもいつもあなたの存在を感じる。
楓は窓のカーテンを開けた。朝日が眩しく部屋に射し込んでくる。
「楓、起きている? そろそろ起きないと学校に行く準備が大変よ」
ドアごしに千鶴が声をかけてきた。
さっき見た夢を思い出すとまた泣きそうになるけど、いつもの怖い夢とは違って何度でも見たいと思う。
夢で会ったあの人に、もう一度会いたいな。
そう思いながら、楓はドアを開けた。
<完>
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