『緋文字』
映画題名:"緋文字"
原題:"Der Scharlachrote Buchstabe"
監督:ヴィム・ヴェンダース
主演:センタ・バーガー
小説題名:"完訳 緋文字"(岩波文庫,12,16,1992)
原題:"THE SCARLET LETTER"(1850)
作者:ナサニエル・ホーソーン(八木敏雄・訳)
内容比較文書
リリアン・ギッシュ、デミ・ムーアなど何度も映画化されてきた、ナサニエル・ホーソーンの最高傑作と目される「緋文字」を、1972年にヴェンダースが映画化。日本では公開されず、ビデオのみの発売となっています。
ホーソーンの原作は、内面描写が非常に多く、まるで作中の登場人物や物語は実際にあった話で、それに解説を付け加えていって、にも関わらず断定的な表現はせず、読者に判断を委ねるような曖昧さを残すという、主題は非常に重いものながらも、その描き方によってとても情景豊かにふところ深く、その世界や歴史までもを一気に飲み干すことができる名作です。
映画よりはむしろ、演劇にこそ向いている題目なのではないかとも考えますが、ヴェンダースはこの映画の主題事項のみを拾い、美しくも空虚な映像の中に描き出し、後の判断を観たものに委ねています。
17世紀入植時代のニューイングランドの首都セイラムで、一人の女性が見せしめの刑に処せられ、罪をの証として胸に一生緋文字を付けて生きなければならないことを宣告されます。彼女の名はヘスター・プリン。イギリスに仕事を残した夫に先立って移住してきた若く情熱的な彼女は、いつしか不義をはたらき、子をもうけてしまったのです。貞淑謹言が美徳とされ、道徳を最も重んじる清教徒の社会の中にあって、不義をはたらくことは死罪にも等しいこと。しかし寛容な総督にそれを許されたヘスターは、相手の名を告白すればさらに罪を減じると言われたにも関わらず、頑なにそれを拒みます。そして彼女は、その裁判の様子を観に集まって盛んに野次を飛ばす群衆の中に一人の男の姿を見いだします。彼こそは、離ればなれになって二年間音沙汰の無かった彼女の実の夫、ロジャー・チリングワース医師その人でした。
原作では、不義自体はすでに過去のことで、生まれたばかりの赤子を、緋文字をつけた胸に抱いたヘスターが裁判にかけられた時、かつての夫の姿を見いだすところから始まります。ここで一気に時代背景と清教徒の生活や道徳文化などが巧みに文中に織り込まれ、読者の心理は一気に17世紀のアメリカへと引き込まれます。
一方映画では、
開拓時代のアメリカ、ニューイングランドは宗教と政治が一体である神政政治でした。森をかき分け、川をのぼり、海辺を歩いてセイラムを目指して、インディアンを共連れにやってくる一人の男の姿がありました。切り立つような半島に孤立している家を後目にセイラムに到着した彼は、一人の胸に緋文字を付けた女性が裁判にかけられているのを目撃します。彼女は七年前不義の子を産み、一年ごとに見せしめとして裁判にかけられ、相手の男の名を告白するように迫られているのですが、未だに口を開きません。唐突に、総督館から出てきた女性がヘスターを一緒に森へ行こう。別の場所に逃げろと叫ぶといった横やりも入りますが、相手の男の名を言うのだ。子どもに父親を与えるのだと、若い牧師ディムズデールは懸命にヘスターを説得しようとしますが、それでもヘスターは父は天におわす神だと言い張り、やがてディムズデール牧師は突然胸を抑え倒れてしまい、慌てて駆け寄る人々の中に先ほどの男、チリングワースの姿もありました。総督館に運び込まれたディムズデールを介抱するチリングワースは、なかなか白状しないヘスターの処遇をどうするかについて話し合っている総督たちの話に聞き耳をそばだてるのでした。
不義の子を産んでからすでに七年の月日が経っていて、原作ではまったく孤立し、石のような意志の強さを持って立っていたヘスターには、魔女とはいえ理解者もあり、当初の主役の重きはヘスターではなく、チリングワースに置かれています。
チリングワースは密かにヘスターのもとへ潜んでいき(原作では監獄へ、映画では郊外のヘスターの家へ)自分の正体を周囲に明かさぬことという約束とともに、必ず不義の相手を見つけだし、復讐することを誓います。
この辺りの下りは変わりません。ただ、原作ではヘスターの心理と生活について描写が始まるのに対し、映画ではチリングワースが総督たちの信頼を得て、病気がちなディムズデール牧師とともに暮らすようになり、総督たちがヘスターの処遇について話し合いながら決めていくといった、ヘスター自身よりむしろその周囲から話が始まっていきます。
緋文字には、三人の主人公がいます。ヘスター。ディムズデール。チリングワースの三人で、原作ではそれぞれの心理描写によって七年の月日が経ちます。ヘスターは針仕事によって黙々と生計をたてて娘パールを生育し、ディムズデールとチリングワースは友好関係を結び、ともに暮らすようになります。しかしそれはチリングワースの巧みな策略で、ディムズデールこそが不義の相手だということに薄々感づいており、牧師として高潔な魂の持ち主であるディムズデールの生命の火を消し去らないよう健康に気を遣いながら、一方で、何気なく、精神的に地獄のような責め苦を牧師に与えているのでした。
原作のヘスターは巧みな針仕事と謹厳実直な生活で、やがて人々の畏怖と尊敬を得て行くようになりますが、映画のヘスターの針仕事は、娘パールの服装が派手であるとか、総督の服を縫うとかいった点から推測できるのみで、住民からは相変わらず疎んじられています。しかしヘスターは決してそれに屈せず、むしろ哀れむような、馬鹿にしたような視線を住民に送り、気丈に生活を続けています。
映画と原作では、ヘスターの性質が明らかに異なっているのです。原作でも、ヘスターの緋文字の「A」の意味は、「姦通」または「姦通した女」の意味をなす"Adultery/Adultress"からやがて、有能な能力を身につけた女性としての"Able"へと解釈を変えていきました。母と子だけの生活のなかで彼女は自己を鍛錬し、利己のない人間として敬愛を勝ち得ていったのですが、ヘスターは最初から、現代でいう「できる女」として描かれているのです。
チリングワースとディムズデールの関係も、映画では大きく異なっています。ともに生活をし始めることは変わりませんが、原作で純朴なディムズデールが次第に弱っていくことの原因がかなり直接的にチリングワースにあるのに対し、映画ではむしろ一人でそのことを気にし、絶えずソワソワしていて、落ち着きがありません。これでは自分から「ヘスターの相手は私です」と言っているようなもので、ここにディムズデールの性質の違いが明らかになってきます。
原作のディムズデールは、罪を犯したことを深く恥じ、自分を最低の人間と蔑み、その罪の重さに精神が耐えかねて肉体にまで影響を及ぼしはじめ、ほとんど死に体の病人のようです。しかしこの世での弱さは神の世での強さであるとして、逆にそんな謙遜深い実直で無私な牧師が周囲に聖人として尊敬されてゆき、そのことがまた牧師を苦しめるといった構図が出来ています。
映画のディムズデールは、単に言いたいことが言い出せずに苦しんでいる、単に意気地のない、器量の狭い男のようにも見えます。神についての深い信仰はあまり感じられず、というより、道徳についての説教を行う場面もあるのですが、むしろ自棄になっていて、あまり尊敬を集める牧師のようには見えません。
そしてこの人物の性質の違いが、原作と映画の決定的なストーリーの違いにも結びついてゆきます。
チリングワースがディムズデールを苦しめている、暗い復讐心をもって自分の愛する者を奪おうとしていると知ったヘスターは、厚意をもって自分を裁いてくれたベリンガム総督の死をきっかけに、ディムズデールにチリングワースの正体を明かすことを決意します。
映画では、
ヘスターは外から船がやってきたのを見つけ、船長に客席の用意をして貰い、一緒に逃げようとディムズデールを誘います。ディムズデールはヘスターに導かれながらも、娘のパールに懐かれないのではないかと恐れを抱いており、案の定受け入れられなかったとき、彼は最後の説教で、全てを民衆にうち明けてしまおうとヘスターに告げます。それを聞いて激怒したヘスターは、パールとともにさっさと船に乗り込んでしまおうとします。自分が頑なに守り続けていた男が、その地位や名声を自らなげうってしまおうとしているのですから、怒って当然のことでしょう。しかし船からやってきた小舟には、どこからかヘスターの逃亡を嗅ぎつけたチリングワースが乗り込んでいたのです!
と、このようにして行動するのはあくまでもヘスターであり、そのライバルであるチリングワースで、ディムズデールはそれに翻弄されるばかりです。原作でこの下りは、次のようになっています。
ヘスターはディムズデールに接触を持とうと懸命に彼を探しますが、彼の姿はどこにもありません。ディムズデールは、エリオット老師に会うために、弱った身体に鞭うって隣の街まで出かけていたのです。それを知ったヘスターは帰り道の森にパールを連れ立って出かけ、牧師の姿を見つけ、全てを告白し、あの男から逃げなさい。外の世界へと旅立ちなさいと牧師を説得します。しかし牧師は、あなたと一緒でなければと、7年間ほとんど口もきかずに秘めていた想いをヘスターに告げます。そしてヘスターは、胸の緋文字を取り去って、封じ込めていた女としての自分を解放するのです。しかしそんなヘスターは、娘にとって明らかに異質な存在で、パールは母と父の元に帰るのを頑なに拒み、ヘスターは結局一度取り去った緋文字を、もう一度胸に付けることになるのでした。
ヘスターがいかに当時としては進歩的で破格な女性であったとしても、神の定めたもうた罪からは一生逃れることはできない。それが彼女の人生であると象徴するかのような一節です。しかしここから情景は一気に明るくなり、牧師の人格も解放され、まるで人が変わったかのような彼を観ることができます。
船で旧大陸に帰ろうとするという下りは、似たようなものです。それにチリングワースが乗り込もうとするというところもです。違うのはディムズデールが自らヘスターを誘ったということ。そして彼は、自らの人格の変化に拠る行動から、その先の短い命を燃やし尽くしたということです。
新総督の就任祝いにディムズデール牧師は説教を行います。そして彼の魂は限りなく聖者に近づき、それとともに命の灯火も消えようとしていました。それを自ら悟ったディムズデールは最初にヘスターが立っていたさらし台の上に立ってヘスターとパールを呼び寄せ、自らの罪深さとを告解してその胸元をはだけ、自らの胸元に刻まれた緋文字をさらけだし、ヘスターに抱きかかえられながら息絶えて天に昇ります。チリングワースは命がさって抜け殻になってしまったような顔で、逃げられてしまった! と絶望するのでした。
しかし、一方の映画では…
説教を行うはずのディムズデールは、なかなか姿を現しません。船乗りたちに酒を貰い、オウムを買わないかと誘われる彼の姿は凋落した人間そのものです。オウムは高いんだろう。――聖書に書いてないか?――後で観ておくよ。
彼は聖書の言葉をオウムのように繰り返す俗人に過ぎないということが、ここで明らかになってしまいます。
壇上に現れたディムズデールは、自棄になったように自分は最低の人間だ。自分は最も罪深く、このようなところで説教を行う資格はないのだということを告げた後に、胸の緋文字をさらけ出します。そして、よろよろとふらついて、壇上で倒れてしまうのです。民衆は訳も分からず祈り、元総督の妹は笑いこけ、ヘスターは急いで船へと走っていってしまいました。担ぎ出されたディムズデールはやがて目を開き、これで船に乗れると呟きますが、新総督に絞め殺されてしまいます。そして置いてけぼりを食らったチリングワースは、ヘスターとパールが乗った小舟を見送って皮肉っぽい笑みを零すと、共とともにセイラムに引き返して行くのでした。
ともにディムズデールの死で幕を閉じる緋文字ですが、原作にはもうちょっとだけ続きがあります。
やがて、ヘスターはパールとともに、どこへとともなく姿を消してしまいます。人生の目的を失ったチリングワースはやがて死に、パールに全財産を遺贈したのですが、しかしやがてヘスターは一人で戻ってきて、再び胸に緋文字をつけて隠遁生活を始めます。彼女がなぜ戻ってきたのか。どうして緋文字をつけて暮らしているのか。それの真の理由は誰にも判りません。ですが、彼女は大いなる困難を克服した人として人々の敬愛を集め、静かに、慎ましやかに、その生涯を閉じたのでした。
原作が書かれたのは1850年。ヴェンダースがこれを撮ったのは1972年。その間実に120年の開きがあります。ホーソーンは清教徒の社会を皮肉っぽく、しかし神のもとで誠実にあれ、正直あれ。目的にかなった人生の真の試練を乗り越えて行けということを主題にして、主人公であるヘスターを描いています。
しかしヴェンダースは、強い現代女性。男性とも対等に渡り合う、機知に満ちた気丈な女性を描いています。男性優位で、賛美歌を女性に唄わせてはならないといったことまで議題に持ち出し、体面ばかりを重んじる、明らかな男性優位の社会の中で、女性がいかにして勝利をもぎ取って行くか。その世界から脱していくかということを主題にとっているのです。最後にチリングワースを出し抜き、彼が苦笑するといった場面に、全ての意味が込められています。
閉鎖的な社会。その犠牲者。そこから抜け出していく者。それを皮肉っていることは同様です。しかし人格が異なる登場人物を扱うことによって、そのメッセージが大きく異なっているのが印象的です。また映画では心理描写の代わりに情景描写に力を入れているのもヴェンダースらしいといったところでしょう。
映画の原作度:40%
ストーリーの大枠は同じながら、登場人物の人格が異なっている点、新たな登場人物に重きを置いている点など、どちらかというと原作をモチーフにしたというほうが正しいでしょう。
映画化成功度:10%
ヴェンダースの最初で最後のコスチュームプレイ作品となった「緋文字」ですが、神とともにある清教徒の精神世界の豊かさを描こうとして失敗したという色が濃く、日本で公開されなかったことも頷ける内容となっています。宗教観のばらつきがちなドイツ人のヴェンダースには、馴染めない内容だったのかも知れません。
また、非常に細かい点ではあるのですが、登場人物が皆ドイツ語を喋るという点でも、違和感をぬぐい去りきれませんでした。
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映画題名:"スカーレット・レター"
原題:"THE SCARLET LETTER "
監督:ローランド・ジョフィ("キリング・フィールド")
主演:デミ・ムーア、ゲイリー・オールドマン
ヘスター役にデミ・ムーア。ディムズデール牧師役にゲイリー・オールドマンという豪華キャストで1995年に製作されたこの作品は、原作を離れ、またヴェンダースのものともまた大きな違いを持ち、現代の要求を色濃く出した作品となっています。物語は、ヘスターの娘であるパールの回想という形をとっています。
1666年。マサチューセッツ植民地にまた新天地――新たなエデンを求める移民者たちの船が流れ着き、その中に一人の、若く美しい女性の姿がありました。ヘスター・プリン。夫に先んじて、家を用意し待つように言われた彼女は、自ら馬車を駆り、奴隷のせりに参加し、活発な態度と精力的な活動によって、次第に厳格な長老たちの眉を潜ませてゆきます。
原作では不義を行ったその結果と顛末を追っていくのですが、スカーレットレター(以下現代版と表記)では、その不義に至る過程から入っていきます。原作では「本来精力的で活発」と書かれているヘスターの性格がよく描かれています。しかし清教徒がクエーカー教徒と言われていたり、少々矛盾する点も見られ、家を用意してくれた男性がいきなりヘスターを襲おうとするなど、とても清教徒のコロニーとは思えないような人々ばかりが目につきます。
安息日に教会に向かう途中、ヘスターの馬車は泥にはまって動けなくなってしまいます。そこに一人の男が通りがかって、二人で懸命に押すのですが馬車は動きません。仕方なく、二人で馬に乗り、教会まで駆けていくことに。道なき道を進む楽しさに、二人は時間がたつのも忘れてしまいます。そして教会に着いたヘスターが見たのは、教壇の上に立ち、皆に説教をする先ほどの男の姿でした。彼こそが、インディアンを改宗させ、植民地と原住民との間のかけはしとなった牧師、ディムズデールだったのです。
牧師というよりは連続殺人犯のような顔のディムズデールは、髪も長く、原作にあるキャラクターとは大きく異なる容姿で、ヘスターとの邂逅を果たします。
この後、二人は強く惹かれあっていき、ヘスターに夫がいることを知ったディムズデールは彼女を避けようとしますが、ヘスターの執拗なアタックにより、ついにディムズデールは彼女に愛していると告白してしまうのです。しかし、掟では不義密通はしばり首。道ならぬ恋に、会うのを避けつつも強く惹かれあっていく二人に、ついに転機がおとずれました。英国船がインディアンに襲撃され、そこにいた者は皆殺しになったという知らせが入ったのです。そして、ロジャー・プリンすなわちヘスターの夫の名前の入った遺留品が彼女の元に届いたとき、彼女はディムズデールと一緒になれるよう、毎日天に祈っていたおかげだと彼につげ、二人はついに結ばれるのでした。
………「緋文字」の大きなキーワードの一つとして、「信仰」があります。それは個人と神との契約であり、絶対的なモラルの存在を意味しています。だからこそ二人は不義を冒してしまった罪の意識に悩まされ、苦しむのですが、現代版では信仰から生じるモラルと戒律。清教徒の掟は、単に二人の間にある障害でしかなく、むしろその恋を燃え上がらせる要因として使われてしまっています。
あまつさえ夫が死んだことをむしろ喜ぶ彼女の姿は、まともな人間が見たら正気とは思えません。しかし、原作でも彼らが後悔していたのは道を外れたことであって、意外と行為そのものに関してはこんなものだったのかも知れないと想像することも――それが困難であるにせよ――できないこともありません。
ヘスターの隣人の女性は、女性だけの集まりを開いていました。しかし長老たちはそれを善しとせず、一人一人審問にかけて行こうとします。時代はくしくも魔女狩りの最盛期。そして裁判の壇上に引きずり出されたヘスターは妊娠していることをばらされ、牢獄に閉じこめられてしまいます。必死に彼女の弁護をするディムズデールの声も届きません。
女性だけの集まりを否定する長老たちのやり方に、ヘスターはそんなのは古い慣習だと言い切ります。なぜ女性が人間として振る舞ってはいけないのか? そう主張する彼女の姿は現代の女性権拡張論者そのものです。現代版には現代版の味があるとも言えますが、清教徒の社会を「古い」と一蹴するのもいかがなものでしょう。
やがてヘスターは牢内で出産。改めて壇上にあげてさらし者にされ、胸に緋文字をつけて暮らさねばならないことを宣告されます。そしてそれを遠くから見ている男の姿がありました。インディアンに捕らえられたにも関わらず、誰よりも早くその野蛮な風習に同調し馴染んでいったロジャー・チリングワース。ヘスターの夫その人でした。彼はヘスターの屋敷にやってくると、水を含んだ布で激しく彼女をなじり、復讐を誓います。チリングワースはヘスターに、彼の正体をバラさないことを約束させますが、ヘスターはディムズデールに、彼が生きていたことを告げ、逃げるように言います。しかし翌朝には、ディムズデールの下宿にいつのまにか住み着いているチリングワースの姿がありました。
チリングワースが登場し、物語は原作の波に乗っていくかと思いきや、まったく違う物語がここから展開されてゆくことになります。まずチリングワースはこれ以前に、インディアンの中で、インディアンそのものになっていく様子が描かれ、その性質の特異性が協調されています。そのため、陰湿というより、異常性を帯びたチリングワースとなっています。
そしてヘスターはディムズデールに彼の正体をいきなり明かし、ディムズデールとチリングワースの間に緊張と敵意が生まれます。最初はチリングワースもディムズデールが不義の相手だと気づいていないのですが、やはりすぐに気づいてしまうのです。原作で二人は互いに避けあったまま7年間を過ごすのですが、現代版では互いに会う機会を見つけては会っています。
ヘスターに相手の男の名を吐かせるために、長老たちの行動はさらに過激に、陰湿になっていきます。口のきけないヘスターの女奴隷を辱めて無理矢理吐かせようとしたり、執拗な裁判を繰り返したり。しかしヘスターは、逆に彼らのほうこそ欺瞞で満ちていると言い切ります。そして緊張の高まるディムズデールとチリングワース。ヘスターの相手がディムズデールであると確信したチリングワースは、インディアンの扮装に身を包み、ヘスターの家から出てきた男を道で襲い、頭の皮をはぎ取って殺します。しかしそれは人違いで、その残虐な殺し方から、インディアンが再び町に攻め込んでくると、町はパニック状態に陥ってしまいました。
主題の違いが、この辺りから明らかになってきます。原作で、神の契約と人間の誠実さをもって描かれている部分が、現代版では狂信と集団狂気に置き換えられているのです。古い規律に縛られ、自分の考え方から一歩も出ない社会上層部が産みだした歪みは、社会全体のひずみとして広がっていき、やがて民衆の心理は、老朽化したダムのように決壊してしまう。アメリカ国民は昔からこうだったのだ。という皮肉っぽい意見がそこに見え隠れしています。しかし……
執拗な魔女裁判は続き、やがて極限に達した民衆の狂気は、パールをヘスターから取り挙げ、ヘスターおよび魔女と目されていた数人の女たちを絞首刑台に登らせました。この原因がチリングワースにあるとつきとめたディムズデールは、彼の部屋に飛び込みますが、そこで見たものは、首をつり自殺している彼の姿でした。
彼はなぜ自殺したのでしょうか? 状況をかき回すだけかき回して、極限まで持っていったから? それとも、憎いディムズデールと見間違えて、何の関係もない男を殺してしまったから? 理由はわかりません。しかし、もはやここまでと思って自ら命を断ったというよりは、後者のほうが、自分自身の内の神に問いかけるという、緋文字のテーマにそぐわしいであろうと、自分は考えています。そして……
絞首台で今まさに皆が吊されんとしたとき、ディムズデールが壇上に駆け登り、自身の罪を全て告白した上で、この民衆の怒りを抑えるために誰かが殺されなければならないのであれば、自分が吊されようと宣言し、自ら首に縄をかけます。そして沸き上がる「殺せ!」「吊せ!」という声。もはや民衆は善良な清教徒ではなく、狂気の渦に巻き込まれた衆愚と成り果ててしまったのでした。
……ひいき目にみても、いささか強引な展開であると言わざるを得ないでしょう。しかしここから、さらに強引な幕引きが待ち受けていたのでした。
刑吏がディムズデールの乗った台に足をかけ、蹴飛ばしたまさにその時、甲高い叫び声とともに、インディアンがなだれ込んできました。ディムズデールの尽力によって改宗し平和を得たインディアンの部族が、彼を助けにやってきたのです! 凄まじい殺戮と狂気に町自体が自壊せんとする中で、ディムズデールとヘスターはともに手をとり、パールを救って一命をとりとめたのでした。そして全てが終わり、放心しが町の者らが見守る中、ヘスターとディムズデール。そしてパールは馬車に乗り、ここ以外のどこかへ、新天地を求めて旅立っていったのでした。
物語はこの後、新しい土地に住み着いた三人が幸せに暮らしたこと。ディムズデールがすぐに死去したこと。ヘスターがその後もついに再婚しなかったことをパール自身の声で伝えて終わります。緋文字は町を出るときに、取り去られ馬車の車輪に踏まれていきます。原作にある、「緋文字はその役目を果たさなかった!」ということが、全く別の意味に取られていることにしばし唖然としました。
「真実の愛は存在する」そして「愛はいかなる障害があろうとも、かならず二人を結びつける」……現代版に通して語られている主題です。ヘスターは幸せな結婚をしたのではなかった。そして新天地に行って本当の愛を見つけ、宗教の戒律や人々の迫害を乗り越えてついに結ばれる。それはそれで美しいテーマでありましょう。ただ、その愛がいささか肉体的かつ情熱的な部分がすぎている感は否めず、時代設定をまったく無視しきっているという豪快さは、逆に爽快でさえあります。
映画の原作度:10%
原作で語られている愛の精神性。人間の強さと弱さ。といった点とまったくかけ離れており、緋文字の「夫のいぬ間に不義を犯した」という点のみ協調して語られています。なぜでしょう。そのほうがウケるからです。清教徒の民衆が死刑を要求したように、現代の民衆の要求とは、きっとそういうものなのでありましょう。
映画化成功度:60%
そういった嗜好が好みの方もいるでしょう。緋文字を使って面白い映画を作る。という観点からすれば、マーケティングの点では成功と言えるかも知れません。少なくとも、まったく観客のことを考えていないヴェンダースの映画よりは……