『I Love ペッカー』
名言『芸術とは、物事の本質を見きわめることだよ』
母親の営む古着屋にあった中古のカメラで、万引き常習犯の親友とともに、ボルチモアの街と人を写真に収めまくっていた青年ペッカーが、その写真がN.Yで評価されたことで一躍有名になるものの、ボルチモアでは妙に暮らしにくくなってしまって……というストーリー。でもよくあるような「成功から転落」というものではないのが、物語を常にアップテンポで愉快にしてくれています。終わりかたもすごく気分がいい。「人狼」なんてどっかいっちゃえ。
アートってなんでしょうね。芸術って?
前に「まひるのほし」を見たときにも思ったのですが、商業としてのアートは認めてくれる人がいないことには絶対に成り立たない。ペッカーのピンボケで露出不足の写真は、N.Yのディーラーや芸術家には高く評価されます。でもそれはきっと相対的な価値を見いだしたからであって、エキセントリックにエキセントリックをぶつけているうちに、「奇抜であること」がアートになってしまったN.Yにおいて、どちらかといえば地味で下品で大衆的なペッカーの写真がウケただけとも言えます。
でも、ボルチモアの人達にとって写真は、ただ単に写真でしかなくて、特にプライベートを映しだしているようなものが全国区の新聞に載ったりすると、逆にいい迷惑になってしまう。商業アートって結局は、それを売ったり買ったりして、生業にしている人達にしか意味がないものなんでしょう。どんな形にせよ、そこに芸術以外のものを差し挟んでいるような人にしか。
けど実際に芸術ってのは、劇中でも言われているとおり、世の中じゅうに溢れていると思う。自分の足をまじまじと眺めてみても、ウーム、すげえと思うことがしばしばあるけど、世の中の物事の本質ってのは総じて芸術なんであって、商業としてのアートが先行しすぎてついつい忘れがちだけど、世の中は美に満ちていると常々思うんだよ!! ふとした街角とか夜の匂いとか人体の骨格とか木の根っことか風を全身に受けた感触とかさあ!!
もっと世の中を広く見つめて、たくさんのことを感じてたくさんのことに感謝してみなよ。家族とか友達とか、身の回りのことからね。映画の最後に、盲目のカメラマンが出てくるんだけど、いやもうマイッタ。彼の存在は冗談なんかじゃなくて、たとえ目が見えなくても芸術は感じ取ることができるって言ってるんだよ! 心を解き放てって、「マト」じゃないけど、でもそれが言いたいんだと思う。
世の中には汚いもんもあるけど、美しいものもあるってことを忘れずに。
『人狼 Jin-Roh』
名言『しょうがなかったじゃない! 誰かに覚えていてもらいたかったのよ!!』
気分の悪い作品です。まとめて一言で言ってしまえば。
映像としては決して悪くないデキです。音楽もいいでしょう。ケルベロスについては諸説あるでしょうが、自分は嫌いではないです。弾着とか跳弾の具合とかね。ストーリーも、何も考えずに見ていれば、それなりにいいと思います――但しパンフで思いっきりネタバレしているので、前情報は耳に入れてはいけません(この映画のパンフは買っちゃいけません)。
しかしそれらの中にあるこの物語の核となるものを見ると……気分が悪いです。
自分の居場所で何も考えずに過ごしていた男女が、互いに出会うことによって、ほんのかすかな疑念をその心に芽生えさせる。力一杯はばたきたい。けれどもその力も、勇気も、残っていない。それに翼なんて最初から持っていない。
そしてそのことが招いた結末に、爽快感などこれっぽっちもないので、気分は最悪です。「パーフェクトブルー」の時みたいな、ああよかったと思えるような結末が欲しい。人間を描いたドラマのくせに、登場人物の誰にも感情移入できないのだから、余計そうじゃなきゃダメっしょ。
この物語のモチーフとして「赤ずきん」があって、「人狼」は実は赤ずきんの新解釈なんじゃないかとさえ思いました。実は狼は、人間になりたかったんじゃないかという解釈。でも、人間外のものが自我に疑問を持って、「死」に自我の本質を求めるというのはもう「攻殻機動隊」でやっちゃったから、そーじゃないんだろうなとは思います。でもこれは、そういう物語なんだと信じていたほうが、まだ救いがあるんじゃないかと。だから自分はそう信じることにします。
コンゲーム仕立てのストーリーも、型にはまった人間ドラマも、結末を無理矢理もってきたことで、かなり不快なドラマに成り下がっています。ただ作ってみたいから作ったという、単なるアニメーションでしかない。
つまらないです。映像や音楽がまともであるだけに、残念でなりません。
『ダークマン』
名言『良心を鍛えてるんだ』
激情とわきあがる衝動。消し得ぬ心中の想い。それこそがヒーローの原動力です。
そしてこの映画ほど、そのことを視覚的にもシナリオとしても、効果的に描き出した作品はないでしょう。
借りてきたのは、サムライミの映画「スパイダーマン」監督就任記念で…って大分前の話ですが、スパイダーマンの製作を降りませんように! という想いもこめまくっております。
ストーリーは、人工皮膚を開発していた科学者・ペイトンが、弁護士である恋人の抱えたいざこざにまきこまれて、ギャングに半死半生の目にあわされたばかりか研究室を爆破され、全身に大火傷を追って二目と見られない姿になります。火傷の苦痛を断つため、脳へ刺激を伝える神経を切断されたペイトンは、怒りなどのたかぶる感情が抑えられなくなり、また異常な怪力を発するようになって病院から脱出。最初は自分自身に絶望するものの、やがて復讐心に燃えて、皮膚を作り出すという自分の科学技術を活かして他人に成りすまし、復讐の炎を燃やすのでした…
何より凄いのが、その「怒り」の爆発の表現。高ぶった感情を、瞳の中の爆発、炎と、世界が崩壊してゆくかのように描きだしていて、とても印象的です。ダークマン=ペイトンの目的は復讐です。ある日わけもわからず襲われて、自分を日常の生活から永遠に追放した連中への果てしない怒りと、顔や手を失ったことへの、精神の深い絶望と喪失感。そのことを、言葉で説明するのではなく映像で表現し、彼の怒りがどれほどのものであるかが我々にも熱いほど伝わってきます。
アクションも派手です。無駄がない。延々と殴り合ったり、なかなか弾があたらずに銃声だけがうるさいという、いらいらさせられるようなアクションがない。そのかわり妙にコミカルで軽快。おおこりゃスパイダーマンそのものだなとさえ考え、彼のスパイディにおおいに期待しまくるのでした。
そしてダークマンは単純な復讐鬼ではありません。変装用の人工皮膚をかぶることによって、他人になりすますことができるのですが、それを被るたびに、彼は自分自身の本当の姿を失っていきます。彼は復讐という一つの思いにかりたてられて、かろうじて自分自身をつなぎとめているのです。しかしそれが終わったとき……
彼は誰でもなく何でもない。ただ常にそこにいる。だからダークマン。闇から闇へ……爽快なのに、悲しい。
『チョンおばさんのクニ』
名言『夢で故郷に帰ります』
戦争中に中国に連行された韓国人女性が54年の時を経て故郷に帰る。それを追った作品。
監督の班忠義氏は、戦争被害者が今どうしているのかといった問題に興味を持ち、ビデオカメラを持って各地を回ったのだが、そこでチョンおばさんこと鄭素才さんに出会って、彼女の望郷の念を叶えて挙げたいと願いとった行動が、思わぬ仇となる。韓国に渡って故郷についたチョンおばさんの病状が悪化し、中国の孫や子に会いたいと願いながらもソウルで没してしまう。そしてその遺骨を、チョンおばさんに協力してくれた韓国の教会は返そうとせず、中国のチョンおばさんの家族は困惑してしまう……
正真正銘のドキュメンタリーで、本来編集しフィルムに起こすことなどまったく考えていなかったそうだが、本当に映画にしてくれてよかったと思う。これを見ることができて、自分は幸運だ。従軍慰安婦がどーだとか、戦争被害者がどうだとか、世間一般で言われているように、物事は表層だけで判断してはいけないのだということが、痛すぎるぐらいの痛みとともに理解できた。
従軍慰安婦の強制連行はなかったと証する一派もいれば、彼女らに謝罪し援助せよと声高に主張する連中もいる。だまらっしゃいと言いたい。二つの派とも、前者は国を基準にして眺め、後者は人を基準にして眺めている。もともと見地の違う話し合いがうまくいくわけがない。そんなことよりも、監督の班さんのように、実際に逢いにいって、そこにあるものに触れてくればいい。一人の人間ができることなど、ちっぽけなものだ。でもその小さくて地道な活動こそが、人を支える土台となり力となってゆく。
チョンおばさんと一緒に韓国に帰った女性は、日本大使館へのデモにも参加している。なんだか、利用されているようにも見える。そして彼女は、弟の反対を押し切って、子や孫のいる中国へ帰る。国がどうだとか、民族がどうだとかは、確かに大切なことだけれども、その中に一人一人、人間が存在している。
彼らは同じように愛するものへの愛情を持っている。その事実こそが、大切なことなんじゃないかなあ。
『グラディエーター』
名言『国を動かしているのは、群衆の心です。しかしそれは、うつろいやすいもの』
衝撃的な映像が目を引きます。まったく予想通りに物語が進むにも関わらず、それでも心に訴えかけてくるものがあるのは、この物語が「真実」を孕んでいるからでしょう。新皇帝の策謀によって、将軍から剣闘士に身をを落とした男・マキシマスが、世界の王にも等しいローマ皇帝を相手に、ムシケラ同然の身分にあっても戦うという、その不屈の魂にまず恐れ入るのですが、主人公の周囲の環境を見ていると、ふと見えてくるものが幾つもあります。
民衆。彼らは当時仕事もなく、ただローマにおいて「パンとサーカス」を求めていました。パンは食料。サーカスは、人と人、あるいは獣が殺し合うという、悪趣味な娯楽です。彼ら個人には考えもありましょうが、集団となった民衆には考えはなく、ただ感情と悦楽にのみ身を委ねている。衆愚となり果てています。そしてその民衆の代表である元老院の内部も奢侈が蔓延していますが、真に国のことを、ローマの行く末のことを案じている気骨のある議員も、決して少なくはないのだということがわかります。この構図は、まんま現代の社会に当てはまるのではないでしょうか?
そしてマキシマス。彼の望みは、ただ故郷に帰り、妻と息子とともに畑を耕すことだけ。しかし新皇帝は何の罪もない家族を惨殺する。マキシマスは一度は絶望の縁に落ちるものの、そこから這い上がっていく。
何のために戦うのか? 剣闘士にとって唯一の正義は生き残ること。最初はその為に戦っていた。しかし、人間にとっての正義。国にとっての正義のために戦うことに、やがてつながる。絶対に正しいことのために、戦うことを恐れない。そういう、圧倒的な強さが我々の心を打ちます。本当の強さとはどういうことなのか。この映画が教えてくれるでしょう。
しかし…ちと不満もあります。字幕は、戸田のおばさんなのでもはや諦めの境地なのですが、「スキピオ・アフリカナス」と音だけで訳さないで欲しい。なんだアフリカナスって!? 茄子か!? それと、「霧の監督」であるリドリースコットならではなのかも知れませんが、土埃が舞い上がりすぎ。この頃のローマ市とローマに至る主な街道は全て舗装されていたはず……別にいいんすけど。細かいことは。重装歩兵(レギオン)の動きの良さには、思わず目を見張れましたし。
ヒネリのない話です。しかし、それだけに変えようのない正義というものが、この映画の中にはありますよ。
『アリー・マクビール/ザ・プラクティス』(「アリー・my ラブ」ビデオVol,10に収録)
名言『本当に、こんなものを求めていたの? こんな世界に入りたいの?』
米国で人気の弁護士ドラマ「アリー・マクビール」(邦題「アリー・my ラブ」)と「ザ・プラクティス」(邦題「ザ・プラクティス―ボストン弁護士ファイル」)の夢の共演。前編は「アリー」に、後編は「プラクティス」にという形で完結していて、アメコミでよくあるクロスオーバーを、完全に実現しています。日本では、前編のみの放映で、ビデオになってようやく完全版を見られるようになりました。映画ではなくドラマなのですが、珍しい企画ですし、面白かったのでここで取り挙げることにします。
ストーリーは、アリーが勤めるケイジ&フィッシュ弁護士事務所に、夫殺しという、重大な刑事事件が舞い込むところから始まります。アリーたちの専門は民事訴訟――離婚調停や不当解雇――で、刑事事件は明らかに手にあまる。そこで、刑事事件のベテランであり、凄腕と評判のボビー・ドネル法律事務所に協力を仰ぎます。しかし夫を殺したらしい妻は、前世が殺人鬼でその意識に乗っ取られて夫を斧で殺したという! こういったムチャクチャな事件には慣れっこのアリーたちも、刑事事件の重さに戸惑い、ボビーたちは、非常識で変人ぞろいのケイジ&フィッシュの面々に面食らう。意見の相違で衝突し、決別しかける彼らだが、公判が進むうちに予想もしなかった事実が明らかになり、事件は思わぬ方向へと進んでいく…
クロスオーバーの醍醐味は、無論キャラクターの共演にありますが、それは同時に、価値観のまったく違う二つの世界を融合させ、普段とは異なる世界にキャラクターたちを放り込めることでもあります。「アリー」はコメディで、「プラクティス」はシリアス。この二つが重なったのですから、可笑しくてたまりません。けれどもその余録によって、キャラクターたちをより深く、それぞれの作品の特徴をより端的に見ることができるというのも、大きな魅力です。
事件そのものではなく、事件を暗喩的な教訓として語る「アリー」と、事件のプロセスを追うサスペンスである「プラクティス」。ボビーはアリーに触れることによって、ただ依頼人のことを考え、無罪にすることだけでなく、その傍らにある人生とは何なのかを知る。アリーは、ボビーに触れることによって、極限にある人間の心に触れてしまって、深く傷つく。
「大丈夫か」と声をかけてくれるような人間は「プラクティス」には出てこない。また、勝つために嘘をつくという真似をするような人間も、「アリー」には出てこない。アメコミの世界では失敗に終わることも少なくないクロスオーバーですが、それぞれ別のテーマを持っていながらも、二つが見事に融合し、厚みのあるストーリーを形成しています。
結果として、よりそれぞれのドラマを好きになることができる。こういう機会が、もっと増えればいいですね。
『打撃王』
名言『わたしはおそらく、この世で最も幸せなのではないかと思います』
1930年代、2130試合連続出場を果たした、NYヤンキースの鉄人、ルー・ゲーリックの伝記風映画。
それ以上でもなければ、それ以下でもありません。ベーブルースなどの球界の偉人が、実名で登場していることを考えればすごいことでもあります。日本で言えば、王の映画に長嶋が実名で出ているようなものです…イマイチな喩えですが、しかし決して、うまくできている映画とも言えません。
しかし、彼――ルー・ゲーリック――は一体、何をしたのでしょう。
彼は、野球をしたのです。野球をしただけなのです。
それだけで、映画が作られた。そして、全米に感動を与えた。
これはひょっとしなくても、凄いことではありませんか。
この映画が―――ルー・ゲーリックが、いかに米国の、特にNY市民からの尊敬を集めていたかということを繰り返し描いている映画が残っているというだけで、彼がいかに愛されていたか、どれだけすごい人間であったか、ということが十分すぎるほど理解できます。
彼はホームラン数が多いわけでもなく、とりたてて足が早いというわけでもありません。
人気を集めるのは、その徳の高い人間性にあるのです。今なお、彼が全米の球界に名前を残している。全ての野球少年たちの模範とされているのは、実直で、勤勉な、彼自身の性格なのです。アメリカにある、スポーツマンシップという精神の見本として、今なお燦然と、その魂は輝いているのです。
野球に対するアメリカ人の情熱というものが理解できずとも、彼が人々の尊敬を集めていることは、肌で感じ取ることができます。黄金の輝きを持った魂は、言葉や国や人種など超えて、万古普遍で、不滅なのです。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』
なーんだ。
という感想が多く聞かれたこの映画なんすが、自分にとっちゃムッチャ怖かったですよ。ええ。
よくできたホラー映画じゃないっすか! ホラーっつうか、テラーですけど。映画をちゃんと最初から最後まで見ていれば、何が怖いかわかるっしょ? 人間が何に恐怖を感じるのか、よーくわかるっしょ! 闇ですよ! 何かわからないものですよ! そこになにかいるかもしれないという感覚が恐怖を引き起こすんですよ! 人間の想像力こそが、恐怖を引き起こすと内田百聞も言ってるでしょ! 怖いものを見せてどうする! TVんなかから出てくんな! アホー!!
いや、TVんなかから出てくるやつも、それはそれで怖かったんすけど。ハイ。自分は何を隠そう、ホラー映画が大のニガテでありまして。妹が借りて来さえしなかったら、こんな映画見たりしなかったでしょう。好奇心に負けた自分がいけないんですけど。
この映画を撮った三人の大学生も、好奇心に負けてブレアウィッチのことを調べに森に入り、そして……ってことでストーリーは進むわけなんですけど、ただねー。ドキュメンタリーとしてこれを見ろっていうのは、ムリがあるでしょ。これホントにあった話よ!なんて言われても、絶対自分は信用できません。アメリカじゃ、当初実話だというふれこみで、これを広めていたのですが本当だったらあんなにてけり(ブツリ)
『ウェディングシンガー』
名言『チャンネルは全部、キミに譲るから』
ラブストーリーというのは、これぐらい軽くていいと思う。というより、こういう滑稽さというのが、本来恋愛の持っている持ち味ってもんじゃないのかなーと。思うわけです。
1985年。ウェディングシンガーのロビーは、人の結婚式を祝うボーカル。しかし自分の結婚式で花嫁に逃げられ、人生のどん底を味わう。しかし新人のウェイトレスのジュリアの結婚式の準備を手伝っているうちに、次第に彼女に惹かれていって……と書くと、なんだかすごく陳腐なストーリーに聞こえますね。実際それほど大したストーリーではありません。ただ、アダム"歯を見せて笑ったまま喋れる"サンドラーの存在感と、ドリューバリモアの、全然可愛くないのになぜか可愛く見えてきてしまう不思議な感じが、映画に花を添えています。
誇張された80年代の表現も非常に愉快。80年代ヒッツのレパートリーも抱負ですし、今だから言えるというような笑いも多いです。――私は長続きしそうなカップルはわかるのよ! ウディアレンとミア・ファローとか――って、ウディがミアの幼女と浮気して別れて裁判沙汰にまでなったじゃねーか!! ってね。あと、ジュリアの婚約者の男がデロリアンに乗っていること。ほんのワンシーンなのですが、85年といえばバックトゥザフューチャーが封切られ、米国の興行成績を書き換えたほどのヒットを収めた年でもあるわけです。最初に1985年と出たとき、自分はそれが最初に思い浮かびました。
途中までありがちなラブコメでハラハラさせるのですが、飛行機の中で乗客のみんなが協力してくれる場面。そしてロビーの歌にはじんと来ます。愛とか恋ってのは泣かせるもんじゃなくて、みんなを幸せな気分にしてくれるもの。だと思うんですよ。絶対にね。
『世界中がアイラブユー』
名言『正直言って、ミュージカル向きの家族じゃないと思う。』
誰もが最初「はぁ?」と思うタイトルであり、見たいという気持ちにストップをかけてしまうと思う。自分もそうでした。
しかし作っているのがウッディアレン御大とあれば、見ないわけにはまいりません。そしてその期待を大きくも裏切らなければ、けっして期待通りでもないのがアレンの不思議で面白いところだと思うのです。
複雑に入り組んだ家庭環境を持つNYのハイソな一家が体験した、一年間の恋と結婚の模様をミュージカルで描き出した作品なのですが、ありそうでないストーリーが、途中からミョ〜な方向に崩れていくのがアレンの真骨丁。どーしてそーなるんだよ! オイ! とツッコミを入れたくなるでしょう。絶対に。
それにミュージカルとしての面も、お前ミュージカルをバカにしてるだろうと言わんばかり。もちろん、これはいい意味で裏切られました。なぜそこからミュージカルになんのよ?! アレンは小説家であると同時に、世界的なクラリネット奏者で、音楽性のほうはバッチリなのですが、演出が……
出演もいつも通り豪華です。今回はエドワードノートンとか(ファイトクラブを見ているだけに、強烈でした)、ナタリー"ぺったんこ"ポートマンとか。あああとジュリアロバーツとかも出ていたけど、それはどーでもいーっす。
アレンが常に持っているテーマは、愛と恋と結婚。しかしそれを真っ正面からとらえずに、人間の生活の中にどのようにばかばかしくその調味料が活きているかを映している。共感する映画じゃないんす。見るものを楽しませる、一流のエンターテイメントです。
それは、昔あった、本当の意味での舞台劇みたいにね。人の人生ほど面白いものはないというテーマ。
『アンツ』
名言『自分の道を、歩むんだ!』
なんてこった。アリを使って人間社会を風刺するなんて!
ディズニーのバグズ・ライフと並んで登場したのが悪かったのか、あまり興行成績は芳しくなかったこのアリムービー「アンツ」。アリを擬人化しているのではなく、人間を「擬蟻化」することによって、キッツいシャレが効きつつも、見た後に素晴らしく爽快な気分になれる映画となっています。
全体主義が当たり前のアリの社会の中にあって、自由意志がどうだとか、自分の価値がどうだとかもっと別の世界があるだとかぼやく働きアリのZ(ズィー)が、ある日バーで王女と出会ってその運命を変えていくというお話。ちなみに、アリのくせに最初カウンセラーにかかっている、このお喋りでぼやき続けるZの声を担当しているのはウッディアレン。否応なくすげえ納得。
CGがちょっと安っぽいものの、話は千金の価値ありです。楽園は皆で作り上げるもの。当たり前のことを言っているにすぎませんが、人間を登場人物にして語るよりも、はるかに説得力があります。アリメイクを施したクリストファーウォーケン演じるところの、羽アリのカター(顔がそっくり)をはじめとして、シャロンストーン。シルベスタスタローン。ジーンハックマン。ダンエイクロイド。ジェニファーロペス。ダニーグローバーなど豪華な顔ぶれ。音楽もテンポがよくて爽快だし、小粒ながらも、よくまとまった良作となっています。ストーリーは語らないので、みんな見てみてね!!
『ムトゥ踊るマハラジャ』
名言『だますより、だまされるほうが罪深いんですよね、父上』
もはや説明の必要もないほど有名になってしまった、インド発の痛快アクションムービー。しかし今回改めて見直してみると、この映画の主題と本質に気づけました。それは正義です。圧倒的な正しさです。
ムトゥは実はマハラジャ(藩主という大名の現代版)の息子で、なぜ使用人にまで身を落とすことになるのかという、回想のシーンがあります。マハラジャは弱きを助け、民衆にも親身になって尽くす理想的な君主でしたが、ある日魔がさした部下に裏切られ、土地の権利を奪われてしまいます。それが発覚した時点で、部下を撃ち殺すことも追放することもできたのに、マハラジャは裏切られた自分の人生は罪深い者となってしまった。自分の行いは正しい道へ人間を導くことができなかったと、その部下に全てを譲り渡して、さらに自分の息子まで預けて、出奔(出家?)してしまうのです。
カンフーアクションなんてどうでもいい。踊りも歌も珍しいだけ! いい映画というのは、普遍的ないいシーンを含んでいるからいい映画なのです!!
マハラジャの行いが、全く正しいというわけではありません。しかし彼を裏切った部下は自分の罪の重さに耐えかねて自殺し、民衆は祈りをもってマハラジャを送り出します。昨日のあなたは金貨をくれたのに、なぜ今日は涙をくれるの。金貨よりも大切な、心を与えてマハラジャは去っていく。人間を真に動かすのは富や権力ではない。そう言っているのです。カースト制が未だ根強いインドでですよ!? 信じられますか!?
さらに面白いのは、ムトゥはこのマハラジャの息子でありながら(それは途中までわからないので、後で我々は思い出してなるほどーと思うわけですが)容赦なく自らの手で悪を制裁することを恐れないということ。しかし、愛している人間に突然裏切られても、決してその愛を曲げないという父親と同じ部分も持ち合わせています。
この正しさに、我々は共感できるのです。ハデで大げさなアクションは、おまけでしかありません。この正義があるからこそ、我々は気持ちよく映画を見ることができるのです。ただ痛めつけるだけ、戦うだけのアクションに、何の意味があるというのでしょう。
カルトムービーや、ヘンテコ映画として見るよりもまず、真っ直ぐにこの映画を観てみてください。勧善懲悪なんて言葉では語り尽くせない正義がそこにあるのです。
『汚れた血』
名言『今までの人生は、下書きみたいなもんだ』
画面が途中でブツ切りにしたように途切れる。突然音楽が画面のメインになる。無音声での早回し。特徴的な色の使い方。レオス・カラックスのやりたい放題がここにあります。おそらく彼は撮りたい絵が先にあって、そのためにストーリーを作ったんじゃないかとさえ思います。斬新なのもいいでしょう。不快でさえなければ。
一人の男が電車に轢かれて死にます。その息子は人生をまるで死に急ぐかのように生きていて、ある日突然恋人のもとから逃げだし、バスの中で見かけた一人の女性を追ううちに、なしぐずしに犯罪計画に荷担することになるのですが、メインは美しい女性アンナと主人公アレックスの、一夜の心の交流。といってもアレックスの一方的なもので、成就のしようがありません。このシーンがストーリーラインを忘れてしまうほど冗長で、途中でなんだっけ? となってしまうのも狙った効果なんだとしたら、カラックスは天才かもしれませんね。人を不快にさせる天才。
STBOというエイズのような病気。愛の無いセックス。犯罪計画。ストーリーは複層的だけど単純。しかしそんなことはどうでもよく、人間を描くというより、前述した通り、印象的な絵と画面。それを追い求めています。人それぞれ、好みもありましょう! しかし場面や画面をつなぎとめる、一本の筋がないために全てが散漫となり、バラついてしまっていました。
主人公のズレた行動を、笑いとして観てください。フランス車もフランス映画も、笑いながら触れればハッピーになれます。
『スカーレット・レター』
こちらも、緋文字を原作とする映画のため、「緋文字」レビューに追加して考察することにいたしました。
リンク先へどうぞ。
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『緋文字』
今回は、UbikさんのHP「闇に潜むもの」の、原作付き映画比較論Dual Thinkingの形式を使わせて頂きました。事後承諾になってしまいましたが、どうかご了承下さいますようお願いいたします。
なお、この回は完全なネタバレです。
原作も映画も読んでいない、観ていない方はご注意ください。
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それでもいいという方はこちらへ。