-ブエノスアイレスにて-
友人の斎藤クンというバンドネオン奏者から電話がかかってきて、今アルゼンチンタンゴの楽団で演奏しているんだけどピアニストが抜けてしまったのでお前来ないかという。
アルゼンチンタンゴなるものが何たるかも知らないし、それほど興味もわかなかったので僕は電話口で懸命になって断りの口実を探していた。
だってそうではないか。大体楽団であるとかバンドと名がつく集団に参加するとその後辛い辛い練習というものが待っているのだぞ。
僕は小さい頃から辛いことがとてもとても嫌いな人種だからな。
学生時代バンドをやっていた頃も自分でメンツを集めるところまではいいのだが、いざリハーサル時間が近づくと条件反射的に他の用事を探し始めてしまうのだ。
「あ〜、今日、オレ急にバイト入っちゃったから練習パスね」とか、
「あ−そ−だ! 今日オレ試験勉強しなきゃ! てなわけで練習パスね」とかいろんな理由つけてね、練習さぼってたのよ。
斎藤クンは電話の向こうで残念そうにいった。
「そう、やっぱだめかー。残念だな。来年今やってるメンツでアルゼンチン公演があるんだよなー。急いで他のピアノ弾きあたんなきゃなー」
「……ア、アルゼンチン公演……つった、今? ねーねー斎藤クン? 今キミ、アルゼンチン公演っていったの?」
「うん」
「……ア、アルゼンチン公演っつーのは、アレだよね? あー、そのぉ、つまりアルゼンチンに行ける、と解釈してよいものであるのか否か? 今すぐ簡単明瞭に答えたまえ」
「うん、来年ブエノスアイレス行くんだよ、みんなで」
翌年、僕はブエノスアイレスでピアノを弾いていた。
演奏自体は全部で四、五回程度のものであったが、日本人の演奏するアルゼンチンタンゴがもの珍しいのと、もともと血の気の多い民族であるということも手伝って会場は連日狂わんばかりの盛況が続いたのであった。いや、マジで、マジで。
もっともこれはアルゼンチンに行く直前にヴォーカルで参加したあがた森魚さんの果たした役割が大きかったと僕は思う。
あがたさんはもともと歌なんか入っていないインストの曲に勝手に日本語の歌詞を付けて例の調子で歌い叫ぶのである。
「こりゃ凄い!」と僕等は思った。そしてこれはもしかすると正統のアルゼンチンタンゴからは大きくはずれているのかもしれないが、とにかくこの歌声の持つ説得力は万国共通に違いないと判断してステージ上で彼に歌ってもらった。
実際にもの凄い反響が返ってきた。
年配の紳士、淑女の方々、若いニーちゃん、ネーちゃんがみんなスタンディングオベイションしているのだ。
「ブラボー! ブラボー!」の声援に混じって「ロックンロール!!」という声もかかる。
あがたさんは満足そうであった。歌詞は日本語であるから意味までは伝わらなくとも、とにかく自分の表現するものが異国で受け入れられたことはさぞかし嬉しかったにちがいない。あがたさんだけではない。メンバー一同みんな同様の満足感を味わっていたのだ。
その夜、僕等と同行していた「水曜会」というアルゼンチンタンゴファンクラブの日本人御一行様が僕等のホテルを訪れた。何事かと思い、話を聞くと「明日からの公演には、あがたさんは出さないでくれ」という。彼等がいうには「彼の歌はタンゴではない。タンゴをバカにしている」というのだ。
「しかし、実際にこちらの会場ではあれだけうけているではないか」との旨を伝えたのだが「これは日本の恥だ!」とまでいう。さんざん頭を抱え込んでいたバンマスは最終的に彼らの要求をのみ、あがたさんを次のステージから出さないことを約束した。
バンマスの立場は僕には痛い程わかった。
なぜなら日本での我々のコンサートは「水曜会」の人達の手によって運営されているようなものであったからである。「水曜会」を敵にまわすことはすなわち日本での演奏会が開けなくなることを意味するのだ。しかし、バンマス自身もあがたさんの歌に惚れ込んでいたことはメンバーみんながよく知っていた。
横でそれまでの話を全て黙って聞いていたあがたさんの目に涙がにじんだ。僕は何もいってあげられなかった。
後日ブエノスアイレスのシーフードレストランであがたさんと晩飯を食べながらこの時の話をした。
「いやあ、こんなこともありますよ。みんな人それぞれの立場ってものがありますからね。でも、アルゼンチンって本当にいい所ですね」とあがたさんは笑いながらいった。
今度は逆に僕の方が泣きそうになってしまった。
大変な興奮状態をまき起こしたそのコンサートの翌日、新聞にその模様が大々的に報道されていた。中でもあがたさんのことは(通訳の人によると)「タンゴの革命」とまで評され、絶賛されていたらしい。
僕は時々心の底から日本人であることを恥ずかしく思うことがあ。
滞在中のある日、ブエノスアイレスの街を歩いていると、白人の男が声をかけてきた。
なんでも彼はカナダ人のパイロットで日本にもしばらく住んでいたことがあるという。懐かしいから日本の話を聞かせてくれというので我々は近くのカフェに入り、ひとしきり日本についての話題に花を咲かせた。
一時間程たった頃だろうか、彼は突然こういうのだ。
「オーワタシ、イマ、オモイダシマシタ。キョウ、ワタシノ、ママノ、タンジョービデース。コクサイデンワデ、オメデトーイッテアゲタイ。オーマイガー! ナンテコトデスカー。デンワヲ、カケテアゲタイノニ、ワタシハ、イマ、コゼニシカモッテイナイノデース。オカネ、イッパイハイッタサイフ、ホテルノ、ヘヤデース。デモ、ワタシノ、トモダチ、イマヘヤノカギ、モッテ、ドッカイッテマース。ダカラ、ママニ、デンワシタイケレドモ、デンワデキナーイ。オーママ、ママ、ゴメンナサーイ。オー、ソーデス! マイフレンド、オカネヲ、スコシ、カシテクレマセンカ? ワタシ、パイロットデス。アトデ、ゼッタイ、カエシマース」
……来たな。と、僕は思った。
だいたい話がおかしいではないか。
カナダのパイロットだかなんだか知らないが、ママに電話したかったら明日すればいいのだ。
「かくかくしかじかで誕生日に電話できなかったけど愛してるよママ」とか何とでもいえるはずではないか。何も今出会ったばかりの極東からやって来たナイスガイから金を借りることはあるまい?
「あー、そーですか。そのような事情であるならば私はあなたにお金を貸してあげたいのは山々なのですが、実はですね、私は今大量に買い物をしてきたばかりで、あなたにお金を貸すどころかここのコーヒー代すらも危ない状況なのです。
であるからして、これからホテルに戻って、お金を持ってあなたのホテルにうかがいます」ってなことを英語でペラペラと喋ると、
(うえまつくん、ミエをはるのはよしなさい)
……ハイハイ、え〜そのような旨を拙い英単語を並べて伝えるとですね、
「オー、ソーデスカ、デハ、○ジ○フンニ○○ホテルノロビーデ、マッテマース、オーソーデス。ココノ、コーヒーダイハ、ワタシニ、ハラワセテクダサーイ」かなんかいいながら彼はほくほく顔でさ去っていった。
で、その待ち合わせ場所に行ったかって?行くわけないじゃん。
僕はまんまと寸借サギを返り討ちにしてやったのだ。日本じゃそんな寸借サギの手口はもう古いぞ。僕は時々心の底から日本人でよかったと思うことがある。
でも、今でもこの話を思い出すたび小さな胸をちょっとばかり痛めるのだ。
あの時の彼がもしサギじゃなかったとしたら悪いことしたなって。やっぱり僕という日本人は人が良すぎるのかもしれないな。
-ピアノの弾けないピアニスト-
僕の仕事は一応ゲーム音楽の作曲ということになっている。「一応」と書いてはみたものの他に仕事なんかないんだから、きっぱりそういえばいいのにね。でもこういう書き方をした方がちょっと謙遜してるみたいで響きがよいではないですか。なんかこれを書いてる人間のお人柄がしのばれるっつーか……。
ま、それは、それとして、だ。初めて会う人から職業を尋ねられたとき僕は、
「作曲の仕事をしています」
と答えるのに多少の引け目を感じてしまう。
そう答えると大概の人は僕が小さい頃からピアノか何かの楽器を習っていて、作曲を音楽学校で誰か先生について習っていたのだなと勝手に解釈してしまうらしい。
で、運悪くそこにピアノの一台でもあろうものなら、
「何か一曲……」
ということになってしまう。そこで、
「……いやいや、弾けないんですよ」
というと、
「何でもかまいませんから……そうだ、最近御自分で作られた曲でも……」
「……いや、実はそれもだめなんです」
こうなると殆どの人は怪訝そうな顔をするね。
「こいつ、本当に作曲できるんだろうか……?」
とか、
「あーそーでごわすか、あたしらの前じゃ弾けんとですか! 結構!よかですたい!」
なんて思ってるに違いない。絶対そーだ。僕にはわかる。顔にそー書いてあるもんね。僕をだまそうとしたってそうはいくもんかい!
よいではないか。ほっといてちょーだい。世界広しといえども楽器の弾けない作曲家は大勢いるのだ。……ちょっと文章変か?
なぜ弾けないかというとですね、僕は鍵盤を作曲する時の道具としてしか使っていないからなのですね。例えば何らかの理由で人前でピアノを弾かざるをえないときには多少練習もしますゆえ、その曲を憶えているのだけれどその用事が終わったらきれいさっぱりと全てを忘れてしまう。普段から暇なときにも鍵盤に触れているという趣味はないわけですよ、あたしにゃ。で、あるからして、
「私はピアノが弾けない」というよりも、
「私は今ピアノで弾ける曲を持ち合わせていない」といった方が正解かもね。
自慢ではないが、僕は楽器も音楽もこれまでまともに習ったことはないし、学生時代音楽のクラブ活動でラッパを吹いてたとかいう経験すらないのだ。
けれども音楽の作曲を生業としているのもこれまた事実なのであるよ。
大体さ、いいたかないけどドレミのドが五線紙のどこに存在するべきかということをハッキリと認識したとき、僕は既に二〇歳になろうとしていたんだぞ。
どーだ、参ったか?!
未だに譜面が出てくるとゾッとするんだぞ!どーだ、どーだ、ん〜?!
しかし、信じてくださいね。「ファイナルファンタジー」の曲を作っているのはこのワタクシなのですよ。
僕が音楽を始めたきっかけはロックだったものだから、そんなややっこしい知識なんか必要なかったんだろうね。小難しい練習なんかしなくてもレコード聴いてその通りにギターやピアノを弾けるようにすればなんとかなったものだ。俗にいうコピーってやつね。何度も何度もレコードを繰り返し聴いてフレーズを覚えてしまうのだ。途中わかんないところがあったらどうするか?そんなもんは無視しなさい。レコード通りに弾けないところは自分で作ってしまって辻褄をあわせればよろしい。大体そんな優れた耳を持っているわけないのだから完璧にレコード通りやろうとする方が無理なのである。僕の場合特に音感はあってないに等しいものだからコピーといっても殆ど辻褄あわせに等しいものだったけどね。
つまりこれが僕の作曲法の原点なのだ。ワハハハ。
小学校六年のときに祖父の家に遊びに行くと部屋の隅にギターがたてかけてあった。それがなんだかとてもイカシタものに見えた僕は早速譲り受け実家に持ち帰ったのはいいが、弾こうにも弾けない。それはそうではないか。当時はコードもアルペジオもなーんにも知らんもんね。チューニング方法すら知らないその楽器でいかにして遊べばよいか? もうこれは自分なりに気にいったメロディを一音一音探しながらつまびくしかありませんやね。しかし僕は夢中になってこの遊びに没頭した。
ピアノにしても同じようなものである。
ギターでコードを覚えたとき、人生でたった一度のひらめきが落雷とともに僕を襲ったのである。
「ピカピカズゴゴーン」
「あー、今のはでかかったっすね」
「……うん、ありゃ落ちてるな」
「……落ちてますか?」
「うん、落ちてる」
「はぁー……」
ってなほどでっかい落雷ね。
「……待てよ……もしかしてこのギターでジャラーンと鳴らす音を一音ずつひろってピアノの鍵盤に置き換えるとピアノでもコードが弾けるのではあるまいか? もしそーだとすると、あんなことやこんなこと……あぁもしかするとそんなことまでできるかもしれない……あぁー、気絶しちゃうー」
と思った僕は早速その「ギターコードを一音ずつひろってそれを鍵盤に移し替えてピアノのコードが弾けるようになればとっても簡単。もーバイバイバイエル大作戦!」を実行に移したのだ。
……ふふふ……まんまとこの作戦は大成功しちまったぜ。
これで人生思うがままなのだ。
僕はその日から突然ピアニストに変身した。
今ではもう誰も信じてくれないが、それまでの僕は意外と、いわゆる一つの、スポーツマンという、そのぉ、アレで、文科系の活動とは疎遠のように思われていたものだから、僕が学校の音楽室においてあるピアノを弾こうものならもう大変なのだ。
それまでそっぽを向かれていた大好きなあの娘からラブレターをもらったり、去年の海では敬遠されていたこの娘とは今年の海では腕を組んでデート、そりゃもうラピスラズリかブルワーカーかってなもんで……そんなこた一度もなかったですけど……。とにかくバイエルも弾けない、譜面も読めない、という世にもまれなピアニスト(と呼ぶには少々難があるけどね)が誕生したのである。
でも自称ピアニストとはいえ相変わらず人の作った曲は弾けないから自分で作るしかなかったんですのよ、オホホホホ。
音楽に対する接し方は未だにこの頃からなーんにも進歩してないな、間違いなく。ギターもピアノも上手になろうと血みどろの汗を流した経験もないしね。元々努力が長続きする類の人間ではないのだ、ボクは。これはちょっとトホホ的性格だな。
僕には音楽以外にもう一つ引け目に感じてしまうことがある。
僕はいわゆるコンピューター音楽を中心に作っているわけだけれども、こんな仕事してるとやたら機械とかコンピューターに詳しいと思われがちなのだ。
ところが! 僕は知る人ぞ知る、知らない人の間でも噂に名高い機械オンチなんだなー。これが、困ったことに。
電気製品買っても説明書読まないで使おうとする。
例えばビデオがあるとするではないですか。僕にしてみればアレは録画と再生ができればそれでいいもんなんです。他の機能はいらない。ナントカとかカントカとか余計な機能がいっぱいついててややこしいったらありゃしない。そんなモン搭載して価格高くするんだったら基本性能だけ充実させたもっと安いのを出しなさい!と僕は断固講義したいね。
CDプレーヤーにしても同様なのである。CDプレーヤーは市販のCDが再生されるだけでよいのだ! ランダムとかリピートとかベースブーストとかわけわかんない機能をくっつけてこれ以上僕の頭を混乱させるのはやめたまえ! 無駄な抵抗はよせ!
大体なんだ、最近のシンセサイザーは。マニュアルがぶ厚いではないかっ!
あんなもんハシからハシまで読んでるとジジイになっちゃうぞっ!
シンプルにしなさい、シンプルに!
抱えるものが多すぎるとフットワークにぶくなってイザってときに大変だぞっ!(イザっていつだよ……)
先日久々に購入したシンセにここんところ泣かされっぱなしの毎日なのだ。アメリカ製のものだから我々ムー大陸に起源を持つ(……)優秀な日本民族とは音作りの感覚が違うのよねー。おまけにあの諸悪の根源のぶ厚い四〇〇ページにもわたるマニュアルが全部英語ときたもんだ。え〜? どないせーっちゅーの?
こんなもんどーせ訳す気もおきないからロシア語で書かれててもヒンズー語でもプレアデス星人の言葉でもなーんでも一緒なのだ。だいたいさー、この会社。某E社ってんだけどね。Eジャパンって会社を日本にも作ってんだから、E社の製品を日本で売るんなら日本語のマニュアル付けなさいよ。それぐらいやってくれてもよいのではないか? ただ輸入したもん売るだけだったら渋谷とかにあるスペイン雑貨の店とかとレベル一緒よ? いい? これが最後よ? 色々いってもらえるうちが華なんだからね。アナタの将来を心配するからこそお母さんも厳しいこといってるのですよ? そうなったとき、誰が一番困ると思う?
世のテクノロジーの波に乗り切れなかった僕が困るな……。うん、それが一番困る。
追記
前述のシンセサイザーに付いていた登録カードを送ったら、後日、日本語訳のマニュアルが送られてきました。さすが某E社! うん、みどころあるぞ! しかかし! マニュアルがぶ厚いことには変わりないし、おまけに訳がめっぽーわかりにくいではないかっつ! いい? これが最後よ? 色々いってもらえるうちが華なんだからね。アナタの将来を心配するからこそお母さんはね、お母さんはね……
-羅宇屋のこと-
吉祥寺に「羅宇屋(らおや)」という知る人ぞ知る怪しげなライブハウスがある。
入り口には唐突に「羅宇屋」と書かれたバス停が置かれ、ふと見ると目の前には地下組織へと続く薄暗い階段が伸びているのだ。
普通の人はここでまずためらうわな。
「これ入っちゃっていーのかなぁ? どーせいつも来てるお馴染みさんかなんかで一杯でさ、ほんでそいつらがまた必要以上にガッシリと結束なんかかためちゃっててさ、僕なんかノコノコ入っていこうもんなら、ギロッとか一斉に上目遣いで見られちゃってさ、
『ナーンダヨォ、オメーハヨォ、クルンジャネーヨ、トットトケーレヨー』とか視線が十二分に物語ってたりするんだろーなー……。「やっぱやーめたっ」ってなふうに踵を返しちゃう人もいるかもしれなくもない、そういう店である。
で、中には意を決してその階段を降りてしまう勇者もたまにはいるのだが、階段を中程まで降りたところで突然アヤシゲなシタールの響きが聞こえたりするんだな。
「ビヨォ〜〜〜ン、ウニャビニャ〜〜〜ン、ポヨロォン、プヨロォン、バニュ〜〜〜ン」と鳴っているのだ。
そうすると『シタール→インド→放浪→ハッシッシ→再起不能』という未来永劫不滅の公式が身に染み付いている良い子ちゃんは、
「やっぱやーめたっ」と一目散にママの所へ帰っちゃうんだよね。
(……今の公式『シタール→インド→オシャカ』でもいいね……うん)
しかぁし!
そこでもまだめげてはいけなぁい!
階段は残り半分だぁ!
さー降りろぉ!
今降りろぉ!
降りなきゃ降ろすぞぉ!! ……とばかりに意を決して店内に入っていくと、……おぉ……そこはなんたるパラダイス……どこぞのモノとも知れぬ民族料理のえもいわれぬ香は行くあてを失って辺り一面に漂い、店内のそこかしこに置かれた調度品の数々はどっから仕入れたのか越境、不法侵入もなんのその、これぞ国交断絶、無国籍。まさに「ここは何処? ワタシはワタシだがね」状態。
……そして……鳴り止まぬシタールの調べ……。
キミはどーだか知らないけど、僕はこーゆーのメッポー好きなのよ。もともと「不思議」とか「怪しい」とかいった類の言葉に弱くてね、そんな言葉を耳元で囁かれたりしたら全身から力が抜けて目なんかトロ〜ンってなっちゃたりしてね、ちょっと嘘ですけど。
で、この「羅宇屋」さんはただのライブハウスかというと、さにあらず。
この不況の時代を敢然と乗り越えるべく(か、どーかは知らねども)今はやりの多角的経営がなされておるのですな。
つまりこのビルの地下では民族音楽ライブハウス、三階では民族楽器の販売、その奥では民族楽器の音楽教室と、どこからどこまでも民族一色に血塗られた、いや失礼、民族一色に彩られた一角なのです。すなわち怪しげな民族楽器を買わせて、怪しく教えて、怪しく演奏させて、怪しい民族料理食わせて、とことん日本人のやる気を消失せしめて明日への活力を根こそぎ絶やし、
「ニポンジン、ハタラキスギマスデース!」と声高らかに叫ぶ各国首脳陣のお役に立ちたい、という大いなる趣旨のもとに経営されているのが、ここ「羅宇屋」なのであ〜る! とこの際だからワタクシも声高らかに叫んでおこう。
「俺、人生の落後者になりたいんだよな……」
そんなことをお望みの諸兄に!
「あたし、インドに行って呆けた人間になりたいんだけどぉ、お金ないしぃ・・・・・」
ご心配なく!「羅宇屋」に行けばもう大丈夫!
日本にいながらにして短期間で確実に社会からドロップアウトできるのです!
しかもお値段はゥリィーズナボォ(reasonable)!
もうインドなんか必要ありません!
……実際ここに来てる人達って見るからに怪しいのね。肩書きはね、フツーなのよ。学生さんだとか、サラリーマンとか、飲食店勤めとか、ミュージシャンとかね。肩書きはいいんだけれど、会話が普通ではない。
通常旅の話とか音楽の話とかだとさ。
「いやぁ、先日ハワイにバカンス行ってきましてね。しかしナンですなぁ。ホテルでMTV見てるとマライア・キャリーばっか流れてましてね」
「ほほぉ、そーですか、私はこないだロンドンの方へ行きましてね、えぇ、出張で。あちらじゃビートルズ再結成の噂で持ちきりですなぁ。ホッホッホッ……」
とかなるじゃないですか? ところがここじゃ訳が違う。
「モンゴル放浪してたときにね、泊めてもらった家の老人から馬頭琴もらったのよ。でさ、そこの娘が唄うホーミーがグンバツに(古いか……)いかしてんの」
「へぇ〜そぉ。俺ね、先週までアテネで一ヶ月程ブラブラしてたのよ。で、ブズーギ買ってきたのね」
「どこで買ったの?」
「ホラ、○○駅があんじゃない?」
「あ、わかった。あそこね。十字路を左に入って三軒目の店でしょ」
「そーそー、そんでさぁ……」
と、このような会話がそこかしこで当たり前のように交わされるのだな。
放浪とか無銭旅行とかビザ期限切れとか強制送還とかそんな単語朝メシ前なんだからますますここが好きになっちゃうのもわかっていただけますわね。
実はこんなこと書いてる私メも、この店でトルコのバーラマ・サズーという弦楽器を習っていたことがありまして、ん〜、ま、私自身もその怪しげな集団の一味であったことを告白せねばならんのでしょうな。今ちょっと仕事が忙しくなって教室の方もずっと休みっぱなしなんだけどね、うん。
そういえば「羅宇屋」の店長でもあり、楽器屋の店長でもあり、音楽教室の僕のお師匠さんでもある若林先生が最近JT(日本たばこ)の雑誌広告に出ておられましたな。お元気そうで何よりなのですが、若林先生がマスコミに登場するたび、少し寂しくなったりもするのでありますよ。
「あ〜、『羅宇屋』が世間に露出するにつれ、あの怪しさが薄れていってしまうのではあるまいか……?」なんてね。
若林先生ならびに「羅宇屋」周辺の方々、くれぐれもこれから先ずっとあの怪しさを失わないでくださいね。民族楽器が女子中高生の間でブレイクしたりしたら大変なことになっちゃいますよぉ。
「きゃ! 何、これぇ?(キャピ、キャピ)」
「シタールじゃないのぉ?(キャピ、キャピ)」
「うっそぉ! かっわいー!(キャピ、キャピ)」
「こっちは何かしらぁ?(キャピ、キャピ)」
「それってぇ、トルコのバーラマ・サズーよぉ!(キャピ、キャピ)」
「え〜マジィ? これ弾く人ってぇ素敵よねぇ、ぜぇーったい!(キャピ、キャピ)」
「そーよ、そーよぉ、ぜぇーったい、ぜったい素敵な人よぉ!(キャピ、キャピ)」
……若林先生、女子中高生の間で民族楽器がはやるのも、あながち悪くはないような気がしてきたんですけれど、わたくし……。
-八戸でウニを食え! その一-
大学時代に所属していた音楽サークルの二年先輩に嶋脇さんという人がいた。
当時、サークルの会長を務めており、あらゆる物事に対するその豪快な決断力とつまんないけど思いっきりだけは良いギャグの連発で人望も厚かったのであるが、半面照れ屋で気弱な面を持ち合わせており、ズボラなところは徹底的にズボラ、物事真剣に取り組めば取り組むほど思い通りにいかない、というとことん憎めない先輩だった。
大学二年のある晩、東急東横線の白楽の駅で偶然僕は泥酔してヨレヨレになった嶋脇さんに会った。僕が声をかけると、
「おぅ? うえまつかぁ〜? おぉ〜い、ちょっと来いこっち来い」
と手招きをする。何だろうと思い近づくと、嶋脇さんは僕の耳元で、
「マンダムすすってチョリチョリ」
と暗号めいたわけのわからぬ言葉を呟くではないか。何ですか? と聞こうとした瞬間、嶋脇先輩は僕の頭に「ゴツン!!」と強烈な頭突きを一発かまし、「あぁ〜、頭が痛いぃ〜、頭が割れるぅ〜」
とうめきながら向こうへ去っていった。
まぁ、わかりやすくいえばそんな人だ。
嶋脇さんは今では地元、青森の八戸に帰って江南小学校の教師をしている。天職だろうと僕は思う。あんな性格の先生だったら僕だって教わってみたいもんだ。でも頭突きはもう勘弁してね。
ある日この嶋脇さんから突然電話がかかってきた。なんでも学校の音楽祭で「ファイナルファンタジー」の曲を演奏したいのでそれ用に二、三曲アレンジして譜面とテープを送ってくれという。うーん、あんまり暇もないのだ。しかしせっかくの先輩のお願いを無下に断るというのもなんだしなーと思ってたら、
「交通費を出すから音楽祭の本番当日には観にきてほしい」
とまでいってくれるではないか。
「青森かー……まだ行ったことないなぁ……ん? 東北美人?……あっ!恐山! イタコ!!
二ヶ月後、僕は八戸にいた。
本番の前日、江南小学校まで練習を見にいったのはいいが、放課後どこで噂を聞いたのか、あちこちから生徒諸君が集まってきてサインをねだられる。ま、別にそんなことはどうでもいいのだ。僕ごときのふにゃふにゃサインで喜んでくれる人がいるなら書いて書いて書きまくってやるもんね。しかしですね、ノートの端っことかハンカチに書くのならまだいいけど、一人の子がランドセルに書いてくれという。
「……あのね、サインするのが嫌なわけじゃないけど、ランドセルはまずいんじゃないかなー? このマジックで書いたらもう消せなくなっちゃうよ?」
「うん、いい」
「い、いや……キミはよくってもね。お父さんお母さんが高いお金出して買ってくれたせっかくのランドセルにね、僕のサイン書くわけにはいかないのよ」
「……」
「お母さんにね電話して聞いてごらん? お母さんがいいっていったら書いてあげるよ」
脱兎のごとく走って電話をかけにいった彼は数分後息をはずませて帰ってきた。
「ハーハー、あのね、ハーハー、お母さんがね、ハーハー、書いてもらってもいいって、ハーハー」
「……(ゲッ!)……あ、そう……じゃ、しゃーないわなー……」
しかしやっぱりランドセルに書くっちゅーのはまずいのではないかなどと思いつつも、まー親の了解を得てることだし、いーだろうってことでサインしたのよ。ところがその子のランドセルに一度サインするやいなや次から次へと、
「僕も!」
「私も!」
と僕の前にランドセルが山積みされていく。
「えーい、知らん! わしゃ知らんぞ!」
とばかりに僕は全てのランドセルに書きなぐってやったね。
日本全国広といえども「うえまつ」のサインが入ったランドセルしょって通学してるのは青森は八戸の江南小学校の生徒諸君だけだぞ。
さて一夜明けて音楽祭の当日、みんなが一生懸命演奏してくれる姿を僕は会場の後ろの方で聴いていた。子供達が精一杯何かをやりとげようとする姿は実に美しい。演奏が上手だったか下手だったかはこの際全く関係ない。僕はこの演奏に接しながらそんな表面上の価値観に惑わされなかった自分と、懸命に努力する子供達の双方をエライ、エライと褒めてあげたね。
どうせ社会に出たら努力しようがするまいが結果を出した人間の勝ちなのである。それは考えようによってはとてもとても寂しいことではないですか。だからせめて小学生の時くらいは結果はさておき、努力をしたということに対して惜しみない称賛を与えてあげましょうね? ね?
全ての出し物が終わりさて帰ろうかとしたところ向こうからどっから見てもPTAのおばさんとおぼしき連中が僕めがけてゆっくりと、しかし真っ直ぐに歩いてくるではないか。
僕はすぐにピィ〜ンと来た。
「あー、やっぱりだー、昨日のランドセルにサインしたことに対する抗議に違いない。あー、やってもたー、あれ全部弁償させられたら一体いくらになるのだー。あれは革製だったのだろうか? クラリーノじゃ許してくれないだろーなー、あー……」
代表者らしき一人の女性がキリッとした目つきをして集団から一歩前に出る。
「あのぉ、植松さんでしょうか?」
優しく装った言葉の向こうにPTA軍団のきっぱりとした決意が読み取れるぞ。
「あ、あー……はいはい。植松です」
と答えてしまう正直者のわたし。だって今更ここで、「いや人違いです。そんな人知りません、僕」なんていえるほどの悪人ではないのだ。
「あのですね、昨日うちの子供がランドセルにサインをいただいたんですけれども……」
ほーら来た。やっぱり来ちゃったよ。あんなランドセルなんかにサインしちゃいけないんだよなー、わかってたんだよ、あーあ。
「……ええ、はい。まあ、あの、つまりそのサインをした人であるとするならば僕といった御意見はあながち当たらずも遠からずなのかもしれませんね」
僕はもう完璧にビビッてる。
「あの、お願いがあるんですけれども……」
「あ、はい……はぁ?」
「私のスカーフにもサインしてください」
「あ、私も」
「私のハンカチにもお願いね」
だってさ、チャンチャンなのだ。ったく、おどかすんじゃねーよ。八戸のPTA軍団め。
でもその一件以来僕は「うえまつ」サイン入りランドセルをしょった赤いホッペの子供たちと「うえまつ」サイン入りスカーフ巻き巻き東北美人PTAおばちゃんの住む八戸という町の大ファンになってしまい、今日に至るのである。
いちご煮はうまいわ、海猫は飛び交ってるわ、想像通り東北美人は多いわ、イタコさんはいるわ、いやぁ八戸ってホンっトにいいとこですねぇ。
……お、イタコさんの話書くのすっかり忘れておったわい。
「八戸でウニを食え! その二」を書くことにしようね。
-八戸でウニを食え! その二-
江南小学校での音楽祭の翌日、嶋脇センセの車で念願の恐山に連れていってもらった。
センセは今日はちょっと元気がない。それもそのはずだ。昨晩はさんざん飲んだ挙句帰り際に店の席を立ったのはいいが、センセの余力はそこまでしか残されていなかったらしい。直立したまんまのかっこうで酒やつまみの並ぶテーブルの上にズドガグシャーンとノビテしまったのだ。
「……なんで、あぁなるまで飲むかねぇ……」
帰りのタクシーで今にも吐きそうな僕は、遠のいていく意識の中でボンヤリそう思った。
恐山は非常に気持ちの良い土地である。誰しもがそう思うのかどうかはわからないけど、もっと怪しげで胡散クサイ場所を想像していた僕はいささかひょうし抜けしてしまった。もちろん良い意味でだけどね。硫黄の臭いが立ち込めてはいるものの、周りの空気はとても澄んでいる。山々の木々は整然と立ち、湖の青さも引きずりこまれそうそうな程深い。その地に立っているだけで俗世間の汚れが落とされていく気さえする。
一般に世間でいわれる霊場はこういった素晴らしい環境の中に存在していることが多い。
映画で一躍有名になってしまった天河神社でさえそうではないか。恐山にしても天河にしても行くまでの道のりは大変ではあるが、その場所に着いてしまえば空気すら変化しているのではないかと思わせる程周囲の環境は突然すがすがしくなってしまう。
「うえまつ〜ぅ、ここが三途の河だぞ〜ぉ……おぇっ……」
「わ〜い、わ〜い。記念写真でも撮りましょかねー」
「うえまつ〜ぅ、ここが賽の河原だぞ〜ぉ……うっぷ……」
「わ〜い、わ〜い。記念写真でも撮りましょかねー」
「うえまつ〜ぅ、ここが血の池地獄だぞ〜ぉ……げろげろっ……」
「わ〜い、わ〜い。記念写真でも撮りましょかねー」
さんざん観光客気分を満喫した僕はいよいよ本日のメインイベントに向かうことにした。
イタコさんに会うのだ。恐山といえばイタコさんと昔から相場は決まっている。
死者の霊を呼び出し、話ができるなんて、なんと素晴らしいことではないか。人によっては何でもジョン・レノンを呼び出したそうな。しかし津軽弁でしゃべるジョン・レノンというのもなかなか興味深いな。どうせだからその場で「イマジン」でも歌ってもらえばよかったのにね。
「嶋脇さん、イタコさんっていくらぐらいお金とるんですかね?」
「……ん〜……わからん……あ、また来た……うっぷ……」
嶋脇センセはトイレに走り去っていった。
恐山の入り口を入ってすぐに左手にいくつかの軒を並べる長屋のような建物がイタコさんの仕事場であるらしい。僕が青森へ行ったのは九月の下旬で、もうイタコシーズンは終わり殆どのイタコさんは山を下りた後であった。どこの長屋をのぞき込んでもシーンとしており、人の気配さえない。ただ一人だけ先ほどからこちらをじっと見つめるおばちゃんがいることには気付いていた。僕は近づき話しかけてみた。
「あのぉ……イタコさんってまだこちらにいますかねぇ?」
「ええ、おりますよ。一人だけね。ふしゅしゅしゅしゅ」
おばちゃんは閉じた口から空気を漏らしながら笑った。
(以下、全て標準語で記すが、イタコおばちゃんの言葉は実にとんでもなく聞き取りにくい津軽弁なのだよ。)
「あ、それは良かった。で、どちらに?」
「わたしがそうですよ。さ、どうぞ。お入りください。ふしゅしゅしゅしゅ」
おばちゃんは僕を部屋に招き入れると、僕が座る場所を決めかねている間にもいきなり数珠をジャラジャラ鳴らしながら、
「で、誰を呼びますか?」
と尋ねてくる。イントロも何もないまま単刀直入ストレート一本なので面食らってしまった。意外とビジネスライクなのだ。
「え〜、ではでは、僕の祖父を呼んでください」
イタコおばちゃんはムニャムニャと何やら念仏のようなものを唱えはじめた。それはしかし、かなり訛りの強い津軽弁なのであろうと思われる。南国土佐の人間にはまったくもってチンプンカンプンであった。その独特の節回しに、
「まあ、これはこれで外国の音楽を聴いていると思えば悪くないもんだ」
と、ノンビリ鑑賞していると、いつのまにかイタコおばちゃんは僕の祖父に変身してしゃべっているではないか。しまった。津軽弁なんかどーせわかりゃしないと思って真剣に聞いてなかったのである。しかし今からでも遅くはないぞっ。僕は全神経を耳に集中させた。
津軽弁の祖父は、まず家族の様子を尋ねてきた。みんな元気です、と答えるとウンウンとうなずき、
「まだ死にたくはなかったんだが仕方がなかった。今でもみんなのことを心配している……いつも、いつも……」
と言葉を詰まらせた。
「くぅっ……」
一瞬情に流されもらい泣きの一つでもしてやろうかと思ったが、そうなるとまんまと敵の思うツボである。ワタクシは今日この場所へ涙を流すためにやってきたのではないのだ。飽く迄、冷静に客観的にこの不思議現象に対峙することが本日ワタクシに課せられた使命なのである。
祖父は僕と残してきた家族に対する注意事項を次から次へと並べあげていった。
「酒の飲み過ぎには注意しろ」
「煙草は吸いすぎるな」
「交通事故には気をつけろ」
等々……。時間にしてみれば約一〇〜十五分程度の短い会見であったが大変ありがたいお言葉を頂戴した。確かにいわれてみればその通りなのである。酒も煙草も交通事故も全て気をつけねばなるまい。しかし、これらのことが当てはまるのは何も僕だけではあるまい。
いってしまえばどのイタコさんがどの依頼者に向かって同じことをしゃべっても殆どの場合当てはまる内容である、といえなくもない。
結局僕にはイタコさんが本当に死者の霊を呼び出していているのか否かは最後までわからずじまいだった。本当に祖父だったのかもしれないし、まんまとイタコおばちゃんの芝居にだまされてしまったのかもしれない。
部屋を出た後、遠く離れたトイレの前で青い顔をしている嶋脇センセのもとへ歩いていきながら僕は想像してみた。
僕はいわば遊び半分の気持ちでここに来ている。が、もしこれが最愛の息子を不慮の事故で亡くした親の立場であったらどうであろうか?たとえ十五分の短い時間であったとしてもその間の親の嬉しがりようはそれは僕の想像を絶するものであるに違いない。
彼等はそれが息子であるかどうかは疑いはするまい。彼等にとってはそれは息子でなければならないのだ。仮に「これは何かが違う。だまされてるかもしれない」と思ったにせよ彼等は自ら進んでだまされたままでいようとすることだろう。
そういう人達にはこのイタコというものは確かに意味のあるものなのだろうな。物事にはなんだって二面性があるものだ。僕にはこう見えるけど、あなたにはそうは見えない。あなたには意味のないことかもしれないけど僕には重要である。こんな経験、日常生活ではたくさんあることではないですか。
他の人にとってとても大切なことに関して、その大切さを理解できない人間がとやかくいう権利なんかないんですよ。だからイタコも同じ。これを確かに有り難く思っている人が一人でもいる以上、冗談半分の僕にはこれを公の場で否定する権利なんてないのだ、うむうむ。したがってイタコさんの存在は紆余曲折した挙句二重丸をあげることにする。おめでとう! 恐山のイタコおばちゃんの諸君よ!
「嶋脇さん、お腹すきません?」「ん〜?……ぜ〜んぜん……」
「僕もう我慢できませんよ。ホラそこの食堂でうどんでも食いましょうよ」
「う〜ん……げろげろっ」
はふはふ、ずるずるっとうどんをすする僕を嶋脇さんはうらめしそうに眺めている。頬杖をつきながらその目はまだどっぷりと赤い。江南小学校では子供達に人気の高い嶋脇センセもこうなってしまってはカタナシだな。でも僕の先輩の嶋脇さんは酒飲んだ翌日はこうでなくちゃいけないのだ。
イタコおばちゃんに降りてきた祖父は最後にこういった。
「他人の保証人にだけは絶対になってはいけない。絶対にだめだ」
この言葉だけは今でも僕の心にひっかかる。
というのも、実は僕の祖父は若い頃、親しい人の借金の保証人になってあげたのはいいが、その人がトンズラこいてしまい膨大な借金の肩代わりを何年にもわたってさせられたという苦い苦い経験をした人だからである。
もしかしたらあれは本当に「おじいちゃん」だったのかもしれない。
いつか機会があればまた恐山を訪れるとしよう。そしてもう一度「おじいちゃん」を呼び出してもらい、今度は進んで情に流され、もらい泣きしてみようと思う。
-海と砂丘-
人間は海好きと山好きの二種類に大別できるという話を聞いたことがある。驚くことにそのどちらを選ぶかによって性格も分けられるんだってね。でも、性格が違ったらその好みが海と山で分かれるというのは至極当たり前の理屈で別に驚くほどのことはないのにとワタクシなんぞ思ってしまうのだが、まぁ細かいことはこの際おいとくとしよう。
僕はといえば、これはもう圧倒的に海が好きだ。とにかくやたらめったら海が好きでしかたない。浜辺に行くと必ず靴を脱ぎ素足で水に入らないと気がすまない。そして袖をまくりあげて両手を海水に浸す。これはね、当初は単純に気持ちがいいからという理由で意識的に始めたものだけど最近では半分クセにもなりつつある一種の儀式みたいなものです。ま、海に対する僕の挨拶みたいなものだと思ってもらえばよろしい。
「おーい、やってきたよー」
って感じですかね。
小学生の時、高知の桂浜という浜辺で学校の先生から、
「この海の向こうはオーストラリアがある」
と教わった。
それを聞いて僕はたいへん興奮してしまった。
外国という所はどこかとても遠い所にあって当時の自分の日常生活からはかけ離れた存在だと思っていたのに、実は高知のお隣さんだったのだ。外国が急に身近なものに思えてきた。僕はこの先生の言葉が今でも好きである。バカバカしいけれども夢のある話でしょ? 海を見るたびにこの向こうにはどんな国があるのだろう、誰が住んでいて、今頃何をしているのだろうかと想像をふくらませるのだ。ロマンチックだね。
おなかのあたりのだぶつきが気になり始めた昨今、海で泳ぐ機会はメッキリ少なくなったが、高知にいるときはよく海で泳いだものだ。今はどうなっているか知らないけれど、当時の高知の海はきれいだったぞ。でも当時はそれに気がつかなかった。なぜなら高知のあの海の美しさが僕にとっては当たり前のものだったからである。
横浜に住むようになって初めて江ノ島の海に行ったとき、あの汚い海に驚いた。少なくとも高知の人間にとっては、あれを海と呼ぶことはできますまい。
「こちらの人間は可哀相にね、海で泳ぐこともできないんだね」
と思っていたら更に驚いた。ここらへんは夏になると海水浴客で砂浜が埋め尽くされてしまうのである。こんな水の中でよくもまあ泳ぐ気になろうもんだ。やっぱり都会には人間を狂わせてしまう何かがあるに違いない。
「ファンタズマゴリア」というアルバムのジャケット写真を撮影するため、鳥取砂丘を訪れたときのことだ。初めての日本海だったけれども、あそこの水の透明度はなかなかのモノであったぞ。
前の日にロケハンのため一日早く鳥取入りしているスタッフを追いかけるかたちで僕とプロデューサーの松下さん(しばしば登場するので以下松下プロと略すことにしよう)、ヘアメイクの男らしい筒井嬢の三人は到着した。
皆様、八月の鳥取砂丘の暑さ、いや熱さが想像できるでありましょうか?
ただでさえ深い砂に足をとられ、歩きにくいことこの上ないのに、真夏の太陽は我々を垂直に焦がし、それに加えて砂の照り返しの容赦のないことといったら、まさに上から下からオーブントースターでコンガリ狐色状態である。しかもワタクシはその中で黒い上下のスーツ、コートを着せられて撮影されたわけよ。
砂丘の暑さは噂には聞いてたんだけどね。なんせ松下プロは鳥取出身なので砂丘のプロであるはずなのだ。
「松下プロ、砂丘って暑いの?」
「暑いらしいっすよ。僕はよく知らないっすけDね。聞いた話によると五〇度はあるっつってましたよ。本当っすかねえ?」
いやいや僕に聞かれても困るのだ。知りたいのはこっちなんだから。
しかし人から聞いた話にしてもよくもまあ五〇度なんぞとたわけたことをぬけぬけといってられるもんだ。その中で黒い服着るのはこっちなんだぞ。
当初撮影をお願いしようと思っていたのは某有名老写真家であったのだが、この予定はあっさりと流れてしまったのだ。マネージャーさんの断りの理由がシンプルでよろしい。
「こんな時期に砂丘で撮影やったら、命の保障が出来ない」
だってさ。じゃ命の保障がある人にしようってことで、スポーツ雑誌Numberの表紙の写真を撮ってるナンバーみなもと(※注1)(みなもと、と読む)にお願いすることになった。彼ならプロレスラーから宮沢りえの写真までとっているから砂漠でも大丈夫に決まっている。理由は特にない。
ナンバーみなもと(※注1)は余計なベシャリなしでただ黙々とシャッターを押し続ける。
砂丘のだだっぴろい空間にカシャ、カシャと乾いた音だけを響きわたらせるあたりがプロだな。
「俺には銃はいらないぜ。なぜなら俺の武器はこのレンズだからな、ふふふふ」
なんて心の中では思っているに違いない。絶対そうだ。
いやそれにしても暑い。立っているだけでクラクラしてくる。目はまわるし、頭痛はするし、着ている服ももうビショビショである。
ナンバーみなもと
(※注1)がフィルムを交換するたびに男っぽい筒井嬢とスタイリストの人妻三本木が、髪と洋服の乱れを直しに炎天下の砂漠の中三〇メートル程の距離をハーハーいいながら僕の元へ駆けつける。
「ったく、もー、ミナモトさんたら人使い荒いんだからぁ」
汗だくでこちらに向かってくる男っぽい筒井嬢は顔はニコニコしているものの目はケッコーマジである。人妻三本木はヨロリヨロリとした足取りで呆けたように何かの歌を口ずさみ続けている。その上頼んでもいないのに横でモデル歩きを始めてしまった。可哀相に、既にイッてしまっているのだ。アートディレクターのAD井上はタオルを頭にのせてその上に帽子をかぶるといういわゆる「さらばラバウル兵士」系スタイルでうつろな目をしてるし、松下プロは日陰に座り込んだまま動こうとしない。僕はナンバーみなもと(※注1)の指示のままふらふら動くだけの「わたし、あなたの奴隷よ。でもゾンビなの」状態だし、まわりの観光客は「このクソ暑い中、黒いスーツ着て何やってんだ、アイツは」ってな目で見てるし。
砂丘の上の方にいるただの観光客軍団の話し声がはっきりと僕の耳に聞こえてくる。砂丘というところは遮るものが何もないせいか信じられない程遠くの話し声が聞こえてくるものだ。覚えておきたまえ、諸君よ。
「誰だ、あれ? 銀ブチメガネに髭はやしてるぞ」
(・・・・・そんなの俺の自由だ……)
「芸能人かな? でも見たことないやつだな」
(……ゲーノージンじゃねーよ……)
「なんかマンドリンみたいな楽器持ってるぜ」
(……マンドリンじゃねーよ……)
「せっかくだから写真とっとこーぜ」
てめー、ちきしょー、だまってりゃいい気になりやがって。こっちはこの暑さでいいかげん頭来てんだぞ。毎週新日本プロレス観て覚えたトペスイシーダかますぞ! とってもとっても痛いぞコノヤロー……と想ってはみたものの今日は許してやるとしよう。なんせ僕は子供のアイドルだからな。つまらん問題沙汰をこんなとこで起こすわけにゃいかんのだ。
ま、そんなこんなで二時間半、地獄仕事は無事死者も出さぬままめでたく終了し、我々はすぐ近くの海水浴場に行くことにした。当然僕のリクエストである。僕は海がとても好きだからな。もしそうでなくても八月の砂丘に黒い服着たまんま二時間半もいればどんな海嫌いだって絶対行くって、絶対。水着は誰も持ってないし、熱にやられてボーっとしてる人もいたが、
「足を浸すだけでもよいではないか? 何ならビールもあるぞ? 花火はどーだ、んー?」
という説得が効を奏し全員参加となった。これでいいのだ。
間近で見る水は想像していたほどきれいではなかったが、恐ろしい程に激しく高い荒波が僕とAD井上の野性に火を点けた。
「ふふふ……俺を本気にさせちまったようだな……後はどーなっても知らねーぜ」
という例のアレである。
僕等は服を着たまま海に飛び込み高波とたわむれた。
この無計画さがアダとなったんだな。
ふいうちで襲ってきた波に僕は眼鏡を持って行かれてしまったのである。
「もし見つけてくれたらキミにご褒美をあげてもいーんだけどな、ボク」
というとAD井上は目の色を変えて捜しはじめた。ま、真剣に捜していたわけではあるまい。ウケをとるためならば何だって大概のことをやる男だ。
松下プロはぼくが眼鏡をなくしたのがよほど嬉しいのかホコホコ笑っている。しかし人の不幸を喜ぶ人に対して神様は必ずバツをお与えになるのだ。
松下プロを海の中に突き落としてしまおうと僕とAD井上、男っぽい筒井嬢の三人が彼を追いかけ始めた。
「ほぉら、捕まえてごらん」
「よーし」
「うふふ」
「あはは」
てなことをいいながら、おっかけっこをしていると突然松下プロがたちどまった。
「どしたの?」
「僕の、僕のサングラスがない……」
キャッキャ、キャッキャと浜辺を逃げまどってるうちに彼はサングラス、二万ン千円也を落っことしてしまったらしい。
ね、松下プロ。バチはあたるものなのよ。人を呪わば穴二つ、ね?
さんざん遊び疲れ、さて帰ろうかという時になって僕は一つの重要な決断を下さねばならなかった。その時僕はズボンを脱ぎ、ブリーフ一枚で泳いでいたのだ。
「この上にズボンを穿くとズボンはビショヌレになってしまい困ってしまうぞ。なぜなら、私は濡れた体を拭くタオルすら持っていないからなぁ……よぉ〜し!」
さんざん悩んだ挙句僕はブリーフのまんまホテルに戻ることにした。ブリーフのまんまホテルの中を歩いたのはこれが最初である。もちろん最後にしたい。僕を中心にその四方をグルリとスタッフが取り囲む、名付けて「僕を中心にその四方をグルリとスタッフが取り囲むフォーメーション」を組んでもらった僕はこうして濡れ濡れブリーフを他のお客様の目に晒すことのないよう無事に部屋に辿りつくことができたのである。……しかし何歳までこんなことをやってれば気が済むんだろう、僕は。
管理人注記:本文中の(※注1)の個所は、全て漢字で「みなもと」と表記されていましたが、特殊な漢字らしく、変換されませんでしたので、ひらがなで表記させてもらいました。
-夢じゃなかった-
夢遊病とか寝ぼけるとか、そういったことがありますね。つまり夜中に突然むくっと起きだしていきなりわけのわからない行動をとってしまうというアレです。
まあ、全ての人がやるわけではないだろうし、人により程度の大小はあるんでしょうが、僕はどうやら時々やらかしてるみたいだぞ。
小学生の頃、ある日曜日に僕はお昼寝をしていたのだ。親父の話によると目を覚ました僕は二段ベッドからゆっくりと降りてきてランドセルを背中に「遅刻する。遅刻する」と呟きながら玄関先で靴を履こうとしていたらしい。
「どこ行くんだ、おまえ、ん〜? 今、日曜日の午後三時だぞ」
背後から冷静に響く親父の声にハッと我に帰ったからよかったようなものの、あの一言がなかったら僕はあのまま外に飛び出してたんだろうな。いつものように小林商店の前を通って朝倉駅までの道をオリジナルの怪獣映画のシナリオを考えながら歩いていったのに違いない。そのままにしとくと一体どこまで気付かぬまま行ったんだろうね?
休日の夕方、学校の教室で一人起立して国語の教科書朗読してる絵なんて怖いぜ、実際。で、用務員のおじさんかなんかが偶然それを見ちゃったりするのだ。
「オイオイ、植松君じゃないか。何やってんだ。こんな所で?」
「……」
「今日は日曜日だよ。一体どうし……ぅわぁっ!!」
(ここで振り向く僕の顔は、あぁ何てことだ。それはまさに狐の顔をしている!!)
「……見ぃ〜たぁ〜なぁ〜……」
話がちょっとずれてしまったな。ま、そんな目覚めボケの経験がしょっちゅうあるわけではありませんがね、いくつかはある、うん、いくつかはね。
中には、とてもとてもひどすぎてここには絶対書けないこともありますわな。
聞きたいですか? うんにゃダメダメ。教えてあげないよ、ジャン、なのだ。
一番最近経験した寝ぼけ事件はなんと異国の地、ウィーンで起こりましてね。
その晩、昼間の仕事で疲れ切ったた僕は、バスルームでパンツ、シャツ、靴下を洗ったあと(普段何もやらないやつに限って旅先では突然洗濯マメ男に返信する)ウイスキーの水割りを一杯飲んで早々に床に就いたのよ。
ここまではキチンと覚えている。僕は静かにベッドに入って寝たのである。ちゃんと自分のこの手で枕元のサイドランプを消したんだから、いやホントだって。
ところが! である。夜中なんだかキョーレツに寒いのだ。
寒い国のホテルの部屋というのは二十四時間暖かく保たれている場合が多く、朝起きると毛布なんか蹴飛ばして寝てることもあるくらいなのだが、その時はそれにしても寒かった。
それに何だかまわりがやけに堅くて狭いではないか。左にも右にも寝返りをうつことができないのである。
「……あ、壁かぁ。壁にはさまれているんだ。つまりこのホテルはどうしたわけか壁と壁が非常に接近した、つまり日本でいうところの鰻の寝床のような部屋を作ってしまったんだな。そしてこのベッドはどうしたわけか事情は知らないが、壁と壁との間のとてもとても狭い空間に置かれたものなのだな。ははあ……そーか、そーかぁ」
夢うつつの状態でここらへんまで思ったときにやっと事の異常に気がつくのだ。
「……そんなバカな……」
仰向けのまま目を開けるとその視線の延長線上二メートルばかり先にシャワーの口が見える。
なんと僕はパジャマを着たままバスタブの中で寝ていたのだ。
なんでそうなったか僕は何も覚えていない。ベッドに寝たはずの僕が何故夜更けにバスタブの中で目を覚ますのだ? 誰か教えて下さい。答えられる人いますかぁ? いませんねぇ。はい、それでいいんですよぉ。
かなり酔っぱらってたんだろうって? 違うぅ〜、違うぅ〜、違うんですぅ〜。この時は違うの、ホントに。
酒に酔ったときの話はこれから始まるのだ。
僕は比較的というか、わりとというか、どちらかといえばというか、ま、早い話酒が好きな方である。
毎晩寝る前には欠かさず飲むことを日課とし、一日たりとも欠かすことはない。(オイオイ、いばるなよ……)私は会社に泊まるときでも寝る前には必ず飲む!(……いばるなって……)幸か不幸か、あまり強い方ではないので飲む量はたかが知れているのだけれどね。
僕は飲むとすぐ眠くなってしまうので基本的には外で飲まないことにしているのよ。
指折り数えても一年間のうち外で飲む回数は一〇回を超えるか超えないかといったところだな。そのうちの一回はここのところ毎年恒例になりつつある「魚菜亭(さかなてい)ツアー」なのだ。
年に一度、スクウェアのメンバー四人位で渋谷の「魚菜亭」という日本酒屋で飲む。
我々はこの日を「『年に一度だけ意識がなくなるかも知れないけれど、長い人生たまにはこんな日があってもいいとは思わんかね、え、ど〜だね花子さん、ん〜?』デー」と名付けて(……嘘だけど)開き直って飲むことにしている。
三年程前のこのツアーはひどかった。
さんざん飲んだ挙句、外の階段に多少のゲロをまき散らした後、一緒に飲んでた女の子の肩にかつがれて渋谷駅まで送られていったところまでは覚えているのだが、その後の記憶がない。次に気がつくと僕はさんざん雨の降りしきる中、傘もささずに綱島街道の武蔵小杉あたりを歩いていた。しかも車道よ? 夜中のことで車の通行量が少なかったからよかったようなものの今思い出しても冷や汗が出るな。う〜む……。
そういえば自分の結婚式の前の晩のことである。
ベルギーに住む友人のアラン・ルフェルーブル君が式に出席するためわざわざ来日してくれたものだから、こりゃ独身最後の晩はいっちょ飲まにゃなるまいってぇんで新宿で飲んだのよ。「ぼんじゅー、ぼんじゅー、さば?」かなんかいいながらね。で、まぁ例によってしこたま飲んだあと電車に乗ったのはいいんだけど、そのまま寝込んじゃってね、目覚めたら終点の桜木町だぁ。「ちっ、しゃーないなー」なんてグチこぼしながらホームを歩いていると、どうにも視界が悪くてしょうがない。ん?と思ってふとメガネに手をやるとメガネがない。
「どぉわぁ〜っ! 明日は結婚式ざんすよぉ〜! 晴れの舞台にメガネがないなんてカッコ悪いざぁ〜んす!」
あわてて今しも車庫に入ろうとする電車に舞い戻って捜しましたね。
そしたらありましたよ。コロンってね、メガネのやつ、コロンって電車の床にのびてやんの。
「ぼく、待ってたんだよぉ。ずっとずっとダンナが来るのを待ってたんだよぉ」
メガネの奥に光るヤツの瞳はそう訴えかけてたね。
「おめぇ、こんなところにいやがったのかい? おらぁ捜したぜぇ。まーいーか。こーしてまたおめーに会えたんだしよぉ。いやー、それにしても大切な前の晩にえれー目にあっちまったもんだぜ、なー、おい?」
……って。こんな状態ですから当然次の日も二日酔いですわなぁ。
式の当日、僕は寝不足の目をこすりつつ半分酔ったまんま婚姻届にハンコを押してしまったのだ。いやいや、それを酒に酔った上での過ちだといっているのではありませんよ。
他にもね、スクウェアがまだ赤坂にあった頃、夜遅くまで仲間と飲んでね、みんなで会社に泊まることになったんだけどね、僕は翌朝、女子トイレの冷たい床の上で目を覚ましたこともあるのよ。あ、このネタ面白くてもったいないからまた別の機会にくわしく書くことにしようね。うんうん、それがいい。
いずれにしろ酔うと何をしでかすかわかったものではない。……困ったものだな、なんていいながら、この原稿書いてる今もビール飲んでるのだ。ふははは。
願わくば今原稿を書いているというこのことだけは夢でありませんように。
←戻る
次へ→