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 太正二十一年四月、その日帝都日報記者進藤の足取りはいつになく軽かった。
 進藤の心中を察したわけではなかろうが、帝都を覆う空も雲ひとつなく青々と澄み渡り街行く人々を春の軽やかな空気でつつみこんでいた。
 まず最高といっていい素晴らしい日和である。自然と進藤の心もはずんだ。
 今日というこの日はまさしく記念すべきである。人はせせら笑うかもしれないが、進藤は強くその身の幸福をかみしめつつ歩を進めた。

 この時代の新聞記者の多くがそうであるように、進藤も生粋の文学青年であった。
 こと黒石紅玉の翻案小説を愛好しており、その著は破れるはどに貪り読んだものである。

 翻案小説というのはあまり耳なれない言葉であろうか。
 まあ、簡単に言ってしまえば翻訳なのだが、無論まったく同じものではない。
 翻訳と翻案が決定的に違うのは、翻訳が原著を忠実に訳すのに対し、翻案は翻案家の判断によってかなり大胆に内容を書き換えてしまうという点だ。
 外国人の名前や地名を日本風に変えるのは当たり前。
 つまらないと思う部分はばっさりと削り、下手をすると全く別の作品の挿話を付け足してしまったりもする。
 当然のことながら、時には翻案作品が原著よりも面白くなってしまう場合もある。

 その一例を舞台で体現してしまったというその人物に今日は会いに行くのだ。
 心浮き立つのを隠そうともしないが、これは勿論仕事である。文芸部に配属になった時から、この日を待ち望んでいたものだ。
 同期の同僚が、

「新聞記者としての使命感を忘れ私情に走った」

などとぬかしたが、なんのことはないただの負け惜しみである。なにしろこの同僚が今受け持っているのは、忍不池に連日出没するという河童の追跡取材である。

 まあ確かに今最大の話題となっている西欧の国の一つの都市が一夜にして消滅したという、にわかには信じがたい事件に較べれば、内心恥ずかしく思うこともないではない。
 しかしそれは進藤にとっては些細なことであった。

 あの、いまや文芸界では伝説めいた語り草となっている翻案劇「リア王」を演じた帝国歌劇団花組が、五年の時を経て復活するのである。
団員のほとんどが入れ替わったというが、それでもなお進藤の心を沸き立たせるのには充分なのであった。

 今日はその取材で大帝国劇場へ向かっているのである。
 これが記念すべき日でなくては、なんだというのだろうか。



 進藤の目指す大帝国劇場は銀座の一角に、そのヴィクトリア調建築の華麗なる威容を誇っている。
 そこへ至るには、銀座線で東京駅を経由し銀座四丁目駅まで行く。
 銀座駅から大帝国劇場までは、目鼻の先である。

 進藤は九段下で切符を買い、汽車に乗り込んだ。
 平日の昼間であるためかさほどの混雑は見せず、席もちらほらと空席を確認できるほどだった。
 席は二人掛けの座席が向かい合う形で並んでいるのだが、丁度進藤の入った乗降口のすぐそばの席は窓際に茶色のベレー帽をかぶった客が一人座っただけだった。

「すいません、ここ、いいですか」

 進藤はそう声をかけつつ先客の顔を覗き込んだ。
 しかし次の瞬間にはあっけにとられまぬけなことに、口をあんぐりと開けたまま体を凍りつかせてしまった。
 そのまま・・・随分と長い間を経過したように感じられたが・・・ほんの五秒程であったろう、醜態をさらした後は火を吹きそうなほどに顔を真っ赤に染めた。

 そこにいたのは掛け値無しの途方もない美女であった。
 二十六という年齢のわりには少々うぶな進藤であったが、その人生において直接間接を問わずこれほどの美女に出会ったのは初めてのことであった。
 しかも、ただの美女にはあらず、ハイソなベレーから流れるように垂れる髪は窓から入る日差しを受け、黄金色に瞬いていた。
 肌も透き通らんまでに白く新雪のようである。
 頬杖をつき膝の上に乗せた冊子を眺める瞳の色は、今日の晴天と同じ澄んだ青であった。
 いわゆる異人とこうして向き合うのも進藤は初めての経験であり、滑稽なほどあがってしまったのも無理からぬことであろう。

 妖精・・・

 進藤は異国の小説に登場する羽を持った精霊を思い浮かべずにはいられなかった。
 ともかく数瞬のあいだ、異国の美女に見とれてしまったのである。
 しかしその静寂をあっけなく破ったのは、誰であろうその絶世の美女そのひとであった。
 それもまったく予想外の台詞が、端正な赤い口唇から突いて出たのである。

「だめよ。」

 美女、と考えたのはいささか早計であったであろうか。
 その声は思ったよりもずっと若々しいものであった。
 まだ少女といっていい年頃なのかもしれない。
 醜態をさらした進藤は、また間の抜けた返答でその声に応えた。

「駄目・・・とは?」

 少女はその可憐な外見から世のおろかな男どもが抱く夢想や願望というものを容易に粉砕する鋭く苛烈な視線と舌蜂を進藤に向けた。

「・・・あんた、馬鹿?」

 まさか、この異国の美少女から馬鹿などというそしりを受けるとは!

「駄目っていったら、私の横に座るなってことに決まってるでしょ。」

 進藤はわけもわからずただわなわなと震えながら、ようやくのことで一言を絞り出した。

「何故?」

「わかんないの?私を見てどう思う?
 あなたみたいな平凡な一般人が想像したことさえない芳しくも目映い美少女でしょうが。
 そんなわたしの横にちょっと通りすがって、はい失礼なんて具合にあっさり座れるほどあんたは大人物なわけ?
 それともラッキーデイなのかしら?
 まあその風情じゃ後者のほうでしょうね。
 でも考えてみなさいよ。
 あんたが道を歩いてて突然道の真ん中に40キロ強の純金が落ちていたとしてどうする?
 喜び勇んで家まで持って帰るかしら。
 ううん、ちがうわね。」

 これが見本だとばかりに形も大きさも手放しで賞賛するしかない胸をそらして少女は続けた。

「恐れおののいて、家に帰るのよ。夢だったってことになるのよね、結局は。」

 あきれるほどの傲慢な口ぶりであったが、不思議と進藤は腹がたたなかった。
 嫌味には感じられないのである。
 おそらくは少女が、本気でそのように考えてそれが当然と思っているからだろう。

 見れば少女の向かいの通路側に学生とおぼしき青年が一人座っているのだが、可哀相に顔は真っ赤で一目で見て取れるほど汗だくである。
 少女のほうはそれを見ながらニヤニヤしているのだが、その極度の緊張を向かいに座る免罪府であると思っているのだろうか。
 しかし隣に座るのは彼女にとって不許可であるらしい。

 少女は最後に一言付け加えた。

「あんたは立ってればいいのよ。男でしょ。」

 九段下から銀座まではそれほどの距離ではないから、立っていればいいというのは確かにそのとうりではあった。
 進藤は立っていることにした。
 年下の小娘にいいようにあしらわれてしまった日本の男を蔑んでいるかと思ったが、考えすぎであったようで少女は再び手元の冊子に目を落としている。

 進藤は少女と自分が一つの座席を分けあっている光景を想像してみたが、あまりに絵にならないのですぐにやめてしまった。
 その時点で少女の言い分を認めてしまったことになるのだが、40キロの黄金と自分ではどうにも一生つりあいそうにもないのも事実のようだ。
 なにしろ路傍に咲く一輪の花でさえも分不相応に感じるくらいである。

 それにしてもこの少女は芳しいだの目映いだの日本人でもあまり縁のない言葉を使っていたが、どこで日本語を覚えたのだろうか。
 進藤は頭をひねった。


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