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 ふと気がつけば汽車は次の停車駅である御茶ノ水にさしかかろうとしていた。
 駅に滑り込んだ汽車はいそいそと降りる乗客を吐き出し、また同じ程度の乗客を飲み込んだ。

 問題の人物は進藤と同じ乗降口から姿を見せた。
 油をべっとりと付けててかてかに光った髪を几帳面に後ろに流し、趣味の悪い金縁の眼鏡をかけている。
 紺の背広で身を固め、全体としてみれば似合ってはいた。
 眼鏡の奥の眼は細く、端がつり上がっていた。
 その背後に揃って黒の背広を着た体格のいい、しかし妙によく似た男たちが続いた。

 文芸部であるとはいえ新聞記者の進藤はこの人物を知っていた。
 神山修三子爵である。
 最近西洋通の若き貴公子として社交界でその名を賑わす、重鎮神山賢三の長男である。

 口を交わしたことすらないが、進藤とは大学の同窓であった。
 向こうは進藤のことを知るまい。
 後ろの男たちは彼の護衛といったところだろう。

 大学のころから神山は女性に対する手の早さで有名な男だった。
 進藤はにわかにある事態を危惧したが、それはわずかの間も待たずに現実のものとなった。
 神山は案の定金髪の美少女に近寄ると、あっさり隣の席に腰を下ろしてしまったのである。

 進藤にとって神山はけして好感を抱く男ではないのだが、この自然さというか横着さというか、正直うらやましく思えた。

「失礼、隣を拝借させていただきますよ。」

 たとえそれが作り物であろうとも、神山の物腰は優雅であるといえた。伊達に社交界の貴公子は名乗ってはいないということか。
 神山の護衛の男たちは席のかたわらに寄ると哀れな学生君を追い出してしまった。
 それに対して眉をひそめる者は少なからずいるにはいたが、それを口に出して言う者はさすがにいなかった。

 しかし、口は出さずとも手を出すものが一人だけいたのである。
 少女は左手をかざすように挙げただけであった。
 いかなる手品か、神山の身体は座席からばねじかけのおもちゃのように跳ね飛んだ。
 黒服達も一瞬なにが起きたのかとっさに判断できなかったようで、通路に転がる神山を支え止めることも出来なかった。

 神山に触れる直前、少女がなにかつぶやいたと見えたが気のせいだったであろうか。

 車両全体が事態を理解できず時から切り取ったかのごとくしんと静まり返り、たった一秒の時の刻みも拒否してしまったかのようだった。

「ひっひっ・・・!ひぃっ!」

 しばしの静寂を破ったのは神山のみっともない声にもならないただの喘ぎだった。
 いや、ひきつりといったほうが正しいか。
 おのれの身にふりかかった事件がぼっちゃん育ちの神山にはしんじられなかったのだろう。

「にゃ、にゃ、にゃにをする!」

 神山は少女を指差し妙に甲高い声で怒鳴った。
 その時黒服の一人が失笑をこらえようとして失敗したのを進藤は見逃さなかった。
 部下にもあまり慕われていないようである。

「許可してないわ。」

「きょきょっ、許可ってなんだ!」

「隣に座ってもいいって言ってないってことよ。」

「許可だと!貴様の席でもあるまいし何様のつもりだ!俺が誰だか判っているのか!」

「あんたなんか知らないし、だいたいここは・・・」

 少女は一旦言葉を区切り席を立って言った。

「あたしの席よ!」

 それがさも当然と言わんばかりに公然と、少女は言いはなってしまった。
 無論汽車の席なのだから公共のものである。
 周囲の乗客達は先ほどの少女と進藤のやりとりを目にしているがその時は少女の横着さに顔をしかめた者も多かった。
 しかし、名のある子爵を相手にしても一向に変わらないその堂々とした態度に彼らも感銘すら受けたようである。
 いっそすがすがしささえ感じてしまう。

 だが、当の神山子爵は無理もないことだがそれどころではないようだった。

「俺は議員の神山賢三の息子で天皇陛下に勲章も頂いた由緒ある子爵家の跡を継ぐ者だぞ。
 俺に盾つくということは親父、いや陛下に盾つくことになるんだ!」

 してやったりという気色で神山は奮い立った。
 卑劣極まりない言い分である。
 進藤は大学時代に神山が喧嘩をわざとふっかけてはこの理屈で気に入らない輩を平伏させていたという話を聞いたことがある。
 彼にとってこれは常套手段なのであった。
 更に今は黒服の男たちを従えている。
 しかし、それすらも少女の髪一本揺らがせることすらかなわなかった。
 
「そんなこと知らないわよ。
 それに勲章もらったのってあんたじゃないんでしょ?
 えらいのはご先祖様であんたじゃないじゃない。
 そういうこと言うんだったら、これを見なさい。」

 少女は自分のかけている首飾りを指差して言った。

「これはイギリスの女王陛下に下賜していただいた、パリの王室御用達の職人の手による至宝中の至宝よ!
 値段なんかとてもじゃないけどつけられないと言われているわ!
 ついでに私はアメリカ大統領の孫で、古きをたどれば英雄シーザーの 血脈に連なるんだからね!
 知ってる?お爺様はドーバー海峡で伝説のシードラゴンレヴィアタンを倒して石碑に祭られている英雄なのよ!」

 進藤は首を傾げたが、神山はおもわぬ反撃に声を詰まらせ弱々しく応えた。

「そんなものは本当かどうか判らないじゃないか。」

「あんた馬鹿ーーーーーーーーーっ!?
 嘘に決まってるじゃない、そんなことも判らないわけ!?・・・・・・大丈夫?」

「なにがだ。」

「頭が。」

 神山はすでにぐうの音もでない有様であったが、少女は容赦という言葉を知らないらしく、更に追い打ちをかけていく。

「だからあんたのご先祖様が勲章を貰ったなんていったって本当かどうか判らないし信用出来ない。
 それにそんな立派なご先祖様からあんたみたいなのが生まれてくるわけないし・・・・・・やっぱりあなた虚言を吐いてるでしょ。
 いやそうに違いない、そうに決まった!」

 美貌の少女はまったく外見にそぐわないとんでもない理屈を大上段に降りおろし、指先を神山に突き付けとどめを刺した。

「ありもしない勲章を持ち出して恐れ多くも天皇陛下の威光をふりかざすとはなんたる不敬!その所行断固として許しがたし!
 陛下に代わってこのあたしがその大逆の身を極刑に処してくれる!」

 神山子爵家は確かに勲章を貰っているし、たかだか汽車の席に座ったぐらいで大逆の烙印を押されてしまってはたまったものではないだろうが、進藤は助け舟を出す気など毛ほどもなかった。
 それは他の乗客達も同じようである。
 それより、この異国の少女が下すという極刑とやらの内容がどのようなものなのかが気になった。

 いまや神山の身体は怒りと羞恥に震え、顔はゆでだこのように赤くなり爆発寸前かとおもわれた。

「や、やれ!お前たちこの生意気な南蛮の小娘を汽車から放り出してしまえ!」

 それまで沈黙を守ってきた黒服達が主人の命を受け、一斉に動き始めた。
 文学畑の進藤は格闘技に関してはまるで門外漢であったが、それでも黒服達の動きがかなりの訓練を受けたものであることを見て取ることが出来た。
 席を追い出された学生はこの美しい勝ち気な姫君に使命感を刺激されたか、助けに入る構えをみせている。
 そのほかにも手に持った杖を剣に見立てた老人や、鞄からなにか投げつける物を探している主婦の姿も見える。
 いざとなれば進藤も助けるつもりでいたし、人数で勝ちを見込めると踏んでいた。
 だが、その必要は実のところ無かった。

 向かい合った座席の間は狭く、一人ずつしか少女を襲うことが出来ない。
 そしてさきほど神山を跳ね飛ばしたのと同じことが、そのままかっきり黒服の人数分再現された。
 少女も西洋人らしく日本の女性に較べて背が高いが、黒服達はそれよりもさらに大きい。
 体重も最低でも倍はあるのではないだろうか。
 だがそれでも黒服達は残らず跳ね飛ぶ結果となったのだった。
 進藤はその直前に少女がやはりなにかをつぶやいていることに気が付いた。

「さあ、残るはあんただけなんだけど?」

 信じられない光景に神山子爵殿は完全に凍りついていた。
 無理もないだろう。
 喝采をあげている乗客達もなにが起こったのかは判らないでいるのだから。

 その時車内放送の声が汽車の到着を告げた。
 ここぞとばかりに神山は黒服達を伴って降車していった。

「覚えておけよ!」

 決まりきった逃げ台詞を放ったのは実のところ、金髪の少女のほうである。
 先手を打たれた神山は苦虫を十匹もまとめて噛み潰したような顔で敗走するほかなかったのである。

 降りていく客あれば、乗る客あり。
 神山と入れ違いに腰を曲げた老婦人が少女のいる席へ近づいていった。
 最初老婦人はすっくとのびやかな日頃見慣れぬ異国の少女にため息をつくほど驚いたようであったが、

「ここの席は空いてりゃあすか。」

 と、少女に尋ねた。
 少女のほうは、男ならばなにもいわずに全財産を捧げずにはいられないのではないかと思われる最高の笑顔を老婦人にだけ向けて、

「どうぞどうぞ、ごゆるりと。」

 と、窓際の席を勧めたものである。
 これでは日本男児としては、立っているほかなかったのであった。


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