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厨房を出るとすぐに中庭の方から笑い声が聞こえてきた。
大帝国劇場は建物が中庭を囲む形で作られている。立地としては超一級であるこの銀座の地においてそれなりの広さをもつ中庭を構成しているなどという贅沢な建築物は、ここ以外には存在しない。これについて眉をひそめるものも少なからずいるだろうが、大帝国劇場が舞台の供給のみをその使命としているだけではなく、花組の安らぎたる住居としての性格も持ち合わせていることを鑑みれば、精神衛生上の必要条件であることも納得が出来るであろう。都市において緑がもたらす効果というのは計り知れないものがある。
さくらは中庭へ通じる扉を開けた。ちょうど昼で空の太陽も中天にあり、陽光のシャワーが中庭一杯に照らし出していて絶好の環境となっていた。
中庭では陽花と風央が、ここで飼われている犬を相手に戯れていた。犬は雑種だが、七年前から大帝国劇場に居ついたアルタイル・・・これは旧花組のソレッタ・織姫の提案で大神が付けた名前だ・・・とその家族が愛敬を中庭を訪れる客人に振りまいている。特に芸も出来ずそれ以外に能がないという話もあるが、それに対して文句をいうものは今のところいなかった。
皆同じような姿をしているためさくらには見分けをつけることができなかったが、六匹いるうちの二匹が陽花の小柄な体にのしかかってしきりに顔をなめたくっていた。残りが風央を追っかけ回している。
無邪気で微笑ましい光景にさくらの顔もほころんだ。
所詮人の手でつくられた紛い物の自然であるが、本来アフリカの大自然のまっただ中で生まれ育った風央もそれを気にした様子がないから、深く考えることでもないのかも知れない。
風央を追っかけていた内の一匹がさくらの来訪に気づいて足元に擦りよって来た。しきりに息を荒くしてさくらの回りを駆け回っている。
「あ、こら!着物を嘗めちゃ駄目だってば!」
風央がさくらのそばまでやってくる。風央に追いついた犬たちが強引にその身体に取り付いて登りはじめた。まるで元気の塊のようである。
「さくら先輩もこの子たちと遊びに来たのですか?」
「ううん、あなたたちの声が聞こえたから来てみたのよ。」
さくらにまとわりついていた一匹も無理にさくらによじ登ろうとし始めた。
「ビーバーが一番さくら先輩になついてるのですね。」
そういわれてもさくらにはどれがビーバーなのか判らない。風央には判るらしい。
うっかりさくらが開け放しにしていた扉から、あっというまに一匹中に入っていってしまった。
「あらあら。」
「あれは食いしん坊のタッチーなのです。」
やがてさくらのやってきた厨房の方からファルナのものとおぼしき悲鳴が聞こえてきた。
「ちょっとこの馬鹿犬!あんたにあげる食べ物なんて無いわよ!今から作るとこなんだから!出てってよ、邪魔じゃないのよ。」
「タッチーに一度絡まれるとなにかあげないと離れてくれないのです。わたし、あの子を連れ戻してくるのです。」
風央がタッチー(なんだろう、多分)の後を追って消えていくのを見送って、未だ犬にのっかられたままの陽花の方へ足を向けた。ファルナもけして犬嫌いというわけではなく、むしろ動物好きな方なのだが、いまの状況を考えると気の毒であった。それにしても犬もケーキを食べるものなのだろうか。
「こらこら、もうやめてってば、くすぐったいよう。」
そういってはいるものの、陽花に本気で嫌がっている様子は見られなかった。
「随分この子達になつかれているのね、陽花。」
「うーん、なつかれてるんじゃなくて、ボクの方がなついてるのかもしれない。」
なるほど、確かに陽花のいう通りに見えなくもなかった。自分が今の陽花と同じ十五才の時はどうだったであろうかと、さくらはふと思い浮かべた。そのころはまだ仙台に住んでいた。きっと陽花のように世の中のすべてが光り輝いているように見えていたに違いない。世間の厳しさを知ってしまった今では、そういうものは既に失われてしまった。そ こそが若さというものなのかもしれない。そのかわりに培ったものも大きいが、同時に深い傷も負ってしまった。いや、自分でそう思い込んでいるだけで本当はまだ心の底あたりに陽花と同じものが眠っているのかもしれない。その可能性に思い当たると少しは気分も軽くなる気がした。
なんにしろ、そういう心の内を人には漏らさないこと。それだけは確かに踏み歩いてきた年月が身に付けさせたものに他ならなかった。
要は無駄に時を浪費しなければ、それでいいことだ。
風央が足早に戻ってきた。これでファルナのケーキから気を惹いたのだろう、タッチーの口には鶏のものと思しき骨が挟まっていた。
さくらは苦笑した。
「首尾良くいったみたいね。」
「はいなのです。このこは二つの食べ物を同時に追っかけられないから、簡単なのです。」
いっそその愚直が羨ましくなる。愚直も愚直と思わないのならば、それも一つの前向きな生き方なのかもしれない。とても真似などできそうにもないのだが。
「あれ?」
それに気づいたのは風央だった。先入観といったものが無い分風央の直感はしばしば頼りになる。
「一、二、三、四、五・・・一匹足りないのです。」
言われて初めて陽花もそれに気がついたらしい。さくらにいたっては言われてもよく判らない。
「本当だ、どこいったんだろう。」
「またファルナのとこにでもいったのかしら。」
風央の身体から一目でそれと知れる霊力のほとばしりが、むらくものように立ち登った。普通霊力の強いとされる人間・・・例えばさくらや陽花だが・・・であっても霊力自体が視覚で確認されるということはめったにあることではない。少なくとも日常生活の中においてはまず無いと言っていいだろう。だが風央はそれをたやすく実現させることができるほどに強大な霊力を誇っているのだ。もっともそれを所持することが幸運なのか不幸なのかは、別の問題である。
風央の放った霊力の網が反応を捕らえた。
彼女が上を見るのにさくらと陽花もならった。
そしてそれはそこにいた。そこというのは、どう登ったのか屋根の上である。
「・・・あれは冒険好きのヤズゥなのです!」
「な、なんでーーーー!?」
おそらくは二階から屋根裏部屋に入り、そこから屋根に出たのだろうが冒険好きといっても程があった。大帝国劇場は二階建てであるが、その天井が高いという構造上通常の四階を超える高さがあった。そこから落ちては猫でもただでは済まないであろう。犬ならばなおのことである。
「ああああーーーーーーーー!」
陽花が切り裂くような悲鳴をあげた。
ヤズゥが斜面で構成される屋根の上でバランスを崩したのだ。
落ちてくれるなという三人の願いはしかし、あっさりと打ち砕かれた。
ねばりもなにもなくヤズゥは転げ落ちたのである。
「ーーーーーーっ!!」
悲鳴にもならぬ悲鳴を三人があげた時、落ちゆくヤズゥの身体を支える手が差し伸べられた。二階の窓から手を伸ばした羽鳥であった。だがそれでほっと息をつくことはできなかった。なぜなら羽鳥の身体も窓を乗り越え空中に飛び出していたからである。
「あ、危ない!」
さくらの脳裏に一瞬、羽鳥がいなくなったら今日の千秋楽の舞台が困るな、と現実的な打算が駆け巡ったがすぐにそれを振り払った。
息を飲む3人が見守る中で、羽鳥はさも当然であるかのようにヤズゥを抱えると身体を空中で器用に縦横に捻り、ほんの半秒後には中庭の土の上に着地していた。さくらしか気が付かなかったことだが、着地時に音すらしなかった。いや、したことはしたが芝が掠る音だけで着地そのものの音はしなかったということだ。
「だ、大丈夫羽鳥!」
一瞬とはいえ縁起でもない考えに至ってしまったさくらは、後ろめたさを感じながら羽鳥に駆け寄った。
羽鳥はなんでもない様子で・・・実際なんでもなかったのだが・・・言った。
「大丈夫だって。俺をなんだと思ってんの?」
羽鳥は一旦言葉を区切ったが、演出ではなくヤズゥを解放しただけである。
「忍者だよ。」
それを見て陽花が誉めてるんだかよくわからない声をあげた。彼女のことだから本音に違いない。
「か、かっこいい!羽鳥って実はかっこよかったんだね!」
「実はってあたりが、陽花らしいね。」
羽鳥はそういうものの気を悪くした様子も無くいつもどうりに見えた。「俺はいつだってかっこいい」などと言い出さないあたり、案外謙虚といえるのかもしれない。
多分怪我なども無いであろうが、今日が大事な千秋楽であることもあって大事をとって地下の医務室で検査をすることにしたのである。
これは一般にはほとんど知られていないことだが、大帝国劇場には地下にも設備が存在している。この時代ささやかであろうとも地下室があること自体が珍しいことであったが、大帝国劇場のそれは地下室などというなまやさしいものではなく地下層ともいうべきものである。それは定刻歌劇団ではなく、裏の顔である帝国華撃団の設備であるといった方が正確であろう。
ここには医務室だけでなく、各員が自主的に使用する鍛錬室や定刻華撃団の誇る蒸気演算機の余熱を利用した二十五メートルの温水プールに指令室があり、さらに地下二階には李紅蘭のねぐらでもある霊子かっちゅうのハンガーが存在する。
それに風呂もここにある。大帝国劇場に宿泊する機会に恵まれた者であれば、風呂が無いことに気付いていぶかしむであろうが、ようするにそういうことであった。
戦闘部隊である花組の医務室であるから、その設備は超近代的なものであった。なにしろ通常時は無人である。
「見ている方は寿命が縮まったわよ。」
自然とさくらの口からため息が洩れる。
「さくら先輩も心配症だな。あのくらいは普通だってば。姉さん達ならもっと凄いんだぜ。」
「あら、羽鳥って兄弟がいるの?」
「知らなかったの?うちは女系家族で姉さんが三人に妹が二人いるよ。」
それは初耳であった。如月家はもともと神崎家の使用人なのだからすみれが知らないわけはない。すみれも人が悪いものである。
「うーん、大丈夫やな、やっぱ。羽鳥も痛いことあらへんやろ?」
医務室の近代設備を使いこなせるのは紅蘭だけである。さくらにはちんぷんかんぷんの機械の画面を見て、二人に伝えた。
「ぜんぜん平気だよ。」
「ちょっと羽鳥!屋根から落ちて怪我したって本当なの!?」
けたたましい声と足音を伴ってファルナが医務室に文字通りの意味で飛び込んできた。エプロンはつけたままで、小脇にはボウルまで抱えたままである。
「怪我はしてないし、落ちたのは屋根からじゃなくて二階からだよ。大丈夫だって。」
しかしファルナは羽鳥の話をまったく聞かずにさくらに詰めよった。
「なんで羽鳥が落ちなきゃいけないのよ!さくらが隊長なんだからさくらが落ちればいいじゃない!」
「そんな無茶な。」
「ムチャもナナチャも無い!」
「だから大丈夫なんだっていうのに。」
羽鳥がファルナの横に立って肩を掴んだ。
「ほら、ちゃんと立てるだろ?」
「あ、ああ、あ、あ・・・・・・うん。」
羽鳥にま間近にまで寄られてファルナは再び顔を赤くした。
「ほら、いこうぜ。まだ料理の途中なんだろ。」
羽鳥がファルナの肩を抱いたままで二人は医務室を後にした。
第二話(4)へ続く
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