詩奈乃キュア
 
 

〜月影〜



「詩奈乃さん、外を出歩いてはお身体に障りますよ」
「いや、大丈夫だよ。今日はかなり調子がいいからね。たまには外を歩かないと息が詰まりそうになる」
「……無理はしないようにね」
「わかっているよ母様」

 詩奈乃は母に作り笑顔でこたえて、縁側から庭に出た。
 庭と言っても、小高い山の中腹に建てられたこの屋敷に塀は無く、山全体が庭のようなものである。
 ここからは、見渡す限りに広がる菅平の山々を一望することが出来る。
 四季の移り変わりと合わせて、様々な姿を見せてくれる自然の恵みの中で、詩奈乃は幼少期を過ごして来た。
 雄々しく緑を息吹かせる力強さに、かつての彼女は果てしない憧憬と親近感を覚えていた。
 そんな大地の中で生きることに、喜びを感じていた。
 だが、今は家族も同然であったはずの故郷の景色も、詩奈乃の心を慰撫してはくれない。 
 景色は昔と同じでも、詩奈乃の方が変わってしまった。
 懐かしい想い出の自然の中にいるというのに、詩奈乃の心には底冷えするような孤独が深く根付き、そこから這い上がることが出来ずにいる。
 彼女の名は、大鷹詩奈乃という。
 長野県菅平に居を構える大鷹家は明冶維新で功を挙げて以来代々軍人を輩出する家系で、詩奈乃の祖父などは中将まで昇りつめ陸軍の要職の数々を勤めあげており、地元でも広く名の知られた名士だった。
 屋敷には代々の当主が授勲してきた数々の記録が系譜として残されている。
 大鷹家がこれまで同様の繁栄を遂げていれば、じきに資料館の一つくらい建てられるほどにまで至るのではないか、という評判だった。
 ただ、それも今は昔……と言われるようになるまで、長くはないのかもしれなかった。
 明らかに大鷹家の名声は傾きはじめている。
 栄華を極めた家系も転げ落ちるのは簡単で、そこから再び這い上がるには並の苦労では不足が過ぎる。
 詩奈乃はゆっくりと、暖かな陽射しの下を歩いた。
 大きな傷を負った詩奈乃の右の太股は、以前のような健脚と程遠かった。
 際どいところで動脈を傷つけなかったため、幸運にも生き延びることが出来たが、果たしてそれが本当に幸運だったといえるのかどうかは怪しかった。
 死んだほうがましだった、ということは、世の中にいくらでも転がっている。
 普段は誰も気づかずにいるだけで、災いは絶えず誰かの肩を叩こうと狙いを澄ましている。
 災難に見込まれた時にはもう遅く、何もかもが手後れだ。
 それを詩奈乃は嫌というほど味わわされた。
 自信も誇りも名誉もずたずたに引き裂かれた今では、ただこうして静養する以外になにも出来ない。
 することもない。
 力を失い虚しさばかりが心に渦巻き、生きているという実感もない。
 まだ二十歳になって間もないというのに、未来、希望、そして青春という言葉が遠く彼方の別世界のことのように感じる。
 現実味の無さは、子供が読む童話の王子様とお姫様の物語と同じようだ。
 物語の予定調和は美しくも虚ろで、現実世界にはどこにも存在しない。
 それでもゆっくりと進行していく滅びだけが本物だ。
 背後からすすり泣く声が聞こえてきた。
 もちろん、母のものだろう。
 一人娘の不自由な足運びを見て、その不憫さを嘆いているのだ、と詩奈乃は思った。
 母の連呼する言葉は嗚咽混じりでよく聞き取れないが、

「ごめんね、ごめんね」

 であるようにとれた。
 無理もない。
 代々武門の誉れも高い大鷹家だったが、両親からは詩奈乃ひとりしか子供がうまれなかった。
 詩奈乃自身が希望したとはいえ、たったひとりの最愛の娘を軍の中に放り込むのはさすがにためらわれたことだろう。
 まして、その結果がこんなありさまとあっては。
 両親が娘の未来を悲観してもしかたのないことだった。
 もっと、他に道もあったはずなのに。
 もっと、幸せになれる道があったはずなのに。
 詩奈乃はそんな母の泣き声に激しく後ろ髪を引かれる思いをおぼえた。
 母の心に巣食う嘆きが、彼女の心にも胸が痛くなるほど伝わってくるからだ。
 母の嗚咽は止まらなかった。
 詩奈乃に何か声をかけて欲しいのだろうか。
 あるいは親子で身を寄せあって泣きたいのかもしれない。
 しかし、詩奈乃は何も出来ずにいた。
 母を慰める言葉すら、彼女は持たなかった。
 身を寄せあうことはそれこそ惨めで、受け入れられない。
 結局詩奈乃は母を振り返ることなく、重い足を進めた。
 出来ることといえば、その場から逃げることだけだった。
 
 
 

 
 大鷹家の敷地を流れる河原まで詩奈乃はやってきた。
 付近でも知られた清流で、子供のころは夏になるとここで一日中遊んだものだった。
 ふもとの町の子供たちも我れ先と押しかけ、水遊びに魚釣りに興じる毎日だった。
 しかし、もうこの場所へふもとの子供たちが遊びに来ることはない。
 眩しいほどに輝いていた過去が再現されることはない。
 それは単純に、ここが大鷹家の私有地で出入りが禁じられているから、ということだけではない。
 子供にとって、そのような禁則は有名無実に等しく、むしろ積極的に破るために存在する。
 渓流に人が訪れなくなったことには、もっと深いわけがあった。

「詩奈乃……こんなところまで来ていたのか」

 流れる川面を静かに眺める詩奈乃の背後から、声がした。
 父の声だった。

「お父様……。お父様こそ、こんなところまで来るなんて、珍しいのではないですか?」
「とりたてすることもないのでな」

 詩奈乃の父も軍人だった。
 彼自身ロシア戦線で活躍し陸軍で准将の階級にまで昇った華々しい経歴の持主で、歴史ある大鷹家をさらなる高みへと押し上げるであろうと地元の期待も背負っていた。
 しかし、今では除籍されている。
 それ以来、父からは溢れるほどあった覇気が消え失せてしまった。
 同時にひどく老け込んでしまったように見える。
 実際の年齢よりも若く見られることがひとつの自慢だった父が、最近では逆に老け気味に受けとられがちだった。
 それは母も同じで、かつての美しさは損なわれた。

「すまんな、詩奈乃」
「お父様も……私に謝られるのですね」
「すまん」

 父も娘も言葉を失った。
 川を流れる水の音だけが、その場にあった。
 詩奈乃は、上流から流れてくる葉が遠く離れていくのを、じっと見ていた。
 特に意味はなく、ただすることが他になかっただけのことだ。
 幼少の楽しかった時期となんら変わるところのない光景なのに、今はさびれてもの悲しささえ漂っているように見えてしまう。
 それでも川の流れは、止まることなく絶えず新たな水を上流から受けとり、下流へと押し流していく。
 詩奈乃はそこに時の流れを感じていた。
 世界は時の大河の流れを受けて、悠然と移り変わっていく。
 ひとり時の止まった詩奈乃のことなど些細なこととでもいわんばかりの非情さで取り残していく。
 残された詩奈乃は、ちっぽけで無力な存在だった。

「儂が……儂が……」

 しぼり出すような苦しさに満ちた父の声だった。
 おそらく背後のその顔も苦渋に満ちているのだろう。
 想像することは容易かったが、そんな父の姿を、詩奈乃は見たくはなかった。
 詩奈乃の中では、父という存在はかつての覇気ある父であってほしいという気持ちがあった。
 気持ちというよりも願望に近いかもしれない。
 だから、振り向けなかった。
 それもまた逃げなのだと知りながら。

「儂が、京極慶吾などの口車にさえ乗らなければ……」
「……」
「詩奈乃が、こんな目にあうこともなかった」

 それは確かに事実の一つに違いなかった。
 父、大鷹与志雄は陸軍大臣であった京極慶吾の一派に与していた。
 京極についていくことが、軍人として最善の道であると盲目的に信じた与志雄は、士官学校を出て少尉に任官して間もない娘も、同じ一派に組み入れた。
 そこに輝かしい未来がないことなど、知る由も無く。
 勝利することを疑いもせず、いわゆる太正維新に雪崩れ込み、そして……与志雄は地位を失った。
 与志雄自身が11月9日の未明に始まったクーデターそのものに武器をとって参戦することこそなかったが、准将という高い地位にいた彼はそこに至るまでの過程で京極派に対し様々な便宜を図っており、責任を取らされ軍を除籍されたのだ。
 与志雄はその後、刑務所での生活を余儀なくされた。
 国家反逆罪が適用されれば、極刑に処される可能性も充分に考えられる。
 本人は終身を刑務所で過ごす覚悟だったようだが、不意に恩赦が下された。
 その後は身柄に制限を受けるどころか、監視の手さえなく、こうして五体無事な姿で長野に帰ってきている。
 それが本人にとって良かったのか悪かったのかは微妙だった。
 罪のつぐないどころを失い、決めたはず覚悟も宙に放り出された形になった与志雄は、今をどう過ごせばよいのかすらも見失ってしまったようだ。
 一方で京極派の主力陸軍第一師団歩兵第三連隊に所属していた娘の詩奈乃は、他の同志達と共に帝都日報本社制圧の任務を言い渡されていた。
 警察の妨害は予測の範疇だった。
 任務は拙速が条件であり、海軍の介入を許す前に全ての決着をつけ切り、帝都の歴史はその日を境に変転するはずだった。
 しかし予測を超える事態は発生した。
 京極慶吾の事前の裏工作によって静観を決め込むはずだった近衛第三連隊が、意に反して動き、占拠していた維新軍部隊から陸軍省を奪還してしまう。
 そして霊子甲冑を配備する帝国華撃団の制圧にも失敗した。
 霊力という異形の力によって本来の人型蒸気とはまったく次元の異なる攻撃力と装甲の強固さを備えてしまう霊子甲冑は、単機で一軍にすら匹敵する戦闘力を誇る。
 彼らの脅威を封じるためには霊子甲冑と操縦者である帝国華撃団花組を切り離すことが必須だったが、ふたりの隊員の身柄の確保に失敗した。
 そして、彼女達が起動させたその二機だけでも、維新の戦局を覆すには充分な戦力だった。
 霊力を持つ操縦者が一種の超人だとすれば、霊子甲冑を得た彼らは魔神に等しい存在と化す。
 軍人とはいえ生身の人間に対抗する術はない。
 すべての計画は崩壊した。
 太正維新という夢は、わずか一日にして儚く散った。
 戦火の中で足に銃弾を受けた詩奈乃は、すぐに長野に戻り静養に入った。
 新米の少尉でまだ若い詩奈乃は罪こそ問われなかったものの、やはり軍籍は抜かれることになった。
 彼女が罪を問われなかったのは、単に処分を下す人数の規模が大きすぎて、下っ端でしかない詩奈乃まで手が回らなかっただけというのが実情らしい。
 陸軍第一師団歩兵第一連隊900名、第三連隊500名。
 合わせて1400名もの戦犯の数は、帝都の収容能力をあっさりとパンクさせた。

「お父様。これも、私が自分で選んだ道です。お父様が提示した道であろうと、結局選んだのは私です」
「だが……詩奈乃は、お前は女だ。お前が軍人になると希望した時、儂は驚いたし、それに喜びもしたが……今にして思えば愚かなことだった。儂は反対すべきだったのだ」
「それこそ筋違いです。軍人になったことこそ、私自身が選んだ道なのですから」
「それが間違いだったのだ!」
「悲しいことをいわないでください」

 なにもかもが間違っていた。
 なにも産み出すことがなかった。
 わかっていても、認めるのは難しい。
 認めたとしても、忌わしい記憶を忘れられるわけではない。
 罪の意識は固いしこりとなって、詩奈乃の胸の中をずきずきと傷つけ続けている。
 この傷が苦い記憶をともない喰いついて離れないのだ。
 傷は重い枷となって、詩奈乃からかつての笑顔を奪っていた。

「風が冷たくなってきました。私は家へ戻ります」
「ああ……」
「お父様も、風邪をひくといけませんから、早めに戻った方がいいですよ」
「わかった」

 結局詩奈乃は、一度も父の顔を見る事なくその場を後にした。
 そして……聞こえてくる。
 父の男泣きだった。

「お父様も……泣くのですね」

 親の泣く声ほど、子供が心揺さぶられるものはない。
 詩奈乃は自分の方こそ泣きたい気分だった。
 それでも涙は、詩奈乃の心を裏切るかのように、流れ出てきてはくれなかった。
 詩奈乃ひとりだけが泣けない。
 あの炎の夜を境に、涙腺が砕かれたようだった。
 わかっている。
 父も母と同じ。
 国家に反逆した大鷹家の名声は地に落ちた。
 地元の者達も維新を境に掌を返し、その名を聞くだけで忌み嫌い近寄らなくなるようになった。
 しかし、それが悲しいのではなく、父もたったひとりの娘の行く末が不憫なのだろう。
 その想いは、両親に愛された一人娘だけに痛切に伝わってくる。
 詩奈乃は、自分の耳にも聞こえて来ないような、小さなつぶやきをこぼした。
 掠れた吐息のようなつぶやきだった。

「だからといって、泣いたところで仕方がないじゃないか」

 もう終わったことなのだから。
 泣き悔いたところで、何ひとつ取り戻すことはかなわないのだから。
 
 
 
 

「……あれは?」

 数カ月後のこと。
 詩奈乃は父を訪ねてきた数人の男たちに目をとめた。
 いずれも見覚えのある顔ぶれだった。
 同じ陸軍京極派として維新を闘った、かつての同志達だ。
 別の連隊にいた者もいるし、同じ第三連隊に所属し維新当日は警視庁制圧に向かっていた者もいる。
 その中のひとりの名を、詩奈乃は思い出した。
 確か、土岐といったはずだった。
 日本人にしては珍しい鷲鼻が目立つ、どこか爬虫類的な雰囲気を備えた男で、階級は大尉。
 詩奈乃の記憶が確かならば、彼がこの中でもっとも階級が高い。
 もっとも彼らも大鷹親子同様に軍籍を失い、階級など意味を成さなくなっているはずだ。
 彼らは皆一様に熱気に溢れた様子で、その点で同じ維新の敗残者である大鷹親子とは決定的な違いがあるといえた。
 そこに不吉な予兆を感じた詩奈乃は、行儀の悪さを承知でひそかに聞き耳をたて、様子を窺った。
 彼らが与志雄に語りかける声は耳障りなほど大きく、普段は静かな大鷹家に異質な喧噪を招いた。
 妙に甲高く生理的嫌悪感を誘う声に詩奈乃の表情も曇ったが、盗み聞きをしようという人間にとっては好都合であるともいえた。

「ですから、ぜひとも准将にも御参加願いたいのです」
「しかしな」
「准将も著しく名誉を汚されたはず! このままではこんな片田舎で落ちぶれていくだけですぞ!」
「挽回できるほど小さな汚名ではない」
「なぜこれが汚名だとお考えになる! 高名な大鷹准将がただ一度の挫折で、惨めな負け犬に成り下がったのですか。この屋敷にも並ぶ勲章の数々、国に尽力することで獲た名誉を忘れたのですか。でなければ汚名を被ったなどとは思わぬはず。我々には志がありました。理念がありました。国を憂う心もありました。准将とてそうではなかったのですか。これは汚名というにはあまりに不当というべきではありませんか」
「かもしれんな」
「でしょう!」
「だが、汚名は汚名だ。志があればそれが消えて無くなるわけではなかろう」

 土岐は、ここぞとばかりに畳み掛ける。

「汚名と感じたのなら、それも致し方ない。しかし、汚名を汚名でなくしてしまえば良いのです。われらの手で、改めて帝都を掴むのです! 全てをひっくり返してしまえば、何もかも解決するではありませんか。我々こそは真の憂国の士なのです」
「夢のような話だ」
「夢ではありません。かならずや現実となることです」

 夢というよりも、不穏な話と言うべきだった。
 詩奈乃は肩を落とし、溜め息をついた。
 まだ敗北を認めない諦めの悪い若い士官が残っているようだ。
 詩奈乃から見ても、彼らの出所不明の自信と盛んな血気は空転しているとしか思えなかった。
 かなりの熱意で、土岐は与志雄を口説いたが、色良い返事はとうとう出なかった。
 声だけからでも、父の明らかにうんざりした様子が伝わってくる。
 それが若い士官たちには気に喰わなかったらしい。
 自分達は正しいのだから、考えるまでもなく同意するのが当然だとでも考えていたらしい。
 ……が、実情はそうでもないのだろうと詩奈乃は考えていた。
 わざわざ長野まで足を運ばなくとも、旧京極派の大物は帝都にも残っている。
 現場で檄を飛ばしていたのは天笠士郎という少佐階級の男だったが、彼はあくまで実動部隊の長にすぎない。
 それ以外に、京極からクーデター成功時の見返りを取り付け、力を貸していた将官たちがいる。
 ここまで来たということは、彼らにもすでに参加を要請しており、ことごとく断られているのだろう、と推測した。
 父は置いておくとしても、彼ら将官が協力したのは理念よりも打算があってのことだ。
 報酬は金か地位か勲章か、あるいはその全てだっただろう。
 陸軍大臣という地位にあった京極慶吾にはそれに応じる権威があった。
 しかし、ここで吠えている土岐という男にそんな力があろうはずもない。
 多少なり冷静な思考力があれば、そんなことはすぐにわかる。
 結局、土岐たちは与志雄の説得を断念し、肩を怒らかせて帰っていった。
 難しい顔をしたままの父に、詩奈乃は声をかけた。
 
「お父様」
「詩奈乃……すべて聞いていたな。しようがないやつだ」
「すみません。ですが、捨てておくことも出来ませんでした」
「いや、むしろ捨て置くがいい。馬鹿な連中だ。かつての儂と同じではあるが」

 皮肉の混じった笑いを与志雄は浮かべた。
 もちろん、皮肉を向ける相手は自分自身だった。
 今にして思うと不思議なのだ、と父は言う。
 あれほどまで維新の成功を信じて疑わなかったことに対して。

「詩奈乃よ。あの維新が成功していて……今頃どのようなことになっていたと思う?」
「過去を書き変えて現在を予想する。それは無意味な仮定だと思います。それで今という時が覆るわけではないのですから。現実の歴史の中に『もし』はありません。ですが……」
「ですが、なんだ?」
「ですが、維新の前。お父様は、その時はどのような未来を頭に描いていたのですか? 同じ仮定でも維新の前と後のそれでは、意味合いも異なってくるでしょう。実現する可能性があるかどうかという一点においてもはっきりしています」

 破れた夢に諦め悪くすがり続けるのは、敗者の姿としてもあまりにみじめなことであろう。
 父や母が、娘の未来に悲観するのは無理のない話だとしても。
 それでも詩奈乃は父の夢、野心を聞いてみたかった。
 もっとも勝利していたとしても思い描いた理想が実現したという保証はない。
 掴んだと信じた夢ですら、価値のない偽物でしかなかったという可能性さえある。
 現実はしばしば残酷な牙を剥き出しにして気高い理想に食らいつく。

「それが、よくわからんのだ。恥ずべきことだが」

 与志雄は皮肉げな表情を浮かべ、首を横に振った。
 確かに不思議なことだった。
 詩奈乃から見ても、与志雄は2m近い大柄かつ屈強な身体つきで、強面の頭部を猪首に乗せた威丈夫である。
 根っからの武人で、軍人という仕事は天職といえるだろう。
 しかし、熱しやすくとも無謀な性格ではなく、分の悪い賭けに軽々しく乗るような男では無かった。
 必要な時には冷静な計算ができるからこそ、准将にまで昇進を遂げたのである。
 そんな父を魅了してしまうほどの強烈なカリスマ性が、維新軍を率いた京極という男にはあったのだろうか。
 新米だった詩奈乃は、独自の人物観を構築するほど京極慶吾に接する機会に恵まれなかった。
 そして、理解する機会は永遠に失われた。

「京極慶吾……あやつを前にすると、意気が上がる。血が湧く。気分が高揚して冷静でいられなくなる。やつのいうこと全てを素晴らしく感じてしまう。おのれというものを忘れてしまう」
「おろかなことですね」
「相変わらずはっきりときつい事を言うものだな。だが、その通りだ。それがあったからこそ京極派は一致結束していられた。京極派とはヤツの思想に共感した者達の集団というよりは、ヤツに魅入られた愚か者どもの群れに過ぎなかったのかもしれん。あやつ抜きで、なにをしようにも……出来ぬよ。なにひとつな」

 その父の意見に詩奈乃は賛成だった。
 いまだに土岐のような、京極慶吾を信じ続けるものはいるようだが、かれらにしても、もはや無力もいいところだ。
 芯を失った蝋燭に価値などはない。

「詩奈乃、そう言うお前こそどうなのだ? お前は維新の前に、どういう未来を頭に描いていた?」
「私ですか。私は……」

 頭に浮かんだのは、陸軍女性士官服に身を包んだ、清楚さを感じさせるあるひとりの人物の姿だった。
 最後に会った時、たしかにそういう服装をしていた。

「やはりわかりませんが、大事な人と共に歩めぬ未来なら、そんなものに意味があるのかどうか」
「大事な人……だと? 初耳だぞ、そんな相手がいたなんて話は。詩奈乃、お前……」
「それ以上はいわないでください。もう過去の話です」

 今のは失言だったと、口にしてから後悔した。
 そんなことを父の耳に入れては、今以上に深く悔いるようになるだけなのが目に見えているというのに。
 なんにせよ過去は、過去。
 それは破れさった夢だった。
 取り戻すことのかなわない、惨めな残骸でしかなかった。
 残骸は土に帰っていくしかない。
 じきに、存在したことすら忘れられ滅んでいくしかない。
 
 
 
 

 太正15年も12月に入り、終わりの時を迎えようとしていた。
 詩奈乃はようやく右足の怪我も癒え、通常の暮らしに差し障りのないところまで回復した。
 ここまでくるのに丸1年を費やしたことになる。
 入院加療していた時期以外はそのほとんどを長野の実家に閉じこもってすごし、訪れてくる者もなく家族以外の誰にも会わないような生活だった。
 そんな折り、数少ない陸軍女性士官の友人から……女性士官の絶対数が極端に少ないからであって、詩奈乃に友人が少ないというわけではない……手紙が届いた。
 帝都に出てこないか、という内容だった。
 両親は当然反対した。
 今や大鷹家にとって帝都は鬼門ともいえる存在だった。
 大鷹家がある限り、二度と足を踏み入れるべきではないという勢いで与志雄は詩奈乃を説得にかかった。
 詩奈乃は帝都行きを希望していたのだ。

「いったい、何をしにいくのだ? ……まさかそやつ、例の土岐とやらの一派ではないのだろうな?」
「そんなことはありません。彼女は当時、京極派にも入っていませんでしたから。むしろ当時は阻止する側だったと思います」
「ではなんなのだ。帝都にいってなんになる?」
「わかりません」
「わからんって、お前」
「それを見つけに行こうと思うのです」

 渋る両親を置いていくのは忍びなかったが、結局詩奈乃は帝都へ向かうことにした。
 長野からの長い旅程は無事に何事もなく終わった。
 ただ、列車の震動が古傷に堪えた。
 詩奈乃も太正維新から二ヶ月後の帝都を降魔の群団が襲うという事件があったことは耳にしている。
 帝都はその中で追い討ちを受けるように激しく傷付いたということも聞いていた。
 だが、詩奈乃が久しぶりに見た帝都は、そんな面影を残していなかった。
 綺麗に復興を遂げ、以前よりも明るく華やかになったような印象すら受けた。
 維新が失敗しても、詩奈乃がいなくても帝都は力強く息吹いていて、平和だった。
 帝都が備える生命力の強さを目の当たりにし、さすがに詩奈乃にも感慨深い想いがあった。
 嬉しくもあるし、少しさびしくもある。
 待ち合わせの場所へ向かう間に知った顔に出くわした。
 向こうから声をかけられて気づいたものの、相手の表情は暗い。
 詩奈乃はそれが誰なのかを思い出すまでに、しばしの時間を必要とした。

「大鷹少尉……久しぶりだ。長野で静養していると聞いていたが、帝都に戻っていたのか」

 詩奈乃の名を呼ぶその声も力弱く気力を感じさせるものではなかった。
 苦笑しつつ、言葉を返す。

「今はもう軍人じゃないさ。でもそれはお互い様だったかな」
「皮肉なことだが、その通りだ」
「それに帝都にはたった今到着したばかりだよ。今の私はただの観光客のようなものでね。帝都にとってはお客さんというわけだ。もうここに生きる人間じゃない」
「……そうか」
「去年の11月……あれ以来だったか。こうしてまた生きて会えて幸運といっていいのかよくわからないが、悪いことじゃないはずだろうな……吉塚少尉」

 男も苦笑いを浮かべる。

「大鷹、だから俺ももう軍人ではない。平凡な一市民だ」
「ああ、そうだな。皮肉を言うつもりじゃなかった。すまない、悪かった。」

 吉塚太一。
 それがこの背の高い男の名だった。
 詩奈乃とは士官学校の同期生で、任官したのももちろん同じ時だった。
 そして、陸軍において京極派に属し、太正維新を同じ側で闘った仲でもある。
 士官学校時代は何につけても無駄なくはきはきと行動していた男だった。
 食事を取ることさえ大真面目で取り組むし、寝ている時は寝返り一つうたない。
 カレーを食べると、大盛りを正確にスプーン21口で平らげる。
 歩く歩幅を計ると必ず91cmで、走った時は2m36cmである。
 数多いそんな噂は言い過ぎのはずだが、これは彼の特性を良くあらわしているエピソードといえた。
 そんな彼につけられたあだ名が「人間人型蒸気」だった。
 ようするに機械のように堅苦しく融通が利かないということだ。
 本来義侠心に熱いこの男に対して、外見の印象だけでそんなあだ名をつけるのはあまりなことだっただろう。
 維新の中で倒れた後、長野へ戻って長い入院生活に入った詩奈乃は戦友の誰が生き残り誰が死んでいったのか、あまり詳しくなかった。
 父も失脚して、そういった情報の入るラインが完全に切れてしまっていたということもある。
 吉塚と偶然出会えて無事を確認しあったのは喜ばしいことだといえた。
 しかし、今目の前にしている吉塚の姿は、詩奈乃の記憶にあるかつての同志と同一人物とはにわかに思えない程の変容ぶりを見せていた。
 その原因になったことが何であるのかは、考えるまでもないことだ。
 変容ということでいえば、詩奈乃自身も人のことは言えなかっただろう。
 あれ以来、彼女も鏡で自分の姿を見るのが恐くなっている。

「帝都には観光か……まあ、それもいいだろう。ここはそれに価する街だ」
「いや、正確にいうと本当は観光じゃない。長野に引っ込んでいたら高島に呼び出されてね。これから待ち合わせのカフェで会うところなんだ」
「高島? あの"すっぽんの高島"か?」
「そうだが、そのあだ名は本人の耳には入れるな。嫌われるぞ」

 高島という名を聞いた吉塚の表情に、微妙な色合いが加わった。
 やや目を見開いているところを見ると、彼にとっては意外な名前だったのかもしれない。
 表情よりも顔色の変化の方が強く、やや頬に赤みが差していた。
 ただ、それもすぐに元に戻るほどわずかな間でしかなかった。
 そんな吉塚に対して詩奈乃は笑いかけようとしたが、顔が強張って上手くいかなかった。
 笑う、ということがどういったことなのか、忘れてしまったのかもしれない。
 泣くことも、笑うことも出来なくなっている自分を酷く愚かしく惨めに感じる。
 詩奈乃は吉塚を誘ってみた。
 声が少しくぐもっているのは、不器用に歪んだ口許を右手で隠しているからだ。

「どうだ。吉塚さえ良ければ一緒に高島に会ってみないか。こうして同期が三人揃うことも今後なかなか無いだろうし」
「……いや、俺は遠慮しておく。彼女にはよろしく言っておいてくれ」
「そうか。無理にとは言わないが……またそのうちにな」
「ああ。またな、大鷹」

 力ない会釈を残して、吉塚は帝都の雑踏の中へと消えていった。
 詩奈乃はその背中を痛ましい思いで見送った。
 吉塚太一、あの男の背中はあんなに小さかっただろうか。
 まるで別人のようだ……そう思えてならなかった。
 「人型蒸気」に肩を落とすような真似ができるはずがない。
 彼も詩奈乃同様、太正維新という事件の中で大切な何かを置き去りにしてしまったらしい。
 傷付いたのが自分だけではないと知り、多少は気が軽くなる……はずもなかった。
 それだけ深刻な事件だったという認識がより深く心に刻まれるというだけだった。
 

 
 

 待ち合わせの場所で時間を潰していると、その人物ははほどなくして姿を見せた。
 詩奈乃を帝都に呼んだその友人の名は、高島琴江という。
 背が高く髪を短くして男言葉を使う詩奈乃とは逆に、童顔で小柄な女性だった。
 士官学校時代、男性候補生はもちろんのこと、女性候補生の間でも長髪は禁じられていたが、卒業してから伸ばしたらしく、とても良く似合っている。
 それ以外は二年前となにも変わらない快活な印象だった。

「やあ、高島少尉久しぶりだね」
「やあん、もう、詩奈乃様ったら相変わらずお堅いんだから。今はもう少尉じゃないんですよ」

 可愛らしい身ぶりを交えながら琴江が言った。
 彼女は同じ年齢階級であるにもかかわらず、私的な場では詩奈乃のことを「詩奈乃様」と呼ぶのが常だった。
 なぜそうなるのか詩奈乃もよくわからないが、琴江に限らず他の女性の候補生からも同じように呼ばれることが多かった気がする。
 おかげでそう呼ばれることにも慣れてしまっていた。
 昔と変わらず残っているものの存在にほっとする心を自覚しつつも、首を傾げる。

「少尉じゃない?」

 吉塚と同じことを琴江に聞かされ、意外に思った。
 自分達とは違って琴江は京極派に属していたわけではない。
 だから、陸軍を除籍されたということは考えにくいことだった。

「……すると昇格して中尉になったのかい? それはおめでとう」
「そんなわけないじゃないですか。あたしなんかが中尉だなんて、そんな畏れ多いです! 種を明かせばなんのこともありません。お仕事、変えたんですよ」
「変えた? すると軍を離れたのかい? しかし、京極派が粛正されて、陸軍は猫の手も借りたい状態なんじゃないのか? そんな時期にどうして。それに、あんなに苦労して士官学校も卒業したっていうのに、勿体無いじゃないか。任官を受けた時は、泣いていただろう?」
「ああ、そんなこともありましたね。懐かしいなあ。えへへ……その、加山様に誘われて」
「加山? どこかで聞き覚えのある名前だな。えっと……」
「ほら、海軍で何期か上だった」
「ああ、あの"剣豪加山"か? 確か加山雄一といったっけな」

 その名には詩奈乃も覚えがあった。
 陸軍と海軍では畑違いではあるが、主席を争うような人物ともなれば名の知れ方も、自然と違ってくる。
 加山雄一はとりわけその剣の腕の冴えで名を轟かせていた男だった。

「あの期で海軍主席だったのは確か……小川とかいう平凡な名前のやつだったかな」
「大神、ですよ。大神一郎。加山様のご親友なのですよ」
「そうか。まあ、いいんだけど、そんなことは別に。それで、高島の今の仕事ってなんなんだい?」
「まだあんまり詳しく話せないんです。いろいろお調べするのが仕事、というか」
「ふうん」
「それで、今度詩奈乃様を帝都にお呼びしたわけなんですけど……土岐一男っていう人物を知ってますか?」

 いきなりな話だった。
 もちろんその名は覚えている。

「ああ、知っているよ。今年の始めあたりに、長野のうちの実家にやってきた」
「彼と直接会ったんですか?」
「いや、直接顔を合わせたのは父だよ。でも、話の中身はだいたい知っている」
「どんなことを話していましたか?」
「土岐が京極派の一員だったということは、もちろん調査済みだね? なにやらを再起を目論んでいて父を担ぎだしたかったようだけど、失敗した。はたから見ていても、無駄な努力をしているなと思った」
「へえ、やっぱり大鷹准将のところにも誘いをかけていたんですね。帝都近くの将官にも声をかけまくっていたみたいですけど、ことごとく断られたみたいです」
「だろうね。そんなことだろうと思っていた。それでその土岐がどうかしたのか?」

 これは内緒ですよ、人差し指を口許へ当てながら琴江がいった。

「現在、目下行方不明中なんです」
「土岐がか?」
「正確には土岐一派といいますか。土岐一男を中心とした数名なんですけどね」
「数名? たったそれだけしかいないのか」
「まあ、多いのか少ないのか微妙なところですけど」

 詩奈乃が菅平の実家で見た数人で全員だったのかもしれない。
 大言に対しての頼り無い陣容に、さすがに呆れる。

「そんな人数じゃ、たいしたこともできないだろうに」
「でも少ないだけにシッポを掴むのも難しいんですよ」
「それで過去同じ側に属していた私のところにも調べの手を伸ばそうと、そういうことかい?」
「深刻なんです。ただ事ではないんです」
「ふうん、そうか。少しは説明してもらえるのかい?」
「ええ……」

 詩奈乃が聞かされた内容は突拍子もないことで、にわかには信じ難い部類のものだった。
 まず京極慶吾は太正維新というクーデターなど少しも本気ではなかったらしいということ。
 本来の目的は権力の奪取ではなかったというのである。
 太正維新の中で大怪我をして以来、感情の起伏が乏しくなっていた詩奈乃も、これにはさすがに大きな衝撃を受けた。
 維新で京極慶吾を信じて、その末に死んでいった者たちに対してそれはあんまりな仕打ちではないか。
 情報に乏しかった詩奈乃が知るだけでも、太正維新で戦死した軍の知り合いは両手では収まらない。
 目の前で死んだ者もいる。
 同期で共に学んだ者もいたのだ。
 それに、それだけの死者を出す激戦になった以上、京極派を鎮圧した海軍とて無傷で済んではいない。
 それを戯れ言で済まされてはたまらなかった。
 詩奈乃は吉塚の別れ際の背中を思い出した。
 戦死を免れていても、それほど変わらない。
 深く傷付き暗い泥沼にはまり込み、そこから抜けだせず苦しみ足掻いている。
 傷付いたのは本人だけではなく、大鷹家同様その周囲も同じだろう。
 身体の傷は本人だけが背負えばいいが、心の傷は伝染してしまう。
 親兄弟のように、身近な人物であればあるほどそれは容易に伝播して、心に傷をもたらしてしまう。

「それは本当のことなんだろうね?」
「ええ、確かです。京極慶吾の心の奥底までは加山様にもわからないらしいんですけど、十四年クーデター……太正維新についてはそんなところだろうって」
「……くっ。とんだ茶番だな」

 それで大鷹家も反逆者としての汚名を被せられたというわけか。
 これは父の耳には入れられない、と詩奈乃は思った。
 もし知ってしまったら今の覇気のない父では、落胆のあまり寝込んでしまいかねない。
 ただ、父の階級の高さのわりに早々と恩赦が出たことは、当時から疑問に感じてはいた。
 琴江の言うように、陸軍京極派すら京極にいいように騙されていたと判明したとすると、恩赦が出た理由にも合点がいく。
 実際に恩赦が出た以上、それは疑問の余地のない事実として確定しているに違い無い。
 ならばおそらく、父以外の主だった面々も恩赦を受けているのだろう。

「そのことを土岐一派は知っているのか?」
「さすがに鋭いですねえ、詩奈乃様。その通りなんです。これって、今でこそ帝都の軍関係者なら知っている人も多いことですけどね、私だって知ってるわけですし。ただ問題になるのは、いつから知っていたのかということです。土岐一男の場合は天笠士郎少佐とは別の意味で京極慶吾の側近に近い立場にいましたから、彼の置かれた状況から考えると当時から知っていたと考えるのが自然です。私もそう考えています。詩奈乃様やお父上は長野の御実家に引っ込んでいらっしゃったから、まだ知らなかったんですね」
「ちょっと待ってくれ。当時から知っていたってどういうことだ? それでなぜ太正維新で京極に力を貸したりするのか、さっぱり分からない。そんな戯れ言みたいな覚悟で闘いに勝てるはずがない。ほとんど負けるに決まっていると分かってる闘いに身を投じるなんて自殺するようなものだ。他に何か狙いでもあったんだろうか……。それじゃあ、長野で父と会談した時に、維新の意志を継ごう、とかいうことを言ってたのも、本気の話じゃなかったっていうことか。あれもまた戯れ言だっていうのか。あの熱のこもった説得も芝居だったと」
「まあ、戯れ言うんぬんはともかくとして、そういうことになるんでしょうか。でも帝都近辺にいる元京極派の大物なら、裏切られていたことは知ってますからね、当然ですけど誰も乗ってくれるはずがありません。むしろ土岐一派の誘いなんて、目障りなだけですよ。実際、私が会った方の中には、奴らの顔も見たくない、話も耳に入れたくないっていう人もいましたし」
「むしろそれがまともな判断だろうな。下手に接触して再度の叛意ありなんていう噂でも流れたら致命傷になりかねないし。それで事情に詳しくない田舎の父の所まで来たのか……。迷惑な話だ。しかし、父なり誰なり、担ぎ出してどうするつもりだったんだ?」
「同志は多いに越したことはないですよね。将官クラスの大物が加わったとなれば、集まりも良くなるでしょ」
「それだけのことか……そうかな。なんだかしっくりとこない。おかしな感じだ」

 詩奈乃は腑に落ちないものを感じてはいたが、琴江の話は進んだ。
 太正15年…今年の初頭…帝都を再び降魔が襲った事件のことだ。

「伏せられていることですけど、実はこの事件の首魁が京極慶吾で」
「ははあ、おかしいと思っていたらここで名前が出てきたか」
「といいますと?」
「さっき言ってたじゃないか。『太正維新についてはそんなところだろう』って。他にも何かあるからこういう言い方になるんだろうと思っていた」
「わあ、さすが詩奈乃様」
「……そんなたいしたことでもないよ」

 琴江は手をぱちぱちと叩いた。
 そうしていると女学生にしか見えない。
 学生のころは十代前半の児童に見間違われたことさえあったから、それでも多少は成長しているようだ。

「するとあの日近衛第三連隊に軟禁されて自害したのは影武者だったのか」
「それはそういうことだったみたいです。でも、今も言ったように表向き伏せられてますけどね。知られたら、あそこで京極慶吾の野心は崩壊したという決着をつけてしまった軍と警察と政府の上層部の面目が丸つぶれになってしまいますから。そういうことで、公式の記録では京極慶吾は太正維新の中で自害したと記載されています」
「降魔……降魔の由来は常識だ。士官学校でもその辺りは随分勉強させられたからね。その怨念を考えれば、降魔を利用して何かをしようというなら目的は帝都壊滅しかない……。そういうことか? 京極の本命は帝都壊滅で、クーデターで主権を掌握しようなんていうのは座興……やっぱり戯れ言だったっていうことなのか」
「加山様はそういう見方です。クーデターは、そのどさくさに紛れて帝都壊滅の布石を打つのが目的だった、という説もありますが、先ほども言ったように判然とはしていません。それ以外の目的もあったのかもしれません」
「なんで帝都壊滅を狙う? それで京極慶吾にどういう利益がある?」
「それはわかりません。でも、これはどうも京極慶吾個人のものじゃなくて、京極家代々に渡って受け継がれてきた計画だったようです」
「代々ね。気の長い話だ。ひょっとして京極慶吾自身、そういうように幼少の頃から育てられただけなのかもしれないな。本人にも『なぜ』なんて考える余地がなかったのかもしれない。ただひたすら、目的に向かう。そうすることが当たり前と感じるように。一族をあげて、そういう『京極慶吾』となるように育てあげる。だから、京極家に生まれた男子は誰でも京極慶吾でありうる……」
「本当にそうだったら、ちょっと可哀想かも」
「私にそんな同情の余地はないね」

 詩奈乃はきっぱりと言い放った。
 自分でも驚くほどの冷たさだった。

「それよりも、本当にそうなのなら問題だぞ。京極家には第二第三の『京極慶吾』を育てるノウハウがあることになる」
「うわあ、それは大変です! 加山様に進言して徹底調査することにします!」

 心底焦った表情をして、琴江は汗をハンカチでぬぐった。
 確かにこれが事実ならただ事では済まない。
 第二第三の京極慶吾など願い下げだ。
 もっとも京極慶吾が唯一無二の存在だったという保証はない。
 複数の子供を育てていて、その中でもっとも優秀に成長したものが京極慶吾だったということも考えられない話ではないからだ。
 それを踏まえれば、代わりになるような人物は既に存在しているのかもしれなかった。
 影武者の存在がそれを示唆してはいないだろうか。
 土岐一派がそこに気づけば、狂喜して飛びつくことだろう。
 その可能性を潰すためにも、徹底調査を試みるのは有益なことに違いない。

「えっと、そこで一つ問題があるんです。京極慶吾は降魔を自在に操ってたんですけど、その時に機械を使っていた形跡があるんです」
「機械? てっきりなにか呪術のようなもので操ったんだと思っていたけど、違うのか」
「京極慶吾自身は呪術を使役したことがわかっています。京極家が中世の隠陽師の流れを組む家系だという情報も入ってますし、実際相当な実力を持った術者だったようですね。でも大量の降魔を操るのに機械を使ったことは間違いないようです。京極自身はそれを降魔兵器と呼称していたそうですが」
「降魔兵器か……太正維新を煽る影でそんなものを用意していたのか。正月に帝都を襲ったのは、厳密に言えば降魔では無く降魔兵器だったというわけだね」
「そうなんです。そこが問題なんですよ。こう言うのは不謹慎かもしれませんけど、帝都を襲ったのが普通の降魔ならある意味天災だったと言えなくもありません。でもそれが実は降魔兵器であることで、天災ではなく人災だったということになりますから」
「天災と人災の違い。それは、人災なら原因を除去しない限り繰り返される可能性があるっていうことだな」
「はい。京極は帝都の何ケ所かに降魔兵器を作る秘密の工場を作っていたようで、土岐一男っていうのはそういう施設の一部を管理していた男みたいなんです」
「……」

 詩奈乃はひやりとした寒気を覚えた。
 背骨が冷たい刀身と化したような、無気味な感触があった。
 それは強い違和感を伴っていて、理不尽で気味が悪いものだった。
 琴江の話では、京極慶吾の死と同様に、降魔兵器も一般に対して伏せられた情報ということらしい。
 怨念を科学の力で制御する。
 死者さえ、科学技術で生きている人間のいいように操ってしまう。
 この事実が一般に対して明るみになったら、世界的な批判を浴びる可能性すら考えられる。
 人に許されざる邪悪な技術であり、宗教界からも糾弾を受けることになるだろう。
 詩奈乃は実家で目にした土岐一男の鷲鼻を思い浮かべた。

「そういう地位にいたのなら、そもそも土岐は京極の帝都壊滅という思想まで知っていた可能性さえあるな。むしろ帝都壊滅に積極的に力を貸してすらいたのかもしれない。すると土岐一男という男は、京極慶吾のより深い暗黒面の継承者なんだろうな。戯れ言ではなくて、本命を継承しているんだ。ヤツが再度目論んでいるのは、維新じゃなくて正月の降魔事件の再現なわけだな。大物を説得するにもそんな事は言えないから、実際に仲間に引き込むまでは建て前として戯れ言の方を継承している風に振舞っているんだろう。それは分かる。しかし、なぜだ? なぜ京極のみならず土岐までが帝都の壊滅を望んだりするんだ。そこが分からない。失敗したとはいえ、維新には大義があったよ。でも降魔を利用して実現する大義なんてあるわけがない。普通に考えれば土岐が得するようなことはなにもない。それでも京極についていくという考えが理解できないが……」

 詩奈乃の顔色がさっと青くなる。

「まさか、その施設って、今でも健在だとか言わないよね」
「正確にいくつの工場が存在していたのかは、わかっていません。だから、私たちが所在を掴めていない残っている施設の存在は否定できません」
「それにしても、機械で降魔を操作できるって、逆に言えばそれは誰にでも降魔を自在に操ることができるっていうことか?」

 詩奈乃は否定して欲しかったが、琴江は頷き、肯定の意を示した。
 それはたたごとではない!
 とんでもない事態だった。
 下手をすれば明日にでも降魔兵器の大群が帝都に出現する可能性があるということだ。
 それが事実なら父も土岐の誘いに乗らなかったのは大正解だと言える。
 騙されて恐ろしい企みの片棒を担ぐことになっていたかもしれなかった。

「それで土岐一派を探しているんだね」
「そうなんです。早急に探し出したいんです!」
「京極慶吾がいなくても、土岐一派には降魔兵器を独自に開発する力があるっていうのか」
「土岐一男はもともと研究家肌で、陸軍では異端児だったそうです。たぶん、そのあたりを京極慶吾に認められて施設を管理する任を与えられたんだと思います。おそらく彼なら……」

 そこで琴江は口をつぐんだが、そこからどう続けたかったのかは詩奈乃にも想像ができる。

「おそらく彼なら、可能でしょう」

 土岐の身柄を押さえたいという琴江の気持ちは痛いほどよく理解出来る。
 しかし土岐一男の真意が、詩奈乃にはまだいまいち掴めずにいた。
 今後も生活の場となるはずの帝都を破壊すると知りつつ京極の下についていき、彼が死ぬと自ら行動を起こそうとする。
 どうも同志を集めてお山の大将になりたいだけというわけではなさそうだ。
 その程度の男なら、琴江が必死になって探して回るほどの価値はない。
 そうではないと考えるのは、最悪土岐に降魔兵器を製造する知識があり、またそれを実行できるという可能性が捨てきれないからだ。
 ただ、それが無かったとしても、京極の意志を継ぐという名目上、土岐一派に表立った活動が出来ないのは自明の理ではあった。
 水面下に潜む彼らの捜索には困難が伴うに違いなかった。
 ふと詩奈乃の心に、ある考えが浮かんできた。

「土岐一派に降魔兵器の製造が可能だったとしてだ。少人数で出来ることには限界があるよね。大掛かりになればなるほど資金も必要だし、足がつく可能性も高くなるし。彼らには軍勢と呼べるほどの規模の降魔兵器を揃えることは出来ないんじゃないかな。だったらその時は例の帝国華撃団で叩けばいいんじゃないか?」
「詩奈乃様……! そういう問題じゃないでしょう!」

 詩奈乃の発言は軽率なものだったかもしれないが、だとしても琴江の反応は意外なほど過敏だった。

「ああ、すまない。私が悪かった」
「そうですよ。軽々しくそういうことを言わないでください。心を痛める人はたくさんいるんですから」
「わかった。もう言わない」
「なら、いいです♪」

 詩奈乃は琴江の激しい口調に気後れして、あっさりと謝意を示した。
 が、正直なことを言えば、彼女はよくわかっていなかった。
 詩奈乃の発言のどの部分に琴江が反応を示したのか。
 土岐一派を下手に泳がせておくことともとれるし、帝国華撃団を出動させることともとれなくもない。
 他にもなにか考えられることがあるかもしれない。
 果たして彼女自身は何に対して心を痛めるというのだろう。
 聞いておくべきだっただろうが、琴江はもうこの件に触れられたくないようだった。
 詩奈乃も多少気になったものの、そこまで追求するほど重大なことでもないと思い、話を変えることにした。

「ところで高島少尉」
「だから、少尉じゃないんですってば」
「ああ、そうだったね。ならどう呼んだらいい?」
「琴江ちゃんで結構です」
「……それじゃあ高島」
「うう、野暮ですね、詩奈乃様。そういうところも含めてファンなんですけどぉ」

 琴江は身悶えながら、テーブルに突っ伏した。
 ファン、という部分は聞き流す。
 基本的に始終笑顔だったせいか、どこか気楽な雰囲気で琴江はここまで話を続けたが、たかが退役した元少尉ごときの耳に入れられる話とは思えない。
 詩奈乃は真剣な眼差しで、琴江の大きな瞳を見つめた。

「なぜそんな機密級の話を私にするんだい? これは部外秘で、そうそう外に漏らせるようなこととは思えないんだが。はっきりいって、土岐一男という男について、それほど高島の役に立つような情報を、私は持っていない」
「それはですね……」

 琴江の瞳に、これまでとは別種の輝きが灯ったのを詩奈乃は見逃さなかった。
 一見お調子者のようで、その影では頭の中で別の計算がなされているのだろうか。
 考えてみれば、相手を油断させるという点において高島琴江という女性は詩奈乃よりも数段優れているように思える。
 誰も少女のような外見の彼女が、士官学校出の元軍人であるとは思うまい。
 彼女の仕事が諜報の部類に属するものであるなら、それは非常に有効な長所として機能することが容易に想像できる。
 誰もが彼女を前にした瞬間から油断する。

「土岐一男という男についての情報が欲しいだけなら、わざわざ詩奈乃様を帝都までお呼びしたりしません。書簡なりなんなりと方法はあります」
「そうだろうな」
「私自身が詩奈乃様の今のお姿をこの目で確かめてみたかったんです」
「私は……高島に試されていたのか?」
「試すというと言葉が悪いと思います。ただ、以前の士官学校時代の私の知っている詩奈乃様とお変わりがないか、それを知りたかっただけですから」

 詩奈乃は居心地の悪い気がした。
 今の彼女は、過去の自分に心身の両面で程遠いと考えている。
 覇気を根こそぎ失った父ほどではないにせよ、どこか心に強度の絶望を抱えてしまったという自覚が、彼女にはあった。
 反逆の汚名を着たというのは、それだけ重い事実だった。

「それで、高島はどう思った?」
「ええ、お変わりなく聡明でいらっしゃいます」
「そうかな」

 苦笑がこぼれたのも無理はなかった。
 頭の回転はともかく、身体は日常生活にこそ支障はないものの、無理が利かなくなっている。

「そこで私から詩奈乃様にお願いがあるんですけど」
「なんだい?」
「私と組んで、一緒にお仕事をしませんか?」
「一緒に? 高島のいうお調べをしようっていうのかい?」
「はい、そうです。加山様が今以上に活躍を広げたいのなら、絶対的に信頼できる相棒が必要だっておっしゃってくれて、私には詩奈乃様しか思い付けなかったんです」
「お調べ、か……」

 詩奈乃は、無意識の動作で腕を組んだ。
 琴江の誘いは、詩奈乃の心を激しく揺り動かそうとしていた。
 彼女の心の深奥には、もはや身体も家名も傷付いた中で、残る余生を無為なままに過ごすという覚悟が根付いていたからだ。
 まだこんな自分にも出来ることがあるのなら、と思う。
 すこぶる魅力的な誘いというべきだった。
 だが、だからといって琴江の誘いに二つ返事で飛びついてしまうほど、詩奈乃は自分を馬鹿であるとは思わない。

「……高島。君の今の身分はなんなんだ? 父は君のことを土岐の一派とつながりがあるんじゃないかと危惧していた。さすがに私はそうは思っていないけどね」

 大事な娘を土岐に人質に取られてやむなく同志に引き込まれる、そこまで父は考えていたのだろう。
 父の気持ちを考えれば無理のない話だ。
 ならば、詩奈乃は死んでもそのような事態だけは、避けなければならない。
 詩奈乃はまっすぐに琴江の瞳を見据えて続けた。

「でも君はまだ、加山雄一に誘われた、ということ以外に何も明かしていない。悪いけどそんな怪しげな提案にはおいそれと乗れないな」
「聞いたら、簡単には断れませんよ」
「なんだって?」

 詩奈乃は176cmほどの上背があり、太正時代の日本女性としてはかなりの長身を誇っていた。
 琴江との差は身長で25cm、体重でも20kg以上の開きがあるだろう。
 しかし、そんな小柄な女性から詩奈乃は威圧を感じていた。
 琴江も真剣な眼差しで詩奈乃の視線を受け止めて目線を切らない。

「そうまで言うなら、聞かせてもらおうじゃないか」
「いいんですね? 後悔しませんね?」
「それはどうだろうね。聞いてから考える」
「私の誘いを受けても、大鷹家が被った汚名を挽回できるとは限りません。いえ、ある意味最初から花の影でひっそりと活動する性質を抱えていますから、それは期待しないでください」
「ふうん」

 花の影、とは意味深なものの言い様だと詩奈乃は思った。
 ようするに、表立って活動できないから、功績を挙げても世間的には認知されないということだろうか。
 しばらく無言で考える間も両者の視線はぶつかり合い、火花が散るようだった。
 握りしめられた手は汗に濡れている。
 そしてぽつりと。

「……気に入った」
「はい?」
「人を誘う殺し文句としては最悪なのが、逆に気に入ったよ」

 詩奈乃は土岐一男が父与志雄を誘いに来た時のことを思い出していた。
 あの時彼は「汚名を汚名でなくしてしまえばいい」と言っていた。
 どちらが虫のいい話なのかは明らかだった。

「聞かせてもらおうか。高島、君の所属する諜報を仕事とする……。それはどういう組織なんだい?」
「帝国華撃団……月組、といいます」

 何を聞かされても平気だ、という心構えのつもりだったが、さすがに詩奈乃は平静ではいられなかった。
 いうまでもない。
 帝国華撃団は太正維新で敵対し、詩奈乃達クーデターを起こした京極派を阻止した張本人だ。
 はっきり言えば、大鷹家に汚名を被せた仇敵に他ならない。
 他ならいざしらず、その名だけは詩奈乃の頭にはまったく無かった。

「私に寝返れ、というのか」
「違います。既に詩奈乃様は京極派とは何の関係もありません。土岐のように、京極の遺恨を後に持ち込もうとはしていないのですから」
「しかし……」
「良くお考えください。詩奈乃様にとって本当の敵だったのは帝国華撃団なのか、それとも他にいたのか。明らかなことではないですか」
「それは……そうだが」
「御決断下さい、詩奈乃様」
 
 
 
 

 初冬にしては積もるほどの雪が降る寒い夜。
 しかし、世界は炎に満ちていた。
 ゆっくりと地上に舞い降りる白い雪と妖しく揺れる赤い炎が、非現実めいた異世界を帝都に演出した。
 そんな異相の世界の中に詩奈乃はいた。
 ただひたすらに必死だった。
 帝都そのものが戦場と化す中で明確な理性を保つことは、彼女をしても困難を極めた。
 街並を襲う炎は熱狂そのものだった。
 熱く燃え狂う様は、神前に奉納される酩酊した祭りに似ていた。
 正常であったとは思えない。
 銃を構える。
 撃つ。
 誰に向かって?
 わからない。
 前にいるのが敵なのか味方なのかさえ。
 だが、撃たなければ撃たれる。
 だから撃つ。
 そこに大義がどうだの理想がどうだの、そのような事を考える余裕は皆無だった。
 いかなる終息が待ちうけているのか、神のみぞ知るという心細さだった。
 結局は数の差が大勢を決したように思える。
 いかに京極派が幅を利かせようと、それが陸軍の全てではない。
 海軍が出動し、残る陸軍の反京極派までが加わる事態となれば、敗勢に傾きはじめることは明らかであり、時間の問題でしかなかった。
 最初から素早く事を済ませる以外に勝利への道は無かったのだ。
 そんな頃合だっただろうか。
 ふと気づくと詩奈乃は右足の太股に銃弾を受けて雪の積もる路面に倒れていた。
 撃たれた瞬間の記憶が欠如している。
 みるみるうちに白い雪は流れ出る血の侵食を受け、赤く染まっていく。
 手で傷口を押さえても、溢れる血は止まらない。
 激しい苦痛に歪んだ顔が地面に擦り付けられどろどろの汚れにまみれた。
 詩奈乃は活動写真でも見るかのような非現実さを感じていた。
 まるで他人事のような。
 それでも不思議と詩奈乃の胸中ではある覚悟が決まっていた。
 自分はここまでだ、と。
 ここで力尽きて死んでいくのだ、と。
 周囲の仲間も詩奈乃に気を配る余裕は失せていた。
 ここにひとりの敵でも姿を見せれば、全てが水泡に帰す。
 銃を向けたくなかった、たったひとりの相手と出くわすことのなかったことだけが、ささやかな幸運だったかもしれない。
 そんな諦めの中……。
 
 
 
 

 詩奈乃は苦しさに髪を掻きむしりながら目を覚ました。
 彼女が故郷の長野へ戻らない事を決めてから数日が経過していた。
 今は高島琴江の住む屋敷に居候している。
 その客室のベッドで、暗闇の中にぽつんとひとり残された自分を感じた。
 真冬だというのに大量の発汗が寝巻きとシーツを湿らせ、詩奈乃の肌に冷たく触れる。
 汗だくであるにも関わらず、身体はむしろ冷えて凍えそうだった
 生きた人間の身体だとは思えない。

「また……あの夢か」

 それは詩奈乃が重傷を負い、帝都から長野に移されて療養している間に何度も繰り返し見た夢だった。
 一時は連日のように見ていた夢だったが、回復とともにその回数は減少の傾向にあった。
 そして、最近では見る事も無くなっていた。
 しかし、高島琴江の誘いを受けて帝国華撃団月組で活動することを決めて以来、再びこの悪夢に悩まされるようになった。
 その理由が詩奈乃には理解出来る。
 あの夢の中の自分は忌わしい過去そのものだった。
 大鷹詩奈乃という人間を縛る鎖になっていた。
 挫折を味わった詩奈乃の、目を背けたい現実だった。
 そんな悪夢を見なくなったのは、詩奈乃の心が回復に向かっていたからではない。
 身体が回復すると同時に現実を認識し、それに対して諦めの念を覚えていたからだ。
 逃れようのない過去と向き合うことを詩奈乃は本能的に拒否した。
 そして悲観は頂点に達し、自分の将来すらどうでもよくなり、それによって夢を見ることがなくなった。
 再び悪夢を見るようになったのは、詩奈乃が現実に対して改めて向き合いはじめたからだろう。
 帝国華撃団において諜報活動を任とする月組に身を置いて、帝都の動静を調べることは、そのまま維新の破れた末の帝都という現実を知ることでもあった。
 そのこと自体に苦しみを覚えたわけではない。
 今の帝都は、それなりに平和の中にある。
 ただ、夢破れたという事実が、無意識のうちにに詩奈乃の心を揺さぶっている。
 喉がカラカラだった。
 詩奈乃は寝室としてあてがわれた部屋を出て、コップ一杯の水を求めた。
 これが琴江個人のものかは知らないが、詩奈乃が急に泊まり込むようになっても問題ないほど、きちんとした広さの家屋だった。
 二階建てだが、夢を見るようになってから右足の傷がじりじりと痛み出したため、一階の部屋を使わせてもらっている。
 けだるい身体でよろよろと危うげに暗い中を歩き、台所で喉を潤した。
 真冬の凍りつきそうほど冷たい水を一気に飲み干した。
 生き返ったような気がする。
 しかしまだ、汗にまみれてじっとりと濡れた寝巻きが、不快に肌にまとわりついていた。
 できればシャワーを浴びて着替えたいところだが、この深夜の時間帯でそこまで無遠慮にはなれなかった。
 琴江とは身体のサイズが違うため、今着ている寝巻きは男物で代えも手元にはない。

「詩奈乃……様?」

 台所の明かりが灯るのと同時に、琴江の声がした。
 彼女が近づいてくることには気がついていた。
 灯火の下に浮かんだ彼女の姿は、心配という感情で一色に染まっていた。

「大丈夫ですか。なんだか、毎晩あまりよく寝られていないようですけれども」
「ああ、大丈夫。怪我した時のことを考えれば、ちょっと眠りが浅いことくらいたいしたことじゃないさ」
「本当ですか? あの、正直御元気そうには見えないので……」

 それはそうかもしれない。
 わずか数日で、詩奈乃は3キロ体重を落としていた。
 食欲もあまり湧いてこない。
 どちらかというと詩奈乃は背が高いだけあり、女性としてはよく食べる方だった。

「ね、高島」
「はい、なんでしょうか、詩奈乃様」

 詩奈乃は、どこか遠くを見るような目をして続ける。

「これはね、この苦しみは一種の罰なんだと思うよ」
「罰ですか?」
「ああ……」
「あの、維新に加わったことを悔いているのでしたら、もう詩奈乃様は病床の中でつぐなったのではありませんか」
「いや、そうじゃないんだ。そうじゃない。私が犯した罪というのは、一度なにもかもを諦めてしまった、ということさ」
「諦め……?」

 琴江は詩奈乃がなにを言っているのか、理解出来ないという様子だった。
 それも無理も無いことだ、と詩奈乃は考える。
 人の経験は、話で聞くだけで全てを理解できるほど浅いものではない。
 言葉にし尽くせるほど、陳腐なものでもない。
 それは今詩奈乃自身がしている仕事を否定するようなことでもあった。
 正義の名の元に、不安要素を探して徹底的に調べあげる。
 調べたとして、どこまで正確に理解できるものやら。
 そのことに気づいて、詩奈乃は苦笑した。

「諦めてしまうというのは、なにもかも放棄してしまうのと一緒だよ。本当になにもかも……生きることすら放棄してしまう。そんな人間が諦めたものをもう一度掴み直そうとするのは、本当は虫の良い話なんだ。許されないことだよ」
「そうでしょうか。前向きになったのは、すごく良いことではないのでしょうか」
「悪いことではないよ。ただ、そこにはどうしても苦しさがついて回る。それは仕方がない。だって、諦めてしまうとすごく楽なんだよ。なにものにも縛られずにすむし、嫌なものからも目を逸らしていられるから。一度楽を覚えてしまうと、そこから抜け出すのは大変さ」
「あの、私……私が詩奈乃様をお誘いしたのは間違っていましたか? 私、こんなに詩奈乃様が苦しむだなんて思わなかった。ただ、詩奈乃様ともう一度ご一緒できるのが嬉しくて、それで」
「ふふ……士官学校時代を思い出すね」

 詩奈乃は身を寄せてくる琴江の顔に、手を伸ばした。
 士官学校で期を共にした中で、女性の候補生はさすがに多くは無かったから、彼女のこともよく覚えている。
 小柄な琴江が男子にまじってちょこまかと動き回る様子は、見ていて微笑ましかった。
 体格のハンデを跳ね返すために、彼女はとにかく頭をフル回転させていた。
 記憶出来ることはなんでも記憶して、いざという時に必要な情報を正確に引っ張り出すという技術に長けていた。
 今の仕事にはうってつけの人材であるとはいえる。
 軍人よりも適性があるのは明らかだ。
 ただ、彼女は記憶力ほどには、頭の回転の方は優れていなかった。
 基礎には強いが応用に弱い。
 そういう意味では相棒として詩奈乃を選んだ琴江の判断は、間違っていないのかもしれない。
 欠点を素直に欠点と認められることは、長所でもある。
 ついでに、琴江の他にもうひとりの同期の顔が浮かんで来た。
 諦めたといいつつしっかり未練も抱えているじゃないか、と皮肉に思いつつ、詩奈乃は回想をやめた。

「間違いだなんて、そんなことはない。だから心配はいらないよ。高島はきっかけを与えてくれただけだ。苦しい道を選んだのは私自身なんだから」

 そっと、詩奈乃は親指で琴江の目尻に触れた。
 その頬に伝いはじめた涙を、優しく拭う。

「泣いてなんかいられない。私は捨てたものを掴み直す。大事なものは、必ずここ、帝都にあるはずだと思うんだ」
「はい……」
「高島が力になってくれるというのなら、嬉しい。きっと、悪いようにはならないよ」

 そう、私は必ず、取り戻す。
 維新の前に頭に描いていた夢。
 破れてしまった夢。
 たとえ破れても捨ててはいけなかったはずの夢。
 それを取り戻せるなら、こんな悪夢なんてなんでもないんだ。
 琴江の頭をさすりながら、詩奈乃は決意を新たにしていた。
 
 

 

第二章〜黒衣〜へ

BACK