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「・・・というわけだ。ヨーロッパから外に出るのは初めてだろうがスペクター。君は日本語も堪能であったと記憶しているが、そうだったな」
「はい。日常会話に不自由しない程度にこなすことは可能です」
屈強な軍人の身体とは、不必要に練り上げられた筋肉の寄せ集めではない。
一見細身のように見えたとしても、タフで粘り強いしたたかな筋組織で各部を接合する、サラブレッドのような無駄の無い身体が望ましい。
大抵の力自慢は重量挙げは得意でも持久走は苦手ですぐにへたばってしまう。
根性とタフネスの無い人間に軍人は勤まらない。
スプリンターよりもステイヤーが必要とされる業界なのだ。
Sに指令を下すその男も、そういう屈強な身体を持った生まれついての軍人であった。
頑強そのものの身体よりも射抜くような猛禽の視線がそれを雄弁に物語るものだ。
これまでもその手によって武勲を立ててきたはずの、軽視ならざる男だ。
Sもこの男、ヒュエルバイン中尉を初めてみた時からその秘めるポテンシャルを見抜いていた。
「日本語はあまり簡単とは言えない言語だと記憶しているのだが」
「そうでもありません。奥は異常に深いですが会話程度の間口であればそれほど難解な言語とは言えません。なにしろ母音の数が桁違いに少ないのがそのもっともたる特徴になります。発音はある程度いい加減でも許されるのです」
「なるほど。奥が深いというのはどういうことか?」
「それはたとえば数の数え方に顕著になりますが、鳥は一羽二羽、動物は一匹二匹もしくは一頭二頭。ですがウサギは一羽二羽と数えるのです。イングリッシュであれば語尾にSをつけるだけでいいものが、日本語ではそうではないのです」
「よく理解できない世界だ。さすがに遠く離れた極東の地だけはある」
できれば一生そんなわけの分からない国とは縁を持ちたく無いという、ヒュエルバインの表情だった。
オリエンタルマジックほど理解を超えた存在は無い。
「我々の人員には他に日本語を使うエージェントは存在しない。君が行くのだ。五人全員を抹殺するまで帰国してはならないし、それが我が国の関与するものと知られる事も許されない。勿論、援護も一切無しだ。分かっているだろうな」
「愚問です、中尉。中尉はわたしに困難な任務だと御考えですか」
ヒュエルバインは口元で組んだ両手の影で、歯ぎしりをした。
気に喰わないのだ。
このスペクター・・・亡霊と呼ぶこの少女のなにもかもが気に入らない。
さっさと殉死してもらうに尽きるのだが、この小娘はそんな当局の意志をあざわらうかのように任務を終え、帰還してくる。
美少女なだけに、表情の無いその顔は無気味以外の何ものでも無かった。
「君以外ならば困難であろうと考えているよ。幸運を祈る」
「任務了解。これより日本へ向かいます」
一切の無駄口を聞かないのがSのやり口であった。
すみやかに踵を返し、部屋を退出する。
扉を閉める直前に、革靴でスチールのデスクを思いきり蹴飛ばす音を聞いたが、それもSの心の琴線に触れてくるものにはならなかった。
自分が嫌われているのは先刻承知だが、それもSにとって意味のある現実ですら無い。
任務の確実な遂行だけが存在理由だからだ。
それ以外の全てがどうでもいいことだった。
食事すらも生きていく上で必要だから摂取するにすぎない。
日常的に無感覚が徹底されていた。
日本への旅は船で行った。
直行便など存在しないため、各地で乗り継ぐことになった。
発達したSの三半規管は船酔いを起こさない。
なにもすることがなく退屈な旅だったが、Sは他の乗客とろくに交流も持たないまま日本へたどりついた。
あまりに無口なSの存在ははた目から見ても浮いていた。
あれはいったいどういう少女なのか。
船員の間では結構な話題となった。
ドイツ外交官の娘だとか、政権争いに敗れた貴族の娘がアジアの国に亡命するのだとか、正解には程遠いものばかりであったが、確かに美しい銀髪の少女には漂わせる気品というものが感じられたのである。
血の通わない工芸品の気品ではあるが・・・。
丸1ヶ月をかけてSは日本に到着した。
いくら機械のようだとはいっても、長い船旅がSの小柄な身体に疲労を与えないはずは無かった。
今回の任務は期限を区切られていない。
あまりに遠い地であるから、予定通りに到着できるとも限らない上に、現地では連絡が不可であるときている。
無期限というのはそうならざるをえないということなだけだ。
ならば疲れた身体で無理をする必要は無い。
疲労はいらぬミスを引き起こす要因以外にはならない。
Sの語学力と充分な資金があれば、どのような高級ホテルにも宿泊できるだろう。
実際にSは帝国ホテルを宿に選んだ。
安宿の銀髪の美少女というのはあまりに目立ち過ぎると思われるからだった。
これがドイツならノータイムで野宿だ。
日本ではそれも目立たずにはいられない。
その日は適当に食事をとって寝た。
食事の味は確かだったが、特に何も感銘は呼び起こさない。
寝心地の良いきちんとした清潔なベッドメイクがされた上質なベッドも同様であった。
翌日早くからSは早速行動を開始した。
東京駅近辺を歩いてみたが、やはりSの姿は大いに目立った。
黒ごま千粒の中ならば、たった一つの白ごまでもよく目立つ。
駅に貼られたポスターがSの目を惹いた。
Sはそれを偶然興味をそそられただけだとは考えなかった。
なにかしらSの関心を喚起するものが混じっているために、Sの鋭い勘と目がそれを見逃さないのだ。
帝国歌劇団花組の公演を告知するポスターだった。
Sの感覚に触れたものがなんであるか、吟味する必要は無かった。
そこにあっさり旧知の人間の姿と名前を発見したのだ。
レニ?レニ・ミルヒシュトラーセ・・・。
まるきり本名じゃないか、これはなにかの冗談か?
軍にすら本名を隠匿したSには信じがたいことだった。
全ての物には真の名前があり、それを他人に知られてしまうと他者に支配されることになってしまうという伝説を無論Sは信じない。
だが、必要以上のデータを他者に与える事はいざという時致命傷になりかねない。
警戒しておくのにやりすぎということはない。
それでもSがポスターに気を取られたのはせいぜい2分にも満たなかった。
今回の任務になんら影響を与えるものではないと判断を下した。
他人がどこでなにをしていようが知ったことではない。
実際Sは舞台の演目すら確認しなかった。
しかしその僅かな時間でも衆目はSを捕らえる事を止めなかった。
これはレニが日本にいるということ以上に現実的な難題であった。
目立つようになった暗殺者はすぐに廃業して職を探さなければならない。
そこでレニは日本の地元の興信所を使った。
足がつくのを恐れ、ダミーの標的を交えつつ、狙う5人のデータを探ることにする。
幸い善し悪しが分からないため適当に選んだ興信所の腕は良かった。
2日という短い期間でダミーを含めた全ての調査を終えてくれた。
多少の費用はかかったが、そういうことにけちっていては良い仕事が出来ないのはどこの世界も変わるものでは無い。
ダミーの調書はさっさと処分し、指令を受けた五人の調書へ綿密に目を通した。
仕事を済ませた後すぐに出国する事を考えれば、一夜で五人全てを始末してしまうのが上策だったが、さすがにそれは断念せざるをえなかった。
海軍大臣山口と神崎忠義、花小路伯爵は重要度の非常に高いVIPであるがゆえに警戒が非常に堅固で、かれらは一人で一日の仕事とせねばならない。
こういう決断になると、Sの決定は迅速を極めた。
最悪足がつきそうになれば、自分自身の身を処理する。
そうすることになにも疑問もためらいもない。
そうなると最初のターゲットは残る二人のどちらかになるが、Sはそれを都内に住む陸軍大佐に決めた。
理由は簡単明解で地位のわりには警護らしきものが一切無かったためだ。
家屋も帝都でもごく一般的なもので特別注意すべき点は見当たらない。
そして、資料によると今夜は在宅のようだ。
今夜決行する。
身辺調査は人任せにできるが、最終的にはSが手を下さねばならない。
最後は人任せに出来ない所は舞台に似ているかも知れない。
繁華街以上に住宅街ではSの姿は目立つものになる。
闇夜を待つ必要があった。
とはいっても12月の年も押し迫ったこの時期、日の落ちるのは早くそれほどの忍耐はいらなかった。
それでも午後8時まで待ち、Sは標的の家に向かった。
家族構成は陸軍大佐とその娘夫婦、孫が一人。
娘夫婦はでっちあげの電報で今日は外泊する手はずになっている。
勿論Sの仕掛けたものだ。
今日この家には陸軍大佐の坂田宗雄しか在宅していない。
寝てしまっていれば楽な仕事だが、たとえ起きていても孫がいるような年令の老人一人の命を奪う事などSにはたやすい。
400字詰め原稿用紙に文字を埋める以上に容易なことだ。
密閉性に乏しい日本家屋に忍び込むのに困難はなにもなかった。
かえってそのあまりの不用心さが怪しいと思える程だ。
時間をかけて入念に調査をし、実際の仕事は数分でかたをつける。
これがこの仕事を円滑に進めるコツであった。
手間暇を惜しんで失敗するのは素人でなければ三流のやることだ。
いざ潜入してみると日本家屋は忍び込むのは容易だが、気配を完全に断つのは非常に困難であることが分かった。
板が張り合わされた廊下は鳥が泣くようなきしみをおこすし、畳はそれ以上に体重を受けて沈み込むのを避けられない。
いくら小柄なSでも例外たりえなかった。
そういう意味では日本家屋は洋式建築に優っている。
恒日頃から警戒の緊張感の中にいることを強いられた戦国武将たちの宿命が、こういう構造を産んだのかも知れない。
武将であるからには戦場で死ぬのは本望だろうが、暗殺はなにより忌避したいものに違い無い。
彼等は足が畳を踏む音だけで侵入者を察知し、寝ていても起きる事ができる。
その伝統を受け継いだ日本の軍人であったら、Sの侵入も既に標的の知る所になっている可能性がある。
これは思ったよりもやっかいかもしれない。
一度L字に廊下を折れた先が標的のいると思われる部屋で、襖の隙間から中の明かりがもれている。
部屋に施錠出来ない事が不用心にも感じられるが、それ以前に侵入に勘付くことができるなら必要無いのかもしれない。
Sは出来る限りの気配を殺す努力をし、襖の前に立って部屋の中の様子を探った。
分厚い鉄の扉では無いから、感覚だけを利用しても中の様子を知る事は可能である。
重要なのは呼吸だ。
寝ている人間とそうでない人間を判定するのは素人でも難しいことではない。
起きている人間は呼吸が早く不規則になりがちだが、寝ている人間のそれはゆっくりと定間隔なものになる。
Sは心の中で舌打ちした。起きているのだ。
もう少し時間をかけて標的が寝付くのを待つか、それとも問答無用に押し入って仕事を済ませてしまうかどちらかを選択しなければならない。
決まっている、待つのだ。
標的に大声でも出されては標的を仕留めたとしてもその後の行動が大きく制限されてしまう事になる。
最初の標的で足がついてしまってはたまらない。
この慎重さがSをスペクターと呼ばれ恐れられる暗殺者として成功させてきた。
実際Sはその場を離れようとしたのだが、その時Sの背筋にヒヤリとした冷水を注がれたような感覚が襲った。
こういう感覚が知らせるのは大抵危険信号であってろくなものではない。
部屋の中に集中していた探査装置にも似た感覚を自分の周囲に向ける。
だが、それにひっかかってくる気配はなにも無かった。
今の感覚を気のせいだとは考えない。
なにか理由があるはずだが、それがわからない。
Sに逡巡する時間は長くは与えられなかった。
「誰かね?」
襖の奥から年老いてはいるがなお力強い土台の座った男の持つ声がした。
しまった、勘付かれた。
考えうる限り最悪の状況だった。
これほど危うい状況に陥った経験はSにはかつて無い事であった。
侵入を察知されるなどという、初歩的なミスを犯すとは・・・いや、一概にミスとは言えないかもしれない。
ミスがあったとすればSの心にあった油断であっただろう。
僕が油断・・・?そんなことはありえない。
たまたま今回の相手が手強い感覚の持ち主だったということだけだ。
Sに迷いがあったとしても・・・それ自体が驚くべき事だが・・・それはわずかな間のことでしかなかった。
瞬きを1回するだけの時間でしか無かった。
Sを呼ぶ声を聞いてからそれだけの時間の後に、Sはなんの障害にもなりえないような防護性ゼロの襖を開けた。
騒がれる前に殺す。
部屋は畳敷きのすっきりとした和室で、6畳の広さしか無い。
陸軍大佐坂田宗雄は部屋に調度として置かれたほとんど唯一の家具である低い机に乗せた半紙に向かって筆を走らせていた。
達筆すぎてSにはなにが書かれているのか理解できない。
坂田は油断も隙も無かった。
手にした毛筆が武器であるかのようにSには見えた。
頭髪がかなり乏しくなった老人だが、Sを見据える眼光には力強い輝きが灯っていた。
「ふむ、ワシはお嬢さんのような異国の知己はもたんがな。誰に用かな?」
Sはその問いに態度で返答した。
すなわち、外套に忍ばせたナイフを利き腕に構えた。
それでも坂田は顔色の一つも変えずうろたえた様子が無かった。
この目の前にいる老人は老人では無い。
そうだ、ヒュエルバイン中尉と同じ種類の人間だ。
生まれついての軍人であり、死ぬまで鷹のオーラを脱ぐ事をしない武人の目をしている。
「察するにどこぞの暗殺者という所じゃろうが、国内ならばまだし異国の組織に狙われるような覚えは個人的には無いな。どこの手のものかね。死に逝く老人にそれくらいは教えてもよいのではないかね」
坂田は可能な限りの情報をSから引き出そうとしていた。
そんな情報など死んでしまっては無意味である。
それはこの何者かも知れぬ暗殺者の襲撃から生還して背後関係に掣肘を加えると言う意志の賜物であり、老人のしたたかさを証明するものであった。
坂田から部屋の欄間に飾られた日本刀まで2メートルほど。
それを手にさせる前にナイフで心臓を貫かなければならない。
この老人に強力な殺傷力を持つ日本刀を持たせる事は絶対に許されない。
被我の戦力差が逆転してしまう。
日本刀は刀剣のなかでは最強の武器である。
息詰まる静寂が部屋に充満し、物質化したかのように二人を押しつぶした。
もしこの光景を見る者がいれば、あまりの緊張感に卒倒しただろう。
膠着状態は長い事続いたかのように感じられたが、実際にはわずか1分ほどのことでしかなかった。
強度の緊張感は時の流れを遮る効果がある。
先に動いたのはやはりSの方だった。
坂田はそれを視覚では無く感覚で察知し、老人ならざる足腰の強さで日本刀の元へ飛んだ。
それはSの予測の範疇であった。
この際坂田老人に残された手段はそれ以外には無いというSの予測であった。
だからSは最初から老人と日本刀の間に割り込むように身体を走らせた。
相手が素手であればそれは驚異とはならない。
だが坂田のその後の行動はSの予測を超えてのけた。
坂田はSの目前に不意にしゃがみこみ、手を畳の間に滑り込ませると強引にひっぺがしたのである。
床をひっくり返すなどと言う暴挙はSの常識の外であったが、これはドイツと日本の文化の違いと言うものであった。
日本人がそれ以外の人種の意表をつくのは難しくはないのだった。
その畳に足を乗せていたSは完全に体勢を崩された。
標的を前に尻餅をつくという失態は初めてのことだった。
それでもSは機械であるがゆえに冷静さを失わなかった。
敵のここからの最適のオプションは逃走をはかることだ。
それはいまや難しいことではない。
狭い日本の住宅事情では庭とも呼べないような空間のすぐそこが隣家になってしまう。
そこまで逃げればいいだけなのだ。
逃がさない!
Sは使用する武器を変更した。
背後にある日本刀を手にした。
鞘から素早く刀を抜き、視界を覆う畳を突き刺す。
ナイフでは力不足だが、これならば畳を抜けてその後ろの人間を貫く事が出来るはず。
手応えはあった。
慎重に身体を起こし、畳から刀を引き抜くと、それにもたれ掛かるように倒れる老人の姿があった。
確実に心臓を一突きしたあたりが、Sの戦闘機械たる由縁であった。
絶命している。
短い攻防だったが、Sにとってもっとも恐るべき敵手であった。
自分のナイフを使用しなかったし、常に白い手袋をしているため指紋も残さない。
任務は達成した。
すみやかにこの場をさり、次の標的の米田大帝国劇場支配人を暗殺する算段を立てねばならない。
既に終えた仕事に関する感慨などは微塵も無いSの心は、次の標的に向かっていた。
そこに油断があったとはいえない。
Sにとってそうすることがあたりまえなのだ。
再びSの背筋を濡らす冷水の感覚が走った。
馬鹿な!
いまこの家に標的以外の人間はいないはずだった。
ダミーの電報で家を離れている。
それは確かに自分で確認したし、この家に侵入してからも人の気配は一人坂田大佐のものしか感じる事は無かった。
こんな事態はありえない!
ゆっくり振り向くと、そこはSが招かれざる客として闖入した部屋の入り口がある。
そこに五歳ほどの長い黒髪の少女が立っていた。
とんでもない失態だった。
この少女に祖父を殺害する瞬間を見られてしまった。
Sはかつて標的以外の人間を殺害した経験を持たない。
だが見られてしまった以上、この少女は殺さなければならなかった。
少女は祖父の殺されたその現場を見ていながら心ここにあらずという様子であった。
取り乱す事が無かったのが幸運だった。
騒がれては、周辺の住人の注意を喚起してしまう。
今この少女を始末してしまえば、後の仕事に対する障害とはならなくなる。
やむをえない。
この少女は運が無かった。
両親は出かけたが、少女は祖父に預けられていたのだろう。
改めてナイフを手にするSの心に小さな違和感が生じた。
最初小さかったそれは、急激に肥大化を遂げSの心に動悸めいたものを呼び起こした。
Sはなにも気配を感じなかったが故に、この少女の接近を許した。
だが、気配が無いということではそれは今も変わらない!
たしかに目の前にいる少女は、だが人の気配を放出していなかった!
感じたことの無い理不尽な違和感は、Sに不快を通り越した恐怖を与えた。
Sの視線は釘付けになったかのように少女の瞳から放す事が出来なかった。
視線は固定され、目を放す事が許されない。
まるで・・・いや、実際にSは魅了されていた。
この日の夜と同じような光を吸い込む漆黒の瞳であった。
光を吸い込んでしまうブラックホールの持つ色は暗黒。
光の一切灯らない地獄の底のような目がSを見つめていた。
いや、本当に少女はSを見ているのだろうか。
Sの身体を突き通してその後ろにある者を見ているのでは無いか。
Sは自分でも気がつかぬ内に、後ずさっていた。
信じがたい事だが、無言の幼女にどうしようもなく気圧されていた。
今この場を支配し圧倒するのは死体となった老人ではなく、殺人者のSでもなく、小さな光の無い瞳を持つ少女であった。
Sは自分がナイフを持っていて、それを少し突き出すだけで少女の存在を抹消出来ると言う事実さえ見失っていた。
内臓と言う内臓に氷を詰め込まれたかのような、底冷えする恐怖心がSを蹂躙していた。
「だれ?そこにいるの」
少女の発した台詞はそれだけだったが、Sを絶叫させその場から逃げ出させるのには充分な威力があった。
あらかじめ頭に叩き込んでいた逃走経路はまったく無駄になった。
Sは訳の分からない心理状態でただひたすらに逃走した。
とにかくその場から離れることが出来れば満足だった。
気がつくと宿泊する帝国ホテルの部屋にいた。
どうやってキーを受け取ったのかすら記憶に無かった。
Sは長い話を終えた。
その額は少女らしくもなく、この寒い部屋の中汗が滲んでいた。
「それからなんだ。僕はそれまで夢なんか見た事も無かった。だから、夢と言うものが識域下での幻覚のようなものだと知識では知っていても理解はしていなかったんだ。でもあれから今日まで毎日あの子の吸い込まれるような瞳に見つめられる夢を見る。あまりの恐ろしさに飛び起きて、ひどく寝覚めの悪い気分にさせられる。僕はどうしてもその正体を知りたい。なにが自分に起こったのか、それを知りたい。それで思い出したんだ。君が日本にいることに。ひょっとしたら君なら僕に解答を与えてくれるかも知れない。そう思って・・・本当は会う気はなかったのに、そうしせずにはいられなくなった」
Sの独白をレニはじっと耳を澄ませて聞いていた。
「今となっては、本当にあの時あの子がいたのかどうかすら疑わしくなって調べてみたんだ。幽霊かなにかを見たんじゃないか。そうしたら、両親に保護されたあの子がいた。幻覚とかそういうものじゃなかったのは確かだよ」
もとより長話を不得手とする二人だった。
Sはさすがに少し疲れた様子を見せていた。
少女のマグカップの中のコーヒーはすでに冷えきっていたが、火照った身体を鎮めるのには丁度良いものだった。
「・・・同じような、恐怖心というものを味わった事が・・・ある」
レニは言葉を区切り、重々しく話し始めた。
話しにくい中で、なんとか言葉を探そうとしているようだ。
人に言葉で思いを伝える事は、まだまだ苦手にしていた。
「それは今年の9月のことだった。やっぱりボクは君と同じように研究所出身で舞台に立っていながら心と言う物が無かった。でもそれでなにもおかしくないんだと思っていたんだ」
「君も、やっぱりそうか・・・そうじゃないかとは思った」
「研究所で叩き込まれた常識が自分の世界の全てだったからね。でもね、周りのみんなが舞台にたつことで人になにか幸せな感情を与えている。それでみんなも喜んでいる。世の中自分のことばかり考えている人間ばかりだっていうのに、みんな他己的になって人の幸せを喜んでいるんだ。不思議に思った。理解に苦しんだ。でも、それが当然のことで、ボクの方がなにかおかしいんじゃないかって思うようになった。同じ事をしているのになにも感じない自分ってなんなんだろう。自分はなんのために舞台に立っているんだろう」
「・・・・・・」
「その答えは結局自分では出せなかった。人が、みんながそれを与えてくれた。その時だよ、ボクが恐怖心というものを強烈に感じたのは」
レニは壁越しに視線を向けた。
その方向には大神の部屋がある。
「どうして恐怖心なんか感じるのか。それは・・・それまでの自分を全否定される事だったから。自分と言う人間がどれほど道を踏み外して来たのかを思い知らされることだったから」
「自分を・・・否定される?」
「そう。人間って、結局の所それが一番恐いんだ。死の恐怖っていうのも本質的には同じ物だよね。それは生命を否定されるということだから。ボクも恐かった。この人は一体何を言うんだろう。どうしてこんなにボクを苦しめるような事を言うんだろう。自分が変化してしまう恐怖に襲われて、ボクはその人のことをその時ひどく恨みさえした。もうやめてほしい!ボクはいままでの自分でいることに不満なんか無いんだから・・・。でもそれは自分についてた嘘でしかなかったよ」
Sはレニの話す一言一句に集中していた。
一言も聞き逃すまいと言う姿勢がここには見えた。
それが自分にとって人生観を揺るがす程重要なことである事を本能で察知しているかのようだ。
「本当はね、ボクも作られた自分でいることに限界を感じていたんだ。だから悩んでいたんだから。それ程変化を渇望しているのに、心のどこかでそれを全力で否定する自分もいる。おかしなものだよね。ボクは完成体だなんて言われていたけど、結局は自己の中に矛盾を孕んでいたんだ。人間である以上、矛盾とは無縁ではいられない。その相克こそが人間を人間たらしめているんだと思う」
「完成体である君が、心に矛盾を抱えていただって?」
Sはレニの言うことを一概には理解出来なかった。
レニですらそうなのだったら、計画と言う物は一体なんの価値があったというのだろうか、疑問が湧いた。
あれだけ凄惨な事件を引き起こして結局誕生させたのが、一人の人間でしかなかったのなら、それは笑い話にもならない。
「そうだよ。そういう意味では計画は完成体なんか生み出さなかったのかも知れない。君も含めてね。変化を望むボクと、維持しようとするボク・・・。最後には変化を受け入れることになった。ものすごく悩んだし、それで失った物もあるけど、得た物はもっと大きかった。心に初めて春の颯爽とした風が吹いたような心地がした。それまでの無機質な自分が一切洗い流されたような・・・そんな感じだった。今では、どうしてあれほど変化を拒んだのかがどうしても分からない。それに以前の戦闘機械だったころの自分の事がうまく思い出せなくなってるんだ。記憶にはあるのに、ものすごく違和感を感じてそれが自分であったような気がどうしてもしない。完全に別に人間にとって変わられたような感じがある」
「それはもう、同じ人間とは言えないんじゃないか」
「そうかもしれない。でもこれでいいんだと思ってる。今までの自分は偽者で、今は初めて本物の自分になった・・・といえば分かってもらえるかな」
「いや、分からない。君が言う自己の喪失、自己の否定が恐怖の根源にあると言うのはよく分かるよ。でも、それを受容するなんて到底できっこない。しかもそれでなにも不思議に思わないなんて」
「不思議には思う。本音を言えば、今だって恐怖っていうものと無縁ではいられなくなったよ。ボクは今、ものすごく仕合わせなんだ。もう日付けも変わってしまったけど、昨日は産まれて初めて誕生日を祝ってもらった。とても嬉しかった。それをどう受け取っていいのか困ってしまって、織姫には変に気を使わせてしまったけど、本当に嬉しかったんだ。でも時々想像してしまう時がある。今の自分は夢を見ていて、その中の存在なんじゃないかって。夢から醒めてしまえば、昔の機械のボクがいてそんな夢を見たことすら覚えていないんじゃないか。そしてまた、戦場に戻っていくんじゃないか・・・それが恐い。だったら夢でも醒めなければいいと思う」
「夢が醒める・・・そうか、それも一つの自己の否定か」
「・・・そうなんだ・・・そうだったんだ。ボクも気がつかなかった。だから、恐い気持ちになるんだ」
レニは目をつぶった。
改めて感じるしあわせに身を任せていた。
「失いたく無いものがあるから、人はそれを守ろうとする。その時が一番強くなれるんだ。それはもう体験した。それを犯す存在は絶対に許さない。そのためなら命を殉じてもいいとさえ思う。ボクが死んでも守ったしあわせはみんなが引き継いでくれるはずだから」
「・・・君は、変わったんだな・・・羨ましい」
「いや、ボクから見れば君も十分に変わっている。以前の君とはまるで違う。さっき呼び出されて会った時から・・・いや、違う。あんな暗号の手紙を出して来た時から、なにか違和感を感じた。昔の君はああいうことをするタイプじゃなかったよ」
「そうかな。自分では全然わからない」
「昔の君を知っている人間なら変化に気がつくよ。それほど劇的に変化してる。あとは君がそれを受け入れるかどうかなんだと思う」
「受け入れるって言ったって、どうすればいいのかわからない。僕はもうドイツには帰れそうも無い。帰りたくも無い。祖国だって言うのに、愛郷心とかそういうものが全然湧いてこない」
「それは別にかまわないんじゃないかな。ボクだってドイツに帰りたいだなんて少しも思わないし、今ではここ・・・ここが祖国みたいに感じる。君が今言った愛郷心というものを揺さぶる所が故郷なんだとしたら、それはやっぱりここ以外には考えられないよ」
「それはいい。でもドイツに帰らないと言っても、僕にはどこにも頼れる物が無い」
「なにを言っているんだい?ボクなら力になるのに!」
「君が?・・・そんなこと考えもしなかった・・・」
「大丈夫、君程の力があれば上の人になんとか言って、仕事を斡旋できると思う。それにそもそもボクを頼って会いに来たんじゃないの?」
「そうか。そうだった」
その時確かにSは笑った。
その笑顔をレニは後々になってまで鮮明に思い出すことができた。
夜はそろそろ明けようとしていた。
それほど長い時間、二人は話し込むのに没頭していた。
「もう、朝になるね」
「寝て無いんじゃない?泊れる部屋くらいはここにもあるよ」
「いや、僕は帰る。帝国ホテルに部屋を取っているんだ」
「なんだ。食事くらいはしていけばいいのに」
「それもいいかもしれないね。でもあまり長居して、君の仲間に顔を見られたく無い。この辺の習性はなかなか変えられるもんじゃないよ」
「そう・・・なら、引き止めないけど、でももう一つだけ言っておきたいことがある」
レニはSと向かい合って言った。
「中国で言われることでね、人生の岐路に立つ時人には必ず道を指し示してくれる教師があらわれると言うんだ」
「なにかの運命論かい?」
「アジアの儒教の思想ではそういう概念が根強く伝わってる。それが君の場合はその坂田大佐の家で出会った女の子なんだと思うんだ。ボクは結局その子の正体と言うのがなんなのかということまでは分からないけど、でもきっと君はそれはどうしても知らなければいけないんだと思う。なんなら実際に会って話してみるとか」
「祖父を殺した僕に会えっていうのかい」
「それも一つの方法だと思う。そこからきっと君の道は開かれるよ。君が少なくともそこから変わっていった事だけは間違いないと思うんだ」
「わかった。考えてみる」
二人が部屋を出て、劇場出口まで来てみると外はうっすらと明るくなってきていた。
朝起きるのが早い者なら、そろそろ出くわしてしまうかもしれない。
Sが劇場を出る間際に、一言残した。
「そうだ。次に狙うのはここの支配人だったけど、もうやるつもりは無いから安心して」
「うん。君が本気で襲撃してくるなら、君かボクかどっちかが命を落とす事になるだろうから、ほっとした。でもボクにも仲間がいるから、きっと君の方が分が悪いと思う」
「正直だな。確かに僕は独りだ・・・。これは本当に潮時なんだね。それじゃ、年が明けるころにまた来る」
レニは帝国ホテルまでSを送っていきたいと主張したが、Sがそれを退けた。
Sは早朝の誰もいない街を一人歩いていった。
しばらくレニの視線を感じていたが、それも無くなった。
彼女自身もそうだが、レニも寝ていないはずだ。
きっとこれからぐっすり眠るだろう。
Sはといえば、その前に一つやっておくべきことがあった。
大帝国劇場を離れ、隅田川沿いの方へと足を向けた。
冬の早朝の人気のない時間帯、後の隅田川十三橋と呼ばれる数々の橋がかけられる中の勝鬨橋が作られる辺りまでSは足をのばした。
Sは帝国ホテルにまっすぐ向かわなかった。
しばらく歩き、不意に踵を返す。
「あなたがいちいち僕の後をつけまわしていたのは知っていました」
Sのまっすぐ見つめる視線の先に、一目見てそれと分かる西欧人が立っていた。
細身だが長身で、強壮な印象を与える鷹の眼光を持つ男だった。
数々の修羅場を潜った人間だけが持つ種類の底冷えする眼底をしている。
「もう祖国で新年を迎えるのは諦めましたか、ヒュエルバイン中尉」
「そうだ、貴様を監視するのが私の役目だからな。おかげで私はいい迷惑だ。こうして極東の島国まで来るはめになった。それもこれも貴様のせいだぞ」
「そうですか。それなら年が明けてから任務をお命じになられれば良かったのでは」
「ふん。私は上からの命令を貴様に告げるだけにすぎん」
「歴戦の勇士も使い走りですか。ドイツはよほど人材が余っていると見えますね」
ヒュエルバインの表情に険が現われた。隠そうともしなかった。
「皮肉を言うようになったか、この機械めが。貴様はどうやら変わったようだ。以前とは受ける感じが違う」
「そうですか。あなたにも僕が変わったように見えますか。それを確認出来ただけでもあなたと会えて良かったかも知れません」
「ほざくな」
すうっとSへ突き出したヒュエルバインの右手には銃が握られていた。
銃身に穿たれた銃口は、まっすぐSの心臓へ向けられている。
この男の扱う銃であれば、調整が不良であると言うことはけしてあるまい。
撃てばかならずSの命を奪うだろう。
「ようやくだ。貴様が我々を裏切る機会をずっと待っていた。私はこの瞬間を待ちに待ったぞ。しかも計画の完成体の所まで案内してもらえるとは思わぬ収穫だった」
Sの顔色が変わった。
聞き捨てならないヒュエルバインの言い草だった。
「どういうことです」
「無論、貴様を殺して後釜に座ってもらうのだ。さぞうまく働いてくれるだろう。なにしろ完成体だからな」
「そうはいかない。やむを得ません。レニの存在を知ってしまったあなたは不運でした。このまま放置はしておけない」
「ならばどうする」
「残念です、中尉。僕はあなたを結構気に入っていたんです」
「機械の分際で気持ちの悪いことを言わないでもらおうか。あと数年もすれば美しい女になるかもしれんが、それでも私にとっては機械以上のものではありえない。懸想するな。祖国の妻や娘に顔向け出来んだろうが」
ヒュエルバインは銃の引き金をためらいを微塵も見せずに引いた。
川辺に乾いた銃声が鳴り響く。
年明けにまた会おうと言うSの約束は果たされなかった。
理由はレニの側にもある。
新年早々に京極慶吾率いる黒鬼会が再び蠢動し、それどころでは無くなったのだった。
帝国華撃団の活躍により、復活した武蔵は再度沈められた。
これで今度こそ無事に帝都に平和が帰って来たと、誰もが喜んだ。
もちろん、レニもその一人だった。
それでも1月中はいろいろと忙しく動き回らなければならず、Sを気にする時間はなかなか取ることがかなわなかった。
それにしたところで、Sからも連絡がなにも無いのが気に懸かった。
忙しい中でも習慣にしている新聞の購読は続けていた。
その中に興味深い記事が載っていた。
クリスマスの日に隅田川沿いから始まった、謎のドイツ人連続殺害事件である。
12月25日を皮切りに、1月11日、2月4日、2月24日、そして3月15日。
実に5人ものドイツ人男性が次々と殺害されていったのだ。
新聞では情報が統制されたのか連続殺人という扱われ方はしていなかったが、興味を持って読んでいればこれらに関連性があることは明らかだ。
手口は全てナイフによるものだった。
これだけの事件が起きてなにも問題にならないはずが無い。
なによりドイツ大使館が黙っているとは思えない。
大使館が帝国政府に怒鳴り込んで国際問題となっているというのが自然のなりゆきだろう。
それが無いと言うのは、かえってドイツの事情が見て取れるような気がした。
これがドイツのお家事情ならば、可能な限り帝国政府とは無関係でいたいというのが本音なのではないだろうか。
最初の事件の12月25日隅田川沿いといえば、レニがSと会って話をして別れた直後になる。
場所的にも非常に近い。
これは全てSの手によるものだと確信するのに時間は必要無かった。
だとすれば、最後の3月15日までは少なくとも彼女は日本にいたことになる。
今もいるかどうかは定かでは無いが。
Sとはどうしても会って話をしたい。
Sが日本に来て犯した最初の殺人の被害者である坂田陸軍大佐についての資料をレニは米田を通じて入手していた。
どうしてそんなものが必要なのか米田もいぶかしんだが、そこはなにも答えなかった。
この段階でSの存在をほのめかすのは時期尚早だと感じたからだった。
坂田大佐は米田の古い友人で、剣の道に長けていた。
そして、レニはSが坂田大佐の孫娘に感じた謎も全て理解した。
それゆえに会いたい。
いまならばもっとSの力になれるはずだ。
連絡は意外な所から入った。
「え?病院から?」
「そう、入院している患者さんがどうしてもレニ君に会いたいらしいの。あなたと同じドイツの人らしいんだけど、詳しい事はよくわからなくて」
藤井かすみから聞いたその言葉だけで、それが誰なのかすぐに分かった。
言われた通りの病院へ直行すると、病室の前で担当医師の説明を受けた。
「あなたはこの患者の知り合いですか?」
「はい。ドイツで同じ施設で育った者です」
「そうですか。患者がなかなか身寄りを明らかにしないので困っていました」
「それで、彼女の具合はどうなんですか」
「正直に申しましょう。あとそれほど長い事はありません。事故です。むしろ今生きて話も出来ると言うのが不思議でならないくらいなのです。最後の手術の前にどうしても会いたい人間がいると言うのでお呼びしたわけです」
医師の告白は淡々としていただけにかえってレニに与える衝撃は大きかった。
やっと会えたと思ったのに・・・。
レニは医師からSに会う許可をもらい、病室の中へ入った。
白いベッドに横たわったSの表情は以前とはまるで様子が変わっていた。
顔色は真っ白で力無く、だがしかし表情は逆に豊かになっていて美しいとさえ感じるほどだった。
「なんだよ!どうしたの、これは。なにがあったの?」
「ひさしぶり。もっと早く会いたかったんだけどなかなか状況が許してくれなかった」
レニはSの枕元に顔を寄せて、Sにだけ聞こえる声で聞いた。
「最近のドイツ人殺害事件は君だろう」
「そうだ。軍を抜けたんで、追っ手がかかったんだ。でも最初の元上司以外はたいしたことなかった。あれで僕を仕留めようなんて虫が良すぎる」
「でもそれじゃ、このざまはなに?」
「これは事故さ。昨日また追っ手があってね、そいつは簡単にかたづけたんだ。だからきっと今日か明日の新聞には載っていると思う。その後車に弾かれそうになった猫を助けようとしたら僕の方が痛手を負ってしまった・・・と言ったら君は信じる?」
「信じる!信じるさ!だから早く治ってよ」
レニは必死で懇願した。
たった一人生き残った仲間なのに、これだけでお別れだなんてあんまりすぎる。
だが逆にSの方は穏やかな表情だった。
「それより君が言っていた、あの例の子の謎がやっと分かった。それだけは伝えないといけない思って」
「それなら・・・いや、いいんだ。それで?」
レニはあえて自分がもうそれを知っていることを伏せた。
「分かってしまえばなんていうことは無かった」
Sは大きな仕事を果たした感慨のこもった吐息をついた。
肩にはなにも力が入っていなく、背負ったものから解放されたことを示していた。
「あの子はほとんど目が見えて無かったんだ」
それが解答であった。
見えていない視線に突き合わされる自分をレニは想像した。
やはりレニも落ち着いた気分ではいられないのではないだろうか。
「あの大佐の暮しが妙に質素だったのも、孫の治療費を捻出するためだったらしい。見えて無い目で見つめられれば恐いような気分にもなるわけだ。視線自体が無いから、気配も変に乏しかったんだね」
「そう・・・。良かった、君は答を見つけたんだ。これでもう誰にも機械だなんて言わせない」
「ありがとう。そういってくれて嬉しい。でももうあまり時間が無い。僕に残された時間がもうほとんど無いことは自分で分かっている」
「シュニッツァー!そんなことは言わないでよ!ボクを独りぼっちにするっていうの!?」
「・・・なんだ、僕の本名を覚えていてくれてたのか」
「そんなの当たり前じゃないか。どうして忘れられるだなんて思うんだ」
「いや、誰も名前で呼んでくれないから」
「呼ぶ!いくらでも名前を呼ぶ!だから、だから・・・」
レニはいつしか涙目になっていた。
これが神様の采配なんだとしたらそんなことはひどすぎる!
心の中で少女は叫んでいた。
「レニ、君にはもう仲間がいる。独りぼっちなんかじゃない」
「・・・」
「それに僕は死んでも、ただでは死なないつもりだ」
「どういうこと?」
「研究所のみんなは君一人を送りだすために命を散らした。でも彼等も君がしあわせでいてくれれば、本望なはずだ。だから君はみんなの意志を受け止めて、精一杯生きてくれ。僕の分はいいから」
「どうしてそういう事を言うの?」
「僕はみんなとは違って、こうして今まで生きて来れた。だから僕は僕だけのなにかを残したい。幸いそのための資金は十分にあったし、それだけのものも見つけた事だし」
「・・・まさか、君は・・・」
「分かったかい。僕の角膜をあの子に移植するんだ。角膜を移植すればあの子の目は光を灯す事ができるんだ。そのためには莫大な資金と角膜の提供者が必要だった。だから今まで手術が決行されてこなかった。僕にはその両方を提供出来る環境があった。だから喜んでほしい。僕は死んでも、彼女の目になって生きていられるから」
「君は立派だよ・・・ボクにはそんなことはとても出来ない」
「そんなことはない。これは贖罪なんだ。犯した罪はつぐなわないといけない。僕はいままでたくさんの人を殺した。任務という名目だけで、それをずっとやってきた。日本に来てまで僕は罪も無い一人の人間の命を奪ってしまった。それはもう取り返しがつかないけど、許してもらえるものでは無いのかもしれないけど、あの子の光になることで少しでも償えたらと思う。それにそうするためにあの子に出会ったんじゃないかとも思えてならないんだ」
「分かった・・・もう何も言わないよ」
医師の話ではS・・・シュニッツァーの体力は移植手術に耐えることは出来ないと言う事だった。
それでレニとの話を済ませたすぐ後に、手術は決行された。
正直この時代の医学では非常に難度が高く成功の確率はけして楽観できるものではないということだった。
Sを乗せたベッドを手術室へ運ぶ途中にかけた言葉が、彼女との最後の会話になった。
「頑張って!」
「ありがとう」
それだけのやり取りであった。
全てを悟ったかのような、春の陽射しにも似たおだやかな表情がいつまでもレニの脳裏に焼き付いて離れようとしない。
彼女との間に分かち合える程の思い出は無かったが、それでも数少ないそれにレニは思いをはせた。
最後・・・最後に見せた表情は確かに笑顔だった。
これからもっともっと見られるはずだったのに、それももうすぐ消えてしまう。
数時間に及ぶ大手術の最中、看護婦が彼女の死をレニに伝えた。
彼女の遺体の処理は、移植を受ける坂田少女の両親が責任を持って行うということだった。
坂田夫妻はもちろん父の仇が当のドナーであることは知らない。
知っていてもこうやって彼女に感謝をしてくれるのだろうか。
なんともいたたまれない気持ちになったレニは手術が終わる前に病院を後にした。
大帝国劇場までの道程の中で、流れ落ちる涙を拭こうとはしなかった。
これが研究所の仲間に捧げられる最後の涙だったから・・・。
「君は、完成体とかそういうことにこだわっていたみたいだけど。そんなのは意味が無かった。だって君は完璧なまでに、一個人リジィナ・シュニッツァーだったんだから」
もうなにもレニには出来る事が無い。
冥福を祈るだなんて、彼女の死を認めるような事は絶対にごめんだった。
ふと、足が止まる。病院を振り返る。
一つだけ・・・まだ非運の少女にしてあげられることが残っていた。
長い長い、暗闇の中から解放された少女がいた。
ある日、その少女の元に帝国歌劇団花組による公演チケットが届いた。
封書には宛名が書かれているだけで、送り主の名は無記名だった。
その出所を少女の両親はいぶかったが、結局親子3人で観覧することにした。
ただ、少女にとってこの上ない素晴らしいプレゼントであったことだけは間違いの無いところだった。
初めて見る事が出来たその舞台は、輝きに溢れていて、そしてなぜか少しだけ悲しくて。
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