
2000.12.7(木)
ポオ作、中野好夫訳「黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇」
(岩波書店、岩波文庫、1978年)
頁数:268頁
定価:300円
お気に入り度7
今日読んだのはポオ著『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』(岩波文庫)。
推理小説はほとんど読まないんでエドガー・アラン・ポーという人物およびその作品、そしてそれらの位置付けについてはよく知らないんですが、それでも『黒猫』と『盗まれた手紙』については概略は知ってましたね。それぐらい不朽の名作ということなんでしょうが。
まぁミステリーの結末を書くというのも無粋な話でしょうから特に書きません。書こうと思うのはポーの鋭く辛辣な言葉の数々の中から『マリ・ロジェエの迷宮事件』中の一節に関して。
主人公の友人であるデュパンは殺人事件の犯人探しをする新聞の中で、実は見つかった死体はマリ・ロジェエではなく別人であると主張する新聞を批判します。
「いったい新聞の目的というのはね、真実を追究することよりもだよ、なにかセンセーションを起すこと――ただ議論を立てる、ということにあるってことをね、ぜひとも忘れちゃいけない。」
現代においても新聞をテレビに入れ替えればほぼ妥当する言葉ではないでしょうか。ワイドショーの過熱報道なんかはいちいち言うまでもないことでしょう。また、デュパンの矛先はその報道を歓迎する大衆の側にも向けられます。
「大衆というものはね、一般世論に対して、辛辣きわまる反対意見を述べる人間だけをだね、さも深遠な人間のように、思い込むものなんだ。」
こちらもそのまま現代に通用する言葉でしょう。およそ社会のあらゆる事件・政策・運動の類に対して何か一言批判を付け加えずにはおけないマスメディアを見れば一目瞭然だし、身近にも世界に好きなものなど何もないかのように不満ばかりを言う人間は結構いたりします。まぁ、その手の人間は大衆からも結構嫌われてたりしますが、少なくとも間違ったことは言っていないのでなんとなく受け入れられているのが現状かと。
大学で僕が受けている西洋法史の教授もこの手の人間で、ことあるごとに社会批判をして自分を偉そうに見せようと努力しています。今日は、流行りのガーデニングが元来のイギリスにおける公園政策としてのガーデニングと異なったものになっているのみならず営利主義によってゆがめられている、なんて批判してました。個人の趣味にいちいちいちゃもんつけんなっつーの。あとは、ボーリングは本来イギリスの玉遊びであって日本のように屋内で金を払ってやる遊びになったのはよくない、とかよくわからん非難もしてたっけ。そうやって散々営利主義・資本主義批判をするくせに、自分の書いた本を二冊も買わようとするあたりは営利主義じゃないんだろうかとツッコミを入れたくなる。仮に営利主義じゃなかったとしても、自分の文章を読ませようという顕示欲の発露であることは間違いないし。みんなに認めてほしくてうずうずしてるのがわかりまくり。
この人は以前にも、福岡のバスジャック事件のときの報道ヘリコプターは犯人を刺激して良くないから飛行を止めろとテレビ局に電話して、色よい返事がもらえなかったので怒って新聞に投書して、それも採用されなかったので今度は本田勝一に電話して『週刊金曜日』だかなんかに記事をねじ込んだことをさも自慢げに語っていたことがあって、社会を批判することが能力の証明だと思っているその稚拙な思考にうんざりしました。誰もヘリコプターの音に気付かなかったのに自分だけはそれに気付いたと、本気で思ってるあたりが馬鹿っぽい。社会に警句を発する自分という妄想に酔ってる感じ。
僕は基本的に目上の人間に対する敬意を大切にしているつもりで、ちょっと変な先生でもそうそう悪口を言ったりしないんですが、この人はもう、全然ダメ。嫌悪感以外の感情は感じようがないです。この人間に比べたら暴力団員のほうが一京倍まし。
まぁいいや。最後に、ポーの前述の言葉のあとに続く言葉を紹介して終わることにします。
「一番直接に、そしてまた一番一般に理解されるものは、警句なんだ。どちらにあっても、実は一番低級な代物なんだがねえ。」
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