Black Jack in Kanon

数時間後、私と栞は病院の一室にいた。
すでに栞は手術着に着替えて、ベッドの上で横になっている。
「気分はどうかね?」
「気分ですか? 悪くないですよ」
いたって普通の受け答えだった。
「ほう、これから大手術が待っているわりには落ち着いたものだ」
「今のセリフ、ドラマみたいでちょっとかっこよくなかったですか?」
一瞬、呆気にとられてしまう。
「フフ、それだけの冗談が言えるなら大丈夫だろう」
最も、結末までドラマのようにうまくいくとは限らないのだが。
私の心の声が聞こえたのか、栞は不意に目を伏せた。
「・・・本当のことを言うと、ちょっと不安です」
そう言うと、栞は握り締めていた右手をそっと開く。
そこには、あのお守りがあった。
「でも、お姉ちゃんがくれたお守りがあるから平気です」
「そうか」
私が病室から出ようとすると、
「最後に、一つだけ聞いてもいいですか?」
「私に答えられる事ならば」
私は振り向かずに答える。
「あの時・・・あの時、どうして私に『生きていたいかね?』って言ったんですか?」
刹那、病室の中に緊張がはしった。
「単なる、気まぐれだとでも思えばいい」
「私にはそうは聞こえませんでした」
「・・・そうだな。強いて理由をあげるとすれば、似ていたから、だろうか」
「誰に、ですか?」
「そろそろ時間だ。その問いにはまた後で答えることにしよう」
あえて「後で」の部分を強調して言った。
「わかりました。後で、ゆっくり聞かせてもらうことにしますね」
負けじと栞もそれに応える。
「どうやら、すごく興味深いお話みたいですから」
「好きにしたまえ」
夢のような一時は幕を閉じた。

「先生、栞をよろしくお願いします」
手術室の前で私を待っていたのは、ある程度予想はしていたものの栞の母親だけだった。
いくら学校があるとはいえ、随分と嫌われたものだ。
だが、そんなことは些細な事でしかない。
「私のプライドに賭けて治してみせますよ」
普段、あまり口にはしない言葉を使うと私は手術室の扉に手を掛けた。
手術室に入ると、私を迎えてくれたのは一人の看護婦だった。
「君は?」
「今回、先生の助手を務めさせていただきます、水瀬といいます」
水瀬と名乗った看護婦は、どことなく落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
おそらく、相当の経験を積んできたものと思われる。
彼女なら助手として使っても多分問題ないだろう。
「助手はいらないと言いたいところだが、今回ばかりは余裕がなくてね。よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それで、人工心肺の用意はオーケーだろうね」
「はい、準備は全て整っています」
私は手術台の上で安らかに眠っている栞の前に立った。
「それでは開始する」
こうして14時45分、手術はスタートした。
リミットはたったの1時間。
それ以上は栞の体力から考えて持ちそうになかった。
「第二メス」
「どうぞ」
手渡されたメスで、細心の注意を払って素早く切開していく。
「本当にこの手術は初めてなのですか?」
「ああ、やったことがないんだ」
「そうは見えませんね」
「コッヘル・・・いや、ぺアン鉗子」
ここまでの所要時間は10分。
「心臓露出。人工心肺用意!」
「人工心肺、用意しました」
「接続、作動する」
あとは問題の箇所に取りかかればいい。
「僧帽弁大動脈弁だ。見ろ、見事に石灰化している」
「不思議なものですね」
「人工弁!」
石灰化した僧帽弁大動脈弁の代わりに人工弁を埋め込んでいく。
時間は瞬く間に過ぎていった。
「タイム・リミットまで後、23分です」
「秒読みしてくれ」
何としてでも、リミットまでに終わらせなくてはならない。
「タイム・リミットまで後、15分です」
「ルエル、早くしたまえっ」
いいぞ、このペースでいけばぎりぎり間に合う。
「タイム・リミットまで後、8分です」
もう少し、もう少しで全てが終わる。
だが、そんな私をあざ笑うかのように異変は起こった。
「先生っ、オシログラフが乱れましたっ!」
「なんだとっ、強心剤注射だっ」
「強心剤、注射しましたっ」
それから数十秒が経過するが、変化は全く現れない。
「一体、何があったというのだ!」
あまりにも突然の事態になす術がなかった。
「くそっ、生き返ってくれっ。せっかくここまで来たんだぞっ」
無情にも時間だけが流れて行く。
「頼む! 心臓よ動け! 動くんだ!!」
目の前が段々と真っ白になっていき―――――
ツー・・・・・・
その時、その機械音だけがやけにはっきりと聞こえたような気がした。
「・・・心臓、停止しました」
「だめか・・・・・・ちくしょうっ!!」
思わず、壁を殴りつける。
(私は医者なんて信じない。どれだけ偉そうな肩書きを持っていたって、あの子の病気一つ直せないんだもの。それなら医者である意味なんてないでしょう?)
(そう・・・ですよね。わかってるんです。起きないから、奇跡なんだって)
私も、所詮あの医者と変わらないというのか?
医者としてこれほど無力な自分を呪ったことはなかった。
「先生、お疲れ様でした。あなたは立派に仕事を成し遂げようとしました」
「気休めはよしてくれっ。私は失敗したのだ!」
どれだけ悔やもうと、もう二度と栞は戻ってこない。
全ては、終わってしまったのだから。

「・・・・・・」
「・・・・・・」
無言のまま、5分が経過した。
「先生・・・」
「ああ、わかっている。遺体を霊安室へ」
絶望。
それだけが支配するこの空間で、不意に私は幻覚を見た。
「何だ・・・羽根、羽根かあれは?」
それはまぎれもなく1枚の白い羽根だった。
「あ・・・」
私の傍らにいた彼女も上を見上げていた。
どうやら私と同じものが見えているらしい。
羽根は、ゆっくりと栞に向かって降りていく。
そして栞の心臓に振れた途端、それは消えてなくなった。
「何だったんだ、今のは・・・」
奇跡。
あえて言わせてもらうが、そうとでもしか言いようのない偶然はそこから始まった。
ピッ・・・・・・
「先生っ、オシログラフに反応が!」
「なっ、馬鹿な! そんなことがあってたまるか!!」
「ですが、現に動いています!」
確かに心臓は再び動き始めていた。
まるで、何事もなかったのように。
「何をしているのですかっ、先生っ!」
その一言でようやく私は目が覚めた。
私は、私にできることをするしかない!
「手術を続ける! ペースメーカーの電極を―――」
それからのことはよく覚えていない。
ただ、無我夢中で仕事をこなしていった、そんな気がする。
「縫合糸・・・閉胸完了」
ふらつく体を気力で支えながら、私が手術を終えたのは16時ちょうどのことだった。
「大丈夫ですか、先生」
緊張の糸が切れて倒れそうになる私を、すかさず側にいた彼女が支える。
「ああ、大丈夫だ。済まない」
「素晴らしい、オペでした」
「そうでもないさ・・・もう大丈夫だ。ありがとう」
私は気力を振り絞ると、栞を乗せたベッドを手術室の外へと運び出した。
手術室のドアを開けた途端、私の側に駆け寄って来たのは意外にも香里だった。
大方、やはり心配になって途中で引き返してきたのだろう。
「それで、手術は・・・栞はどうなったのっ!!」
私はニヤリと笑うとこう答えた。
「せいぜい、バニラアイスの食べ過ぎには注意するんですな」
「嘘・・・それって――――――」

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