ポプランは一瞬我が耳を疑った。
動けない。目の前にいる見知った青年は、まるで自分を初めて見る異国の不知人のように見上げてくる。
また巫山戯た冗談か―――
僅かな期待を込めて、その空色の瞳を見つめ返してみるが、そんな素振りは見えない。だいたいにおいて、自分のこの手の下らない冗談に真面目に付き合うことを嫌う彼が、自らその下らない冗談を演じるはずもなかった。
言葉を紡ぐことも適わぬままに時間だけが空回りしていく。その眼差に堪え切れなくなって、ふと視線を外した。
半身を起こしたその腕には包帯が巻きつけられてある。陽光にあたって反射するスッキリとした白がやけに寒々しかった。
彼が今の今まで目を醒ますことはなかったことを知らないポプランは、冷静を取り繕うように思う。
起き上がれるほどに快復している様子をみると、傷はだいぶ治っているらしい。あの時の見た目から考えると、思ったほどひどい傷ではなかったようだ。記憶を失くしているのか、記憶喪失と云うやつかもしれない。頭を傷つけたせいなのだろう。驚くほど血が出ていたのでてっきり重傷だと思っていたのだが、頭を切ると大袈裟なほどの出血があるという話は本当だったらしい。
取り敢えず、ここから・・・。早くここから連れ出そう。―――
手の内に掴まえて引き戻した―――
そう思ったのに、また逃げられてしまった・・・。いや、逃げられた訳ではない。が、所詮自分に慣れない猫を側においているように、未だ心の空白めいた隙間は埋められないままなのだった。
* *
不思議と警戒心が湧いてこない。
手を引かれるままに付従って部屋を出た。
辺りを見廻す。そして自分の姿を改めて見なおす。体のところどころに包帯やらが巻いてあった。今までベッドで寝ていたはずなのだろうが、あまり苦渋を感じずに歩くことが出来る。ごくたまに少し、おそらくは殆ど治ってきている頭部と右腕、左腰あたりに痛みが走る程度で、自分を気遣いながらゆっくりと歩を進める青年について歩くのは別段苦にならなかった。
彼にはそれよりも、何故自分がこうも素直に行き先も分からないままこの前を行く男の後について行く気になったのかが不思議でならない。そして少し自嘲気味な笑いを浮かべる。
たんに、一秒でも早くここから出たかっただけなのかもしれない。―――
昔の、幼き頃の自分の部屋。とてもよく見覚えのある廊下が続いていく。今となっては、この屋敷は別宅として主に母が使っているという話を聞いたが・・・。
そして、そこで不意に気付いた。
いつの間にこの場所に来たのだ?―――
考えてもみれば、自らの足でここを訪れるというなことは恐らくないだろう。そして、どうやら自分の思い出せる一番最近の記憶といえば、モール街で買い物をしていた記憶のようだった。あの昼から今現在にかけてまでの記憶はすっぽりと欠落しているから、その間ずっとここで寝ていた、ということになるのだろうか。
そのモール街での買い物の後で・・・。
ああ、そうか。―――
記憶が徐々に再構築される。
ランドカーが走って来たんだ。だからおれは庇って、撥ね飛ばされて、ここに来て、今まで寝ていたと・・・。 まったく、よくやったよ・・・あいつの為に・・・―――
そこで靄がかかる。指の先にあったその姿容、声。薄くかすんで視みえない。
誰を・・・庇った? あの時・・・、いったいおれは何を突き飛ばしたのだろう。―――
どうして、思い出せずにいる。その顔、名前はすぐそこまで見えているような気がするのに、どうしても記憶に壁が出来てしまう。
その人物を思い出そうとする。ぼんやりと、いま自分を導いて手を引いている前を行く人物のような気もする。感覚が知っているのかもしれない。だが、それを確認する記憶が失われたままなのだ。
屋敷の外に出た。止めに来る者はもはやいない。そのまま真っ直ぐに門へと向かう。
やっと、ここから解放される・・・。―――
ほとんど安堵に近い溜め息を洩らした。
乗りこんだ車は滑るように走りだす。その間、一言も口を利かずに押し黙り、何かを考えこんだ様子の男に、特に何も聞く気は起こらず、「どこに行くんだ?」という疑問も湧かずに、連れて来られた部屋に入った。
一歩踏みこんで吸い込む空気。
ここは何処だろう―――
ひどく懐かしい匂いがする。
どうして自分が此処に連れて来られたのかもさして疑問に思わずに、フローリングの上に並べられたカウチに腰を沈めた。やはりまだ体の方が完全ではない。すると、入り口あたりで立っていた青年もそれに倣うように、ソファに身を沈める。そして、語り掛けてきた。
ポツリポツリと他愛もない身の上話をする。人とこんな風に話しをする。自分で知る限りのイワン・コーネフはこのような人間ではなかった。だから、己にこのような面があるとは思いもよらないことだった。
そうやってしばらくすると、人好きする笑みをみせて彼は云った。
「怪我してるだろ?やっぱり予後が大事だからさ、そこで寝とけ」
もしかすると気遣ってくれているのかもしれない。根拠も無しに思う。
公園が見渡せる窓の側にベッドが置いてある。彼はそれを指差し、大丈夫だからおれに任せておけ、そう云い聞かせて念押しをすると、一度心配そうに振りかえってそのまま部屋を出て行った。
どういうことだろう。―――
自分のことも分かる。今まで何をして生きて来たかもだ。ただ、どうしても思い出せないことが、彼が誰なのか。彼に関する一切の事が、キレイに切り取られたかのように分からないだけなのだ。
何故彼がここまで自分に関わってくるのか。そして、自分がそれを素直に受け入れるのかも・・・。
緑の瞳をこちらに向けると、まるで何年も前から見知っているかのように語りかけてくる。そして、時折微かに垣間見せる淋しげな表情をみてとっては、何故か胸に戸惑いを憶えた。その度に、心に何かが欠けていて物足りない、そんな気持ちが去来してくるのを感じる。何故か・・・。
やがて、彼は頭中の闇と伴に考える事を放棄した。
窓に並んだベッドに寄り、ドサッと横になると、疲れたのか、気が緩んで安心したのか、そのまま深い眠りへと墜ちていった。
* *
疑いなく自分について来たコーネフに不審を抱きつつ彼は再び屋敷に戻った。
何かがおかしい。―――
そう、もう一人の彼の声が告げるのだ。いったい、コーネフは何をされたのだ。
最初はたんなる記憶喪失だと思った。頭を打った衝撃でそうなったんだろうと、そう思っていた。だが、話を聞いてみると少し違っていたのだ。コーネフの彼自身に関する事、その他の事も大体憶えていたのだ。自分のこと以外は。いや、裏を返して云えば、ポプランの事だけを忘れてしまっていた・・・。ポプランに関する一切の事を記憶から消し去ってしまっていたのだった。
「戻ってくると思ったわ。」
と、思考中のポプランに突然に吹き抜けの階上から振りかかる声があった。思わずポプランは上を振り仰ぐ。
「あんたは・・・。」
「あの子は・・・どうしているのかしら。」
階上の人影が動いて階段の下にいるポプランを見下ろした。黒いスカートとブロンドの髪が揺れている。ポプランは一歩段を踏みしめて叫んだ。
「何であんなことする必要があるんだ。あんたは・・・あんたはあいつの母親だろ?!」
そう、云うまでもなく彼女は彼によく似ていた。いや彼が彼女にと云った方が正しいのだろうが。それは性別や歳の差を通り越して、雰囲気やそういったものが似過ぎるほどに似ていたのだ。
コーネフの気配を纏った女は涼しげに云った。
「・・・そう、お見通しね。 あれは、わたしの賭けだったの。」
「賭け?」
「あの子は、勝手に飛行学校へ行って、家に戻って来る様子もなかった。帰ってくる時は必ず私の居ない時。会いに行ってもイワンはけして私と会おうとはしなかった。そして、あなたが家に来た。正直とても驚いたわ。けして自分の家を見せたがらなかった、人に交わる事を厭ったあの子が、あなたに用事を頼んで家に寄越したと聞いて。・・・その時に私は解かった。あなたがいるから、きっとあの子はもう戻って来ないのだろうと。でもね、やはり諦めきれなかった。だから賭けたのよ。リセットしてすべてを白紙に戻して、あなたのいない世界でも、それでもあの子はもう一度同じ道を選択をするかどうかを・・・。」
「だからって、あんな事をしたのか? あんたのしてる事は全然理屈が通ってないぜ! それにあんたは思い違いをしてる。あの時だっていつだって、あいつは悩んでた。あんたに女としてじゃなく、母親として会いたかったんだ!」
声を荒げるポプランに、静かに哀しさをおびた視線をなげうって呟いた。
「その様子だと知っているようね。 あの子は・・・あなたに何でも話しているのね。」
そして、さらにポプランは続ける。
「それに、あんたはあいつの事何も分かっちゃいない。あいつは、おれが居なくなってもきっと此処には戻らない。あいつは宙を飛び続ける。ただ・・・。それだけのことさ。・・・それだけのことなんだ。」
そして俯くポプランに、もう彼女は何も云おうとはしなかった。ただ一言。
「分かっているわ。あなたはあの子のそばにいる。私は、賭けに敗けたの。」
そう、あきらめの吐息と伴に呟いた。
「あいつを・・・元に戻す方法を知ってるんだろ?教えてください。頼みます・・・。」
ポプランは階段に座りこんだ。その後ろをスカートをなびかせながらゆっくりと階段を降りて傍までやって来る足音が聞こえる。
「いったい何をしたんです。あいつは・・・おれを忘れてしまった。あんたの云う通りにリセットされてしまった。おれの事だけを・・・」
「あなたの事だけを・・・? どういうこと?あの子は意識が戻ってあなたと帰ったのじゃなかったの?!」
「意識が戻って?もしかして、あいつはずっと眠っていたのか?意識が戻らないままで? じゃあ、おれが行った、あの時初めて気付いたってことか?」
飛び跳ねるように立ち上がって、今真実を知ったポプランは、不意を喰らった顔のまま階段を一段進んだ。
「ずっと、眠り続けていたの。あなたがやって来るまで。確かに、今まで時々外の光に反応する程度に覚醒したことはあったけど、はっきりと目を醒ますことはなかった。」
彼女は、ポプランの視線の高さまで段を降りて来ると、俯いたまま黙りこんだ。
「なんで?そんなに長い間?会ってみた感じじゃ、そんな傷を負ってるようには見えなかったのに・・・」
「それは・・・」
「何か心当たりがあるのか?!」
云い澱む言葉の先を、掴み掛かるような勢いでつめよるポプランに、彼に向けていた目を横に逸らして、云い辛そうに言葉をつむいだ。合わせる指が震えている。
「わたしは、あの子がずっと自分の元にいればいいと思った、本心だったわ。だから、寝ている彼の腕をとってインスリンを投与したのよ。」
顔に掛かる髪筋を除けもせずに顔をあげてポプランを懺悔するかのように仰いだ。
「本当に、あの時は気が狂れているとしか思えなかった。だから、あんなことを・・・。彼は、インシュリン・ショックでそのままずっと昏睡していたの。私のせいよ。」
ポプランは目を見開いて、その正顔を凝視した。言葉に成らない。
「でも、まさかそのせいで特定の記憶が欠落するなんて・・・」
そんな事が・・・。信じられない、信じたくない。両の手で面を覆いかすれる声を洩らした。そして更に、或いは、と前置きをして彼女は続けた。
「無理矢理にあの子をこの家に、私の居るこの場所に、留めていたせいかもしれない。そのことがかなりの精神的負担を、無意識のうちにあの子にかけてしまっていた。そう、たとえ意識がなくとも肌で感じて分かってしまったんだわ。だって、自分の家ですものね。」
自嘲するように笑い、彼女は涙を拭った。
「圧迫されつづけた精神は、行き場を求めて記憶素子を漸次に犯し侵蝕した。媒体は発かれて、そして・・・。」
ポプランの緑を、瞳を視る真っ直ぐ眼差。
「目醒めて最初に見た、あなたのすべてを忘れ去ってしまった・・・。」
無言の時が空間を支配する。
「そんな・・・。おれは・・・。」
絞り出して、吐き出された音。
「残念だけど・・・私にはどうにも出来ない。あの状態になったら。私にはどうすることも・・・出来ないの・・・待つしか、ないのよ。」
ポプランの心、そしてコーネフの想いが分かるから、また胸が痛い。
頬に涙が伝う。近くで見るコーネフの母の顔は、似ているといえどもコーネフと比べるといくぶん柔和な顔つきをしてはいたが、随分と憔悴していた。疲れ切っているのがすぐに見て取れるほどに・・・。それもそうだろう、我が子の不幸を喜ぶ母などいるはずもないのだろうから。
「あいつは・・・おれのことも、宙を翔ぶことも忘れてしまったまま・・・。これからずっとまた一人で・・・。」
項垂れて彼は立ち上がった。屋敷の表扉を開け際に、ポプランは振り向いて彼女に問うた。
「片羽をむしられた鳥が翔べると思うか?」
彼女は答えない。
「それでも飛ばなくちゃいけない、いや、飛ばずにはいられないから・・・。だから、そん時は・・・、己の魂を梳って飛ぶのさ」
漸く、彼女は悟ったのかもしれない。琥空に魅せられた者の運命を。
大きく押し広げられた扉の向こうに、若者の姿が消えるのを
彼女は祈る想いで見送った。