人として不出来なこと

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1. 天野美汐、困惑する

「みっし〜、ちょっとお時間いいですか?」
 新学期が始まってしばらくした、とある昼休み。食事を終えた天野美汐が教室に戻ると、美坂栞が声をかけてきた。
 青のリボンの制服に身を包んだ栞は、美汐の机の脇に立って真剣な面持ちで顔を覗き込んでいる。
「どうしたんですか? 宿題でも忘れたんですか?」
 もちろん冗談のつもりで美汐は言った。去年、ほとんど一年間を休学していた栞は2年生に進級することができず、現在は2度目の1年生である。普通に2年生に進級した美汐のところに来ても、宿題を写させてもらえるはずもない。
「最近祐一さんとお話しました?」
 そう聞かれて美汐は驚いた。いくら美汐の冗談が下手だからと言っても、普段の栞ならば無視したりはしない。「宿題はやってきたけど勉強を忘れました」とか、何かしらのレスポンスを返してくれるはずだった。それをまるっきり無視されたと言うことは、これは何かが起きたに違いなかった。
「いいえ、ここ2〜3日はお会いしていませんが。」
「む。やっぱりそうですか。」
 女の美汐から見ても可愛らしい口元を歪ませて、何事かを考え始める栞。
「栞?」
 栞を呼ぶ声が廊下側から響いて、美汐はそこに栞の姉の美坂香里が立っていることに気づいた。さらにその後ろには、祐一の従姉妹の水瀬名雪の姿も見える。
 どうやらこれは本当に何かの事件が起きたようだ。


 栞に急かされるようにして、美汐は廊下に出た。
 まだ少し肌寒い廊下に女4人揃って立つ。祐一と親しい女生徒全員が一堂に会していることになる。
「お姉ちゃん、みっし〜は何も知らないみたいです。」
 すぐさま栞が先ほどの美汐との会話を報告する。思ったらすぐに行動してしまうタイプの栞だが、今日のように切羽詰った様子を見るのは、美汐は初めてだった。
「そう。」
 香里が美汐の顔をちらりと見て言った。その表情は何か期待を裏切られたとでも言いたげである。美汐は自分が何かを知っているべきだったのだろうかと不安になった。
「ごめんなさい、お邪魔じゃなかったかしら?」
 丁寧に詫びる香里。詫びを入れつつもさりげなく隙を見せない物腰は、さすがは学年主席である。香里と栞、名雪、そして美汐の4人が集まったのなら、香里がリーダー格になるのは当然だった。
「いえ、それより相沢さんがどうかなさったんですか?」
「祐一ったら行方不明なんだよ。」
 美汐の質問に真っ先に答えたのは名雪だった。
「行方不明?」
 オウム返しに聞き返す美汐。
「うん、一昨日から。それでね、何か知らないかな、と思って。」
「いいえ、残念ながら何も……」
「う〜ん、どこへ行っちゃったんだろう、祐一ったら……」
 そう言う割には名雪の表情には切羽詰った感じはなかった。いつものように祐一にからかわれて困っているような感じと変わらない。美汐は名雪の落ち着きぶりに違和感を感じた。
「あの、警察には?」
 美汐がそう聞くと、残りの3人全員が首を振った。
「ちょっと事情がありそうだから見合わせているのよ。」
 そう答えたのは香里。
「ごめんなさい、多分混乱しちゃってるわよね? 順を追って説明するわ。」
 どうやらその方が良さそうだ。
「行方不明だと言ったけれど、相沢君からの連絡は来ているのよ。だから家出と言ったほうが近いと思うの。」
 美汐は思わずほっと胸をなでおろした。少なくとも、事故とか誘拐ではないようだ。
「で、相沢君が言うには、1〜2週間くらい家には帰らないけれども心配しないでくれ、という事なの。」
「1〜2週間ですか?」
 美汐は名雪を振り返った。祐一は名雪と同居しているのだから、その電話はもちろん名雪の家にかかって来たに違いない。
「それがね、うちじゃないんだよ。香里のところにかかってきたんだよ。」
 無言の質問を察してか、名雪が眉をひそめながら答えた。
「え? そうなんですか?」
 美汐はちょっと驚いた。祐一が名雪を避ける理由が見当たらなかったからだ。
 祐一と名雪は、美汐が嫉妬してしまうほど仲が良い。祐一は名雪のことを眠り姫だとか、イチゴ女王だとか言うけれども、そう言うときの祐一の目はとても優しそうだった。対する名雪も同様で、やれ祐一が頬をつねっただとか、イチゴサンデー奢ってくれなかっただとか言うけれども、実はそれが凄く楽しそうなのである。もっとも、それは名雪本人は気づいていないようだが。
「そうなのよ。一昨日の夕方にね。それで名雪と秋子さんには心配いらないと伝えてくれ、なんて言うのよ? もうそれだけで十分心配に値すると思うけど。」
 憤慨したように言う香里。香里も祐一のことを心配しているようだ。
「それで、もしかしたらみっし〜の所にも連絡が来てるかも知れないと思ったんだけど。」
 表情を曇らせたままの栞が言う。
「そうですか。残念ですが……」
 美汐はがっかりした。祐一にどんな事情があるのかは分からないが、香里には連絡しても、美汐には連絡しなかったのだ。たぶん祐一にとって、美汐など取るに足らない存在なのだろう。いざと言うときに頼りになるかどうかと言う点でも、美汐は香里の足元にも及ばないのだから、それは当然かもしれなかった。それは美汐にとって、非常に悲しいことだった。
「とすると、今のところ分かっている範囲では、連絡があったのは私と北川君だけね。他に可能性があるとすれば、後は川澄先輩と倉田先輩くらいかしら。月宮さんにも可能性は無い訳じゃないけれど……」
 思案顔で言う香里。名雪もうなづく。
「そうだね。」
「北川さんには連絡があったのですね?」
 今の香里の言葉を確認する美汐。
「一昨日、電話で呼び出されたって言ってたわ。相沢君ったら『有り金全部貸してくれ』って言ってたそうよ。」
「有り金全部、ですか?」
「えぇ、そうよ。」
「他には何か?」
「いいえ、お金を借りるだけ借りて、ダッシュで居なくなったそうよ。」
 そう言いながら、香里は見守るような表情で美汐のことを見ている。
 美汐が疑問に思ったことを、おそらく香里も同様に疑問に思っていたに違いない…… と、美汐は考えた。そしておそらく香里は、美汐と同じ結論に達しているのだろう。香里の表情は、美汐が口を開くのを待っているように見えた。
「と言うことは、おそらく相沢さんはどこかに一人でいらっしゃるのですね?」
「すご〜い! みっし〜、さすが!」
 興奮したように叫ぶ栞。おそらく美汐と同じ結論を、栞が香里から聞かされていたに違いない。
「おそらくそうね。」
 得心したように頷く香里。対する名雪は頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
「すると香里先輩は、舞先輩や佐祐理先輩、そしてあゆさんのところにも、相沢さんからは電話連絡以上は来ていないだろうと予想しているのですか?」
「えぇ、その通りよ。」
「えう〜、みっし〜とお姉ちゃん、二人だけの世界を築いてます〜」
「く〜」
 べそをかく栞と、居眠りを始める名雪。
「お姉ちゃんは祐一さんとお話したから色々分かるのかもしれませんけど、私はお話してないから納得できません!」
 むくれたように言う栞。その気持ちは美汐も同様だ。
「あの電話は用件だけ言って一方的に切れたのよ。私に八つ当たりしないで。」
「それはそうですけど。」
「うにゅ。一緒に住んでるのに連絡のない私なんか、ぜんぜん立場ないよ〜」
 寝ぼけ眼をこすりながら言う名雪。美汐にもその気持ちは痛いほどわかる。
「と、とにかく、まずは先輩達に連絡とってみましょう。今は状況をはっきりさせることが先決だわ。」
「はい。」
「むむ、お姉ちゃん仕切ってます!」
「く〜、イチゴジャム……」
 どうやら相沢祐一捜索隊が組織されてしまったようだ。一体全体これからどんな展開になるのだろうか?


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