うみのおと

 

 

 

 

 

 

 

羊数えて数千匹。

木目数えて数万本。

だが、未だ全く以って

「…………眠れねぇ…………」

ただひたすらに、眠れない。眠れないったら眠れない。

時計はないが、恐らく午前二時かそこらだろう。

草木も眠る丑三つ刻。

人間様が眠れないというのに……草木の分際でどういう了見か。

無駄に怒った後、駄目と知りつつも一応最後の足掻きとばかりに目を閉じる。

「………」

静寂が聞こえてくる。

風が鳴き、虫が囁き、波が語る。

壁越しに、窓越しに、その音を聞く自分の感覚が鋭敏になっている。

「…………………はぁ」

やはり無駄だ。

車の中で爆睡かました反動か、それともガキのように浮かれているだけなのか。

少なくとも、今宵、俺のもとに睡魔の力は及んでいない。

「………くそ」

俺のすぐ横では、北川が眠りの園に遊んでいる気配。

―――ったく……人が寝られねぇっつーのに……

筋違いとは知りつつも、そのあまりの安眠っぷりに殺意めいたものさえ浮かんでくる。

「……しゃーないな……」

ついに、このまま寝る事を断念。気分を変えに外へ出てみる事に。

「んが……」

寝ている北川に、気なんぞ遣ってやるものか。

行きがけの駄賃とばかり、足を蹴飛ばし踏みつける。

「んん……ぬが……」

……男の寝顔なんぞ見たくもない。部屋が真っ暗であることに感謝。

襖を開けて、板張りの廊下へ。

床が鳴らない様に気をつけて、女性陣の部屋の前を通過。玄関へと歩みを進める。

からからから……という軽い音とともに横開きの戸が開く。

その音でさえも周囲の静寂を破り、真暗な山へと木魂した。

 

 

 

 

既に外には先客がいたらしい。

俺が立てた戸の音を聞いたのか、誰何の声がする。

「………誰です?」

この声は……

「俺」

「相沢さん……?」

月明り、星明り。そして点々とするまばらな街灯。

赤味がかった髪が、微かに照らし出されている。

玄関から、少し。水銀灯の光が届くか届かないかと言った場所、天野が独り佇んでいた。

 

 

 

 

「こんばんは」

そう言いつつ一礼して、天野が歩いてくる。

「こんな時間にどうしたんです?」

思わず、それはお前もだ……と苦笑。

「私は……なんだか眠れなくって」

はにかんだように答える天野。……って、コイツも俺と同じ境遇か。

「仕方がないので、外の空気でも吸って眠くなるのを待とうかと思いまして」

相沢さんもでしょう? そんな言葉を目に浮かべ、もと来たほうへとゆっくり向き直る。

「折角です。散歩でもしませんか?」

そのまま俺の返事も待たず、海岸へと続く道を歩き出す。

緩やかに下る道を、潮の香りが強い方へと。

 

 

 

 

 

 

 

音が響いている。

寄せて、返して……また、寄せて……

波の音、だ。

ざざあ という音は寄せる波の崩れる音。のたりのたりとした動きの頂点で、保たれていた均衡の破れる音。

一定のリズムを取りつつも、同じ響きには決してならない、そんな音。

「流石に何も見えないな」

夜の海は、深い。

一点の光も見えず、ただただ闇が鳴く。

その闇を見る心は、何処までもその深淵へと。

その声を聞く者は、何処までもその涯てへと。

そんな、音と闇だけの世界。

「なあ、天野。散歩になるのか? これ……」

砂に足を取られそうになりながら、数歩前を行く天野に尋ねる。

「こう暗くっちゃ何も見えないだろうに……」

微かな明りで人影は判別できるものの、景色を楽しむには程遠い。

と、天野が振り返った。

「暗いからこそ、ですよ」

そう言って、天を仰ぐ。

上……?

「うお…………」

そこにあったのは、灯り。

この、闇の中で、微かに辺りを照らし出す光源。

月光。

そして、満天の、星空。

「…………」

言葉が、出てこない。

いや……語る言葉を持たないと言った方が適切か。

「凄い……な」

辛うじて、一言。

「ええ……」

天野も、いつもにも増して言葉少なだ。

「空気が澄んでるんですね……」

小さな星、大きな星。

赤、白、黄、青……

街の空ではまずお目にかかれない、万華鏡。

散りばめたような星空……などという物ではない。

言い換えるなら、そう。ぶち撒けたような星空……とでも言ったところか。

あの光る帯は天の川か。

―――とすると、このあたりの星座は……

星で図形を描こうとして、やめた。

こう星が多くては、その図形を形作る星を探すことなぞ至難であったし……

なによりも、この星空をただ何も考えずに眺めていたかった。

 

 

 

 

 

「座りませんか?」

天野が見つけた流木に腰を下ろす。

辺りを占める風景は、ごく僅か。

飽かず鳴き続ける波音と、遥かな場所で騒ぐ海鳴りと。

そして、果てなく深い、この星空と――。

 

潮騒も、星の灯りも、一枚の風景へと溶ける。

 

 

 

 

 

 

「あの子の……」

しばしの沈黙の後、天野がゆっくりと口を開いた。

「ん?」

「あの子の夢、見ていたんですね、車の中で」

その視線は俺を見ず、ただ、星を通して何処かを見ている。

「……よく判ったな」

「いえ……」

俺も、天野を見ない。

「……私も、ちょっと前まではそうでした」

「……そうか」

「……ええ」

 

 

 

 

 

沈黙。

  

 

 

 

目を閉じれば、風の音、海の音―――

 

 

 

 

海は生命の揺篭。何処かで聞いた、何処ででも聞く言葉。

俺達は、俺達の遠い祖先はどうやら海から産まれたらしい。

その皈る場所もまた海なのだろうか。

身体も、想いも、海へと皈るものなのだろうか。

 

 

 

―――アイツは、何処に皈って行ったのだろう。

 

 

 

「相沢さん……」

取りとめない思索を天野が破り、俺は閉じていた目を開く。

「辛い………ですか?」

簡潔な、問い。

その問いの主は俺の方を見ない。

「そりゃあ……な」

短い、応え。

その応えの主も相手を見ない。

 

――そうですよね――

 

天野の呟きは、波音に紛れた。

その波音すらも、数瞬の後には次のそれにかき消され、溶ける。

「でもな……」

「?」

天野が初めてこっちを向いた。

「あいつは、俺に笑っていてほしいだろうし」

俺も天野のほうを向く。

「それに、強くなきゃあいつの相手なんか勤まらないしな」

浮かぶのは、あいつと過ごした短い日々。

悪戯に手を焼かされ、同時にそれを楽しんでいた日々。

懐かしく、暖かく、そしてやるせない風景。

「なにより、周りには支えてくれる連中が……いる」

ともすれば内側へと限りなく落ちていきそうな心を、天野の眼を見つつ再び表層へ。

「だから……何とかやっていける気が……する」

「……強い……ですね、相沢さんは」

天野はそう言って微笑み、視線をまた空へと。

「私は、そう思うことすら出来ませんでしたから……」

浮かべた微笑に、自嘲の蔭が流れる。

「でもな……天野」

「……はい?」

言いかけた言葉を飲みこみ、紛らせる。

「……いや、なんでもない」

でもな……天野、知ってるか?

今、俺を一番支えているのが、お前自身だということを。

俺が強く見えるとすれば、それは……お前のお陰なんだぞ。

「お前も……十分に強いと思うぞ」

その思いを言う代わりに、違う言葉を紡ぐ。

「……そう……ですか?」

「立派におばさんくさいしな」

「……失礼ですよ、ホントに……」

微笑が苦笑に替わり、自嘲は何処かへと消える。

ふと、思う。

―――何時からだったろう。

俺が天野を見る目が変わってきたのを、自覚する。

同じ過去を持つ仲間。

同じ痕を持つ同志。

そういう、仲間意識以外のところで、俺は、コイツを……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何処かで鳥の鳴き声がした。

気がつけば、白みつつある空。輪郭を取り戻しつつある山々。

「ふはぅ……」

美汐が小さく欠伸を一つ。

山の向こうから日が出るまでには、まだまだ遠い。

それでも、迫る朝の気配が、周りの空気を染めていく。

と。

「ふあ……」

遅れ馳せながら、やっと俺のもとに睡魔が来てくれた模様だ。

「やれやれ……やっと眠くなってきた……」

さっきの欠伸か。眼の端に涙を溜めて、そうですね と美汐が応じる。

「そろそろ戻るか……このまま徹夜ってのも明日が怖い」

まったくです……と、天野が伸びを一つ。

二人して流木から立ちあがり、宿へ向けて海岸を戻る。

 

未だ見えぬ陽の明かりに、月と星が溶け、退いている。

薄明けの世界は、景色を眺められるほどには十分に明るい。

 

「あ」

その微かな明かりの中で、美汐が何かを見つけたようだ。

その場にかがみ込み、そっとそれに手を伸ばす。

その指先に、手の平ぐらいの巻き貝、一つ。

ゆっくりと拾い上げ、砂を払ってそのまま耳へ。

目を閉じて、そのまましばし……やがてゆっくりと微笑し、得心した様に頷いた。

「音だけでも……お土産にしてあげましょう」

言って、俺の耳にそれを当てる。

「………」

海が聞こえる。

それは、太陽の下、波打ち際に佇んでいるような。

それは、誰かの傍ら、沈む陽を眺めているような。

どこか懐かしく、どこか遠い光景の音。

風景という名の音、音という名の風景。

――――そう、海が聞こえる。

「そうだな。いい土産だ」

真琴……お前は、本当に良い友達を作ったよ。

   信じてやれる。

俺自身に、アイツが命を賭けただけの価値があるとも思えないが――美汐と友達になった、という一事だけで。

   今なら、信じてやれる。アイツの生きた意味を。

「……戻りましょうか」

掌で貝殻を転がし、美汐がそう言って微笑む。

「ああ、戻ろう」

 

 

 

 

 

再び、ふたり並んでゆっくりと。

砂浜に足跡を残し、俺達は歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

潮騒が、俺達の後をいつまでもついてきていた―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きつねのよめいり

2000-2001 rokumusai