よるのかぜ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月がいつしか天頂に差し掛かかり、日付がそろそろ変わろうとしている。

四人……いや、人間が一人減って三人と一匹の月見も終わる頃合。私もそろそろ水瀬家を辞する事にする。

「今日は有難うございました……」

家々の明かりも消え、街灯以外に光源といえば星と月だけという、そんな時刻。

そう、もう深夜。 夜を知らぬ虫達の声が眠る事なく響き、周囲の静寂を際立たせている。

「じゃ、俺、天野の事送ってきますから」

ジーンズ、Tシャツの上に薄いジャケットを羽織った相沢さんが玄関に出てきた。

「気をつけてね」

すぐ後ろに、見送りに出てきた秋子さん。肩の上にはぴろがちゃっかりと陣取っている。

ちなみに名雪さんは、とうの昔に夢の中。

先刻、秋子さんにもたれ掛かるようにして自室へと戻り、そのまま姿を現す事はなかった。

『うにゅ……おやふみなはい〜〜』

その時、そんな事を言いながら“完全に眠ったまま”歩いていたような気がするが……気のせいだろうか?

本当だとしたら……つくづく、器用な人だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、と……じゃあ、行くか」

相沢さんが横に並び、私の家へと歩き出す。

歩みは、ゆっくりだ。

恐らくは、私のペースに合わせてくれているのだろう。

「わざわざすみません」

色々な意味を込めて、お礼を一言。

この人には、いろいろな所でいつもお世話になりっぱなしな気がする。

「女の子一人、こんな時間に歩かせるわけにいかんだろ」

相沢さんの返事は、ぶっきらぼうだ。

―――なにか気分を害す事でも言っただろうか?

そう思って彼のほうを見ると、少し頬が赤い。

なるほど、これが相沢さん流の照れ隠しか。なんとも彼らしいなと、微笑ましく思った。

 

 

 

 

 

 

夜中の道を無言で歩くのは、少々気まずいものがある。

だから、という訳でもないのだろうが、私と相沢さんは小声で他愛の無い話をしながら歩いていた。

―――何となく相沢さんの顔を見上げてみる。

いつも通りの横顔が、そこにあった。

 

「ん? どした?」

「あ……何でもないです」

私の視線に気付いたのだろう。相沢さんが怪訝そうな表情を浮かべている。

……どうやら、結構長い間彼の横顔を見ていたらしい。

慌てて視線を逸らした私だが、今度は横を歩いている彼について頭が勝手に考えてしまう。

 

 

――― 相沢 祐一さん。

私の、同類。

私と同じく、奇跡という名の夢から還って来た者。

私と同じ悲しみを味わい、背負い、それでも生きる者。

私とは、互いに相手の傷を知る存在。

 

―――けれど。

私は思う。

 

この人はなんて強いんだろう、と。

 

大切な者を喪った――私が一度は心の枷にしてしまった――悲しみを、彼はきっちり受け止めた。

彼は、還しえた。悲しみを“想い”という形へと。

忘れない―――しかし囚われず、ただ前へと。

相手への“想い”が大きければ大きいほどに

その“想い”が深ければ深いほどに

―――それは、難しい。

 

“想い”から生まれた悲しみは―――それに囚われなければ―――やがて、また“想い”へと還る。

悲しみは、癒えやしない。ましてや消えるわけもない。

それでも、その“想い”は人が前へと進む力となる。

消えていった者への“想い”を抱きつつ、それでも前へと進んで行く時。

その時こそ、人は誰かの分まで生きてゆけるのだ。

―――そう、思う。

 

 

 

「もうすぐ……冬ですね……」

「あー……また寒くなるんだなあ……」

いやだいやだ、と、大仰にため息ひとつ。

「また、中華まんの季節、か……」

「寒いときには、美味しいですよ」

「まあ、そうなんだがな」

相沢さんの表情が、微かに曇った。

「嫌いに……なりました?」

「いや、そんなことはないが、あいつみたいに主食にしたら胸焼けするなと思ってな」

言って、微苦笑。

ホラ…やっぱり強い。

まわりに余計な心配をかけさせまいという、例えそれが演技による笑いだとしても。

演技だけとしても、こうやって笑えるその強さに。

私がどれだけ救われたことか。力づけられたことか。

 

―――それがどれだけ私を癒してきたことか。

 

 

 

 

 

この人の笑顔が、私を解き放ってくれる。

過去の呪縛、心の袋小路から。

 

 

明るくなったね、と言われる事がある。

でも、きっと私は変わったんじゃない。昔の自分に戻ったのでも、きっと、ない。

多分―――乗り越えつつあるのだ。私の、過去を。

 

 

私も何時か自分の過去を

この人のように微笑いながら話せるように、と

 

―――今なら、そう思える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

微風が、吹きぬけて行った。

 

日中はまだ暑いものの、この時刻ともなれば空気の中にも涼しさの微粒子が漂う。

昼間の温度と、夜の冷気と。それらが微妙に入り混じった、優しい風だ。

 

「気持ちいいな……」

「夕涼みというには遅すぎる時刻ですが…これもまた一興といったところでしょう」

とたん、相沢さんが吹き出す。

「な…なんで笑うんですか…?」

「いや、悪い悪い……あまりにも天野らしい発言だと思ってさ」

「……おばさんくさいですか?」

私が問うと、悪戯っぽい表情でこう返してきた。

「―――いや、風流を解するんだろう?」

「……わかって頂けて何よりです」

にやにやと笑う顔が、なんとなく悔しい。

しかし、この人にはつくづくこういう表情が似合うと思う。

聖人君子でもあるまいし無論そこには悪気があるのだろうが、彼がこの手の表情をするとそういう物が前面に出てこない。

―――そう。有り体に言うと、『やんちゃ坊主』を地で行く性格なのだろう。

 

 

 

 

夕涼みの時間も終わりを告げた。目の前には、私の家の門がある。

家の中は当然のように真っ暗。玄関の灯りだけが、私の帰宅を待って灯されたままだ。

もう、こんな時刻だ。両親ともにとうの昔に夢の中なのだろう。

「こんな遅くに、わざわざ済みませんでした」

門の前であらためて相沢さんへと向き直り、送ってくれたお礼を言う。、

気にするな、と、はたはたと手を振る相沢さん。残念ながら、先刻のような照れ隠しはもう見せていない。

「………今日は楽しかったです」

「そりゃ良かった。秋子さんも喜ぶよ」

「ええ、宜しく言っておいてくださいね」

そう。今日は楽しかった。心底からの感謝の一部だけでも、文字通り宜しく言いたいものだと思う。

「ああ、わかった。 ……じゃあな」

そう言って振りかえり、来た道を戻り始める相沢さん。

「……お気をつけて」

その背に、それだけの言葉を投げかける。

相沢さんは答えない。

ただ右手をひらひらと振って、夜風の中へと去っていった。

 

その後姿が見えなくなるまで、私は結局彼の背中から目線を外せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝る前にあと一目、月見といこう―――

そう思い、ベッドの脇の窓を開ける。

もう夜半を過ぎた空。先刻よりも少し低い位置ではあったけれど、まだ天空高いところに月が光る。

 

月の光、吹き抜ける微風、そこに立つ男の人―――

何故か、先刻の相沢さんの姿が浮かんできた。

あの一瞬に見たように、その姿は厳かで哀しい。

 

人を照らし、人を見続けて来た月光の下。彼の表情は、優しく、何処までも深い。

恐らくは、私の周りでは彼にしか浮かべることのできない表情。

痛みを知り、人のそれも知る事の出来る心のみが持ち得る顔なのだろう。

 

 

 

彼がこれまで私に見せた、いろんな表情が浮かんでくる。

悪企みをしている時の、手のかかるやんちゃ坊主のような顔

照れ隠しをする時の、ぶっきらぼうを装った顔

怒った顔、笑った顔

微笑―――私が一番好きな表情―――

遥かなる深淵を覗いた事のある人間のみが浮かべ得る、微笑み。

彼の心の奥底が浮かび出ているような、微笑だ。

 

 

 

 

 

……もう、認めてしまおう。

 

仲間だとか、同じ痕を持つ存在とか、そんなことじゃなく。

私、天野美汐は。相沢さんを――祐一さんを―――好き、なのだ。

きっと、誰よりも。

 

だって、こんなにも彼の事を見ていたい。

彼の表情を見ていたい。その眼を見ていたい。

 

―――彼の心に、触れていたい。

 

 

 

 

 

 

 

傷を舐め合える相手を求めているだけと、人は言うかもしれない。

でも、それすらできないよりはどれだけいいだろう?

少なくとも、私は彼の心の何分の一かだけでも、理解出来るかも知れないじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

風が、そよいだ。

 

月は、相変わらず晧晧と天高く。下界へと、その光――想いを宿した――を投げ掛けている。

 

その光の中を、微風が吹き抜けて行く。

 

 

―――そうか。

想いは、風に乗って巡るんだ―――

 

 

それは、ただ単に私のイメージ。

だが、そんな考えが浮かんできた。

 

 

 

人の想いが、魂と同じようにして輪廻するものならば。きっと、そうやってこの世を巡っているのだろう。

そう。私達の想いは私達が弊れた後も、まだ命ある誰かによってずっと受け継がれて行く。

生者の想いも、消えていった者の想いも、この、風に――乗っているんだ。

 

私達は、みな、遠い未来で出会っていたのかもしれない。

遠い遠い過去で、これから出会うのかも知れない。

 

 

いつか、この時代じゃないかも知れないけど―――私達は、きっとまた会える。

あの子に。そして、真琴に。

 

だって、あの子たちの想いは、この風の中に還っていったのだから。

風は巡り―――やがて元の場所へと戻るものなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………おばさんくさい考え方、なのかな……?」

実際どうなのかは知らないけれど、祐一さんなら間違いなくそう言って笑うだろう。

そんな彼の表情が、今から目に浮かぶようだ。

「でも、まあ……いいか」

 

 

そろそろ、眠くなってきた。

窓を閉めて、ベッドに潜りこむ。

冷えた身体を布団が包み、少しずつ暖めてくる。

その温度の中、意識がゆっくりと微睡みへと引き込まれて行く。

 

 

…………おやすみなさい、祐一さん……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

眠りに落ちる直前の意識に、月の光がどこか優しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きつねのよめいり

2000-2001 rokumusai