校門の所で、知っている人にあった。水瀬名雪さん。陸上部の部長さんで――相沢さんの従兄妹。そして、同居人。学校から出ようとしている私とは反対に、学校に入る方向で歩いてくる。私が声をかける前に、こっちを見つけて駆け寄ってくる。
「こんにちはっ」
「こんにちは」
「祐一見なかった?」
「図書室で――」見ました、と後半部分は言わせて貰えなかった。
「ありがとっ」
 それだけの会話で、突風みたいに彼女は昇降口に消えて行く。相沢さんにどんな用事だったのだろう、と考えて、私は慌ててその考えを打ち消した。
 別に、どんな用事だっていいじゃない。私には関係無い。
 相沢さんと名雪さんは同じ家に住んでいるわけだし、いろいろとあるのだろう。共通の話とか。
 止まってしまっていた足を、動かす。
 それは、何故か重くて。






“Answer”







 今まで、こんなこと考えたこともなかったのに。『私と相沢さんの関係って何?』そんなことを考え出して、さっきまで頭の大部分を支配していた睡魔がどこかに連れ去られて行ってしまう。
 寝返り。
 考えたこともなかった。
 考える余裕がなかった、ということかもしれない。
 眠れそうにない、としぶしぶながら認める気になったのは、二十三回目の寝返りをうったときだった。
 居間に出て、キッチンに行くと、お湯を沸かした。時間は三時三分。
 もういい。諦めた。
 インスタントコーヒーをカップに入れて、悲鳴みたいな音を上げているケトルから沸騰したお湯を注ぐ。そして、そのまましばらく待つ。猫舌だから、熱すぎるものは駄目なのだ。
 マグカップから上がる湯気を見ながら、ぼんやりと私は考えていた。
 栞さんとかは勘違いしているみたいだけれど、私と相沢さんの関係というものは彼女が考えているような甘いものじゃない。そう多い接点があるわけでもない。たまに顔を合わせたら少し話す程度のものだ。私が、もしくは相沢さんがそう思えば、まったく接点を絶つこともできなくはない。その程度のものだ。
 ようやく飲める温度になったコーヒーに、口をつける。それから、ミルクを入れ忘れていたことに気付いた。ブラックで飲むのは相沢さんだ。
 カップを置いて、嘆息。
 名雪さんが羨ましくないと言ったら、嘘になる。羨ましくなんてないって言いたいけど、それはただの負け惜しみになってしまうってわかってる。
 なんなんだろう?
 思考のドツボって、こういう状態のことを言うのだろうか?
 名雪さんは、相沢さんと一緒の家に住んでいて。
 きっと、私の一週間よりも、名雪さんの一日の方が、相沢さんと言葉を交わす回数が多くて。
 壁にかけられた時計の音が、やけに大きく聞こえる。
 なにがどうなっているのか。
 コーヒーはもう冷めてしまっている。
「……いた……」
 ぐるぐると、同じ所を回る思考。
 きゅっ、と不意に胃の辺りが締め付けられるような感じになって、私はお腹を押さえた。
 冷めたコーヒーはもう飲む気がしなくて、でも、眠気はまったくやってきてくれそうになかった。
 眠れない。眠くない。眠りたくない。
 こんな感じで眠ったら、きっと嫌な夢を見る。そんな確信があったから。


 眠い。
 欠伸を噛み殺すと、目の端っこに浮かんだ涙を手の甲で擦った。昇降口で靴を履き替えて、階段を昇る。教室は、学年と階が一致している。つまり、学年が上になるほど高いところになり、遅刻寸前に駆け込むのが大変になる、ということ。……私には関係の無い話だけど。
 鏡を見る。鏡に映った私は、何故か眉間に皺を寄せていた。
 頭が痛い。
 こめかみから錐を捻り込まれているような、そんな痛み。
 眠れないなら眠れないなりに、せめて目を閉じて横になっていたほうがよかっただろうか。
 眠ってしまえたら、きっと楽なのに。今更眠気がどっと打ち寄せる波みたいに押し寄せてくる。
 チャイムが鳴った。一時間目が始まる。教室に戻らないと、そう考えて歩き出す。
「祐一っ、チャイム鳴っちゃったよー!」
「諦めるな、まだ間に合うっ!」
 何か聞いたことのある声と、すごい勢いで階段を駆け上がっていく足音。それが通り過ぎて行ってしまうと、私は少し笑って、教室に戻った。
 今日は長い一日になりそうな、そんな予感がした。

 昼休みのチャイム。それを聞いて、四時間目の英語の小田先生が教室を出て行くのを見てから、机に突っ伏した。
 終わった。
 もうダメ。
 動けない。
 起きているということがとてつもない苦痛だった。額の真ん中辺りに糸がついていて、それを下から引っ張られているような、むしろ魂そのものが重力に引き摺られているような、浮遊感にも似た感じ。
 もういい。寝よう。
 そう心に決めて、目を閉じる。これならすぐに眠れそうだ、と思った。食欲もない。というか、食べてもいないのに胸焼けがするので食べたくもない。
 誰かが、肩に触れた。
「天野さん?」
 声。
 邪魔しないで。眠らせて。そんな声と、起きなくちゃ、という声。
「天野っち?」
「その呼び方やめてください」
 一気に目が覚めた。
「あ、起きた」
「起きました」
 そう言って私を起こした彼女――初瀬香織さん――はショートカットの髪を揺らして笑う。
「具合、悪い?」
「眠いだけです」
 去年のこともあるので、進んで私と話をしようというクラスメイトなんてほとんどいない。数少ない例外が、彼女。いろいろあって、前ほどにはあからさまな態度はとっていないものの、もともとコミュニケィション能力が欠乏していることくらいは自分でも自覚している。
 話しかけるのも苦手だし、会話を続けるのも苦手。同じ年齢で、価値観の違う人間をひとつの教室に押し込んで摩擦が起こらないわけないのに。
「そう。ちょっと辛そうだからあたしとしては眠らせておいてあげたいんだけど――」
 そう言って、香織さん――以前苗字で呼んだら『香織と呼べ!』と言われたのでそうしている――は教室の後ろのドアを見た。私もつられてそこを見る。そうして、ため息をついた。
「相沢先輩、呼んでるから」
「……わかりました」
 お礼を言って、立ちあがる。
 すっ、とちかちかする青っぽい色のカーテンが不意に下りてきた。平衡感覚がおかしくなり、自分を中心に世界がぐるぐると回っているような感覚。
 立ち眩みだ。
 私はよろけてしまわないように、目を閉じてそれが通り過ぎていくのを待った。
 目を開けた時、そこにはさっきと変わらない景色があった。
 けれど、目を閉じる前と後では、何かが違う。どこかが変質してしまっている。そんなことを考えながら、教室には入らずに廊下で待っている相沢さんのところへ歩み寄った。
「顔色悪いぞ」それが相沢さんの第一声だった。
 言われなくてもわかってます。そう言いそうになって、吐息をひとつ。イライラしている。それがわかって、嫌な気分になった。
「……ええ、ちょっと」
「大丈夫か?」
「大丈夫です。……何か、御用ですか?」
「ん、いや……ちょっと」
 相沢さんは曖昧に言葉を濁す。そんなことをするのは珍しいので、私は少し小首を傾げて相沢さんを見た。割と、何でもずけずけと口に出すタイプの人だと思っていたから。
「放課後さ、あいてる?」
「ええ、まあ」
「じゃさ、ちょっと付き合ってくれよ」
 なんだろう、と思って、またなにかろくでもないことでも思いついたのだろうか、と考えてしまう。
「構いません」
 そう、私は答えた。いちいち言葉の裏を探るなんて、考え過ぎだ。そんなことをしても疲れるだけだし、どんどん自分が嫌いなものの塊になっていく気がする。
 反省。
「放課後に、どこで待っていたらいいですか?」
「あ、そうだな……じゃあ、俺がこっちにくるよ」
「わかりました」
「あ、天野」
「はい?」
「調子悪いんだったら、無理するなよ」
 それを聞いて、私はきょとん、とした顔をしてしまう。それから、嬉しくなった。
 少しだけ。
 相沢さんが、ことさらぶっきらぼうに、そんなことを言ったから。
 何笑ってるんだよ。
 相沢さんが、そんな顔をした。

「相沢先輩って、人気あるんだよー」
 いつものグループでお弁当を食べていた香織さんが、私が教室に戻ってきたのを見つけてそう言う。そうなんですか、と私は返して席についた。
「お、余裕?」
「もなにも、別にそう親しいわけでもないので」
「うっそだぁー」
「残念ながら」
「残念なの?」
「言葉の綾です」
 そう言いながら、机に腕を置いて、その上に顔を伏せる。眠気がどこかへ行ってくれた代わりに、今度は頭の中に手を突っ込んで脳味噌をめちゃめちゃに掻き回したいような衝動に駆られる頭痛。これなら眠い方がまだましだったとも思えた。
「眠いの?」
 ちらり、と目を向ける。香織さんはグループを離れて、少し私の近くに来ていた。
「頭痛です」
 目をつぶっている方がいくらか楽なので、目を閉じる。
「頭痛薬あるけど、飲む?」
「……朝から何も食べてないので」
 胃が空っぽの状態で頭痛薬を飲むと胃が荒れてしまうので、できるなら遠慮したい。
 けれど、今何かお腹に入れると、それも全部戻してしまいそう。
「そっか、それじゃ薬は辛いね。なんか食べられない?」
「……無理そうです」
「ところで、相沢先輩とはどこまでいってるの?」
「なんだか会話が垂直離陸しているような感じがするのですが……」
「気になるし」
「明快な理由の説明ありがとうございます。……ですが、特に何も」
 何かを諦めるような心持ちで、体を起こす。話しているほうが、少しは気が紛れてくれそうだった。
「そう? でも、相沢先輩に憧れてる子多いから頑張った方がいいよ?」
 頑張るって何を。
「少なくとも、相沢先輩の方は天野っちのこと気にかけてるみたいだし」
「その呼び方はやめてください」
 とんとん、とこめかみに人差し指をぶつける。なんだろう。何か、果てしない勘違いをされているような気がする。
 勘違い?
 勘違いなのだろうか?
「でもねー、相沢先輩もいつも女の子連れてるもんねー。それも、揃いも揃ってみんな美人さんだし」
 まったくもってその通りだ。
 ちょっとだけ、想像してみる。相沢さんと恋人になった私。でも、映像付きで再生されたのは「相沢さんの女遊びに疲れて泣き暮らす生活」ダイジェスト版。
 想像の中ですらこんな状態。
「ねね、天野さんてよく図書館にいるでしょ? 本好きなの」
「はい」
「どんなの読むの?」
「目に付いたものを読みます」
「……う」
「ちなみに平家物語では平知盛が好きです」
「……天野っちこそ会話が跳んでる」
 顔を見合わせて、くすり、と笑った。
 変わってるね、と香織さんが言った。
 お互い様です、と私は言った。そして、笑ったままで、続ける。
「その呼び方、やめてくださいね」


 相手を待たせるのは、果たしてどのくらいの時間まで揺るされるのだろうか。頭痛のせいかどうか知らないけれど、ひどくイライラする自分を持て余しながら、私は机に頬杖をついて、座っていた。教室の窓からは、中庭が見える。夕焼けの色も、空と山との境目あたりから、そろそろ夜の群青色に変わりだしている。
 コン、コン、コン、と人差し指が机を叩く。
 帰ってしまおうか。
 呼び出したのが相沢さんでなければきっととっくにそうしていたのだろうけど。
 でも、これだけ待たされたのだから帰ったっていいだろう。
 けれど、帰れない。
 嘆息。
 もう、教室の中には誰もいない。
 一人で残って何やってるんだろう、な気分。なんだかひどく惨めな感じ。
 惨めな気持ちになる、ってことは、つまり、ちょっとは期待していたってこと?
 馬鹿。
 本当に、馬鹿だ。
 何を期待していたのか。
 何に期待していたのか。
 可笑しくって、笑いそうになる。
「……ばか」
 鞄を持って、立ちあがる。
 ガタン、と椅子を引いた音が大きく響いた。暗くなり始めた教室は、普段私達に見せない一面を見せている。まるで知らない世界に迷い込んでしまったかのような違和感。案内をしてくれる白兎はいないけれど――。
 帰ろう。
 帰って寝よう。
 かちん、と何かのスイッチが切り替わる音がした。
 教室の前のドアを開けて、廊下に出る。廊下を歩くと、内履きと床が擦れて、キュッ、と音を出した。昼間だったら聞こえないだろう、そんな音がやけに大きく聞こえる。
「天野?」
 階段を下りようとしたところで、名前を呼ばれた。
 上の方から聞こえた。
 声から少し遅れて、相沢さんが二段飛ばしで階段を下りてくる。
「悪いっ、天野っ!」
 私の前に立つなり、相沢さんはそう言って両手を合わせた。
「いえ、別に」
 そう言うと、相沢さんは顔を上げる。
 なんだろう?
 見たことのない顔、だ。
「香里が今日どうしても外せない用事あるからって、委員会の代打たのまれてさ。ほら、香里に何か頼まれるなんてめったにないし。断るに断れなくて」
「そうですか」
 栞さんに、名雪さん。それから、栞さんのお姉さんの、美坂先輩。
 どうしてだろう。
 頭が、やけに冷えている。
「まあ、仕方ないんじゃないですか。相沢さんは女性に人気があるみたいですし。頼られて悪い気、していないでしょう?」
 目をそらして、いつのまにか私はそんなことを口にしていた。
 空気が停滞した。
 どこにも出口の無い沈黙。
 ちくり、と胃が痛んだ。
 さようなら、と一言言って、その場所を離れる。階段を下りて、廊下を歩いて、昇降口で靴を履き替える。
 さっきの言葉が、嫌味以外の何物でもないと気付いたのは、外の空気を吸いこんでからだった。




 一週間続く睡眠不足。
 ふるふる、と頭を振って、顔を上げた。機嫌値はメーターを振り切って不機嫌MAX状態。人の少ない放課後の学食で、向かいに座った栞さんは少し口元を引きつらせてお茶を飲んでいる。
 きっと、今の私は不細工な顔をしているんだろう。どうしようもないくらいに。
「……ええと」
 栞さんが何かを言っている。
「そろそろ、何があったのか聞いてもいいかなぁ、なんて思ってみちゃったりもするようなそうでもないような……」


「――とまあ、私も悪かったのは認めます。認めますけど、それでもその後の相沢さんの行動はさすがに大人気無いと思いませんか? 仮にも年上なのに」
「は、はぁ……」
「会っても露骨に避けるような行動をとるし。まあ、私のほうとしても余計なことを言ってしまったことは反省しているのですが、相沢さんの方が機嫌を直してくれないことには――」
「ああ、ええと、そうだね、うん」
 余計なことを言ってしまったのは確かなのだけれど。いつまでもそれを引き摺っているのはどうなのだろう。こちらとしては反省していて、向こうさえ機嫌を直してくれればいつでも謝るくらいのことできるのに。
 現状としては、謝る機会すら貰えないわけで。
 向こうが年上なのだから折れてくれてもいいのに。
「……天野さんがこんなにしゃべってるの見るのはじめて……」
 聞こえなかった振りをする。
 つまりは、今現在私と相沢さんの間には暗くて深い溝が出来てしまっているということ。
 冷戦状態。
 そして、なんとなく私がわかったことは、最近よく相沢さんといる時間が多いなぁと思っていたのだけど、それは別に偶然とかそんなのでは全然なくて、相沢さんが、あるいは私が、そういう時間を持とうとしていたこと。
 どうしてそんなことを思ったのかというと。
 あれから、相沢さんを学校で見かけた回数は二回。会話をした回数はゼロ。毎日のように顔を合わせていたのが嘘みたい。
 お互いが避けるようになると、私達の接点なんてないに等しいものだって、気づいてしまったから。

 そんな感じで、さらに一週間。
 自分のことを棚に上げていることは分かっていても、相沢さんの大人気無さに腹が立つ。
 けれど、さすがに二週間も立つと、こんな状態に焦りが出てきたのも事実。
 私には、相沢さんしかいなくても。
 相沢さんには、私じゃなくても、もっと魅力的な女の子が何人もいる。
 こんな状態になって、やっと気付いた。
 相沢さんとくだらないことを話していた毎日が、楽しかったのだということ。
 相沢さんの顔を見ない一日が、ぜんぜん楽しくないんだということ。
 失いたくないと思っているのは、きっと私の方。
 ――こういうのは、苦手だった。相沢さんと出会う前は、他人なんかどうでもいいって生活をずっとしていたので、関係を修復する、ということはやったことがない。
 どうしたらいいのか。私はベッドで横になったまま、ずっとそのことを考えて――

 そろそろ慢性的な寝不足になりかけていた私の頭は、その時にはベストだと思える、後になって冷静に考えてみると恥ずかしいのを通り越して、呆れて笑うしかないようなプランを作り上げていた。
 ――つまり、明後日のバレンタインデーにチョコレートを渡して、それをきっかけにして仲直りしよう、なんていう恥ずかしいことこの上ない計画。


 繰り返すことになるけれど、寝不足で緩んでいた私の頭では、これがベストのプランに思えてしまったのだ。





 ドアを開けて顔を出した相沢さんは、私を見て少し表情を強張らせた。
 バレンタインデーは日曜日。名雪さんが美坂先輩と出かけるということを栞さんから聞いて、直接出向くことにした。我ながら信じられない行動。
 ひょっとして、結構必死?
 ――まさか。
 相沢さんは突然現れた私に戸惑っている。私の方も、相沢さんじゃなくて、何度か顔を合わせたことのある名雪さんのお母さんが出てくると思っていたので、一瞬思考停止してしまった。
 すぐに、立て直す。今はこっちの攻撃ターン。先手必勝あるのみ。
「あの……お話があるんですけど、よろしいですか?」
 少し間を置いてから、相沢さんは頷いた。

 相沢さんの部屋に通されてしばし。
 ドアが開いて、相沢さんが入ってくる。手にはコーヒーの入ったカップが二つ。相沢さんはそのうちのひとつを私の前に置いた。ミルクと、お砂糖ひとつ。私がコーヒーを飲むときはいつもこれだ。
 私がコーヒーに口をつけるのを見てから、相沢さんも自分のカップに口をつけた。
 とりあえず、わかっていること。人の心の機微? ってものが分かっていない私には遠回りな手段はきっと逆効果。
 だから。
 私は鞄の中から、持ってきたチョコレートを出して、相沢さんの前に置いた。当然手作り。
「……天野?」
 先手必勝、直球勝負。
「今日は、バレンタイン・ディでしたよね?」
「そうだけど」
「というわけで、というのも変ですが――」
 さりげなく、今日はいい天気ですね、って言うように。
「仲直り、しませんか?」

「相沢さんにだって相沢さんの事情があるんですし、ついかっとなって大人気無い態度をとってしまってすいませんでした」
 そう言って私は頭を下げた。けれど、いつまでたっても相沢さんの反応がないので、恐る恐る顔を上げて見てみると、相沢さんは運転中にいきなり目の前に鹿が飛び出してきた時の父と似たような顔をしていた。
 それをいったいどんな風に解釈していいのか私が困っていると、相沢さんはふわぁ、と大きく息を吐いて、あからさまに肩から力を抜いた。
 ……その反応、何?
「よかったぁ、天野怒ってなかったんだな。あーホント良かった。どうやって謝ろうか悩んでて損した」
「……はい?」
 損した、のくだりにちょっとカチンときた。
 でも、それ以上にわからない。私が怒っていた?
「天野きっと怒ってると思いこんでたから、何回か謝ろうとしたけどできなくって、さ」
 そう思っていたから、私に話しかけるのを避けていた?
 私に対して怒っていたんじゃなくて、怖がっていた?

 うわ。

 その『う』と『わ』にそのとき私が感じていた脱力感は集約されていた。
 力が抜けた。もう今なら立位体前屈が20センチ越えるんじゃないかって思うくらい、ふにゃふにゃに。
 二人揃って、馬鹿みたい。いや違う。みたい、じゃなくて完全無欠の馬鹿だ。
 何より私の馬鹿。
 もう笑い出したいような気分だった。怒るも泣くも喜ぶも違う。未知の感情に出会ったら、人はもう笑うしかないのだということを今この瞬間に理解した。
 こんな風に頭なんて下げなくたって、もう少し待っていたらよかったのに。そうしたらたぶん、向こうの方からアプローチしてくれてた可能性がものすごく高かったのに。
 相沢さんは、こともあろうに私の出したチョコレートを手にとって、やけに嬉しそうにしている。
 なんというか、その、恥ずかしい。
 そういえば、さっき、名雪さんのお母さんで、相沢さんの叔母さん、秋子さんは買い物で出ている、と言われなかっただろうか。
 誰もいない部屋で、二人きり。しかも男の人の方の部屋。
 本っ当に嬉しそうにしている相沢さんを見ると、安堵の気持ちと一緒に、本能的な身の危険を感じて、私は心持ち体を引いた。
「いや俺これでも結構悩んでたんだ」
 はあ、そうなんですか。
「栞とかに相談してみたし」
 お願いですそれだけは冗談だと言ってください。
「栞にはさんざん説教されたんだけどさ」
 ていうか『とか』って他にも誰かに言ったりしたんですか。そうですか。
 明日から登校拒否になったら相沢さんのせいですから。
「ずいぶん天野としゃべってないな、って考えて、やっとわかったことがあるんだ」
 って、しゃべりながらどうして自然に私の方に体を寄せてくるんですか。
 今は二人きりですし、その、ちょっと困るんですけど。
「俺、天野のこと好きだ」
 ……ちょっと、待って。

 十秒間くらい、頭の中でその言葉を百回くらいリピートして、ようやくその言葉が私の中で再構成されて、私の理解できる意味になって。
 ぱちん、と音を立ててブレーカーが落ちるみたいに飛びそうになる意識をギリギリのところで保ったけれど、それも風前の灯火みたいな状況。
 なにせ、相沢さんの告白(と言ってもいいのだと、思う。たぶん)の後、私の体は相沢さんの腕の中にすっぽり納まってしまっていたから。
「ちょっ、相沢さん……!」
 コレはまずい。というか絶体絶命の大ピンチ。
 どくんどくんと心臓が私の内側で跳ねまわって、
 大声をだそうにも何故かまったく声が出なくて、
 そもそも声が出たところで今この家には二人だけだから誰も助けにきてくれる人なんていないし、
 相沢さんだってまっとうな男性だし、力じゃ敵うわけなくて、
 もがけばもがくほど逆に動けなくなるような感じだし、
 相沢さんとくっついている部分がなんだかだんだん暖かくなってきて、
 抵抗する力もどんどん抜けていって、
 ……相沢さんなら、いいかな、って、ちょっと思ったりして、
 力を抜いちゃえばいいよ、って私の体が言って、

 でも。
 私を捕まえたまま離してくれない、相沢さんの腕が怖くて。

 最後の抵抗をしようと思って私は顔を上げる。そこには、とても真剣な顔をした相沢さんの顔があって。
 ちょっと格好良いな、って思ったけれど。
 私の知らない相沢さんの顔は、やっぱり怖くって。
 離してください。
 そう言おうとして、その言葉が私の口から出るより早く、私の口と相沢さんの口がくっついていて。
 ぱちん、と音を立てて私の思考は停止した。

 実際に口が触れていた時間がどのくらいなのか、私にはわからなかった。それは、ひどく長い時間だったようにも感じたし、ほんの一瞬だったような気もした。
 キスの感触とか、相沢さんの舌が入ってきた感触とか、そういったものがなんとなく私の口に残っていた。
「天野と会えなかったら、なんか落ち付かないんだ。他の誰と話してても、天野だったらこう言うだろうな、っていつのまにか考えてるんだ。
 ――天野が笑ったら、なんか嬉しくなるんだ」
 私は、相沢さんの胸の辺りに顔を押し付けた。もう体中力が入らなかったから、それくらいしかできないかった。
 どうしてだかわからないけれど涙が止まらなくて、私は泣いていた。そして、そのまま泣きつかれて眠ってしまった。このところの寝不足が祟ったのか、夢も見ない、深い深い眠りだった。



 このときのことは思い出すだけで恥ずかしいし、変に断片的にしか憶えていない。
 はっきりと憶えているのは、私が泣いている間、ずっと髪を撫でてくれていた相沢さんの手が、大切な宝物を撫でるみたいに優しかったことだけ。
 それだけ。

 そして――――



 詳しくは語りたくないけれど、翌日は栞さんはおろか、香織さんにまでひたすらからかわれた。
 おまけにいつのまにかクラスほぼ全員、栞さんの所属している美術部全員、おまけに何故か他のクラスの人とかにまで知れ渡っていた。
 登校拒否をかなり本気で考えた。








「相沢さんと知り合った経緯、ですか?」私はそう聞き返して、目の前の本の活字を目で追うのを止めて、顔を上げた。
 放課後の図書室。窓際で白いカーテンがゆるゆると動いていた。
 この学校の図書館はなかなか本が揃っている。市立の図書館よりも、ひょっとしたら蔵書量が多いのではないか、というくらい。私が図書館の常連となってしまうのもむべなるかな、というところだろう。
 開いていたハードカバーの小説を閉じる。そして、私はどこか面白そうにこちらを見ている美坂栞――栞さんに視線を向けた。
「うん。ちょっと、興味あるかな」
 そう言って、屈託なく笑う。こういった仕草は自分にはできないな、と思う。

 どうして事実を知ってもなおあんな風に笑えるんだろう、最初は思った。

「さして面白いものではないですよ」
「そうなの?」
「そうです」
 少しだけ強い風が吹き込んできて、私の髪を揺らした。寒いから閉めて欲しいけれど、きっと換気しているのだろう。
「共通の友人がいたんです。私と、相沢さんに」
 なるべく無難でもっともらしい理由を選んで、私は口にした。一言で説明することなんてできないし、少し重すぎる。
「私の知ってる人?」
「……残念ながら」
 もういないんです。思わずそう言いかけて、私はその言葉を飲み込んだ。ふぅん、と言って栞さんは自分の前にノートを広げた。数学のテキストと、参考書。眉を寄せてそれらとにらめっこを始める。
 数学の方はあんまり力になれないな、と思って、さっきの小説をもう一度開く。彼女はこう見えて(というと失礼なのだけど)成績はとてもいいのだ。彼女のお姉さんは常に学年主トップ。そのお姉さんに勉強を習っているというのもあるのだろう。もともと頭の回転がとても速いのだということも話していればわかる。ときどき(主に恋愛等の話題になると)回転が速くなりすぎて変なところまで行ってしまうことはあるけれど。
 ページをめくる。目は活字を追っていたけど、内容はまったく頭に入ってこなかった。目を閉じて、開く。さっきまでそこにあった集中力はどこかに旅行に出かけてしまったようで、どこにも見つからない。私は小さく、栞さんにわからないように気をつけて嘆息した。
 こきっ、と首を鳴らしてから私は席を立った。ちらりと栞さんが視線を上げたけど、私が鞄を持たずにそのまま立ったのを見て、すぐに視線を参考書に落とした。私はその本を持って司書の先生のところまで行って、貸し出しの申請をした。
「あーまーのー」
 いきなり横から聞こえたその声に、振り向いてしまうところをなんとか堪える。そうして、ちら、と横目でその声を発した人物を確認する。……そんなことしなくても、あんな風に声をかけてくる人物なんてこの学校には一人しか知り合いはいないのだけれど。
 表面上、その声が聞こえない振りをして、貸し出しの手続きが終わった本を受け取る。そして、私は入り口の所から声をかけてきた人物に背中を向けて、栞さんのいる席の方へ歩き出す。
「……待て待て」
 肩をつかまれた。
 私は仕方なく立ち止まって、肩に手を置いているその人を見上げた。
「あら相沢さん。奇遇ですね」
「そうでもないだろ」
「場所的には十分だと思うのですが」
 栞さんが、相沢さんを見つけてこちらに手を振っていた。幸か不幸か――図書室の中は人がいなく、煩いと文句を言ってくる人もいないようだった。
「……それはなんだ、つまり、俺が図書館なんかに現れると台風でも直撃しかねない、そう言いたいわけか天野は?」
 歩きながら、相沢さんはそう言う。
「……別に、そこまでは」
 そんな私達を見て、栞さんは肩を竦めると、呆れたように嘆息した。
「相変わらず、仲いいんですね」
 どこがですか、と反論しそうになったけれど、司書の先生が何か言いたそうに私達を見ているのに気付いて、私はさっき座っていた栞さんの向かいの席から鞄を取った。
「それでは、お先に失礼しますね栞さん」
「うん。じゃあね」
「相沢さん、ごゆっくり」
「……嫌味かおい」
 苦笑いしている相沢さんに背中を向けて、私は図書館を後にした。
 廊下に出る。
 さっきまで相沢さんの手が触れていた肩を、押さえる。
 セクハラだ、と思った。思って、少し笑った。
 変な感じ。私が私じゃないみたいな感じが、する。
 昨日の私と、今日の私。一時間前の私と、今の私。少しずつ変化していくものが人間というものらしいけれど、急にやってきた台風みたいな変化に、私は戸惑っているのかもしれない。
 ついさっきの自分の行動を思い返した。その時はそんな気は無かったけれど、思い返してみると相沢さんをどことなく避けていたかもしれない。それもまあ、しょうがないということにしておいてほしい。だって、ときどき恥ずかしくて顔もまともに見られなくなってしまうから。
 そこらへんは、年上の相沢さんの度量に期待しよう。
 放課後の校内は、静かだ。教室に残っている誰かのおしゃべりの声や、運動部の掛け声。別の世界から響いてくるんじゃないかと思えるくらい遠く感じられる、そんなものが組み合わさって、放課後、というものを演出している。

 繰り返される日常。
 なんてことのない会話。
 ありふれた風景。
 きっと、そんなものが、私を幸福にしてくれるかけがえの無いものだって、今ならわかる。
 だから。

 昇降口で靴を履き替えて、外に出た。
 肩を、そっと手でなぞる。
 外の空気を吸いこむと、春の匂いがした。
 まだあたりは一面の雪化粧だけど、それは間違い無く春の匂いだった。



 だから、今誰かに「幸せですか?」って訊かれたら、私はきっとこう答える。

「ええ、それなりに」



「待てって」
 私が振り向くと、そこには少し息を切らせた相沢さん。
「運動不足じゃないですか?」
「うるせ」
 私は少しからかうような声で、相沢さんに言った。「図書館に用があったのではないんですか?」
 相沢さんは少し笑って、
「天野に用があったんだ」
 そんなことを、言った。


【終わり】



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