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『バレンタインの由来』
その日はいつもと変わらない、そんな日のはずだった。 通いなれた学校内の図書館の扉を開く。 数人の人の気配とかすかにページをめくる音、漂う本の香り。 これが昼休みならもう少し騒がしい人もいるのだけれど、そういう人がわざわざ放課後のこってまで図書館に来ることは稀なのだろう。 実際、図書館に足繁く通ってみると、そんなことがよく分かる。 おそらく昼休みに来るような人は、中途半端に長い休み時間を何とかしようと図書館に来ているのだろうけど、本を読んでいる身としては迷惑甚だしいものがある。 まぁ、近頃はお昼に図書館によることもめっきりなくなってしまったけれど。 降ろされたブラインドの隙間から零れる紅の陽光。 いつも見ているはずの情景のはずだと言うのに、なぜかそこに違和感を感じてしまう。 それは・・・まぁ、当然と言えば当然のことなのかもしれない。 自分から迷惑の火種になる気は毛頭なかったけれど、こんなところにその人がいる。 そんな違和感を払拭しようと――まぁ、言ってしまえば好奇心からなのだけど――私は一直線に窓辺の長机に座って、一心不乱に何かを読んでいるらしい人の下へと向かおうと足を踏み出した。 ほんの少しの、廊下から教室の窓までの距離。 それがやけに長く感じられて・・・だからだろう。こんなことを考えてしまったのは。 昔の――この冬までの私ならどうしていただろう?なんて、そんなことを。 少し考えて、すぐにそのあまりのくだらなさに苦笑する。 だって、そんなの考えるまでもないんだから。 好奇心なんて押し殺す。興味なんてもたない。 何事もないように近くのイスに座って本を読み始めるか、さっときびすを返して帰るか。 人と関わりをもたないように、人と距離をとるように。 どちらにしても今の私から考えてみれば、なんてもったいないことだろうって、そう思う。 だって、この人と・・・こんな人たちと一緒にいることはとても楽しくて、居心地のいいことなのだから。 「――天野?」 やけに長く感じられたその距離を縮めたのは、顔を上げたその人の不思議そうな表情と声。 その声が小さかったのは、あまり人がいないとはいえ図書館だったからだろう。 この人は時々、失礼なくらいに無神経のように思えるけど、その実とても細やかな心配りのできる人なのだろうから。 ・・・ちょっと、好意的に解釈しすぎかもしれないけど。 「・・・珍しいところで会いますね、相沢さん」 逆光の中で私を見上げる相沢さんに軽く会釈をして、微笑みかける。 そんな私に隣の席を勧めて、相沢さんは苦笑する。 「珍しいってのは失礼だな。俺だって図書室くらい来るぞ」 「そうですか?少なくとも私は相沢さんとここで会ったの、初めてだと思いますけど?」 言いながら、相沢さんの手元を覗き込む。 本かと思っていたら雑誌だった。まぁ、その方が相沢さんらしいとは思う。 その雑誌は私も知っている有名なものでこの図書館にも置いてあるものなのだけど・・・ 「あ――」 私は思わず声をもらしていた。 別にその雑誌についてどうこうじゃない。 だって、その雑誌を読んだことなんてないんだから。 どういう雑誌なのかなんて知らない。 ただ、その内容・・・もっとはっきり言えば、そのページの見出しの文字。 「どうしたんだ?天野?」 相沢さんはわざとらしいとさえ思えるくらいの鈍感さでそんなことを私に聞いてくる。 何と言うべきか、ほんのしばらくの逡巡。 相沢さんはその間をどういう風に捉えただろう? ・・・まぁ、きっと変なヤツだな、としか思っていないのだろうけれど。 「・・・・・・相沢さんも、その・・・そういうものに興味、あったんですね?」 しばらくして何とか搾り出したのはただそれだけの言葉。 それでようやく何の話か思い至ったのか、相沢さんは「あぁ」と納得いったとでも言いたげに苦笑して手元の雑誌――先月号らしい――を私に向けた。 そのページに載せられたいくつかの写真と、大きな見出し――バレンタイン。 「まぁ、一応俺も男だからなぁ。甘いものが苦手とか、もらえないならそれでいいとか口では言っててもそれなりに気になるもんさ」 そう言って相沢さんは逆光の中で少し恥ずかしそうに頭をかきながら微笑んだ。 そんな相沢さんを見て、そんな言葉を聞きながら、だけど私は別のことを考えていた。 バレンタイン。 今日、2月14日はバレンタインだったんだ。 そういえばそうだった、なんていまさら思ってみてももう遅い。 ブラインドの向こうの太陽は、きっともうすぐ沈むだろう。 あぁ、何てことだろう。 人と関わりをもたないようにしてきた。 人と距離をとろうとしてきた。 それは、もったいないことだって、そう分かったけれど。 でも、まさか・・・そう、まさか。こんな落とし穴が待っているなんて思いもよらなかった。 ――あれ?どうして、ただそれだけのことが落とし穴だ、なんて思ってしまったんだろう。 わか・・・らない、と、思う。 焦る理由も、悔やむ理由も、何にもないはずなのに。 は――ぁ 我知らず吐き出した息で私はようやく我にかえった。 煩雑とした思考の中に身をゆだねていたのはそう長い間ではなかったんだろう。 相沢さんはつい先ほどの微笑みのまま、私の反応を待っているようだった。 「あ。えと・・・そういう・・・もの、ですか?」 慌てて紡いだ言葉はつかえながらで、だけど相沢さんは気にした様子もなく「そういうものだ」と答えて笑った。 そんな、どうということもないような笑顔。 バレンタイン、なんていう単語を意識してしまったせいだろうか? そんな笑顔に胸が高鳴る。 おかしい。うん。おかしい。 今日がバレンタインなのは分かった。私が忘れていたのも事実。 だけど、だからってどうして私が相沢さんを見てドキドキしなくてはいけないのだろう? すぅ・・・はぁ・・・ 何となく、深呼吸。 とりあえずこのままじゃ何か、非常に私らしくないことを考えてしまいそうだったから。 「それで、相沢さんはいくつもらえたんですか?」 冷静に、だけどどうしても気になってそんなことを聞く。 相沢さんは「んー?」と小首をかしげてかばんの中を見た。 「えぇっと・・・10個くらいかな?多分」 「義理とは言え、ありがたいねー」と笑う相沢さん。 逆光の中でその表情はいまいちちゃんと読み取れないのだけれど・・・きっとこの人は本当にそう思っているのだろう。 まぁ、それはそれでいいのだけれど。 それにしても、そのうち8つくらい出どころについて易々と想像がついてしまう辺り、相沢祐一と言う人は改めてすごい人だと思う。 そうして思い至って、思い至ってしまうから、冷静になったはずの心にまたほんの少しの焦りが生まれる。 これからどれだけ急いでも、せいぜい市販のものを渡すことしかできないだろうと思う。 チョコなんて作ったことはないし・・・ でも、それじゃダメ、と思う。 我ながらそんな風に思う理由はひどく不可解極まりないのだけれど―― あぁ、どうして真琴は私にこのことを教えてくれなかったんだろう? そんな理不尽な憤りすら覚えて・・・ 「でもさぁ、天野」 「はっ、はいっ!?」 いきなり話し掛けられて思わず大きな声をあげてしまいそうになって、何とか自制する。 相沢さんは気にした様子もなくぺらぺらと雑誌のページをめくる。 「確かに嬉しいんだけど、あれだよな。日本にはホワイトデーってヤツがあるじゃないか」 ホワイトデー?あぁ、確か3月の14日にそんなイベントもあったような気がする。 バレンタインのお返しをしようとか、そんなイベント。 例によって私には関係のない日に過ぎなかったのだけれど。 そんなことを考えながらはぁ、と曖昧に頷き返す私を見ようともしないで、相沢さんはぺらぺらと雑誌をめくり続けて・・・見終わったのかパタンと閉じた。 「むぅ、これには書いてないか・・・いや、お返しって何を贈ればいいのか分からなくてな。こんな雑誌も見てみたけど分からないし。何かいい案はないか?」 なんて苦笑交じりでそんなことを呟く。 その発言。多分、バレンタインに1つももらえなかった人から怒られるんじゃないかと思う。 と、言うか・・・ 「そういうことを私に聞きますか?そんな酷なことはないでしょう?」 思わず相沢さんの顔をにらみつけてしまう。 ・・・はぁ。無意味だ。 「ま。そうなんだよなー。そういうの人に聞いて決めてもな・・・・・・しかしあいつら、いったい何を渡せば喜ぶんだ?」 そうぼやいて、続けて私に話しかけるよりもさらに小さな声で自問自答を始めてしまう。 こういう人、なんですよね。相沢祐一という人は。 人の気持ちに人一倍鈍感なくせに、人一倍律儀で、真剣で。 相沢さんのような人を好きになったら苦労してしまいそうで。 苦労、してるのかな?私・・・ ・・・・・・・・・な、何、考えてるんだろう?私、その、あの・・・ 「はぁ、しゃーない。時間もあるし、ゆっくり考えるか・・・」 がたっと、音を立てて相沢さんが立ち上がったおかげで、私はびくりと肩を震わせてしまう。 「俺は帰るけど、天野はまだ残ってるのか?」 そんな私に当然のように気づかずに、相沢さんはカバンを手にそんなことを聞いてきて。 「あ、えっと・・・ハイ」 どう答えようかと迷って、結局私はコクリと頭を縦に振っていた。 相沢さんは「んじゃ、お先に」と歩き出そうとして――その足を止めた。 「相沢さん?」 「そういえば天野はさ、バレンタインの起源って言うか由来って言うか・・・知ってるか?」 ?なんでそんなことを聞くんだろう?でも・・・どこかで読んだことがあるような気がする。 何かのお話に出てきたことだ。 「えぇと、確か――バレンチノだかバレンタインだか、そんな名前のキリスト教の司祭が捕まって処刑されてしまった日、ですっけ?」 詳しいことははっきりと覚えていないけど、確かそんな感じだったような気がする。 それが由来だっていうのだから、この国のバレンタインはずいぶんと変わったものだと思う。 「そうそう。で、どっかの国でその日に贈り物やらカードやらを渡すようになって現在にいたったというわけだ。そのどっかの国では別に女から男へってわけでもなかったらしいな」 こくこくと相沢さんは満足そうに頷く。 正直、いきなりこんなことを聞いてくるなんて奇妙だと思うけれど、相沢さんは時々そういう突飛な行動をする人だから不思議ではないのかもしれない。 だから、まぁ、その次に起こったことも不思議ではないのかもしれないけど―― 「そんなわけでこれを天野に進呈しよう」 そうして祐一さんのカバンからずぃっと差し出されるのはタヌキのぬいぐるみ。 「あ――えっと、その・・・?」 前置きの話のせいか、突然の贈り物に頭がきちんと回ってない。 冷静なら、そのタヌキは何かの嫌がらせですか?とか言えたかもしれないのに。 相沢さんに嫌がらせの意図があったにせよ、なかったにせよ。 まぁ、十中八九ないと言えるけれど。 「うむ。実は昨日久々にUFOキャッチャーをやったら白熱してな。2000円の結果だ」 さすがに恥ずかしそうに――私にそれを渡すことが、だろうか?それとも2000円もかけたことが?――そう言って私の手にそのぬいぐるみを押し付けて、「じゃあな」といって今度こそ振り返ることもなく図書館を後にしてしまった。 後に残ったのは人気の少ない図書館の窓辺で、沈みかけの夕日をブラインド越しに浴びる私。 手にはタヌキのぬいぐるみ。ぼおっと見つめる先にさっきまでの笑顔はなくて。 タヌキと雑誌と周囲の様子といろいろなものを見て、何となくそのままぼおっとしてるのもなんなので意味もなく雑誌を開いてみたりして。 ・・・このタヌキのぬいぐるみ、どういう意図だったんだろう? しばらくしてむくむくとそんな疑問が頭をもたげてくる。 えぇと、その、ありえないとも、くだらないとも思うんだけど、もしかするともしかするかもしれないわけで。 そんな、期待だか不安だか何だかで胸がドキドキ、ドキドキ高鳴って。 目は雑誌の文字を追っているはずなのに、内容の方はぜんぜん頭に入ってこない。 バレンタインの話なんかしてたから、だろう。 しかも、男の人から女の人へ渡してもおかしくない日、とかそんな感じの話を。 だからこれはそう、こんなことを考えてしまうのは相沢さんのせいだ。うん。そうだ。うん。 このタヌキのぬいぐるみが、その、もしもただの気まぐれとかじゃなくて、そんなことあるわけないんだけれど、今日、私に渡すためにわざわざとってきてくれたものだったりしたら―― 落ち着かない。ドキドキしてる。 私らしくない、そう思うけどどうしようもない。 「――?」 だけど、ピタリと雑誌をめくっていた手が止まる。 慌しい思考も一気に落ち着きを取り戻す。 それは相沢さんも読んでいたバレンタインの特集ページ。 その隅っこの方。コラムになってて・・・バレンタインの由来? 一気に理解・・・というか、納得した。 きっと相沢さんはこれを読んで知ったのだ。バレンタインの由来を。 つまり相沢さんは今日、今さっきそのことを知ったわけで。 と言うことは・・・ 「・・・ぷっ、ふふ・・・」 バカみたいだ、と思いながらも込み上げてくる笑みを抑えきることはできなかった。 あぁ、もう。ドキドキして損したと思う。 「まったく・・・相沢さんも紛らわしすぎます」 はぁ、と小さく息をついて、それでも隠しきれない笑顔でタヌキのぬいぐるみに小さくぼやく。 これは、そう。仕返し・・・もとい、お返しをするべきですよね? 都合のいいことに日本にはホワイトデーと言うイベントがあるのだし。 さらに都合のいいことにホワイトデーにはバレンタインデーのお返しをするのだそうだ。 と、いうことは私が相沢さんへのお返しに手作りのチョコとかそういうものを渡したとしてもおかしくなんてないはず。 うん。とそんな無茶なことを考えて納得しておく。納得しないとできそうもないし。 だからきっと、これはちょうどいいチャンス。 これもまぁ・・・うん。私らしくないかもしれないけれど。 このドキドキのほんのわずかなくらいでも相沢さんに味あわせてやろうってそう思って。 「ホワイトデー・・・待っててくださいね」 ぽそり、とさっきまでその人が座っていたところに向けてそう呟いて、私は図書館を後にした。とりあえずは本屋に行ってみよう。そう思って。
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