ふと、我に返った。
 目の前にあるのは、さっきデパートに行って買ってきたものが入っている、そのデパートのロゴが入っているビニールの袋。半透明のソレは、中身が見える。そして、その中身の半分ほどをキッチンの上に広げて、あまつさえ自分はその前に立ってエプロンなんか着けていたりする。
 天野美汐は思わず頭を抱えた。馬鹿。私の馬鹿。
 なんでこんなことをしているのか。
 こうやって作ったものを、明日誰に渡すのか。
 ため息をつきながら、鍋に水を張って、コンロにかける。
 友達――と表現することにいくらかの気恥ずかしさはあるが――の美坂栞の口車に乗せられてしまったことを今更ながらに激しく後悔しながら、美汐は徐々に沸騰してて発生してくる鍋の中の細かい泡をぼんやりと眺めていた。






“小さな奇跡”








「渡さないの!?」
 思わず一歩引いてしまいそうな語気で、栞はそんなことを言う。実際にいくらか体を引きながら、目立つのが嫌いな美汐は少し動揺して、昼休みの学生食堂の中をきょろきょろと見回した。幸いなことに、学食にきている人間は自分たちのことで精一杯で、素っ頓狂な栞の先ほどの言葉に耳を傾けていたものはいないようだ。
「栞さん……声が大きいです」
「黙ってなんていられないですっ!」
 美汐は何か反論する努力を早々に放棄して、目の前のたぬきそばに視線を移した。割り箸はぱきん、と小気味良く半分に割れた。
 二月十三日。
 つまりは、女の子にとって一番大事な日の前日だと、彼女は力説しているわけで。
「天野さんがちょっとこう変わってて、そういうのにあんまり興味が無いのは知ってるけど、こればっかりはちゃんと渡さないとダメだってば。恋人なんだし」
「……別に、恋人というわけではないのですが」
「やっぱりこういう場合は手作りだよねー。うん、その方がココロこもってるってカンジ、するもんね」
 発言を完全にも黙殺された美汐は、黙ってため息をついた。栞の話はいつのまにかどんな形のチョコを作るか、とか、どんなメッセージを添えるか、とか、そんなところにまで及んでいる。
 恋人、か。英語で言えばラヴァーズ。いや、そんなことはどうでもいい。
 栞の話を聞き流しながら美汐が考えていたのは、果たして自分と相沢祐一は恋人と言えるのかどうか、そんなことだった。
 明らかに心ここに在らぬ、といった美汐に、栞はびしっ、と指を突き付けた。指を、というよりはそこに持っているスプーンを。
「こういうのはちゃんとしとかないとダメなんだよ? あのね、何もしないで気持ちが伝わるなんて思っちゃダメ。言葉で、行動で、ちゃんと自分の気持ちは伝えないとわかってもらえないんだよ」
 それだけ言って満足したのか、彼女はくるん、と器用に指の先でスプーンをまわすと、自分のハヤシライスにとりかかった。それを見てから、美汐も自分のたぬきそばを啜り出す。
「恋愛ってね、信頼だけじゃ成り立たないんだよ?」こんこん、と栞はスプーンで皿の縁を叩く。「言葉だけじゃダメで、行為だけでもダメ。どっちかだけだと、その時は暖かくてもすぐに冷めちゃう。持続させるには、ちゃんとどっちも備えてないとね」
「……はあ」それ以外に、答えようがなかった。
「確かに、天野さんと祐一さん、二人でいるときは、『あー、信頼してるんだなぁ』って思うけど、それに安心してちゃダメ、ってこと」
「……はあ、おっしゃることはわかるんですが。というか、そんな風に見えるんですか?」
「うん」
 栞はスプーンを口に突っ込んだままで、頷く。
 そうなのか、と美汐は思った。
 信頼しているのだろうか?
 たぶん、イエス。そしてきっと、それだけの関係だと美汐は思う。不安になることはあるけれど、「一緒にいたい」と言ってくれたなら、一緒にいたいと思ってくれている、そう思って。当たり前のような仕草で隣に並んだら、それもやっぱり必要としてくれているんだと思って。そんな風な、信頼だけのリスキィな関係。わかってる。リスクを飲み込んで、それを前提にして、今こうやっているのだから。
 でも、それだけではいけない?
「お茶、持ってくるね」
 私が行きます、そう美汐が言う前に栞は席を立ってしまう。そんな彼女の後ろ姿を眺めながら、美汐は思った。悪い人ではない、それどころか、むしろ明るくて綺麗で屈託がなくていい人なのだけれど。
 どうして恋愛が絡むと、そして自分と祐一のことになるとあれほどハイテンションになるのだろう。これに触れない限りは頭の回転も速いし、話していてすごく楽しいひとなのに。
 お茶を二つ持って、栞が戻ってくる。どうかした? と栞は首を傾げた。それで、自分が栞のことを凝視していたことに気付く。慌ててなんでもないです、と言って美汐は割り箸を持ち直した。
「……栞さんは」訊くべきか訊くまいか、一瞬の躊躇があったが、言葉はもう零れてしまっている。美汐は続きの言葉を言った。「相沢さんのことが、好きなんですよね?」
 栞の手が止まった。彼女の顔から表情というものが剥がれ落ちた。そのままで、栞は目を瞑って、開いた。
「うん。そうだよ」
 それだけ。今日はいい天気だねと言うよりも簡単に、彼女は言った。食器の触れ合う音。栞がスプーンを置いた。
「ちゃんと言ったんだよ? フられたけど。祐一さんは、天野さんのことが好きだった、それだけ。……それだけだよ」
 その一瞬後。彼女はもう元の顔に戻っている。
「ちょっと悔しいって気持ちはあるんだけどね」栞は言った。「でも、お似合いだって思う。祐一さんと、天野さん。お互いが特別な人、ってカンジ、する」




 完成したチョコレートを前に、美汐は頬杖をついてぼんやりとしていた。
「……相沢さん、か」
 こういったものを渡すこと。
 抵抗感を感じている、と美汐は思った。その抵抗感がいったい何に起因するものなのか、まったくわからない。
 嫌?
 ――ううん、嫌なんじゃない。
 じゃあ、どうして?
 ――わからない。
 かち、かち、と時計が時間を削り取っていく音。美汐は時計を見た。二月十四日になるまで後一時間。つけっぱなしにしていたテレビの中で、誰かが何かを言って、どっと笑いが起こった。カーテンのほんの少しの隙間から、ちらちらと白いものが踊っているのが見えた。俯くと、髪の毛が頬にかかった。
 特別な人。たしかに、ある意味そうだろう。でも、それは彼女の言っていた『特別』という意味ではないと思う。チョコレートを作っている時に覗きに来た母親の顔。帰り道に、いっしょに買い物をしていた時の、栞の顔。ぐるぐる回って、消えない。
 音が、遠くなる。世界から切り離されて、どんどん自分の中に沈んでいく。断絶された孤独。個人である限り、永遠に埋まりはしない溝。伝えきれないメッセージ。人と人との間にある、深い谷間。
 嘆息。
 美汐は、先ほど母親が何故かとても嬉しそうに用意してくれたものの中から包装紙とリボンを選んで、先ほど自分が作ったものをラッピングする。それが終わってから、キッチンを片付けて部屋に戻った。
 暖房が入っていない部屋の中は、驚くほど寒い。美汐はふと思い立って、窓を開け放ってみた。温度が下がるほどに澄み切っていく空気が一気に部屋の中に吹き込んできて、渦を巻いた。雪が入ってきて、美汐の周りを漂って、部屋の中に落ちて水滴になる。
 冬が来ると、思い出す。そしてそれは、辛いことばかりではない。
 それを、教えてくれた。
 ただ自分の前に立って、それを示してくれた。
 美汐はしばらく外を眺めていた。それから、窓を閉めた。その頃には、思い出していた。いろんな事。自分のこと。相沢祐一のこと。
 そういえば、今日は祐一に会っていない。
 美汐は着替えると、コートをその上に引っ掛けて飛び出した。
 気がつくと、いつのまにか表札に『水瀬』と表札がついた一軒家の前に来ていた。インターフォンに手を伸ばして、それを押そうとしたところで我に返る。美汐は慌てて伸ばしていた手を引っ込めた。どこをどんな風に、どんな顔をして歩いていたのか、その辺りの記憶が消しゴムでもかけたみたいにすっぽりと抜け落ちていた。
 ――どうして?
 どうしてもなにもない。熱に浮かされたみたいに何も考えられないまま、ただここに来てしまったのだ。あまつさえ、インターフォンに手を伸ばしていた。こんな時間に、あまりにも非常識だ。しかも、手にはチョコレートの包みを持って。
 ひょっとして、とてつもなく恥ずかしい行為をしようとしていたのではないだろうか、と美汐は思った。
 何をしているんだろう。
 傘もささずに来たので、体には雪が積もっている。頭を振ると、髪に纏わりついていた雪が落ちていった。
 相手の迷惑になるに決まってるのに、いったい何をしているんだろう?
 ふわり、と吐息は白い形になって目の前に浮かんだ。
 帰ろう。
 そう思って美汐が踵を返そうとしたとき、がちゃり、と音がした。
 鍵の開く音。
 ドアの開く音。
 こぼれた光で、少しだけ明るくなる。
「……天野?」
 それから、祐一の声。
 日付は、もう変わっている。
 美汐は振り向いた。祐一が少し驚いた顔で自分を見ていた。
「どうか、したのか?」
 自分がどんな顔をしているのか美汐にはわからなかった。どんな顔をしたらいいのかもわからなかった。祐一は、ただ戸惑った顔。迷惑そうな色が見えなかったことに、美汐は少し安堵した。
 祐一は少し慌てた様子で近づいてくると、美汐の腕を引っ張ってとりあえず玄関の中へ入れた。そのまま、会話も無く時間が過ぎる。
「相沢さん」
「おう」
 美汐は持ってきたものを、祐一の手の中に押し込んだ。
「これ、あげます」
「これって……アレか?」
「相沢さんの言うアレが何を指しているのかわかりませんが、きっと、たぶん、それです」
「わざわざ持ってきてくれたのか?」
 美汐はしばらく考えてから、頷いた。今自分がここにいることへの他の理由なんて、見つからない。見つかっても、たぶん、言えるわけがない。
「そっか、サンキュ」
 そう言って、祐一は笑った。それをみた瞬間、よかった、と思った。何がよかったのかわからなかったけれど。
「天野」祐一が、美汐の手を握った。「……おまえさ、手冷てーぞ」
「外、寒いですから」
「だったらさっさと入ってくればよかったんだ」
 美汐は軽く祐一を睨む。
「……見てたんですか」
「上から不審な人影が家の前に見えたからな」
「不審とは失礼ですね」
「実際不審だったしな。うろうろしたり、ため息ついたり」
 確かに不審な行動なので、言い返せない。「……まあ、確かに不審だったというのは認めます。ところで、そろそろ手、離してくれませんか?」
「天野の手が暖まったら離す」
「もう暖まりました」
 言いながら、けれど美汐は祐一の手を外そうとはしなかった。祐一も離そうとはしなかった。どうしてだろう、と美汐は思った。いつも自分の何かを守っている感情を制御する装置が故障している。作動していない。美汐は外を見た。きっと夜だからだ、と思った。太陽電池で動いているから、夜は動作が緩慢になる。
 馬鹿なことを考えている。そう自覚して、美汐は祐一に見えないようにこっそりと嘆息した。
「しっかしびっくりした」不意に祐一がそう言って、顔を上げる。
「何がです?」
「天野ってさ、結構感情的になりやすいよな。普段はクールだけど。今日みたいにいきなり家来たりするし」
「それは――」
「それは?」
 そんなことはない、とは言えない。現にこうやって、今ここにいるのだから。
「……いえ、なんでもありません」
 言いかけた言葉を、美汐は飲み込んだ。言えない。言えるわけがない。

 それは、あなたの前でだけです、なんて

「ま、そんな天野のこと、俺は好きだけど」
 そんな風に、予め決まっている事実を読み上げるように言われると、言葉に詰まって何も言えなくなる。
 特別な人。
 笑わせるのも、怒らせるのも、感情を剥き出しにしてしまうのも、全部彼のせい。きっと、それが特別という意味。
「もうちょっとさ、言いたいことあったら言ってくれていいんだぜ?」祐一はちょっと笑いながら、言う。「天野ってさ、中に抱え込んじゃうタイプだから。どっかで吐き出さないといつか暴発するんじゃないか?」
 まさか、つい今しがたその暴発があったばかりだとは言えず、
「……そうですね」
 と美汐は答えた。
「もうちょっとこう、天野も俺を頼ってくれたらうれしいなー、とか思ったりするわけだ」
「そうですか」
 そろそろ帰ったほうがいいな、と美汐は思った。明日はもちろん平日で学校へ行かなければいけない。
「そろそろ、帰ります」
「あ、ちょっと待ってろ」
 そう言うと、祐一は家の奥に戻っていった。すぐに、マフラーを手に持って戻ってくる。そして、それを美汐の首に巻いた。
「あの、これは……」
「風邪引くなよ」
 そう言って、祐一は笑った。美汐は祐一の貸してくれたマフラーに触れた。
 ――そうですね、栞さん。伝えることは、とても大切です。
「ねえ、相沢さん――」
 言葉だけでは届かないもの。
 行為だけでも伝わらないもの。
 たぶん、上手く笑えていると、美汐は思った。

 もっと強くなりたい、と思う。
 弱さを見せられる自分、ではなくて、もっと強く在ることのできる自分でいたい。
 相沢祐一。
 彼のように。

 送って行こうという祐一の言葉を断って、美汐は帰り道を歩いていた。そう言ってくれる祐一の気持ちは嬉しかったし、二人で歩くのも悪くないな、とは思ったけれど、今は一人で歩きたい気分だった。
 馬鹿なことをした、と思う。けれど、それはそんなに悪い気分ではなかった。
 強いというのはきっと、泣かないことでも悲しまないことでも、自分を誤魔化してしまうことでもなくて、何が起こっても、そこから目をそらさずに、自分の中から湧きあがってくる感情から逃げたりしないこと。それをしっかり受け止めて味わえるということ。
 美汐はコートのポケットから右手を出した。さっき、祐一と繋がっていた右手。その手を握りこむ。あの時、不意に気が付いた。ああ、明日もまた逢えるんだ、って。その事実がひらめいて、こんな日々がずっと続くんだ、とかそんなことを思って、とても嬉しくなった。
 個人である限り続く、永遠の孤独。個と個を隔てる、深い深い断絶。人と人との間に横たわる谷間は目が眩んでしまうほど深くて、絶望しそうになる。
 けれど、不意にそれを超えて届くものがある。それはまるで、小さな奇跡のように。
 そういうものを、信じていきたいと思う。全力で受け止めたい、と思う。
 それでは帰ります。
 じゃまた明日……じゃなくて今日か。
 彼の台詞。手の暖かさ。
 寒いのに、寒くない。火照った頬を、硬くて冷たい冬の風が冷ましていく。
 星ひとつ見えない、真っ黒な空。音も無く落ちてくる雪の一片。雪が積もって歩けない歩道。スケートリンクのようになっている車道。通り過ぎていくテールランプ。この風景を一生忘れない、なんて思ってみたりして、かなり自分が浮かれていることに気付いて、美汐は苦笑した。
 マフラーがいつもよりも暖かくて。
 手の中にはまだ物質化した温もりが残っているような気がして。
 気をつけないと緩んでしまいそうになる頬に気を付けながら、美汐は家までの道をいつもよりもゆっくりと歩いていった。



【終わり】



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